第159話  蛇と薔薇




 ウォルターはハーディア王女に初対面し、事前の想像を遥かに飛び越えた破格の美しさに戦慄を覚えた。

 なるほど、これは傾城傾国の姫と噂されるだけある。

 いや、噂以上だ。


 旅を繰り返し、それなりに広い世界を知って、これはという美女を幾人も見かけたものだが、記憶にあるどんな女よりも桁違いだ。

 ひりつくような欲望を男に抱かせ、さらに煽り立てる種類の魅力。

 妻子が居てよかったとウォルターは察せられない程度で、ささやかに苦笑した。

 

 戦姫ハーディアを己が眼で一目見ようと皇帝国の将兵が群がり、ところが負けた上に魅惑され恭順する者までいると聞き、いくら何でも大げさだと思っていたが……。

 どうやら真実であろうと理解する。


 そのハーディア王女はウォルターを真っすぐに見据えていたが、やがて挨拶を済ませ目下の重大事、アベルの身柄について話が及ぶや様子を変えた。

 驚くほど平静を崩して、ウォルターに詫びるのだが、その態度は儀礼的な謝罪から掛け離れた、どちらかというと窮地に追い込まれた女性そのものだった。


 瞳は涙を零さんばかりに潤み、頬は上気し、言葉には哀切が籠っている。

 ウォルターには、とてもではないが演技には思えなかった。

 だが、王族が打算なしに感情を露わにさせるなどということがあるだろうか。

 あっさりと信じるわけにはいかなかったが、心は急激に同情へ流されそうになった。

 おっと、こいつは危ないと気を取り直す。


「ウォルター殿。アベルについては謝罪して許されることではないと心しております。救出に全力を尽くすゆえ、今しばらくお待ちください。どうか……どうか」

「いや、ハーディア様。どうも事情を聞くにアベルは目立つ動きを拒否したとのこと。一理ありますな。我々について僅かでも気取られるわけにはいません。やはり、ここは様子見するべきかと」

「私たちは王都にそう長く滞在しません。王宮に信頼の置ける者もほぼ皆無。この機会を逃せば放置することになってしまいます」


 何らかの情念を漲らせたハーディアから発散される濃厚な色香にウォルターは息を飲む。

 良い意味でも悪い意味でも、まさに世の中を動かすに足る核心人物だと感じた。

 ガイアケロンが言葉を繋ぐ。


「今、賄賂を使い情報を集めています。実はつい最近、確かな報せを得ました。どうやらアベルは我が姉のランバニア王女のもとで奴隷として働いているようです」

「……それは、どういうことなんでしょうね。私というか皇帝国としてもランバニア王女について何も知らないのですが」

「いかなる経緯でそうなったのかは分かりません。ですが、これはあまり良い知らせではないのです。アベルがただの下級奴隷として働かされるのを期待していましたが、そうはなりませんでした。

 ランバニア王女は父王の側近。アベルをわざわざ手元に置く理由はたった一つ。監視から探り入れに移行したのではないかと」

「探る? まさかアベルの正体に気が付いたと」

「その可能性はないと断言できます。もし秘密が漏洩していれば我々は既に拘束されているでしょう。心配なのはこれから。我々についての事情をアベルから聞き出そうとすることです」

「ランバニア王女が?」


 ガイアケロン王子は首を振った。

 ウォルターは英雄とも悪鬼とも呼ばれるガイアケロンと今日始めて会話をしたわけだが、恐ろしく強い男だということだけは感じ取れた。

 どれぐらい強いか見当もつかないほどだ。


「父王イズファヤートが、です」

「これほど活躍する、しかも実子である英雄と戦姫を疑うと。まさか」

「実子だからこそ、実績があるからこそ疑うのです。裏切られたら致命傷に至るゆえに警戒する。それが王族というもの。現に父王の懐刀である剣聖ヒエラルクは我々に軍目付として送り込まれてきました。それだけ我々は煙すら立たずとも、そのように見られています」


 ウォルターは考える。

 皇帝国から遠く離れ、誰の指示も受けられない。

 かなりの程度、独自の判断で動いてよいとバース公爵からは許しを得ている。


 それにしても息子アベルは飛び切り難しい件に挑んだものだ。

 本人の状況は芳しくないが、褒めてやりたいぐらいだった。

 もしかしたら死すら覚悟していたのかもしれない。


「それなら尚更、時機を待つのが肝要でしょうな。俺は息子を信じているんで悲観はしません。いいですか。アベル本人が隙あれば逃げ出すから何もしないようにと言ったのです。その通りにしましょう。今は例の約束こそが優先です」


 ゆっくり噛みしめるようにガイアケロンは頷く。

 ウォルターという男に確かな信頼感を覚えた。

 不意に陰のある印象を感じさせるアベルの父親にしては明るい男だった。


 初対面という事で彼の来歴を伝えられたが、貴族のそれではなかった。

 認知されない私生児、出奔と冒険者への転向、帰参しての治療魔術師……。

 さすがテオ皇子とバース公爵が新たに派遣して来ただけある。

 しぶとく一筋縄ではいかない、好みの男だ。

 彼とならば上手くやっていけるだろう。

 

 カチェは俯いているハーディアを見る。

 豊かな胸が上下するほど息も速く、長い睫毛を深く閉ざして、まるで寒波に耐えているようであった。


 女の勘は告げる。

 あれは愛する者を無力から失う辛さから湧き出ていると。

 もちろん問い質すようなことはしてない、するつもりもない。

 だが、確信に値した。

 なぜなら自分の姿を鏡に写しているかのごとくだからだ。


 ハーディアはアベルを愛している。


 心に突き刺さるような真実だった。

 いくつもの想いが生まれては消えずに残る。

 中でも取り分け大きいのは、アベルとハーディアはおそらく二度と再会しないだろうということだ。


 アベルが脱出に成功したとしてガイアケロン陣営に堂々と戻ることは無い。

 せいぜい有り得るとして密会ぐらいだが、無いに等しい見込みか。

 あるいはお互いが再会を熱望すれば、一度切れた糸が再び結びつくということもあるのだろうか。

 分からない……。

 間違いないのは、いずれにしても余りに小さな可能性ということ。

 それゆえにハーディアの深い苦しみだけは理解できるのだった。


 どれほど過酷な戦場においても凛とした佇まいを崩さなかったはずのハーディアは、信じられないことに縮こまるようにして沈黙していたが、ふと言うのだった。


「アベル。酷い目に遭わされるに違いないわ……玩具のように遊ばれて」


 それが本当だったとしても、果たして王族がこの場で言うことだろうか。

 ハーディアの物言いを聞き、ウォルターはそう思わずにはいられない。

 そして、どうやら状況は自分が思っていた以上に深刻で複雑なのかもしれないと感じるのだった。


 ガイアケロン王子が気遣かわし気に妹の肩に手を置く。


「大丈夫だ。アベルには王宮の危険を伝えた。じっと耐えてくれるはずだ」


 妹は答えず、また俯く。

 カチェは成り行きを見守っていたが、考えていたことを口に出す。


「叔父でもあるウォルター殿の来援は、真に幸いです。ガイアケロン様らが王都を離れた後も、わたくしはここに残りアベル救出に力を尽くせましょう。今後の連絡役はウォルター殿に務めていただきます。

 ハーディア様のお気持ちは畏れながら、わたくしが引き継がせていただきます」


 ハーディアは琥珀色の視線を虚空に投げていたが、その言葉を聞きカチェを見つめる。

 類い稀な美貌に生気が蘇り、深く頷いたのだった。


「カチェ。私も出来るだけのことはやって見せます。力を合わせましょう」


 



~~~~~~~~~





 ひっきりなしの相談を終えたランバニアのもとへ行くと何だか怖い眼つきをしている。

 具体的に言うと魔力を溜め込んだ大蛇おろちのごとく睨んできた。


「アベル。お前、さっきパパラムと話をしていましたね。見ましたよ」

「はい。道化師のことなどを聞いていましたが……」

「お前、やはり相当な愚か者ねぇ。パパラムは父王様の女よ」

「……っ」


 開いた口が塞がらない。

 言葉も出ない。

 考えもしなかった。


 あのイズファヤート王が、たかが道化女を相手にする。

 そんなことがあるのか。

 王宮と言えば、どこにもかしこにも選りすぐりの美女がいて……どうしてパパラムなんだ。 

 それに、どうにも憎めないあの宮廷道化師がイズファヤートに抱かれている光景は想像したくなかった。

 絶句だ。


 いや、待てよとアベルは考えつく。

 パパラムの話しぶり。

 どう思い出したところでイズファヤート王の情婦のものではなかった。

 だいたい周囲の人間もそのように扱っていなかったはずだ。


「そんなこと想像もしてませんでした」

「誤解だ、知らなかった。許してくれ。そんな言い訳をしながら体を鋸で寸刻みにされて死んでいった者たちを、いくらでも見てきました。父王様の周りにいる女と気安く会話をするのは止めなさい」


 冷たい断言。

 だが、これはおそらくランバニアの嘘だ。

 とはいえアベルは恭しく頭を下げて了解の意思を伝える。

 内心、溜息。


 何が気に入らないか知らないがランバニアの機嫌は取らなくてはならない。

 生殺与奪を握られていると言って過言ではないのだから。


「僕の事を心配していただけたのですね。すみません」

「分かればいいのよ。お前はこれから伺候の際、供にしますからね。見苦しいことをしないでちょうだい。犬や魔獣の餌になりたいのなら話は別ですけれど」


 ランバニアは口元に艶やかな笑みを浮かべてはいたが、最後にまた大蛇のような視線で睨みつけると、歩いていった。

 さすがはイズファヤートの娘だ。

 アベルは冷や汗を滲ませた。


 宮殿を出て私邸に戻り、再び奴隷らしい仕事に戻った。

 重い荷物運びをやらされたかと思えば、次はランバニアの侍従よろしく会見室で突っ立っているだけの半日。

 つい先ほど、あのイズファヤート王が目の前にいたというのに。

 あの昏い瞳の圧倒的な存在感……。


 足掻くことも出来なかった。

 手札が無さすぎる。

 手持ちの手札を整えようとしたら役無しどころか札すら配られてこない。


 唯一の突破口はランバニアということか。

 とにかく、王女についていけばイズファヤート王に近づけるかもしれない。

 僅かな希望……あるいは死だ。


 それでもやらなきゃならない。

 憎悪、怒り、渇望。

 自分自身に決着をつける。

 そして、ガイアケロンを助けてやらないと……。




 気持ちだけは張り詰めている毎日。

 ところが命じられるのは単調な奴隷仕事ばかり。

 荷物運びが実に多い。

 というのも運搬に使役される馬などの家畜が王宮にはいないからだ。


 荷馬など壮麗な宮殿に似つかわしくないという理由もあろうし、ここで騎乗が許されるのは極僅かな最高階位の者だけという事情もあろう。

 重たい食材や物資は外宮から内宮、そして宮殿へと奴隷が担ぐか、荷車を引くしかなかった。

 そんな労働に混ざり、過ぎていく時間。

 

 寝起きを繰り返すごとに焦燥感が増す。

 以前、ランバニアに荷運びみたいな仕事にはうんざりしていると伝えてあった。

 ところが、この扱いだ。

 これはひょっとするとパパラムの件での罰だろうか。

 女の考えていることは、さっぱり分からない。


 現状、相談どころか軽口を交わす相手も居ないときて、苛々していた。

 同じ部屋で寝起きしているジャバトという男は、まるで話し相手にならなかった。

 王女の忠実な警護役である奴にダメもとで、しつこく話しかけているのだが、向こうは冷たい視線を返すのみ。

 その気も無いし、話題も無いという態度だ。


 さらに秘書のダリアまでも勝手にライバル視しているらしく近づくだけで威嚇してくる。

 それでもうっすらと世間の様子は感じ取れた。


 例の闘技大会というのが大事業らしい。

 しかも、時間がない。

 そういうわけで宮殿は騒々しい。

 官僚ばかりか大臣と思しい者まで小走りをしている。

 

 少しも落ち着けない睡眠から目覚めて、アベルは立ち上がる。

 ジャバトは相変わらず気を緩めずに後を付いてきた。

 これではどこかで武器を手に入れる計画も覚束ない。

 さすがに身体検査は要求しなくなったが。


 水場で桶に水を溜め、服を脱ぎ、体を洗う。

 男の水浴びの何が面白いのか知らないが、ジャバトや女奴隷らが見てくる。

 好きなだけ見てればいいと思って、遠慮なくジャブジャブやってやった。

 名前も知らないような若い女奴隷に声を掛ける。


「なぁ。体を拭くものがあったら貸してくれないか」


 そう頼むと顔を真っ赤にさせて、ところが嬉しそうに乾布を持ってきてくれた。

 受け取る。


 また今日も、くだらない雑用ばかりの一日かと思っていたらバルコニーから声が掛かる。

 丁寧にくしけずられ高貴さを醸し出す金髪を輝かせたランバニアだった。


「アベル。貴方は綺麗な体をしているわねぇ」

「両親に感謝しております」

「……良い心掛けです。今日は父王様に伺候しますからね。お前も供です。体を洗っておくように命じるつもりでしたが、もう済ませているとはね。そういうところ好きよ」


 そう言って笑うランバニアには、充分過ぎるほど魅惑の力が満ちていた。

 つい、助けを求めたくなる。

 度量とか力量というものが女でありながら確かに備わっていた。

 ハーディアのように戦場で華々しく光るものとは種類が違う。

 もっと陰湿な、狡さや駆け引きでこそ発揮される類いのものらしかった。

 

 アベルは支度を済ませる。

 どんな重たい荷物があるのかと思いきや、今日は書類すらなかった。

 ダリアもいない。

 その代わりにジャバトが命じられて付いて来る。

 たった三人で宮殿に入り、畏まった衛兵らの横を歩き……先日は行かなかった場所を歩く。

 

 すると、最悪なことに、この世で最も会いたくない男に出会ってしまった。

 剣聖ヒエラルクだ。

 何故か、あいつは笑っている。

 血塗れの悪魔が百年ぶりに旧友を見つけたというような顔。


――なんで、こいつはそんなに嬉しそうなんだよ。


 内心の嫌悪や驚きを、どうにか押さえつけてアベルは冷静を装う。

 ヒエラルクは普段の傲慢さを嘘のように消してランバニアに恭しく礼を執る。

 それからアベルに語りかけてくるのだった。


「アベルよぅ。お前の事はずっと気にしておるのだぞ」


 焦がれたような声。

 本当に止めてくれとアベルは慄く。

 目の前にいる、この男は正真正銘のバケモノだ。


 仮に十回ほど戦ったとして、十回とも首を獲られるだけ。

 百回やっても同じだろう。

 説明できない絶対的な差があった。

 それが何なのかすら明瞭ではなく、つまりお手上げだった。


「僕のような奴隷一匹、どうかお早く忘れてください。ランバニア様にお仕えさせて頂き、とても満足しております」

「つれないことを言うなよぅ。また遊ぼうじゃないか。

 さすれば素晴らしき剣の高み、誰も到達できなかった神妙なる境地へ共に登れるぞ。私とお前でなら」


 そこらの武芸を目指す者ならば泣いて喜ぶだろう剣聖からの誘い。

 冗談じゃなかった。

 悪魔が笑いながら地獄への招待状を押し付けてきやがる。

 

 アベルは困惑しながらランバニアを見るが、王女は儀礼的な微笑を口元に維持したまま手招きをする。

 ジャバトには指だけで、ここで待つように命じた。

 今日の用事と言うのは何なのであろう。


 次の部屋、赤と黄色の派手な道化服を纏った者がひょうげた軽業を披露していた。

 パパラムだ。


 そして、宮廷道化師が技芸を演じて見せる相手というのも決まっていた。

 部屋の奥で椅子に座っている男。

 イズファヤート王だった……。


 


 

 


 

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