第165話 闇に舞うもの
アベルは激しい怒りと共に足を踏み出す。
だが、同時に冷静な観察と計算を始めた。
バケモノ蛙は二匹。
背後に黒い沼。
あそこに逃げ込まれると厄介だった。
もし、舌に捕まれて水中に引きずり込まれたら終わりだ。
「糞蛙ども! 勝負だ」
アベルは魔力を極度に活性化させる。
体内で焔の車輪が回転しているかのようなパワーの増大が始まる。
胎から四肢に至るまで熱が満ちていく。
形を持たないはずの心によって魔力は質量に変わり、凝結し、顕現していく。
激怒と静穏が混然一体となってさらに高まる。
赤と黒のマダラ模様をした大蛙は錫杖を振るう。
向こうも強い魔力を発生させていた。
その動静を読み取る。
たぶん、再び氷槍だ。
先ほどを上回る連発を意図している。
だが、最初の攻撃で癖やパターンを理解していた。
「ドルゴスレン殿、リティク。後ろに下がってくれ。近づくな」
アベルは猛然と走る。
蛙が氷槍を創り、射出。
必要最小限だけ体を捻り、躱す。
すぐ次の氷槍が来る。
アベルは膝を付いて体を縮ませた。
的の面積が減れば、狙いを絞らざるを得ない。
マダラ蛙は正確に射出してきた。
だからこそ予測できる軌道。
側転して回避。
再度の氷槍はダガーで弾く。
尽かさず青蛙が舌を飛ばす。
生意気にも機動を読ませない複雑な動き。
バケモノ蛙たちは連携が巧みだった。
飛んできた氷槍を回避した隙を逃さず、舌は足首に巻き付く。
物凄い力で引き寄せようとしてくる。
常識的には絶体絶命だが今こそ、チャンスだ。
韻を踏んだ詠唱。
アベルは高めきった魔力を一気に魔術へ変換させる。
「魔凍氷結波」
濃密に凝集されていたパワーが冷気となって猛烈に放たれる。
全く無音の、しかし恐るべき極寒によって迷宮の壁や床が凍りついて行く。
マダラ蛙は驚き、身を竦ませるが魔術で対抗してくる。
大量の水を生み出し、激しい噴流と化してアベルへ放って来た。
アベルは構わず氷結波の行使に全力を注ぎ込む。
ますます魔力は猛り狂う。
まともに当たれば骨すら砕く水噴流が空中で凍り付き、氷の塊となって床に落下した。
見る見るうちに迷宮の壁といい床といい、真っ白な霜に覆われていく。
アベルは氷結波を沼のある方へ意図的に送りこむ。
足に絡まっていた舌は冷気に怯んだらしく青蛙の口へ戻っていった。
すると突然、青蛙と錫杖持ちのマダラ蛙は、くるりと身を翻し、沼へと跳躍した。
狡猾なほどの素早い退却。
安全で絶対優位の水中へ逃げる賢さだが……。
アベルは笑う。
魔術の行使を止めて、短距離走のように全身の筋肉を躍動させる。
頭から爪先まで、全てを連動させた。
腰を伸ばし、足は軽やかに力強く踏む。
加速感。
集中力の為せる業か、仄暗い迷宮が昼間のように鮮明な姿で見えた。
床に落ちた小石の一つ一つまで把握できる。
バケモノ蛙は沼に飛び込むが、異変だ。
すでに水面は強烈な冷気で厚く硬く、凍っていた。
蛙の巨体がボールのように氷上で跳ね返される。
アベルは迷宮を疾走する。
飛ぶような一歩ごとに敵へ接近。
まるで空間に線が引かれていて、そのラインをなぞっていくイメージが湧く。
終着地点にあるのは敵の命だ。
蛙たちが慌てていた。
安全地帯への道が塞がれているという予期しない事態。
やって来た最後の間合い。
アベルは踏み込み、爆発的に筋肉を使い切る。
大蛙たちをも上回る跳躍。
青蛙の巨体が、もう目の前だ。
反応した青蛙の口が開き、赤い粘膜、舌がゴムのように縮まる。
速く動け!
アベルは自分自身を叱咤する。
青蛙の舌。
飛び出してきた。
予期して躱す。
ダガーで突く。
蛙の眼と眼の中間。
一撃。
手応えと共に青蛙が、びくんと震えて倒れる。
鳴きもせず死んだ。
アベルは蛙の死体を踏み台にして、さらに接近。
奇怪なマダラ蛙は手にした錫杖で殴って来た。
単調な、ひねりの無い攻撃。
ダガーで受け流して、逆に斬りつけた。
蛙の片腕が大きく裂ける。
「グエエェエェェ!」
マダラ蛙にも恐怖という感情があるようだ。
あからさまに驚愕して逃げようとするが蛙の体は背後に跳躍できない。
よたよたと方向転換したところで目玉にダガーを突き刺す。
ぶちんと眼球が破裂する。
暴れ狂って、跳ね飛んだ。
だが、逃げたところで沼は凍りついているから水中へ帰ることはできない。
虚しく体は氷面を叩いただけだ。
必死のマダラ蛙は片腕で錫杖を振るい、氷を叩いて割ろうとするが全く効果ない。
何か酷く滑稽な姿だった。
「おい。蛙だったら歌ってみろよ。上手けりゃ助けてやろうか」
はたして、このバケモノ蛙は共通言語を理解していたのだろうか。
少なくとも、何らかの呼びかけであると感じ取れる知性を持っていたらしい。
アベルの隙を誘う戯言に反応していた。
残った片目で注視し、考えるように首を傾げる。
「ク、クエエェ」
「下手だな」
アベルは走り、間合いを破る。
邪魔な錫杖を掴んで、蛙の首にダガーを何度も突き込んだ。
喉が裂けて血と空気が噴き出た。
巨体が引っ繰り返り、太腿を痙攣させる。
終わりだ。
死体を調べようと思ったが、ライカナの言葉を思い出す。
ある種の魔物は毒を持っているから、その体は死体であっても警戒しなくてはならないという。
それに時間も惜しいので、蛙の持っていた錫杖を奪い取るに留める。
手に持つと、その錫杖の異質さに気が付いた。
体内の魔力に呼応し、杖と結びつくような感覚がある。
試しに水魔術の水壁をイメージすると、いつもより滑らかに魔力が紡がれていく。
錫杖自体が魔力を生むのではなく、術者の魔力行使を補助する効果があるらしい。
世の中に少数存在する、付加系の道具だ。
こうした道具は高度な魔道具製作者が意図的に作るほかに、魔素の濃厚な地域で長い時間を経るなどすると、偶然に出来上がる場合もあるという。
思わぬ戦利品を手にしてアベルは囚人たちのもとへ戻る。
彼らは驚嘆していた。
落ち着いた雰囲気を持っていたはずのギャレットが興奮気味に言う。
「アベル。君はそこらの魔術師を遥かに超えた魔法を使う。しかも、剣技は達人と見た。恐るべき魔法戦士だ。私は君を奴隷とは思わぬぞ」
少年リティクが、あからさま尊敬の視線をしている。
「アベル殿。凄いです……」
アベルは錫杖をリティクに渡す。
「これを私に?」
「僕は使わないから預けておく。少々便利だけれど、あえて使うには難がある。それより、あと一振り刃物が欲しいのさ。出来れば刀か長剣だ」
「あれ? この道具は……」
「体に妙な感覚があるだろう。その錫杖を持っていると、いつもより少し速く魔術を行使できる。ただし、調子乗っているとすぐに魔力を枯渇させるな」
少年は素直な顔つきで頷いた。
それから、またしても籠の荷物を漁ると林檎の砂糖煮や肉の塊があった。
ヒエラルクのためのご馳走みたいなのだが構わず食べてしまう。
どうせ死んだら何も食べられないのだから。
休憩して体力を回復させてから隊列を組み、前進再開。
進むごとに迷宮の魔素はますます濃密さを増してくる。
この頃になると濃すぎるような迷宮の魔素が逆に心地好くなってきた。
吸い込んでいると体の中に不思議な感覚がある。
アベルは、わざと深呼吸して胸いっぱいに吸収すると、ほのかな恍惚感を得ることが出来た。
ところが、こんな心地になるのはアベルだけらしくドルゴスレンなどは特に普通と変わらないと言う。
リティクやマイヤールは濃い魔素を感じているが、やはり体に染み込んでいくような体感はないようだ。
地下迷宮を歩いていると、あまりにも非日常の光景が連続するためか、だんだんと現実感が薄れていく気がしてくる。
といっても自我が希薄になるというわけではなく、迷宮の世界により深く馴染んでしまうというような変化だった。
時間の感覚は既に失われていた。
地下に入ってから数時間しか経過していない気もするし、もう何日も迷宮にいるような気もする。
この感じがさらに進行すると、いつまでも迷宮の中を彷徨うことが楽しくなっているのだろうか……。
どうやら通路は緩やかに傾斜して、さらに下部へと誘われていくようだった。
アベルは背後のマイヤールに聞く。
「なぁ。この通路、僅かに下へ傾斜しているよね?」
「そうか? 俺には分からないな」
あるいは彼の方が正しいのかもしれないとアベルは思い直す。
記憶から地図を引っ張り出す。
古びた紙には神殿跡らしき広い空間が記されていた。
落とし穴に嵌る前の位置、その後の場所と方向、移動距離を頭の中で整理する。
間違えてはいないはず。
アイラとウォルターから受け継いだ明晰な頭脳は、直感像を脳裏に浮かび上がらせた。
各階の構造を論理的に捉え、考える。
ただの当てずっぽうではない。
この先に進むのが最も正しい選択のはずであった。
とはいえ、不安がないではない。
迷宮に騙されている可能性も否定できなかった。
いつの間にか回廊に迷い込み、同じ場所をグルグルと巡らされたり……。
アベルは余計な恐怖感や雑念を追い払う。
先頭は自分なのだ。
後ろの者たちにだって正しく判断できる可能性は少ない。
自分が決めるしかない。
ふと、アベルは仄暗い闇の中を優雅に舞う何かを見る。
――あれは……蝶?
幻かと思うが、違う。
確かにそれは蝶……アゲハ蝶に似ていた。
蝶の羽や鱗粉は青白い微光を帯び、震えるように明滅しながら飛んでいた。
また、床には紫や緑青色に発光する可憐な花々が咲き、思わず心を魅せられる幽玄の景色が広がっている。
幾重にも重なる闇の奥に、これほど美しいものが秘されていたのかと息を呑むように驚くしかない。
歩むのも躊躇われる濃密な暗黒の中だからこそ存在している輝きだった。
妖しい夢へと迷い込むように、アベルは先を目指す。
ときおり背後を振り返り、囚人全員がついてくるのを確認する。
冒険者のなかには地下迷宮の探索に憑りつかれ、人生の全てを賭ける者も珍しくないという。
以前は想像も出来なかった行動が、今は分かる気がした。
きっと、これほど人を惑わす妖美に溢れた迷宮だからこそ厳重に封印することにしたのだ。
戻ることの無かった巡検隊のうち少なからずは迷宮の魅力に憑りつかれ、望んで深部へ突き進んで行ったのだろう。
――それはそれで満足なのかも……。
アベルは頭を振った。
地上に戻るのを放棄して、こんな地下世界に耽溺するなど破滅に他ならない。
少しでも認めたらいけない。
何度も通路は分岐し、折れていく。
角には目印を刻んでおく。
しかし、引き返すというのは、あまり良いことではなかった。
迷って時間を浪費したらヒエラルクたちは上に戻ることにしてしまうかもしれない。
かといって焦って進めば魔物の不意打ちや罠の恐れがある。
もどかしい歩みだった。
気が付くと、床や壁には微発光する花がさらに増えていた。
ぼんやりと存在するにすぎない小さな花弁だが、闇の中にあると特別な彩りだった。
地上では見覚えのない、ここでしか出会ない美しさ。
アベルは立ち止まる。
通路の先に広い空間を感じ取る。
囚人たちに待つように伝え、単独で斥候に出る。
五感を研ぎ澄まし、物音を立てずに歩む。
どうやら忍び足には熟達してきた。
そうして角から先を窺うと、そこは夢の世界かと錯覚するような場……。
広い、広い、空間であることだけは分かる。
見通せない奥深い陰影、そして、床には花園。
青白い鱗粉を粒子のように輝かせる蝶が数百羽と群れて乱舞している。
眼を凝らして集中すると、ねっとりとした粘着質な闇の奥に神殿とも祭祀殿とも呼べるような舞台を捉える。
石が積まれて、高くなっていた。
その祭祀殿に何らかの異様な気配を得る。
間違いなく、禁忌の類いだ。
もし、すでにヒエラルクたちが到達していれば、もっと騒々しいに違いない。
だが、どう感じ取ったところで、この空間にある雰囲気は数百年もの間、誰にも破られることなく静謐に満ちていたものだ。
もはや、神殿に居るのがたとえ邪悪なものであったとしても、踏み荒らす方に非があるほどの静けさ。
アベルは息を吐くのも恐ろしくなり、ゆっくりと身を引き下がらせる。
そのまま戻り、合流した。
ドルゴスレンが大きな体躯を身動ぎさせずに待っていた。
「アベルよ。どうだ」
「この先が神殿跡です。間違いない」
「そうか。やったな。よくぞここまで我らを導いた」
「とりあえずここで待ちましょう。あそこには行きたくない」
「何が居たというのだ」
アベルは首を振る。
「分かりません……」
アベルは荷物を下して、座る。
激しい戦いを繰り返したわりには、さほど疲労を感じない。
この異常な空間に興奮しているせいだろうか。
あるいは適応しつつあるからか。
どちらでもいい。
生き延びて、地上に戻る。
それだけだ。
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