第十話 裏側
「はあ、はあ……!」
からがら、村から逃げ去った
人の気配はなかった。だが、しかし――――。
「おやあ?」
「え、は……」
堂の真ん中には、ポツンと一人の陰があった。
薄汚い、埃と染みだらけの堂内で、その男には一切の
その男を、牛童子は知っている。
「
博士――旅の
「おやこれは牛童子……どうしたんですか、この
「そ、それは……そいつらみんな、敵から逃げて……」
「あなたのように?」
ビュン、と、堂内に風が吹いた。
「誰に、やられたのです?」
「ぐ、うう……
顔を
「博士! ぼくはアイツが許せない! だから、だからもっとぼくに力を!」
「…………ええ、ええ、少し手を加えましょうか」
その博士の頬笑みに、牛童子は涙を流して礼を言う。――その頬笑みが、やたら
「さあ、牛童子、
「博、士……?」
博士の言葉は、止まることなく
そうだ、こうして己は強くしてもらった。今ここでより力を貰い、あの剣客に
「呼吸は浅く、浅く、浅く」
「浅、く……?」
「浅く、浅く、浅く……あなたは、私しか、見えない――――」
眼前に、博士の袖が伸びてくる。牛童子の呼気は激しいが、吸気が一切追い付いていない。苦しい。息が出来ない。全身の水が汗になって体から出ていく。
目の前が――
パァアアアン!
牛童子の巨体が、崩れ落ちた。ただ博士が
「はあ……力は強くて脳天気だったから、扱いやすかったんだけどなあ……また、一刀斎か」
その名は覚えている。自分の
その男に嫌がらせをするつもりで、武芸者崩れを集めたこの堂に来たのだが、どうやらまたもや邪魔された。
「…………これはどうやら、私も本腰を入れて追うべきですねえ」
牛童子を倒すほどの相手だ。この武芸者達も使えなかっただろう。
ならば直接、
「街から離れたら、ずいぶんのどかなのだな」
ただ、道はしっかりと整えられており歩みは苦にならない。これも街と街を繋ぐための
「
そういう千治は、あの派手な
他の娘たちも
内に着てていたのは、意外にも粗末な
「お、見えてきたな。あそこだよ。あの村」
「む?」
千治が
「おやおや、
「大事な商売相手の様子を見に来ただけだって。ついでに、麦の種まきの手伝いによ」
「そいつぁありがたいこって。で、そっちのは新しい友達かい? 武芸者らしいが」
「ああ、
「……
「はあ、一刀斎。なんとも
そういえば、まだ名乗っていなかった。というか、当の千治も他人が呼んでいて名が分かったようなものなので、お互い
二人して今さらそれに気付き、一刀斎はわずかに口の
そんな二人の様子を見て。
「はあ、千治は相変わらずネズミだねえ。気付かぬ間に入り込んで」
「ここまでその
「まあ、この村にゃガキの頃からしょっちゅう来てるからよ。さて、じゃあ入れてもらうぜ旦那」
堂々と門をくぐる千治を、見張りの男は止める事もしない。「あいよー」と一刀斎ともども
どうやらよほど馴染みがあるらしい。
「あ、千治兄ちゃん!」
「あらまあ、千ちゃんじゃあないの。来てくれたんだねえ」
村に入っても、千治の人気はかなりのものだった。子どもたちは千治を見つけると手を振って、赤子を
「どうも奥さん。
「ええ、麦の種まきにね。私は子守りで
「そいつぁいいことを聞いた!」
女房にささやかれた千治は満面の笑みになって、一刀斎を置いていかねないほどのすばしっこさで村の奥へと言ってしまう。ポカン、と見送る一刀斎だったが、同じくその背を見つめた女房が、苦笑交じりに
「はあ、千ちゃんたら、本当に穂波ちゃんのこと好きなのねえ」
「好き……? だが千治の奴は、街の娘たちとも親しいようだったぞ」
それを聞いた女房は、一刀斎を見て「まだまだ若いわねえ」と肩をすくめ、
「ま、千ちゃんが遊び人でいろんな女の子と仲が良いのは知ってるけどさ、それでも特別な相手ってのはいるもんなのさ。行って、見てみれば分かるよ」
行ってみればわかる。ならばとさっさと千治のあとを追おうとしたが……。
「うわあ、にっちゃんでっけえ……」
「にいちゃん、
村の子供たちが、
しかも天狗とまで言われ、なんとも言いがたい
「おお、すげえ、全然びくともしねえ!」
「うぬうう、ぐぬぬぬぬぬ……!」
右足に張り手をかまされ、左足をぐいと押される。
「おれは千治を追うから、また後でな
「逃がさないぞー! 捕まえろー!」
「おー!」
足に組み着かれ、腕に絡まれ、背中に乗られ。それでも構わず
子ども達は止めるどころか、その力強さにワイワイキャッキャッと楽しみ始める始末であった。
そんな後ろ姿を見ながら、女房は、「はあ、見掛けによらず子どもをあやすのが上手だねえ」と感心してしまうがハッとして。
「こらこらこらアンタ達! 人様に迷惑掛けるんじゃあないの! 畑に行くなら大人達の邪魔はしちゃダメだからねー!?」
「旦那、穂波ちゃん、こんちは!」
「おや、草間の
「千治さん……また来たの?」
一方その頃、一刀斎を差し置いて千治は、村の奥の畑まで来ていた。
一面広がる畑には、男女が手分けして、麦の種を
穂波はふっくらとした
だがその愛らしさも、
「うん、穂波ちゃんに会いにね」
そんな穂波に、千治はやたらと構うのである。街有数の
「で、今日はこの畑にやんのかい?」
千治は答えを聞く前に、
「ぼ、坊っちゃん! 畑仕事をしようだなんてそんな……もし怪我でもしたら草間の旦那になんと言ったら」
「はあ、稲毛の旦那。俺ぁガキの
千治は畑に入ると種を蒔く
相変わらず人の
千治が子どもの頃から見てきた高蔵は、彼がただの軽い男ではないというのは知っている。道楽息子と言われているが、人には
「はあ……坊っちゃんがウチの息子であれば……」
「何をバカなこといってるの父さん。あれも結局遊びの
穏やかに見守る父と違い、穂波はツンとして、笑いながら畑の土を返す千治を
「こら穂波……確かに坊っちゃんは遊びが過ぎるくらいはあるが、しっかりとした
「誠実な男が女遊びなんてするもんですか。商人は商人らしくそろばんを弾いていればいいし、遊び人は遊び人らしく街の女をたぶらかしてればいいのよ。なのにしょっちゅう村に来てさ……」
千治を疎む穂波を見て、思わず溜め息を吐く高蔵。昔は千治とも仲がよかったが、
元は
「坊っちゃんはお前のことを憎からず思っているし、嫁がせるのよいかと思ったんだがなあ……」
「冗談きっついなあ……私は村で過ごすのが
「
「お、兄さんもやっとこさ来たか!」
聞き慣れない声が、耳を打った。同時に、千治が顔と共に手を
珍しい、千治が遊び仲間でも連れてきたかと思いそちらを見れば。
「ぐぬー、全然倒れねえ……」
「
「食らえこのー!」
「顔を狙うなら頬を引っ張るでなく鼻か目を打つのがいいぞ。危ないから仲間内では絶対にやるなよ」
千治とまるで違う、
だがしかし、それを一目見て穂波は一言。
「……ああ、うん、ちょうど、あんな感じな人がいい」
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