第十四話 白日の瞳

 ふと、目が覚めた。

 月明かりもない部屋の中は真っ暗で、未だまぶたを閉じているようにさえ感じる。

 腹の下が詰まっている。どうやら鍋の汁を飲み過ぎたらしいと、一刀斎は布団の中から体を起こす。

「……、冷えるな」

 まるで氷室ひむろに使う洞穴どうけつの中だ。溜まらず懐に入れた温石おんじゃくを抱えるが、既に人肌になっている。借りた湯婆とうばにも触れてみるが、すっかり冷めていた。風呂に入ったお陰か、だいぶ気持ち良く眠っていた。

 もう一眠りするかと思ったが、膀胱ぼうこうが張っている。どうやらこれは、朝まで我慢することは出来ないだろう。

 仕方なく唯一温い布団を出て、暗がりを手探りで階段を下りる。一刀斎が借りている部屋は、階段と繋がっている。部屋を跨いで月白を起こすようなことはない。

 壁に手を着き、ゆっくりと一段ずつ下りていけば次第に目が慣れてくる。壁と階段の輪郭が見てきた。

 土間で繋がっているせいか、一階は熱がこもらずより冷えている。当たり前とは言え、かわやがここより寒いだろう外にあることが恨めしく思えてくる。

 一刀斎は指先が冷えないように、袂に両手を突っ込み足早に裏手へ行く。

 庭への戸に、足の指を掛けて開ければ、冷たく乾いた風が鼻先を摘まんできた。

「……あ」

「む?」

 月明かりのない小さな裏庭。裏の戸以外で、唯一そこと繋がる場所。

 奥の間が持つ広縁ひろえんに、蓮芽はすめが座っていた。

「……一刀斎、さん、ですか?」

「こんな夜中になにをしているんだ、風邪かぜを引くぞ」

 一刀斎は目を見開いて、目の前にある厠も無視して一足で寄る。

 蓮芽は綿わたの詰められたかいまきを羽織っており、傍目には温かそうに見える。

 とはいえ、もう丑の刻だろう。これからもっと冷え込んでくる。

「いえ、なんだか、眠れなくて……」

 蓮芽は普段通り、目を隠していない。その分露出した目元が、幾分か寒そうに見える。

「だとしても、せめて部屋の中にいた方が良いんじゃないか」

「……いえ、大丈夫です。なぜだか、寒くないので」

 確かに蓮芽のほおは、稚児のように赤い。既に熱でも出てしまってるんじゃないかと疑ってしまうほどだ。

「まさか、もう引いてないだろうな?」

はなも出ていませんし、気分もむしろ、良いくらいです」

 言われたとおり、その赤色は病的というより健康的な血色の良さから来ているようにも思える。

 いかんせん、この暗がりでは判断がつかない。

 ……まあ、ここで出る月白の料理は、しっかりと栄養が考えられており、滋養じようがある。普段からあれを食べていれば、簡単にやまいになることはないだろう。

「今日は、いえ、昨日でしょうか。ありがとうございました、一刀斎さん」

「…………いや、おれもいい時間を過ごして貰った」

 蓮芽の漏らした礼に、一刀斎はややあって応える。

 どうやら、まだ床につく気にはならないらしい。眠くなるまで、話に付き合ってやろうと一刀斎は隣に座った。

 蓮芽の隣は、不思議と暖かい。彼女から、穏やかな熱が流れてくる。

 今着ている。綿入りの小袖一枚だけで足りてしまうほどに。

「京の街は、どうですか?」

「おれもかつていたんだが、あの頃とはかなり様変わりしているな。……だいぶ、整っている。織田尾張守の力があってのことか」

「私には、まつりごとのことはあんまり……。楽器を弾く以外のことを、あまり、してこなかったので。でも、活気は年ごとに、増していっていると思います」

 軒から暗い空を覗くように、蓮芽は顔を上げる。なにも見えないその瞳で、瞼の裏になにを映しているのだろう。

かなはじめて、何年になる?」

「……正しい年月は、分かりません。物心が付き始めた頃には、色々と習い始めていました」

「それまでは、なにをしていた?」

 そうですね、と一言頭に置いて。一直線に、昼間は赤かかった山の方へと顔が向く。

「…………一刀斎さんのお父上やお母上は、どのような方でしたか?」

「…………む?」

 蓮芽の人生いままでと、一刀斎の親。繋がらないいが、投げ掛けられた。

 はぐらかされた、と言うわけではないだろう。蓮芽の中では、なにか繋がっているのだろう。

「……母は、まだまだガキだった頃に死んだ。父親は、しばらくは共にいたが、それでも、ぽっくりと逝った」

 母のことは、もう思い出せない。

 長くいた父のことさえ、もはやあやふやだ。

 声の質も、どんな相貌そうぼうかも、どんな会話をしてきたかも。

 一つだけ刻まれているのは、薪割りの仕方、ものを切るコツ、それだけだった。

「……それからは、独りで?」

「おれの生まれは小さな島でな。おれはその頃から上背があったから、よく疎まれていたよ。……父親が、流刑人るけいにんとして来たこともあってな」

「……それは、大変でしたね」

 じんわりとした敵愾心てきがいしん。由来もない嫌悪感けんおかん。それらが湿った潮風と共に、押し付けられてきた幼少の日。

 今では武の場の、乾いた烈風染みた殺意や敵意に慣れ親しんで来たからか、それらが粗末なものに思えてならない。

「……親は早くに亡くしたが、育ての両親に近い存在はいる。流れ着いた神社にいた、神主と巫女頭でな。二人は、いま壮健そうけんだ」

「……私にとっての、お師匠様のような方と、いうことですね」

「師匠?」

芸事げいごとの師匠です。――――

 蓮芽は慈しむように、己の商売の要である手を撫でた。

 俯き気味の横顔は、水面みなもで輝く花弁のようだった。

 しかし、もの柔らかな表情ひょうじょうとは裏腹に、吐かれた言葉は痛烈で。

 この時代ではよくあることではあるし。蓮芽に、そういう背景があってもおかしくはない。

 そこで繋がったと、一刀斎は得心した。

「……お前には、その《前》がないのか」

「はい」

 今まで大人しかった風が、瓦を揺らした。どこから来たのか一片の葉が、ゆらりゆらりと空を行く。

「私は、実の親のことは、なにも覚えていません。もしかしたら、河の中から、浮き上がったとか、木のうろに、生えていたとか、そう言われても、「ああ、それも、あるかもしれない」なんて、思うほどに」

 他者の感情の変化を感じ取って笑う、妖しい無垢さの正体が発露した。

 純粋じゅんすいさを保ち続けてきたわけではない。ただただ、そう育ってしまっただけだ。

 一刀斎も、その半生はんせいを武術に捧げてきた。

 だがしかし、その流れの中には多くの人間との交流があった。

 他の武芸者との立ち合いで技を深め、理合を突き詰め、術理を組み上げた。

 他者の理念を知り、己の中で消化する。

 己の中に取り入れてきたものを、こころほのおべてきた。

 一刀斎の成長には、確かに誰かいた。

 一方、蓮芽が身を置いてきたのは狭い世界。他の部屋で曲を奏で、客との交流さえなかった。

 遊女達と繋がりはあるだろうが、どれほど付き合いが深いのかは分からない。

 ――文字通り蓮芽は、この世から浮いているのだ。

「……ですけれど、ひとつだけ。ひとつだけ、覚えていることがあるんです」

 口の端が、一寸わずかに上がった。蓮芽のそのは、山を染める紅葉もみじのように、赤らんだその手に向いていた。

。その言葉だけは、ずっと残っています」

 どくん。

 喉がつばきを飲み下したような音と圧が、心の臓から放たれた。

「あ、か……」

「はい。私には昔、そう呼ばれていた記憶が、あるんです。本当に、遠い昔のことですけれど」

「――――――」

 ……そうかもしれないという、考えはあった。

 初めて相対したあの日の夜、脳裡に咲いた赤い花が再び開いた。あの時よりも大きく、華やかに。

 年の頃も変わりなかったし、盲目もうもくという共通項きょうつうこうもあった。

 そうかも知れないという可能性が、ずっと燻り続けていた。

 気付けば、頬を一筋水が伝っていた。通った筋は秋夜しゅうや寒気かんきを受けてなお、温みを失わず、逆に自身の熱を深く認識していった。

 わずかに滲んだ視界の先、真紅しんくに咲いた蓮華の花へと、無意識に手が伸びる。……だが

「その理由は、覚えていないんですけれど」

 伸びたその手は、花に触れる前に止まった。

 赤い花に触れかけた手が、中空を掴む。

 目の見えない芸妓げいぎは、ただ前へと顔を向けている。

 光を映さなくともうつむくことなく、小さい背中を真っ直ぐ伸ばしていた。

 細い首に乗る頭は微動だにせず、顔は真っ直ぐ前を向いている。

「……覚えていない、とは?」

「私の目はこの通りで、あの頃は、耳に届く言葉の意味も、鼻に漂う匂いの正体も、手足に触れるものがなにかも、分かりませんでした。自分がどんなところにいたのかも、私は知らなくて」

 だから、と蓮芽は一拍おいて。

「私をそう呼んでいたのが誰だったかも、今となっては分からないんです」

 花弁かべんつゆが、はらりと落ちる。

 物憂げながらも淡々たんたんと穏やかに、草木も獣も風も眠り、静寂せいじゃくに包まれた秋の真夜中。

 それよりもなお深い、静謐せいひつさを纏いながら。

 うら悲しいはずなのに、閉じた瞼からは涙の一滴も零れない。

 穏やかに凪いだ蓮芽の気配は、一刀斎にも読めなかった。

 ――――この蓮芽という少女は、いったいなにをうちに秘めているのだろう。

 その小さい体の中には、どんな情念じょうねんが、ことわりが敷き詰められているのだろう。

 それをはかるには、一刀斎は余りにも、彼女のことを知らなかった。

 鳩尾みぞおちかいなに、熱血ねっけつまわる。

 まばたきすれば、熱かった目頭が軽くなる。

 知りたい。蓮芽のことを、より知りたい。

 推察すいさつでなく、観察かんさつでなく、蓮芽の口から、蓮芽の周りにいる者から、「蓮芽」という存在を聞き取りたい。

「…………昼に、赤色の話したな」

「赤色の、話ですか? ええ、どんな色なのか、たずねました」

 一刀斎の言葉に耳をそばだてるように、蓮芽は顎を引いた。長いもみあげと切り揃えられた前髪が、応じて揺れる。

「おれがなんと答えたか、覚えているか?」

「はい、命の色、と」

 今し方に聞いたばかりだとでも言うように、蓮芽は返した。

「最も強く、輝く命の色だと、一刀斎さんが言っていました」

「ああ、その通りだ。その通りだよ」

 山の方へと目を向けても、夜の暗がりで木々は色を失っている。

 篝火かがりびが消された松明たいまつのように、眠りについている。

「お前がそう名付けられた理由は、その場で一番、綺麗な輝きを持っていたからだよ」

 他ならぬ自分が、そう思って名付けたのだ。

 剣の腕を高めることだけに執心し、今となって刺客などが現われるほどに荒ぶっていたあの頃。

 己以上の技を見て打ちひしがれて、武について回る死と穢れというものを理解するために川を下り、目の当たりにした地獄界。

 朽ちて腐爛ふらんし、瘴気が空気を駆逐していた、死の蔓延はびこさい河原かわら

 そこにあってなお、泥に咲く一輪の蓮華のように、命の輝きを放っていた幼子おさなご

 思えばあの無垢な光は、盲目が故になにも知らなかったからだろう。

 野卑やひひねくれた、枯れ枝のような肉体をした母はきっと、世界のみにくさを教えなかった。

「赤」と言う名を笑っていながら、蓮芽の言葉を聞く限り、あの女は蓮芽を「赤」と呼び続けていた。

 そして、生者に相応ふさわしくない穢土えどから追い出すために、女は女衒ぜげんに赤を売ったのだ。

 その生気ヒカリを、消さないように。

「愛されていなければ、赤などとは呼ばれない。断言しよう、蓮芽。お前をそう呼んだ人間は、お前を深く愛していたよ」

 遊ばせていた手で、蓮芽の頬に触れる。その顔は、一刀斎の手で半ば覆えるほど小さかった。

 初めて相対してから今の今まで、ピクリとも動かなかった蓮芽のまぶたが、わずかに震えた。

 揺れることなく静けさを保っていた彼女の気配が、同時に乱れた。

 岩戸いわとのように固く閉ざされていたはずの瞼が、徐々に開く。

 なにかを確かめるように、なにも映さぬひとみを見せる。

 蓮芽の眼球は黒目などないように灰白はいはくしょくに濁り、わずかに見せる輪郭だけが、そこに虹彩があることを示している。

 その目はあの日見た、赤のものと同じだった。

 一刀斎にはそれが、白日はくじつにも見えた。

 なにも見えてないはずのその目は、熱射ねっしゃの陽射し染みた熱を宿している。

「手……」

 蓮芽はそっと、自分の手を自分の頬に当てられた一刀斎のものに重ねてきた。

 ばちを弾き、弦を鳴らしたことでタコのついた手は、しかし柔らかい弾性を失っていない。

「あの、もしかして……」

 光が差さないその目には、一刀斎がどう映っているのだろう。

 一刀斎の漏らす息吹いぶきを、手の熱を、そしてなにより心の脈動みゃくどうを、どう感じ取っているのだろう。

「一刀斎さん、あなたと私は、一度――――」

「さて」

 言い終わる前に、一刀斎は蓮芽の頬から手を外す。

「あ」と小さく溢した蓮芽の、紅葉のように小さな手は、容易に外されてしまう。

「元から、かわやに下りてきてな、そろそろ限界だった。……もう夜も遅い。早くとこく方が良いだろう」

「…………ええ、はい。そうですね」

 一刀斎は縁側から立ち上がり、早くと良いながらゆっくりと歩みを進める。

 蓮芽は開けていた瞼をそっと閉じ、はにかむようにうつむいた。

「……今日は一日、ありがとうございました。一刀斎さん。お休みなさい」

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