第十五話 母の面影

「ふむ……」

 一刀斎は、もはや見慣れた社務所しゃむしょの一室で書状しょじょうを見ていた。

 わざくらべを勝ち残ったことで、織田方から与えられたものだ。

 一刀斎は適当に折り畳んで、そこらにぽいと投げ置いた。

 技競べは、一刀斎と甚助じんすけの相討ちで終わった。満足いく戦いだったが、結局は引き分けである。

 甚助も同じ書状を受け、ねぎらいの宴会を開くから待機しろと言われこの部屋に通された。

 だが二、三言葉を交わして間もなく、「かわやに行く」と部屋を出てから姿を見ない。

 おそらく、用を足しに隣国りんごくにでも向かったのだろう。賑やかなことはこのみそうにない男だ。

 一刀斎も饗宴きょうえんはあまり好まない。一日の疲れをいやし和むはずの食事だというのに、宴は人付き合いに気を配り妙に疲れる。

 伊東いとうにいた時や、堅田かたたでの修業時代、京で世話になった大野家おおのけ、そして、柳生やぎゅうさとでの小さくまとまった夕食ゆうしょくが、一刀斎にとっての「食事の理想」だった。

 自分も抜け出そうかと障子しょうじに目を向けたとき、なにやら小さな気配がこちらに向かってくるのに気付いた。

 板張いたばり廊下ろうかを音を立てぬようにしているが、気が逸ってるのか消し切れていない。

「一刀斎さんっ」

 こっそりと障子を開けて入ってきたのは、喜七郎きしちろうだった。

 一応いちおう次期大宮司の手前か、いまだ斎服さいふくを身に纏ったままだ。

 それでもわずらわしさを感じない辺り、素直な喜七郎らしかった。

「とてもすごかったです! なにをしてたか、おきてたのかよく分からなかったけど、すごく、かっこよかったです!」

「ふむ、そうか」

 一刀斎の元に駆けよってすっと座った喜七郎は、無邪気に笑って目を爛々らんらんと輝かせている。

「本当に、武が好きなのだなお前は」

「はい! つるぎみやの生まれですから! 父は、織田様と共に戦い、勇ましく討たれたと聞きます。そんな父を、喜七郎は誇りに思いますっ」

 そのいじらしさは、痛ましくさえ思えた。「血は争えない」。そう呟いた太阿たあの姿が眼中がんちゅうに浮かんだ。

 夫の背を無遠慮むえんりょに追おうとする喜七郎に辛みを覚えてなお、子の望みに献身けんしんする太阿の姿こそを、勇ましいとさえ思う。

「なら、母と比べたならば、どちらがい?」

「…………母様と、ですか?」

 突拍子とっぴょうしも無い一刀斎のいに、喜七郎はポカンと目を丸くした。

 一刀斎の頭の中に、生母せいぼの姿はない。頭に響く声音こわねもなく、影形かげかたち輪郭りんかくがぼやけている。更に言えば相貌かおでさえ、どのような形で、どのような目鼻口をしていたかなどもすっかり忘れていた。

 母として思い出すのは、伊東は三島みしま神社じんじゃで、己を育てたとじである。

 だが、一刀斎はその育ての母を――。

「う~ん……どちらかなら、喜七郎はやっぱり、母様が好きです!」

 かつての記憶に飲まれかけたとき、目の前に純真じゅんしん無垢むくな笑顔が現われた。

 仄暗くなった心の中に、ぽっと小さな、行灯あんどんのような光が生まれる。一刀斎は両のくちを、一分いちぶばかり吊り上げた。

 見た目には普段通りの仏頂面ぶっちょうづら。しかしそのしおけした赤ら顔から、人のぬくみが漏れでた。

「……なら第一は、母を悲しませないことだ。しかと守れ」

「はいっ」

 恐らく言葉通りに受け取って、深い意味や理由は分かっていないのだろう。

 だがしかし、変に斜に構えて悩まれるよりよほど良い。

 この問答が記憶の果てに消えるかも知れない。だがしかし、守れと言われてうなずいた。その事実さえあれば、それでよかった。

「ああ、やはりここにいたんですね、喜七郎」

「母様」

 噂をすればというのは真にある。喜七郎を探していたなら奇遇と言うこともないだろう。

 開け放たれていた障子から顔を覗かせたのは太阿たあだった。すくと立ち上がった喜七郎は、すばしこく母の元に駆け寄った。

「まあ、礼服れいふくも脱がないままで……宮の者達が探していましたよ。はやく着替えてきなさい。この後の食事で、汚してしまっては大変ですから」

「わかりました! それでは一刀斎さん、またあとでっ」

 一刀斎の方へと向き直った喜七郎はうやうやしく頭を下げ、そのまま部屋を飛び出していった。

 その背を見送った太阿は、入れ替わりに部屋に上がり込んだ。

「あら、もう一方ひとかたは……?」

「奴ならば厠に行った」

 本当のところはさておいて、言いぶんはそうなのだから間違いはあるまい。

 太阿は「そうですか」とニコリとんで、障子の側に座る。

「外他様、今回は大変よい技を奉納してくださり、ありがとうございました。熱田あつた大神おおかみも、きっと満足してくださったでしょう」

「奉納というつもりは、全くなかった。おれはおれが出来る限りを使い果たしただけだ」

「ええ、それでよいのですよ。祭事とは神への畏敬もさることながら、参加した人々が楽しむことも重要ですから」

 にこりと、典雅てんが頬笑ほほえむその表情は、おかしがたいほどに優しげで、まだ三十路みそじ前だろうに、清らかな艶気いろけがこぼれていた。

「……喜七郎は、なにかご迷惑はかけませんでしたか?」

「いや、なにも。奔放なところはあるが根は善良だからな」

 大きい体躯が物珍しいのか、一刀斎は子どもにやたら絡まれることが多かった。とはいえそれはほとんど「遊び道具」としてであり、膝に張り手をしたり、ももにしがみついて曲げようとしたり、果てには登られそうになったこともある。

 ああ素直になつかれたことは、あまりない。

 それは、せいぜい――。

「外他様は、子はお好きですか?」

「――――」

 珍しく、即答できなかった。子が好きかとわれ、一刀斎の脳裡に過ぎったのは二人の娘だった。

 一人は京で世話になっていた家の娘で、こころやさしくたおやかで、はなやぐ少女。

 もう一人は、屍肉しにくが重なり、うじねずみが這いずり回る死の原で、一切の穢れを寄せ付けず、命の輝きを放っていた盲目の童女。

 なぜその二人を思い出したのか、一刀斎は分からない。

 だがしかし、子が好きかという訊いでこの二人が真っ先に浮かんだのならば。

「――――ああ、好きだな」

 正直あつかいに困ることはある。だがそれでも、その素直すなおかたは、心のままに生きる姿は、間違いなくとうといものだった。

 一刀斎の答えを受けて、太阿は振り返り、喜七郎が去った方を見遣る。

「子というのは、本当に美しい存在です。溌剌はつらつとした生気に満ちて、この凍てつくような厳寒の日も、まるで春日はるひを浴びているように振る舞って、私達を、温かくしてくれる。……だからこそ、子には報いたいのです」

 ポツリと零された一言で一刀斎の後頭部が軋み、記憶の奥へと追い遣っていた女の姿が浮かび上がった。

 皺だらけの灰色の肌に、まるで枯れ木のように骨と皮だけになったような女。

 目の見えない娘をあの地獄から出すために金と替えた、卑しくも、逞しい女。

 武家の娘で大宮司の寡婦やもめであり、美しく着飾った太阿とはまるで対極の存在。

 だがしかし、たった一つ変わらないものがあった。

 我が子に対する、深い愛情。

 己の身をはつってでも、健やかであることを望む勇ましいほどの慈愛じあい

 それは、命を削って産み落としたからなのだろうか――。

「…………おれには、母のような者がいた」

「はい」

 気付けば、とじのことが口から出た。

 凛と清く、神社が纏う神秘的で静謐な空気を、その身自身からも放っていた巫女の長。

 神社の長である織部でさえ頭が上がらなかったとじは、一刀斎に文字や知識を与えてくれた女だった。

 恐ろしく思うことは幾度となくあったが、あの厳しさの内に潜んでいた優しい気配を、今さらになって感じえた。

 過ごした時間はわずか一年ばかり。神社を離れてはや三年で、別れて暮らした時間の方が多い。だが間違いなくとじは、一刀斎にとって「母」だった。

 ――しかし一刀斎は短慮たんりょのままに、焦燥しょうそう憎悪ぞうおに走った愚行ぐこうでその母の心をけがしてしまった。

 もしこの先、伊豆に入ることがあったとして、果たして自分は三島神社に、帰る事が出来るのか。

 帰って、よいのだろうか。

 合わせる顔など、自分にあるのか――。

「その方は、あなたに会いたいと思っていますよ」

 魂の炎が弱々しく揺れたとき、太阿が口を開く。

 ふと顔を上げれば、その瞳は優しい光を放っていた。

 哀憫あいびんの情も、憐れみの様子も感じない。ただただ光に包まれるように、一刀斎の身が温かさが宿る。

「もちろん、根拠があるわけではありません。ですが、母親は決して、「子と会えないままで良い」とは思いませんよ。例え一年ばかりの短い時間とは言え、その巫女様と外他様の間には、確かな絆が生まれたでしょう?」

 なら、と、太阿は言葉を続けた。

「血の繋がりがあろうとなかろうと、人の想いは本物です。特に親から子への愛は、決して消えるものではありません。――――重ねて断言いたします。きっとその巫女様は、あなたに会いたいと思っています」

 優美さを纏いながら、ハッキリと言い切った。深々と突き立てられたその言葉は、一刀斎の心の奥に絡んでいた鎖に、わずかなひびを穿った。

「…………ならば、より高みを目指さねばな。顔を見せるためにも」

 一刀斎は、まだみちなかば。

 と再開するときは、誇れる自分になっていたい。

 心の利剣を、正しく振るえる剣士に。

 綺麗な剣を、放てる剣士に。


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