第二十九話 花に風

「分から、ないんです。感じ、ないんです。なにも、分からないんです――!」

 悲鳴染みた掠れた声が、静かな部屋にこだまする。

 蓮芽はすめは耳を押さえ、頭を抱え。力強く結んだ目からは、大粒の涙が滴っている。

「分からぬ、とは」

「重くて、鋭くて、怖い風が、ずっと吹き続けて、いるんです……! 骨ごと、肉を潰そうと、掴んで離して、くれないんです……! 怖い、んです……!!」

 いつも以上に詰まった言葉が、嗚咽おえつと共に吐き出される。

「う……ぇ、ぁ、ぁえ……!」

「っ……!」

 その小さな口からは、胃液混じりの夕餉ゆうげが吐き出された。ぬるく、酸の臭いを放つ半固半液の食い物が、物置の中にぶちまけられる。

 常に蓮芽に宿っていた穏やかさが、見るも無惨に消えていた。

 いったいどうしたと思考を巡らす前に、はたと気付いた。

 なぜ気付かなかったのだと、一刀斎いっとうさいは拳を握りしめて歯を剥いた。

 将監しょうげんの、周りに転がる男共の、一刀斎への執拗な殺気。

 それが常に放たれ、この部屋に蔓延まんえんし、満ちていた。ここは、殺意という風が幾十幾百と巻き起こった場所なのだ。

 一刀斎でさえ居心地の悪さを感じたその圧。人一倍他人の感情を感じ取れる蓮芽は、この狂風きょうふうにどれほど身や心をむしばまれのか。

 想像するだけで、身の毛もよだつ。

「蓮芽、気をしっかり持て!」

 一刀斎が、蓮芽の肩を掴む。すると蓮芽は身体を大きく跳ねさせて。一刀斎の腕を取った。

 安息を求めてのことではない。寄り掛かるなにかと思ったわけではない。

 震える手が伝えるのは、ハッキリとした拒絶の意志。

「こわ、い……こわい……! 助けて、ください……! なにかが、わたしに、触れているんです……潰そうとしているんです……!!」

 その触れているものが、己が助けを求めている男のものだとも気付かない。

 触覚しょっかく識覚しきかくの、体と心の境界が、今の蓮芽からは消えている。

 触れているのか感じているのか、暗闇に覆われた目は、それさえ判別させなかった。

(ダメだ……)

 このままでは、蓮芽の精神こころが壊れてしまう。

 武芸者の、の、分厚く堅固な感情によって。

「わた、しは、わたし、は……!!」

「…………すまないっ……!」

 今にも圧され、本当に潰されそうな者が出す泣き声だった。

 これ以上は見ていられぬと、蓮芽の腹を殴りつける。蓮芽は「うぁ」と小さく呻くと、そのまま一刀斎の胸の中に倒れ込んだ。

 だいぶに加減した一撃ながら、小さい身体の女一人を気絶させるには充分であった。

「…………この晩のことは、全て悪い夢だったのだ」

 いや、この晩のこと、だけではない。

「おれのことは、忘れるんだ」

 自分が、蓮芽を巻き込んだのだ。

 自分が、蓮芽に恐ろしい思いをさせたのだ。

 そのような悪辣あくらつな男ごと、夢だと思い、忘れた方がいいのだ――――。


 いつもはともった赤い提灯ちょうちんが、折り畳まれている。蓮芽が帰らぬはずなのだから、それも当然だ。

 一刀斎が戸を叩く。しんぼうの当たりは付いている。そこを叩けば戸の奥から棒が外れ倒れる音がした。

 すると、間もなくして。

「なんだどうした、急患きゅうかんかっ」

 ガラリと引戸が開いて、中から月白つきしろが顔を出す。

 言葉は切羽詰まっているが、よほど心地よく寝ていたらしい。髪があちこちに跳ねていて、まぶたにある溝が深くなっている。

「……一刀斎? なんでここに……っ!」

 訝しんだのは一瞬だけで、その返り血まみれの服を見て目を見開いた。

 それは驚いたというよりも「なんの血か」を見極めようとする医者の目である。目敏く、一つ一つの情報を脳みそに叩き込んでいるようだ。

 観察している内に一刀斎が蓮芽を背負っていたことに気付いたらしい。

 その時初めて、瞳が大きく揺れた。

「…………なにがあった?」

「武芸者共に襲われた」

 蓮芽を下ろして、月白に預ける。血だらけの一刀斎に対して、蓮芽の服は綺麗なままだ。

「蓮芽は……気絶しているだけか。これは?」

「殺意に当てられ、気が触れそうになっていた。だから……」

「なるほどな」

 一刀斎に皆まで言わせるつもりはないと、途中で切り上げた。

 月白も蓮芽の能力は知っている。なにせ、十年近い付き合いだし、蓮芽の目を主治医しゅじいである。

「取り敢えず、中に入れ。服も着替えねば……」

「おれは今から京を出る」

 今度は、一刀斎が月白の言葉に被せてきた。

 京を出る。その一言を聞いて月白は唇を噛み締める。

「蓮芽には、恐ろしい思いをさせてすまなかったと謝っておいてくれ」

「お前の口からそれを言う気は…………ない、か」

「ああ」

 こんな惨事にわせた以上、もう、蓮芽と顔を合わせることは出来ない。

 かつて焦がれて尊んだ、生気溢れる赤いいのち。その花に殺気という風が当たり弱ったのは、自分が巻き込んだからである。

 それに。

「おれは、武芸者だ」

 血や死を疎み怖れる蓮芽の側に、血や死を伴うことがある武芸者の己はいられない。

 だからといって蓮芽の側にいるために、刀を置こうとは思えなかった。

 一刀斎にとって刀を振ることは、斬るを極めると言うことは、天下一の剣豪になるということは、己にとって、なににも変えられぬものだから。

 天下一の剣豪になるということは、月白にも誓った己の誓願せいがんなのだから。

「――――まさか、二度目の別れがこんな形になるとはね」

「長い間、本当に世話になった。……お前と再び会えて良かったよ」

 月白が、視線を落とす。その長い睫毛は、夜風もないのに揺れていた。

 それでも、蓮芽を見る瞳は、慈愛溢れる仏のようである。

「また、いつか会えると良いな」

 そんないつかなど、有り得ない話だ。頭では、そう言おうとしたはずなのに。

「ああ、そうだな」

 一刀斎の心王は、月白の言葉に頷いていた。


 京の外へ向うはずの足は、七条しちじょう左京さきょうに一刀斎を運んでいた。

 あの修羅場しゅらばとは真反対まはんたい。開発の遅々とした場所。

 いつかも来た、大野おうのていあとまえ

 先程打ち倒した大野おおの将監しょうげん――――甲四郎こうしろうと、稽古をしていた場所だ。

 若かりし一刀斎が、何年も世話になった家。

 いつもここに来るときは一人の少女が迎えに来ていた。

「……女が出歩く時間ではないぞ」

「男ん人なら、歩いてもええんどすか?」

 やにわに漂う、花にも似た香り。

 振り向けばそこにいたのは、垂れて柔らかな目をした女。

 こんな冷える秋空の下、身に纏うのは一つの着流し。綿を込めているようだが、それでも寒さが身に刺すだろう。

 長い髪をそのまま流している立ち姿は、まるで幽霊ゆうれいのようにも見える。

 その目は柔らかな形をしていながら、瞳は強く、針か、釘か、錐か、とかく鋭く一刀斎を刺している。

 藤花ふじばな。一刀斎に、あの住処すみかを紹介した女。

 つまりは、やつばらの協力者で。

「…………大きくなったな。めっきり変わった。まるで気付かなかったぞ、佐奈さな

 甲四郎の妹の、大野家の末女の、佐奈であろう。

 今まで伏してきた名前で呼ばれた藤花――――佐奈は、口の端を僅かに吊り上げる。

「……また、そん名前で呼ばれるなんておもうてなかったわ。……天狗様って、言えばええやろか?」

 くすりと小さな鼻を鳴らす様は、かつて見た少女の姿を彷彿とさせる。

 しかしそこには、あの頃のような純粋さはない。

 その頬笑みははかなげで、世をねたようで。

 心身しんしんを切られた痛みを耐えるようで、後ろ暗く見えた。

「お前が、遊女となったのは」

「お金のため。刀ん持つにも、家ん棲むにも、お金がなきゃあかん。だからウチは、甲兄様の為にお金を稼がなあかんかった。――ウチに出来るような仕事なんて、これしかないやろ?」

 それは、どれほど辛い年月だったのか。

 一刀斎が京に来たのは、織田尾張守の死という凶事があったから。いつか織田家に仕官することを誓っていて、京に上ることがあったかもしれないが、それがいつになるかも分からない。

 いつ来るか、そもそも来るかも分からぬ今日のために、佐奈は身を削ってきたのだろう。

 それはなんという献身か。甲四郎が、魔道にこだわっていた意味が少し分かった。

「お前もおれを、殺したいのだよな」

「…………」

 そのいに、彼女はなにも答えない。

 表情一つ変えずに、ただ矢の如く視線を撃ち込んでくるだけだ。

「ほんまに、武芸は嫌いや」

 その視線はそれて、空を向く。一刀斎も応じて上を見るが、分厚い雲が覆っているのか、そこには星一つ無い。

 紫紺しこんの布を広げたような、ただ闇が広がっているような、恐ろしく不気味な空だった。

「どんな優しい人でも、剣を握ったら変わりよる。人を傷付けて、自分をいじめて、なにが楽しいのかウチにはなんも分からへん。……甲兄様も、変わってしもて。……それも全部、武芸のせい。武芸者の、せい」

 その呟きで、一刀斎ははたと気付く。

 藤花が、佐奈が、本当に葬りたいと思っていたのは。

「お前は、武芸者全てが消えれば良いと思っているのだな。……いや、戦い全てが、なくなれば良いと思っているのだな」

「辛いことしか、ないやんか」

 至極しごくもっとも。それに否と言うことが、一刀斎には出来ない。言ったところで、佐奈は決して納得しないだろう。

「あの日、天狗様が席にいたときは、ホンマに驚いた。それと同時に、救われた気がしたんやで。ああ、やっと終わるって」

 でも、と一度言葉を句切った佐奈を見る。

 佐奈は袂から、刃渡り五寸の短刀を取りだした。鞘はなく、ただ布にくるんだだけの短刀。

 それはつまり、鞘に納める気などないという決意の表れか。

「天狗様がいるってことは、甲兄様は失敗したってことなんやろ? 甲兄様は、もうおらんってことなんやろ? ……やったら、次は、ウチが……」

「甲四郎は死んでおらん」

「…………え?」

「使った刀がなまくらだった。ただ鉄の棒で殴ったも同じだ。今頃いまごろ血畳ちだたみで寝ているだろうが、揺すれば起きるかもしれんぞ」

 事も無げに、明け透けに言う。

 一刀斎は将監を、甲四郎を殺すことなく見逃している。

 しかしそれはその境遇に対する憐憫れんびんでもなければ、かつて目を掛けた少年への情けでもなく、そして、彼らを凶行に走らせた負い目でもない。

「……甲四郎が、大野将監がここで死ななかったということは、奴にはまだ、成すべき事があるのだろう」

 人が死ぬのは、やるべきことが全部終わった時。顔も忘れた父親が残した言葉。

 天命が将監を生かしたならば、一刀斎は、それに逆らうつもりはない。

 元より、武と死に因果はないと信じる身である。他人を葬ることに、一切の興味は無い。

「そしてそれは、お前もきっと同じだ」

 佐奈は刃を立てたまま。だが一刀斎は、それを全く気に掛けない。

 佐奈に対して背中を見せて、京に出る方へ身体を向けた。

「襲撃の場には、蓮芽はすめがいた」

「――――!!!」

 声にならない悲鳴。その後地を落ちた短刀の音。

 その理由は分からないが、佐奈は、蓮芽に対して強い想いを抱いている。

 それは二人と再会であったあの夜や、この屋敷の前で相対したときに確信している。

 自らが用意したあの恐ろしき場に、自分が慈しむ少女がいた。自分の愛した少女ごと、罠に嵌めてしまった。

 その衝撃は、いかほどのものなのか。

「蓮芽は、襲撃してきた連中の殺意に当てられて気がふれかけていた。気絶させて月白に預けてきたが、きっと心に傷を負っただろう」

「そん、な……ウチウチは」

「側にいてやってくれ」

「え……?」

 振り返らず、しかし言葉だけは、本人に対して真っ直ぐ投げつける。

「奇遇とはいえ巻き込んだ責を感じるならば、お前が蓮芽の側に付いて、面倒を見てやってくれ。お前が側にいればきっと、蓮芽も心強い」

 それは、あまりにも残酷なこと。

 一刀斎が求めているのは、決して楽に逃げるなという、どんなバチよりも、こくな要求。

「蓮芽も、お前のことを慕っている。お前がいなくなれば、追い打ちを掛けられるだろう。…………だから、頼む。蓮芽を思うならば、…………蓮芽を、助けてやってくれ」

 一刀斎のその言葉は、苛烈で無慈悲な武芸者やしゃおにの言葉ではない。

 遠い昔に、おもしたった青年の、誠心まごころそのままの優しい情熱が宿った言葉。

 紛う事なき、「人」の言葉――――。

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