第二十四話 夜半に響く音(一)
「そろそろ、日も沈みますね……」
「む、そうだな……」
西向きの窓から、赤い斜陽が入り込む。赤色だけは分かる蓮芽は、その陽射しを見てどこか寂しげに呟いた。
秋冬の
同じ屋根の下でしばらく暮していた故か、別れがどことなく惜しい。
三島神社から旅に出るときは、そういう思いを抱いた事はないのだが。
「目の見えない蓮芽を連れて暗い道を帰るのは大変だろう。もう帰らなくて良いのか?」
「ああ、それなんだが……」
「失礼いたします」
月白がなにか言いかけたとき、
そこにいたのは、どこか愛嬌のある十手前の少女二人だった。
少女二人の間には、二人で運んで来たのだろう横長な箱が置かれている。
「その声は……
「はい、蓮芽姉さん」
「月白先生に頼まれたものを、お持ちしました」
「良いところに来たね二人とも、ちょうどその事を話そうとしていたんだ」
操緒と奏手と呼ばれた少女たちは、「よいしょ」と箱を部屋の中に運び込む。
近くで見れば、この二人には見覚えがあった。稽古に行く蓮芽を迎えに来る少女だ。
蓮芽の前まで箱を運んだ二人は、留め具を外して蓋を開ける。
そこにあったのは、一つの三味線だった。
「……三味線だな」
「え?」
蓮芽が手を伸ばして棹と弦に触れる。手触りを確かめるように上から下へとサッと撫でた。
「……これは、普段お座敷で使っているもの、ですね……」
「ああ、二人に持ってくるように頼んでいてね。一刀斎に転居祝いだ。蓮芽、一晩一刀斎に付き合ってくれ」
「いつの間にそんな用意を……」
一刀斎が月白を見遣ると、片目を瞑ってニコリと頬笑んだ。
月白なりに、急な別れは寂しかろうと気遣ってのことだろう。
「あの、月白先生、いいん、ですか……?」
「もちろんだとも。私はもう、一刀斎を堪能している」
堪能とはまた妙な言い回しをしたものである。
恐らくは「かつて」のことを頭に浮かべているのだろう。
蓮芽は、月白の心を気取り、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「……では、私は帰るよ。さ、操緒も奏手も雅囀堂に送っていこう。道すがら駄賃で飴でも買ってやろう」
「いえ、大丈夫です」
「蓮芽姉さんの演奏代金払えなくなっても困るので」
「…………いや、お前たちに買う菓子代ぐらいは賄えるからな!?」
子どもらしからぬ真面目な返しに狼狽えつつ、二人の手を引いて部屋を出て行く月白。
子どもの手を引く後ろ姿は、どうにも
「しっかりしているな、お前の妹達は」
「ええ、頼りになります。……ああ見えても、無邪気なところもあるんです。ああは言っていましたけれど、多分、なにかせがむと思います」
蓮芽は慣れた手付きで三味線を抱え、
まだ夕飯も取っていないというのに、その面立ちは既に
「…………これで、一刀斎さんの前で演奏するのは、二度目になりますね」
「二度? 三度ではないか?」
「いえ、二度目です。……あのときは、直接では、ありませんでしたから」
そういえばそうであると一刀斎は、明かり一つない暗い部屋で、ぽつねんと三味線を抱えていた姿を思い出す。
最初蓮芽の三味線を聞いたのは、襖一つ隔ててである。
蓮芽は目隠しという特異な見てくれ故か、客の前では演奏せず、常に隣室で奏でていたらしい。
「……お客様の前で直接奏でるのは、私も、初めてのことです。一刀斎さん、今宵は、よくくつろげるよう、懸命に奏でますので、よろしくお願いします」
「客と言っても俺とお前の仲だ。
「ですが……」
「月白も、そのつもりでお前を置いていったわけではないだろう」
その名前を出すと、蓮芽は困ったように微笑んだ。やはり、月白に対して恩義を感じているのだろう。
その月白の思いとあれば、蓮芽も応じずにはいられない。
「……それも、そうですね。では、先生の言うとおり、転居祝いとして、弾かせていただきます」
調弦を終えて、三味線をしっかりと抱える。
小さい体は真っ直ぐと伸び、やはり堂に入っている。
呼吸を整え、指を弦に添え、撥を構える。
そして、曲が始まる。
最初は一音一音丁寧に響かせて、耳と心を演奏に向けさせた。
それから徐々に音と音との間隔が短くなり、律動に色彩が付き始め、いくつも音が重なり旋律となる。
旋律とは別に、歌うような響きが交じる。爪弾いているのはたった一つの三味線だが、まるで複数奏でられているようだ。
それがどれほどの
それでもその腕は、超絶といっていいものだというのは感じ取れた。
技だけではない。蓮芽の演奏は、一刀斎の心を
盲目である蓮芽が有する、相手の気持ちを感じ取る能力。
それがあってこそ、この演奏はより優れたものになる。
培った技巧に
――――間違いなく蓮芽の腕は、天下一と成り得るものなのだ。
それは、昨晩遅くのことである。
風もなく、草木も眠り音もない。
寂しさだけがある京の街の片隅に、一人と八人はいた。
一人はかつて、一刀斎憎しと瑠璃光にまで乗り込んだ武芸者の男で、他の輩は、日除けでもあるまいに一様に笠を被っていた。
「……すまんが、その話は受けん。俺は一度失敗した身だ」
「一度
八人一座の中心にいた男が問うても、一人の男は首を振るだけ。一座の者共も、溜め息をつくなり肩を竦めるなり、一人の男を蔑むような目で見ている。
しかしそれに神経を尖らせることもなく、男は逆に憐れむような視線を向けるだけだった。
「たしかに、あの小僧に叩きのめされたあの屈辱は生涯忘れないだろう。今とて思い返せば腹が立つ。……だがな、特段その恨みを晴らそうとも思わん」
「刃が折れたか」
「納める
なにを言われても、男は動じることがない。その穏やかな受け答えに、次第に男を侮っていた一座側の方が苛立ち始めた。
「この男はダメだ、完全に腰が引けている。心も刀も錆び付いている」
「……そのようだ。しかしながら」
中心にいた男が歩み出て、刀を抜いた。刃渡りは二尺前後とやや小ぶりだが、身幅は厚い。寸法は当人の小柄な体躯と合っている。
構えは中段、刃先は男の中心に真っ直ぐ向いている。
「我らの計画を知られ、力を貸さぬと言うのなら、ここで倒れてもらうしかない」
「京の街中で武芸者と相対するとは、ふん、まるでかつてのようだ」
相手に対して構えは下段。攻め気がないのは見て取れた。
なにしろ、相手は一人ではない。八人いる。適当にやりすごし、路地に紛れて逃げ
……怪我をすれば、またあの
そんな雑念に、フッと笑った瞬時。
「――――――け、ぁ」
錐のような、風が吹いた。胸の真ん中に、冷たい夜風が吹き抜けた。
否違う。胸を貫いたのは風などではなく、身も凍るほど冷徹な刃。
相手と己は、家一軒は離れていたはず。
しかし心の裡に目を向けたその
分厚い蛤刃が、肉を
それはまさに、
相手が刀を引き抜けば、今度は文字通り、晩秋の風が背中から胸へと通り抜ける。
男はその風に押されるように、血の滴る地面へ伏した。
「…………これを路地あたりに隠して、血だまりには土を被せましょうか」
「いいので? 所司代や
「はい。……どうせ、
風は止まず、草木が揺れて音を出す。叢雲が去り、僅かばかりの光が差した。
「――――外他一刀斎は既に、我らの手中にいる」
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