第十九話 紫紺の闇

 たとえつらくとも、この境遇きょうぐうから逃げ出したいと思ったことはない。

 見知らぬ男に抱かれようが。姐役あねやくに無理難題を押し付けられようが。楽しく遊ぶことも出来なかろうが。

 これを辛いと思ってはいけない。全てをこらえなければいけない。

 自分は、自ら選んでここに来たのだから。自分達の本願を果たすために選んだのだから。そう己をいましめて、女は奥歯を噛んで生きていた。

 ――ただそれでも、耐えきれない夜もあった。

 ある夏の日。なんでもない座敷が終わり、宿屋の広縁を歩いていたら、庭にポツンと池があった。

 夜も深まって真っ暗な外。池の水は真っ黒で、地獄の底に繋がってそうな黒さだった。

 ――あれに入れば、私は楽になれるだろうか。

 女は履き物も履かず庭に降りて、砂利を踏みしめながら池に近付く。ふちきわまで来て爪先を入れれば、夜だというのに池の水はぬるく人肌で、さっきまで自分をもてあそんだ男を思い出してしまった。

「……っ!」

 思わず、足を引く。また無遠慮に触れられるのかと錯覚して、身体中に怖気が走った。

 震える身体を抑えるように両腕を抱き締める。

 この道を選んだのは、他ならぬ自分だ。逃げ出したいなどと思ってはいけない。

 でも、今の自分はあまりにもみじめで。自分でもどうしたらいいのか、分からなくなって。

 屈み込んで、泣きじゃくろうとしたときに、それは聞こえた。

 とてもおだやかで、優しい旋律うた

 すごくゆるやかで、やわらぐ演奏しらべ

 余裕のない、硬く張り詰めた心をほぐつの音色ねいろ

 女は導かれるように、ふらりと宿屋に戻る。音が流れる部屋の前まで来て、その障子戸を、ゆっくり開き――。


「……あ、藤花ふじばなねえさん、起きましたか。よく、寝てましたね」

「…………ああ、おはようさん、蓮芽はすめ。いややわあ、いつの間に眠ってしもたんやろ?」

 藤花が目を開ければ、そこにいたのは赤い布を目に巻いた、芸妓げいぎの蓮芽である。

 昔まだ遊女に落ちたばかりのころに出会ったものきで、妹のように接している。

 妹と言っても、蓮芽の方が座敷に出た回数も、年季も上である。それでも蓮芽の方が年下と言うこともあって、自然とそういう付き合い方になった。

 藤花は自分が呼ばれた席に、都合さえ合えば蓮芽を連れ立ち、演奏えんそうさせている。尋常じんじょうでない入れ込み具合であり、姐さんや妹分に「恋しているようだ」とからかわれる事も多い。

 今日はお互い呼ばれた席もないから、藤花は自室に自ら蓮芽を呼んで三味線しゃみせんを弾かせてた。

 その音が心地よく、気付けば眠ってしまっていたらしい。蓮芽の膝を枕に、ぼうっと格子窓の外を見た。まだ赤味が残る紫紺しこんの空。日が暮れ始めた頃だろう。

「最近は、ずっと席があったんですから。お疲れなのも、無理はないです。……私は、あなたを癒やせましたか?」

「もちろん、さすが蓮芽やなあ。久々に、ぐっすり眠れたわ。また一段と巧くなったんと違う?」

 手を伸ばして、子どものように小さな頬を撫でる。すると蓮芽は口の端を僅かに吊り上げて、「それは良かったです」と頬笑んだ。

「最近、藤花姐さん、なにかにふけっているようでしたから……。心が、どこか遠くに向いていたというか」

「ほんま、蓮芽には隠し事は出来でけへんわあ。……おおきに。ウチに合わせたうたいてくれて」

 蓮芽は、目が見えない。それ故か、人の感情を感じ取れる才を持っていた。

 お陰で人が求める旋律を、弾き奏でることが出来る。他者をなぐさめることを生業なりわいとする芸妓にとって、この上ない才気である。

 加えて耳も良く技巧ぎこうも備え、多くの客がその調べに満足する。

 まさに芸妓は、蓮芽にとって天職てんしょくと言っても良いだろう。

「最近、ますますよおなってはるなあ」

「ありがとうございます、藤花姐さん。でも、私はまだまだ、です。色んな曲を、覚えていきたいので」

 本当に、熱心な娘だ。あの小さな手を弦の上で踊らせて響かせる音は、まるで歌声うたごえのようである。

 彼女以上の三味線弾きなど、この先生まれることはないだろう。

「藤花姐さん、いてはる?」

「いんで。入ってや」

 自慢の妹とたわむれていると、他の遊女がやってくる。

 招くとその手には、差し入れらしき小さな箱があった。

「蓮芽ちゃんとお楽しみのところ、すんまへん。また、旦那さんからお土産、藤花姐さんにやて。ほんま人気やなあ。代わる代わる色んな男性ヒトから差し入れやなんて」

「ええ、ほんま助かるわ。遊女ウチらは人気商売やし。お菓子やったら分けたる。もちろん、蓮芽にも」

 藤花が遊女から箱を受け取って、蓋を開ける。

 その中を見た藤花の目尻と口の端がピクリと動き、直ぐさま笑顔に変わった。

「――中身、くしやったわ」

「なんや、残念やったなあ蓮芽ちゃん」

「ふふ、そうですね。前に食べた、南蛮なんばんのお菓子、また食べたかったんですけれど」

「お茶の席でもろおた奴やったっけ。言うの、美味しかったわあ」

「あんな席、滅多めったにあらへんよ。……で、あんたは今夜席があるやろ。そろそろ準備せな」

 促され、遊女は「せやったせやった」と苦笑して、一礼して去って行く。

 藤花はその背中を見送りながら、箱の中へと目を落とした。

「……藤花姐さん? どうか、しましたか? なんだか、困っているような……」

「うん? なんでもあらへん。よお似た櫛も持っとるから、どないしよおもおてな。頭は一つしかないから、不便やなあ」

 冗談めかしたその言葉に、蓮芽はくすりと頬笑んで格子窓を見やる。西向きの窓からは、赤い陽射しが入り込んでいた。

「……そろそろ、帰る時間ですね」

「せやなあ。もう月が変わるし、これからお日さんも急ぎ足になって、お月さんがのんびりするころや。ウチらも稼ぎ時やな。……ところで、帰る言うたけど、おくったげよか?」

「あ、大丈夫です、今日は、お迎えを頼んでいて……」

 慣れた手付きで長箱に三味線をしまいながら口にした「迎え」の一言。

 それを聞いた藤花は、不意に手から箱を落とす。耳がさとい蓮芽は、それを聞いて肩を振るわせた。

「……あ、ごめんなあ蓮芽。おっきな音立ててもうて! つい、手ぇ滑らしてもうて……」

「いえ、大丈夫です。櫛は、割れていませんか?」

「大丈夫、気にせんでええから」

 落とした箱を拾い上げ、化粧箱の上に乗せる。中はもう、十年にも渡る贈り物が摘められていて、中に入れるには整理しなければならないだろう。

「……そういえば蓮芽、あの剣士様、まだ診療所しんりょうじょにいてはるん?」

「一刀斎様のことですか? はい、まだ、いらっしゃいますよ。月白先生の、お手伝いをしています」

「ああ、街中まちなかでよう見るそうやなあ。あんな姿なりして、魚やら野菜やら持って歩いてはるとか」

「そうですね。お買い物とか、お使いとか、月白先生に頼まれています。すっかり、瑠璃光るりこう一員いちいんですね」

 蓮芽の声音は弾んでいて、日々が充実じゅうじつしているのが見て取れた。かなでられるおとにもいろどりが増し、表情ひょうじょうに深みが生まれていた。

 あの武芸者が蓮芽に、良い影響を与えているのは確かである。

 だが、しかし。

「……お使いってことは、今日のお迎え」

『蓮芽ちゃーん! お迎えの方が来ましたよー!』

「あ、はい! では、私はこれで……」

「ちょい待ち、ぉのまえまで、付き添ったげるわ」

「……いつも、ありがとうございます。藤花姐さん」

 蓮芽の手を取って、宿の入り口へと歩みを進める。

 ――蓮芽の旋律おとに色を与えたのが、もし一刀斎だというのなら。

 それはなんと、残酷なことなのだろう。


 二人の仲を、探らねばならない。そう思っていたのだが。

「やあ藤花ふじばなさん。いつも蓮芽をご贔屓ひいきにしてくれてありがとう」

「…………あれま、月白つきしろ先生せんせやないの」

 蓮芽を迎えに来たのは、一刀斎ではなく月白だった。

 いつもの白い羽織はおりを、打掛うちかけのように着崩している。

 いつみても、相変わらずの美貌びぼうである。三十路みそじをとう越えていると言うが、化粧もしていないのに白い肌にシミなどなく、瑞々しさを保っている。

 自らのいろを売りにする遊女達でさえ、その佳容かようには目を奪われてしまうほど。

 加えてここら一帯の遊女はみな、病にかかれば彼女の世話になっているし、病にかからぬよう、定期的な診察もしてくれる。

 若い遊女などは月白に敬意を抱いているし、古参こさんの遊女達も恩を感じていた。

「今日はわざわざ、先生本人がどないして?」

「近くで回診かいしんがあったからね、そのついでだよ」

「お仕事、お忙しそうで」

「医者なんて、ひまな方が良いんだけどね。暇になるために日々精進だよ」

「そうどすか。ほんまに、凄い人やわあ」

 しかしながら、藤花は彼女が苦手である。

 普段から奔放と、飄々として余裕の笑みを崩さないくせに、その気安さに反して、精神が高潔すぎる。

 それでいて言動に表裏ひょうりがなく、その頬笑みが自信と誇りで作られている。その笑顔が、形だけのものではないのが見て取れるから。

 自分がする、心を隠す仮面えがおではないから。

「――ところで先生せんせ、あの剣士様とどんな関係で?」

「ん? 一刀斎か? じゅうねんぐらい前だったかな、五日ほど同じ家に宿を取っていてね、その時に縁を結んだんだよ。まあ、彼とはそれっきりだったんだが、再会できて嬉しかったよ」

 一刀斎について語ると、月白の笑顔がより柔らかくなった。

 今までと異なる感情かんじょうが、その顔に乗っている。

 艶然えんぜんとした頬笑みに、少女のような輝かしさが差している。

(――――ああ、本当に、ウチはこの人苦手やわ)

 自分がこの女性ひとほどの年になったところできっと、こんな笑顔など、とうてい出来ないだろうから。

「そうなんどすか。……ところで、一ついいお話があるんやけど」

「うん? なんだい?」

 御仏や神様がいるというのなら、やたら悪戯が過ぎると思う。

 しかしもう逃げられないのだ。

 たとえつらくとも、この境遇きょうぐうから逃げてはならないのだから。

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