第十五話 母の面影
「ふむ……」
一刀斎は、もはや見慣れた
一刀斎は適当に折り畳んで、そこらにぽいと投げ置いた。
技競べは、一刀斎と
甚助も同じ書状を受け、
だが二、三言葉を交わして間もなく、「
一刀斎も
自分も抜け出そうかと
「一刀斎さんっ」
こっそりと障子を開けて入ってきたのは、
それでも
「とてもすごかったです! なにをしてたか、おきてたのかよく分からなかったけど、すごく、かっこよかったです!」
「ふむ、そうか」
一刀斎の元に駆けよってすっと座った喜七郎は、無邪気に笑って目を
「本当に、武が好きなのだなお前は」
「はい!
そのいじらしさは、痛ましくさえ思えた。「血は争えない」。そう呟いた
夫の背を
「なら、母と比べたならば、どちらが
「…………母様と、ですか?」
一刀斎の頭の中に、
母として思い出すのは、伊東は
だが、一刀斎はその育ての母を――。
「う~ん……どちらかなら、喜七郎はやっぱり、母様が好きです!」
かつての記憶に飲まれかけたとき、目の前に
仄暗くなった心の中に、ぽっと小さな、
見た目には普段通りの
「……なら第一は、母を悲しませないことだ。しかと守れ」
「はいっ」
恐らく言葉通りに受け取って、深い意味や理由は分かっていないのだろう。
だがしかし、変に斜に構えて悩まれるよりよほど良い。
この問答が記憶の果てに消えるかも知れない。だがしかし、守れと言われて
「ああ、やはりここにいたんですね、喜七郎」
「母様」
噂をすればというのは真にある。喜七郎を探していたなら奇遇と言うこともないだろう。
開け放たれていた障子から顔を覗かせたのは
「まあ、
「わかりました! それでは一刀斎さん、またあとでっ」
一刀斎の方へと向き直った喜七郎は
その背を見送った太阿は、入れ替わりに部屋に上がり込んだ。
「あら、もう
「奴ならば厠に行った」
本当のところはさておいて、言い
太阿は「そうですか」とニコリと
「外他様、今回は大変よい技を奉納してくださり、ありがとうございました。
「奉納というつもりは、全くなかった。おれはおれが出来る限りを使い果たしただけだ」
「ええ、それでよいのですよ。祭事とは神への畏敬もさることながら、参加した人々が楽しむことも重要ですから」
にこりと、
「……喜七郎は、なにかご迷惑はかけませんでしたか?」
「いや、なにも。奔放なところはあるが根は善良だからな」
大きい体躯が物珍しいのか、一刀斎は子どもにやたら絡まれることが多かった。とはいえそれはほとんど「遊び道具」としてであり、膝に張り手をしたり、
ああ素直になつかれたことは、あまりない。
それは、せいぜい――。
「外他様は、子はお好きですか?」
「――――」
珍しく、即答できなかった。子が好きかと
一人は京で世話になっていた家の娘で、
もう一人は、
なぜその二人を思い出したのか、一刀斎は分からない。
だがしかし、子が好きかという訊いでこの二人が真っ先に浮かんだのならば。
「――――ああ、好きだな」
正直
一刀斎の答えを受けて、太阿は振り返り、喜七郎が去った方を見遣る。
「子というのは、本当に美しい存在です。
ポツリと零された一言で一刀斎の後頭部が軋み、記憶の奥へと追い遣っていた女の姿が浮かび上がった。
皺だらけの灰色の肌に、まるで枯れ木のように骨と皮だけになったような女。
目の見えない娘をあの地獄から出すために金と替えた、卑しくも、逞しい女。
武家の娘で大宮司の
だがしかし、たった一つ変わらないものがあった。
我が子に対する、深い愛情。
己の身を
それは、命を削って産み落としたからなのだろうか――。
「…………おれには、母のような者がいた」
「はい」
気付けば、とじのことが口から出た。
凛と清く、神社が纏う神秘的で静謐な空気を、その身自身からも放っていた巫女の長。
神社の長である織部でさえ頭が上がらなかったとじは、一刀斎に文字や知識を与えてくれた女だった。
恐ろしく思うことは幾度となくあったが、あの厳しさの内に潜んでいた優しい気配を、今さらになって感じえた。
過ごした時間はわずか一年ばかり。神社を離れてはや三年で、別れて暮らした時間の方が多い。だが間違いなくとじは、一刀斎にとって「母」だった。
――しかし一刀斎は
もしこの先、伊豆に入ることがあったとして、果たして自分は三島神社に、帰る事が出来るのか。
帰って、よいのだろうか。
合わせる顔など、自分にあるのか――。
「その方は、あなたに会いたいと思っていますよ」
魂の炎が弱々しく揺れたとき、太阿が口を開く。
ふと顔を上げれば、その瞳は優しい光を放っていた。
「もちろん、根拠があるわけではありません。ですが、母親は決して、「子と会えないままで良い」とは思いませんよ。例え一年ばかりの短い時間とは言え、その巫女様と外他様の間には、確かな絆が生まれたでしょう?」
なら、と、太阿は言葉を続けた。
「血の繋がりがあろうとなかろうと、人の想いは本物です。特に親から子への愛は、決して消えるものではありません。――――重ねて断言いたします。きっとその巫女様は、あなたに会いたいと思っています」
優美さを纏いながら、ハッキリと言い切った。深々と突き立てられたその言葉は、一刀斎の心の奥に絡んでいた鎖に、わずかな
「…………ならば、より高みを目指さねばな。顔を見せるためにも」
一刀斎は、まだ
家族と再開するときは、誇れる自分になっていたい。
心の利剣を、正しく振るえる剣士に。
綺麗な剣を、放てる剣士に。
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