第八話 「かつて」

一刀斎いっとうさい、そろそろ小休止しょうきゅうししたらどうだ」

 一通り剣を振り終えたところに、奥へ引っ込んだ月白が戻って来た。

 手に持つぼんには湯呑みが二つあり、ちょうど良いと鞘に甕割を戻して縁側に座る。

 中にはとろりとした、白濁の液体が注がれている。

 湯呑みごしでも指が温かくなるほどに、よく温められていた。

生姜ショウキョウやら甘草カンゾウやらを溶かした葛湯くずゆだ。筋肉の疲労に効く。ついでに、身体を温めるぞ」

「なら、いただこう」

 一口ひとくちふくみ、舌に作ったくぼみで転がす。

 強い香りが鼻を抜け、甘味の中に辛みにも似たえぐみが広がる。ある程度冷ましてごくりと飲めば、通った喉から熱くなる。

「美味いな」

良薬りょうやくくちにがしと言うが、美味いに越したことはない。我慢がまんは心にも悪い」

 ぼんを挟んで座り、もう片方の湯呑みを取る月白。

 唇を少し尖らせて、ふぅと息を吹き掛け冷ます。

「今日は、どうするんだ?」

久方ひさかたぶりの京だからな。少し、うろつこうと思う」

 正しくは昨日さくじつ以来だが、見て回る前に自斎じさいに会いにいった。

 京は一刀斎が知る者とはだいぶ様変わりしている。その中にあるかつての名残なごりを、拾い集めてみたい。

「うん、それもいいかもしれない。織田おだなにがしによって下京も整えられたからね。夜までには帰ってこい」

「……別に、おれは泊まる場所に困ってるわけではないんだが?」

「夕飯も用意してやるが」

「日が暮れる前には帰る」

 あの味噌汁みそしるの腕前だ。間違いなく他の飯も美味いに違いない。


「……ここはもう、見る影もないな」

 八条はちじょう左京さきょう。一刀斎が、かつて寝床ねどこにしていた隙間風すきまかぜの入る掘っ立て小屋ごやは取り壊されて、隣近所となりきんじょでは、大工だいくが家を作っていた。

 瑠璃光るりこうがある四条から、大通りをのんびりと下った。その間に見えた町々まちまち様子ようすも、二十年近く前と大きく様変わりしている。

 区画くかくや町の形自体に、大きな変化はない。この街に、張り付いた気配けはいしつが変わっている。

 あの頃は荒くれ者やら武芸者やらの赤い血気が散らばって、その中に、明日におびえて今日をただ生きる人々の張り詰めた気がまだらを描いていた。

 だが今は、そよいだ血の臭いは無くなっていて、明日をよりよくするために今日を懸命に生きている。

 あの頃と、空の色は変わらないのに、空の青みが透き通って見えた。

「……これを作ったのが、お前だったのか、織田おだ尾張守おわりのかみ

 将軍を担いで京に入り、終いにはその将軍すら追い出して、しかし蹂躙じゅうりんすることはなく、しかと街と人を育んだ。

 日の本全てを手に入れようとしていたその男は、こころざしなかばでしいされた。

 交わした天下一てんかいちの約束は、ついぞ叶うことは無かった。

 師である自斎じさい直々じきじきに、天下一の剣豪けんごうになったと認められてなお、一刀斎は己が上限じょうげんにいるとは思えなかった。

 織田尾張守が、天下一に至れなかったのならば。

「……おれがその分、天上まで突き抜けるか」

 群青の空を見上げながら、腰の甕割に手を掛けて、フッと笑う。

 己と尾張守は、悲哀を抱くような間柄あいだがらではない。

 男の間には、心を湿らす感慨かんがい不要いらぬ

 ただ熱く、乾いていれば良い。ただただ熱く、堅固であればいい。


 その後一刀斎の足は、自然とへ向かっていた。

 京にいた数年間、住処にしていた小屋と幾度となく行き来した屋敷やしき

 半ば客分となっていた、大野家の屋敷だ。

 だがしかし、塀はところどころ朽ちかけて、門から内を覗いてみれば、家屋かおくもだいぶいたんでいた。

 これでは、甲四郎こうしろうと木刀を交えた庭などは、もう草木が茂りきり、へび蜥蜴とかげが寝るだけだろう。

 そのまま中へ入ろうとした、ちょうどその時。

 背中を錐でつつくような気配が刺さる。

「武芸者いうんは、招かれてへん家に入り込むんどすか?」

 やんわりと振り向けば、そこにいたのは二十半ばの女だった。化粧もしておらず、纏う服も楚々そそとしているが、その垂れた眼には見覚えがあった。

「……確か、藤花ふじばなといったか?」

 昨日、酒の席に遅れてきた遊女ゆうじょである。

 蓮芽に強い思い入れがある様子で、遅れてきた理由も彼女を連れてきたからである。

 蓮芽に近付いた一刀斎を強く警戒していたし、なにか深い関係があるのだろうか。

 柔和にゅうわな印象を与える目の形をしているが、その中に収まる瞳から注がれる視線は鋭い。

 先日のように奥まで突き通すような意志は込められていないが、ちくりちくりと刺し続けてくる。

「――――昨日は、蓮芽を先生センセんとこまでちゃんと送ってくれはったよおどすなあ。おおきに」

 しかし、口を開いた瞬間に、目は細まり視線も柔らかくなる。

 藤花の所作しょさ言動げんどうには、ごく自然にが宿る。なにかしらでつちかわれた品性ひんせいが、独特な気配として纏わり付いていた。

「あの後は、どないしたん?」

「その医者がふるい知り合いだったんでな。一杯いっぱいやったあと、一部屋ひとへや借りた」

「あれまあ……兄さん、あの美人先生と知り合いやったん? すみに置けへんなあ」

 くすりと笑い揺れた髪が、甘い香りを風に乗せる。

「昨日は、よう眠れたんやないですか?」

「ああ、久々に懐かしい顔に出会ったからか、気楽に眠れたよ」

 小洒落こじゃれ底意地そこいじわるさを感じながら、一刀斎は敢えて無視してさらりと答える。嘘でもない。

 藤花は「あらそう」とあやしく笑いながら、おどるように一刀斎に近付いた。

 服と服とがこすれそうなほどの距離だが、背丈の異なる二人の顔は、それでも遠い。

「それやったら……今晩も、遊べますなあ?」

 れて割れた果実のような、芳醇ほうじゅんな吐息が一刀斎の鼻を掠める。

 上目遣いの藤花の目は、青空を背にした一刀斎を映している。無常の世をはかなんで、世のままならさをあざわらう。

 眼下の女は、たおやで掴みようのない、高嶺に揺れる花のような媚笑びしょうを浮かべていた。

 先に間合を寄せた藤花からは、決して触れない。明らかに、一刀斎から触れに動くのを待っている。

「どないします? お侍さん。今晩こんばんは」

「無茶をするな、お前は」

 言葉をさえぎった一刀斎を見上げた目が大きく開かれた。垂れた目尻で分からなかったが、その目自体は大きくて、瞳もまばゆ黒曜こくようのよう。しかし瞳孔どうこうは開かれて、黒点が二、三度細かく揺れた。

「お前、

 しかと、その素振りは隠してはいる。

 だがしかし、その匂いだけはどうしても抜けない。

 一刀斎に一瞬向けた、寸延すんのび短刀たんとうつかまでとおすようなあの目付き。

 いくつもかんじて来た人の感情の中、一刀斎にとって最も馴染み深いものがそれだった。

 己の世界から打ち弾き出したい。存在自体を認めたくない。

 鼻につく匂いが忌々いまいましい。肺に入った同じ空気が、病毒と化して胸裡きょうりを焼く。

 かつてあの島の中で、散々さんざん向けられてきたものである。

 それは純粋な不快感、に他ならない。

「……なぁんや、バレてもうてたんやなあ」

 突き付けたつもりが、突き返されたその刃に動じることは無く。

 藤花はさっとカラコロと下駄を鳴らして数歩退いた。

 俯くその顔はとても穏やかで、知られてなおその疎みを顔に出すことは無かった。表情は、遊女である彼女にとって商売道具でもあるからか。

「昔の京を知ってる人やったら、武芸者見て鼻摘まむ人もおりますやろ? ずいぶん、好き勝手しとったからなあ」

「お前も京の生まれか」

「子どもん頃に、しばらくおっただけやけどなあ」

 藤花ほどの年の頃ならば、将軍不在で京が荒れていた時はまだ少女だったろう。

 一刀斎がいたときの京は、武芸者や無頼ぶらいどもが跋扈ばっこしていた時代。そんな連中が幼心おさなごころに、いかな傷をつけたかも分からない。

 ――――自分とて、例外では無いのだ。

「――なら、すれ違ったこともあるかも知れんな。おれも京にいたことがある」

「それは有り得まへんなあ。絶対に、すれ違ってなんかしておへん」

 そう断言だんげんして顔を上げた藤花には、あの幽玄とした微笑を浮かべていた。

「……だって、兄さんと一目うたら絶対忘れへんもの。兄さん、色男いろおとこやさかい」

 ニコリとしても、えくぼも生まないその頬は、まるで白玉のように艶めいている。

 藤花は昨日、仕事の時に帯びていた奥ゆかしさを纏い直していて、つかみ所がなくなった。

 加えておどけるような返しをされて、妙にはぐらかされたような気もする。

「……嫌いなはずの武芸者に色目を使うとは、健気けなげだな」

「遊女を指して健気やなんて、褒めるのが苦手なお人やなあ」

嫌気いやけを我慢して近付いたのは、蓮芽のためだろう」

 子どもがすずすずぶかのような、ほがらかなこえが途絶えた。

 眉は一文字いちもんじに並び、垂れたまぶたの奥にひそむ眼が、みだれたひかりはなつ。

「……おれが蓮芽に近付いたのが、よほど気になるんだろう。引き離そうとしたか」

「…………そら、当たり前でっしゃろ? あの子は私らみたいな遊女やない。弦を鳴らして、人を楽しませる芸妓げいぎや。男を相手取るのは役目やない。……手ぇ、出したらあきまへんよ?」

 藤花の言葉に、熱が乗る。

 やはり蓮芽は、藤花の心の中の、大部分を占めているらしい。

「どうして、そこまで蓮芽を気に掛ける?」

「……さて、そろそろ私は帰らなあきまへん。午後のお稽古に遅れてまう。兄さんも、またご縁があれば」

 どうやら、答えるつもりはないらしい。垣間見えた熱は、瞬時に消えた。

 だが、人には一つや二つ、言いたくないこともあるだろう。それが、誰かとのきずなであるなら尚更なおさらだ。

「……ああ、ではな」

 軽く会釈えしゃくをした藤花は、路地の中へと消えていく。

 それはまるで霞のようで、花のような香りがなければ、藤花など最初から、この場にいないようだった。

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