第156話 王宮の中心へ
王宮へ付いて来い、というランバニアから詳しい説明などない。
同行するのはアベルの他には女官が一人だけ。
アベルは意を決して質問する。
「ランバニア様。僕が大王様に話しかけられるという事はありますか」
「父王様は身分の分け隔てなく、話したい者とお話になるわ。ただし、お前から話しかけるのであれば相応に価値のある話題でなくてはなりません」
価値が無いとどうなるか……などと聞くまでもない。
蠅を叩き落とすような目に合うはずだ。
「アベル。余計なことを考えなくていいわ。もし父王様がお前に用事があるなら呼びつけられます。聞かれたことに正直に答えればいいだけのこと。受け答えによっては奴隷から解放されることも……あるかもしれないわよ」
振り返ったランバニアは、
そうした様子は、腹に一物ありそうな雰囲気があった。
「まぁ、いずれにしても父王様の内心を慮ろうとしたところで無駄です」
ランバニアは、行きますよと声を掛けてくる。
王女は仕草だけで書類の詰まった重たい箱を運ぶように命じてくる。
アベルは荷物を持ち上げて、これは実に奴隷らしい仕事だなと思う。
ランバニアの私邸から歩き、門を一つ潜るとそこは宮殿だ。
一瞬で空気が変わる。
そこかしこに立っている衛兵は誰しも緊張を漲らせていた。
それはちょっと警戒しているという程度のものではなく、本当に些細な間違いで命を失う、という切迫した気配があった。
もちろん、王を恐れているのだ。
何か些細な粗相があれば……死罪もあるだろう。
アベルは小さく溜息を吐く。
死地に向かう気分だった。
いったい造るのにどれだけの時間と労力を要したのかと考えてしまうほど、巨大で壮麗な宮殿を歩く。
ここは、まさに王道国の中心。
限りなくイズファヤート王の直ぐ傍。
廊下を見上げればアーチ状の梁に高い天井。
広い壁には歴代王たちの功績が美麗なモザイク画で表されていた。
王道国という重厚な歴史から、お前はちっぽけな虫だと宣告されているような気がしてくる。
実際のところ、その通りなのかもしれない。
数十万の軍勢を動かしてみせる王と、自分の肉体以外に何も持たない奴隷。
その奴隷一匹が偉大な王を殺す。
あまりにも白痴的な空想。
だが、絶対に手の届かないはずの存在であるはずが……現にこれほど接近しているではないか。
そうして偶然と必然が絡み合ったその果て。
欲望と夢が実を結ぶかどうか……。
やがて壁画は華麗な葡萄文様の浮彫に変化していく。
廊下を歩きながら、アベルは何度も考える。
たった一つの事だけ。
――どうやってイズファヤート王を殺すか。
まず武器が無い……。
魔法……これは魔力の発散で確実に予期される。
下策だ。
行使する前に、必ず邪魔される。
どう不意打ちするか。
ダガーのような刃物が最適かもしれない。
懐に隠してイズファヤート王に忍び寄り、狙うのは心臓だけではない。
喉や目玉にも食らわせてやる。
治療魔術でも間に合わないほどの致命傷を何度もでなければならない。
アベルはランバニア王女を背後から眺める。
布を隔てて美しい体のシルエットが浮き出ていた。
彼女は基本的に武装をしないらしい。
少なくとも見た目に武器は所持していない。
あるいは長衣のどこかに小刀でも隠しているのか。
そうであるなら、それを奪う……。
想像が具体的になって行く。
骨身に染みついた憎悪が、あらゆる常識や抑制を吹き飛ばす。
まともな人間なら、攻撃したその先について考える。
王を斃したとして……その結果、どうなるのか。
頭を使わなくとも分かり切っていた。
自分も殺されるだけ。
それでもやらずにはいられない。
逆に、絶対にやってはならない失敗もある。
王を殺せずに自分だけが、くたばる最後だ。
あの残虐冷酷なイズファヤートに負けて、死ぬ。
これが最悪だ。
何があっても許せない結末。
きっとガイアケロンも同じ気持ちでいる。
離れていても、話し合ったことすら一度とて無い。
だが、確信がある。
あの男が血反吐の中で絶命するところを見届けるまでは死ねない。
そう思っている……。
~~~~~~~~~
王宮では多くの者が行き交いしていた。
警戒厳重な場だが、政治を行うのであれば人との交流は避けられない。
広大な国土から、あるいは藩国から、様々な物と人が集まって来る。
よって不審者の入り込む余地が、無いわけではない……アベルはそう感じた。
奴隷ばかりか官僚や貴族もランバニア王女に出会えば必ず慇懃に礼をしてきた。
表情には恭しさだけではなく、明らかな阿りがある。
ただ後ろに付いて歩いているだけで、自分までもが別格の存在になったような気分になれる。
アベルは周囲を観察しながら考える。
ランバニア王女が王道国の後継者になる可能性は、ほぼ無いはずだ。
イズファヤート王は皇帝国に最も痛撃を与え、戦争を勝利に導いた者が後継者に指名されるとの意思を示している。
ところがランバニア
そのはずなのだが、割り切って王宮に留まる選択を続け、内政ではかなりの地位を作り上げていた。
官僚や貴族たちが、こぞって媚び諂うほどには。
ランバニアを武力が貧弱だからと見縊らない方がいい。
むしろ王宮内と限定すればハーディアやガイアケロンよりも有力と思うべきだった。
やがて、おそろしく格式を感じさせる、それでいて広い部屋の前に来る。
入り口から、最も奥に至る導線上に緋色の絨毯が敷いてあった。
その先には階段。
十段ほどの階の上は広い場になっていて、重厚な質感の机と椅子が一組あるものの、そこには誰も座っていない。
直感的に、あそこがイズファヤート王の座席だと理解できた。
大部屋には官僚や大臣と思しき者らが数十人といる。
それぞれ数人の班となって書類を作成していた。
ランバニアは一番、王座に近い前の席に座る。
ここは間違いなく王道国の政治中枢。
中央執務室、というような記名が壁に刻まれていた。
アベルは運んで来た箱を置き、中から羊皮紙の巻物や書類を取り出して机に並べる。
さっそく飛ぶように官僚や大臣がランバニアの元へやってきて相談を繰り返す。
聞き耳を立てていると、内容は軍事や治安、食料、徴税など多岐に及ぶ。
あまり芳しい報告ではないらしくランバニアから不機嫌な雰囲気が滲んできた。
ときに官僚を呼びつけて詰問していく。
官僚は官僚で、巧妙な説明や責任回避の術で出世して来ただけあって、なんとも上手に言い逃れ、他人へ失敗を押し付けていく。
ランバニアの方でも予想していた遣り取りらしく、要点を見抜いて逃げ道を塞ぐ指示を与えていた。
イズファヤート王へは厳選された、的を射た報告だけが必要とされている。
王に雑多な些事を処理する時間は無い。
国家の命運に関わるような重大事についてのみ、大臣と官僚たちがよくよく調べ尽くして、状況をまとめ、王に判断を仰ぐのだ。
時間が経過していく。
イズファヤート王は姿を見せない。
おそらく王の行動など、誰にも分からないのだろう。
いよいよランバニアの元に書類が殺到してくる。
広い机は既に一杯だった。
秘書のダリアという名の女官が、必死になって仕分けているが追いつかない。
アベルは彼女が探していそうなパピルスの束を渡すと、じろりと棘のある視線で睨まれた。
「アベルは字が読めるのよ。読めるだけではなくて意味も深く理解しているみたいですね」
面白いものを見たという顔でランバニアが少し笑っていた。
荷物持ちに手出しされて女官ダリアはプライドを傷つけられたのだろう。
眉を寄せて露骨に顔つきが怖くなってしまった……。
「アベル。ちょうどいいわ。手伝いなさい」
王女からの命令では逆らうわけにもいかない。
アベルは書類を内容ごとに分類していく。
眼つきが険しくなったダリアは一言も口を利かなかった。
選び抜かれた官僚、文官、大臣が一瞬も気を抜かず執務をしている。
その姿から、王道国と言う巨大組織が様々な問題を抱きつつも、一心不乱に戦争遂行という目標に向かって突き進んでいるのが明確に感じられるのだった。
淡々と仕事は続く。
ランバニアは方々から運ばれて来た書類に加筆したり、読むなり葦ペンで荒々しく斜線を引く。
アベルはメッセンジャーとして書類を官僚に渡す役目までやらされた。
相手の名前が分からなくて苦労しそうなものだが、なにしろ派遣したのがランバニア王女で、しかも同じ部屋にいるから意地悪な対応をされることもない。
あるいは文官付きの奴隷に事情を聞いたりして、なんとか仕事をこなす。
そうしていると、最初は何が何やら理解できなかった人物関係などが、いくらか見えてきた。
まず、王補佐としてのランバニアがいる。
それから大臣が十人。
特に内務大臣ヤザン・グラシャートの仕事は量と質で飛び抜けていた。
司法大臣シャーディー・キュロスのもとには過去の判例や法律について問い合わせが多い。
執務と法律は緊密な関係があるため、ここに欠かすことのできない職務のようであった。
それから儀典執行官ナビドが王家行事や外交の準備、その実施に纏わる諸事を担当していた。
さらに時間は過ぎ、早くも正午近くだろうか。
窓から勢いを増した陽光が差していた。
今日、イズファヤート王は来ないかもしれないとアベルは感じる。
王には多くのやるべきことがある。
毎日、律儀に官僚の前に現れることはない……。
複数の足音。近づいてくる気がした。
絨毯の上を歩いているので明瞭ではない。
アベルは自分のすぐ横を通り抜けていった男を見る。
ぞくりと背筋に悪寒が走った。
心臓が激しく打つ。
そこにある冷たく整った横顔。
謁見の時と変わらない、刺すごとくの緊張を与えられる。
間違いなく本物。
イズファヤート王だ。
呆然と見送る。
何も出来やしなかった。
ただ、突っ立っているだけ。
桁外れな威圧感。
アベルは思わず、目を伏せる。
息苦しいほど恐ろしかった。
だが、それ以上に殺意と憎しみを隠せるか自信が無かった。
見た直後からアベルの胸の内に広がる、爆発するような怒りと憎悪。
――俺の腕。自分自身で切断しろと命じられた。
しかも、鈍らの剣で罠に落としやがった。
始めからガイアケロンの手柄なんぞ素直に認める気は無かった。
子供でも誰でも利用するだけ利用して、簡単に捨てやがる。
アベルは顔を俯かせて堪える。
憤怒で顔面が歪んでいくが、抑えられなかった。
ずっとずっと過去から……決して薄れること無く積み上がり続けている父親への怨念。
イズファヤートへの憎しみがそこに加わり、破裂せんばかりに膨れ上がる。
イズファヤート王の二つの眼。
暗闇のように感情が無い。
見詰められるだけで全身を拘束されるような尊大さがある。
周囲の景色なんか吹き飛ぶ迫力。
魂を掴まれるとは、このことだ。
――殺せるのか……?
このバケモノを。
思わず、そう考えた。
それから王の周囲を観察する。
ここにヒエラルクの姿はない。
だが、見知った顔がある。ヒエラルクの弟子だ。
たしか名前はエルナザル。
危ういところで勝ったが、楽な相手ではなかった。
他にも魔術師と衛士の姿もある。
魔法を使おうとすれば、たちまち殺到してくる。
まるで機会が見出せない。
そうこうしている内にイズファヤート王は階段を上がり、椅子に座った。
執務を始める。
ナビド儀典執行官が羊皮紙の束を捧げ持ち、恭しく大王への階段を上る。
そうした書類がイズファヤート王の横に堆く並べられていく。
王は内容を読み、問題が無いのなら印を押す。
諮問があれば大臣なり官僚なりを呼びつけ説明させる。
細々した命令を下す素振りは無い。
国政は多岐膨大に及ぶため、重要事項を除けば大まかな指示だけがあり、あとは結果報告を受けるということらしい。
淡々と物事が進められていく。
張り詰めた緊張感は破られることなく、やがて執務室に正午の鐘の音が届く。
イズファヤート王が席を立つ。
階を降りて来た。
護衛たちの守りは固く、襲ったところで成功の望みは皆無。
アベルは固唾を飲む。
だんだん近づいてくる。
もうすぐ横に……。
イズファヤート王は一瞥すらして来なかった。
奴隷アベルが居ようが居まいが全く関係が無い、ということだった。
巨大な疲労だけが残る。
その時だった。
「ランバニア。ヤザン。ナビド。シャーディー。午餐に来い」
他ならぬイズファヤート王の声だった。
呼ばれた者たちは短く返事をして、ついていく。
隣に立つ女官ダリアは見送る姿勢であった。
アベルは自分も同じく待機だろうと思っていたが、ランバニアは手招きをして来た。
「お前も来るのです。食事にも奴隷の役目があるのですよ」
アベルは頷く。
次にどんなことが起こるのか、何を見ることになるのか全く分からない。
機会があったとして、それは一瞬だ。
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