第八話 「かつて」
「
一通り剣を振り終えたところに、奥へ引っ込んだ月白が戻って来た。
手に持つ
中にはとろりとした、白濁の液体が注がれている。
湯呑みごしでも指が温かくなるほどに、よく温められていた。
「
「なら、いただこう」
強い香りが鼻を抜け、甘味の中に辛みにも似たえぐみが広がる。ある程度冷ましてごくりと飲めば、通った喉から熱くなる。
「美味いな」
「
唇を少し尖らせて、ふぅと息を吹き掛け冷ます。
「今日は、どうするんだ?」
「
正しくは
京は一刀斎が知る者とはだいぶ様変わりしている。その中にあるかつての
「うん、それもいいかもしれない。
「……別に、おれは泊まる場所に困ってるわけではないんだが?」
「夕飯も用意してやるが」
「日が暮れる前には帰る」
あの
「……ここはもう、見る影もないな」
あの頃は荒くれ者やら武芸者やらの赤い血気が散らばって、その中に、明日に
だが今は、
あの頃と、空の色は変わらないのに、空の青みが透き通って見えた。
「……これを作ったのが、お前だったのか、
将軍を担いで京に入り、終いにはその将軍すら追い出して、しかし
日の本全てを手に入れようとしていたその男は、
交わした
師である
織田尾張守が、天下一に至れなかったのならば。
「……おれがその分、天上まで突き抜けるか」
群青の空を見上げながら、腰の甕割に手を掛けて、フッと笑う。
己と尾張守は、悲哀を抱くような
男の間には、心を湿らす
ただ熱く、乾いていれば良い。ただただ熱く、堅固であればいい。
その後一刀斎の足は、自然とそこへ向かっていた。
京にいた数年間、住処にしていた小屋と幾度となく行き来した
半ば客分となっていた、大野家の屋敷だ。
だがしかし、塀はところどころ朽ちかけて、門から内を覗いてみれば、
これでは、
そのまま中へ入ろうとした、ちょうどその時。
背中を錐でつつくような気配が刺さる。
「武芸者いうんは、招かれてへん家に入り込むんどすか?」
やんわりと振り向けば、そこにいたのは二十半ばの女だった。化粧もしておらず、纏う服も
「……確か、
昨日、酒の席に遅れてきた
蓮芽に強い思い入れがある様子で、遅れてきた理由も彼女を連れてきたからである。
蓮芽に近付いた一刀斎を強く警戒していたし、なにか深い関係があるのだろうか。
先日のように奥まで突き通すような意志は込められていないが、ちくりちくりと刺し続けてくる。
「――――昨日は、蓮芽を
しかし、口を開いた瞬間に、目は細まり視線も柔らかくなる。
藤花の
「あの後は、どないしたん?」
「その医者が
「あれまあ……兄さん、あの美人先生と知り合いやったん?
くすりと笑い揺れた髪が、甘い香りを風に乗せる。
「昨日は、よう眠れたんやないですか?」
「ああ、久々に懐かしい顔に出会ったからか、気楽に眠れたよ」
藤花は「あらそう」と
服と服とが
「それやったら……今晩も、遊べますなあ?」
上目遣いの藤花の目は、青空を背にした一刀斎を映している。無常の世を
眼下の女は、
先に間合を寄せた藤花からは、決して触れない。明らかに、一刀斎から触れに動くのを待っている。
「どないします? お侍さん。
「無茶をするな、お前は」
言葉を
「お前、武芸者が嫌いだろう」
しかと、その素振りは隠してはいる。
だがしかし、その匂いだけはどうしても抜けない。
一刀斎に一瞬向けた、
己の世界から打ち弾き出したい。存在自体を認めたくない。
鼻につく匂いが
かつてあの島の中で、
それは純粋な不快感、嫌悪に他ならない。
「……なぁんや、バレてもうてたんやなあ」
突き付けたつもりが、突き返されたその刃に動じることは無く。
藤花はさっとカラコロと下駄を鳴らして数歩
俯くその顔はとても穏やかで、知られてなおその疎みを顔に出すことは無かった。表情は、遊女である彼女にとって商売道具でもあるからか。
「昔の京を知ってる人やったら、武芸者見て鼻摘まむ人もおりますやろ? ずいぶん、好き勝手しとったからなあ」
「お前も京の生まれか」
「子どもん頃に、しばらくおっただけやけどなあ」
藤花ほどの年の頃ならば、将軍不在で京が荒れていた時はまだ少女だったろう。
一刀斎がいたときの京は、武芸者や
――――自分とて、例外では無いのだ。
「――なら、すれ違ったこともあるかも知れんな。おれも京にいたことがある」
「それは有り得まへんなあ。絶対に、すれ違ってなんかしておへん」
そう
「……だって、兄さんと一目
ニコリとしても、えくぼも生まないその頬は、まるで白玉のように艶めいている。
藤花は昨日、仕事の時に帯びていた奥ゆかしさを纏い直していて、つかみ所がなくなった。
加えておどけるような返しをされて、妙にはぐらかされたような気もする。
「……嫌いなはずの武芸者に色目を使うとは、
「遊女を指して健気やなんて、褒めるのが苦手なお人やなあ」
「
子どもが
眉は
「……おれが蓮芽に近付いたのが、よほど気になるんだろう。引き離そうとしたか」
「…………そら、当たり前でっしゃろ? あの子は私らみたいな遊女やない。弦を鳴らして、人を楽しませる
藤花の言葉に、熱が乗る。
やはり蓮芽は、藤花の心の中の、大部分を占めているらしい。
「どうして、そこまで蓮芽を気に掛ける?」
「……さて、そろそろ私は帰らなあきまへん。午後のお稽古に遅れてまう。兄さんも、またご縁があれば」
どうやら、答えるつもりはないらしい。垣間見えた熱は、瞬時に消えた。
だが、人には一つや二つ、言いたくないこともあるだろう。それが、誰かとの
「……ああ、ではな」
軽く
それはまるで霞のようで、花のような香りがなければ、藤花など最初から、この場にいないようだった。
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