第133話  想いの交差





 小鳥が賑やかに囀っていた。

 アベルは朝が来たのを感じ取る。

 短い睡眠時間。

 鮮明な姿で脳裏に残る、闇夜の異様な敵。

 自分を狙う奇怪な武器に変則的な動き。

 不意打ちに特化した、まさに暗殺術というべきものだった。

 

 その戦法は名の通った剣の流派ではなく、どちらかというと暗奇術に近いものを感じた。

 危うい目にあったが、最初の一撃を回避すれば対応できる程度の敵だった。

 ぱっかりと気道まで晒した敵の首。噴き出る血液……。


 殺した敵の首はアベルの提案で氷漬けにした。定期的に氷結させて地下蔵に保管してある。あとで面通しに使うためだ。

 どこの誰が送り込んで来たのか、いまだに分からない……。

 いずれにしてもガイアケロンとハーディアには王道国内部に多くの敵がいる。

 すでに殺し合いは始まっていた。

 アベルは寝台から身を起こし、扉を開ける。


「ワルト。体の調子はどうだ?」


 寝ていたワルトに声を掛けると、わりと元気そうだった。

 昨日は体に付着した毒粉を洗うために苦労したものだ。

 すっかり具合が良くなったワルトは腹が減ったなどと言うので、とりあえず手持ちのパンを渡してやる。かなり硬いのに美味そうに齧りついている……。


 もう、だいぶ明るかった。少し起きるのが遅かったかもしれない。

 邸内で働く奴隷たちは既に働き始めていた。

 窓という窓の木戸を開け放ち、新鮮な外気を取り入れる。

 とりあえずガイアケロンのもとに挨拶に行く。

 広い廊下の床には美しい陶片が幾何学模様となるように嵌め込まれていた。


 正面玄関には、いくつかの彫刻が設置されていた。

 剣を掲げた男性像、艶めかしく肢体を撓らせた女性像。

 いずれも名匠によるものか、素晴らしい出来栄えだった。


 ハイワンド家は上流貴族ではあったけれど芸術方面には力を入れていなかった。

 圧倒的に軍事一辺倒で、これほどのものはポルトの城には無かった。

 無くて良かったのだろう。どうせ粉々になる運命だった。


 柔らかな朝日に照らされた白い大理石の彫刻が、生きている人間よりも優美に佇んでいるのをアベルは思わず見惚れてしまった。

 女性像の豊満な乳房や臀部は、いまにも揺らぎそうな質感を伴っている。


「その彫刻はファミオという名職人が造ったものだ。知っているのか?」


 階段の上から声を掛けてきたのはエイダリューエ家の次期当主ギムリッドだった。

 薄褐色の瞳はアベルに対して意外なほど好意的な雰囲気だった。

 麦穂のような金髪を若干長めに伸ばしている。贅肉のない頬。

 齢三十にして貴族の品格と儀礼の全てを身につけているという洗練さを感じさせる美男子だった。


 後ろに立っている弟オーツェルとは似ていない。

 兄と違って弟の方は痩せていて、貫禄というものはなく、どことなく疑り深そうな学者風そのもの。

 裏方の男らしいと言えばらしいのだが、兄弟でずいぶんと違うものだとアベルは思う。


「いえ、彫刻とか、そっちの方の知識は疎いです。ただ、見事だと感じていました」

「そうか。彫刻が最も美しくなるためには計算された光の当たり方が必須だ。その女性像は考え無しに配置されているわけではない。どこに、どうやって置くか。職人の仕事を生かすも殺すも貴族次第というわけだ」

「なるほど……」

「人材でも同じこと。その者が美しく輝く場を与える。それが貴族の役目だ……。ところで君に仕事を頼むところだった。ガイアケロン様に風呂の用意がある。だが、御方は知らない者を傍に近づけるのを好まない。手伝ってほしい。奴隷のやるような仕事は、戦士に似合わないがな」


 アベルはギムリッドに対して頷く。

 ガイアケロンとハーディアは自らの軍団内から、特に信頼できる者を選んで側仕えや侍女にしている。

 エイダリューエ家で働いている奴隷といえども身支度の手伝いを頼むことは無かった。

 何度も暗殺者に狙われているので当然と言えば当然だった。


 広大な邸内をギムリッドとオーツェルに案内してもらう。

 ギムリッドは昨晩、激しい怒りを露わにしていた。

 最も大切な貴賓であるハーディアの寝室近くまで正体不明の賊を接近させてしまったことに、強い恥を感じたようであった。

 今朝は、さすがに平静を取り戻している。


「アベル。弟から聞いた。君のことはガイ様もハーディア様も高く評価していると。出来ればイズファヤート王に謁見させていただくつもりらしいな」

「はい。そうした話しは聞いております」

「アグリウスやスターシャのような千人長ならいざ知らず、百人頭程度の地位でそこまで配慮してもらえるとは……人も羨むな」

「幸運なことです」

「……ふん。運か。そうだろうか。何か秘密があるのではないのか?」


 アベルは、途惑う。

 ギムリッドは疑うというほどではないが、何か感づいたかもしれない。

 どう答えようか……。

 下手に言い訳するよりも、こういう時はオーツェルに助けてもらえないだろうか。

 アベルは痩せた男に目配せした。彼は察して頷く。


「兄上、頼む。アベルは功績抜群によってガイ様の側仕えになった。それだけは確かだ。ハーディア様が仰せのように、素性は貴族ではあるが事情あって詳しくは語れぬ……納得してくれ」

「オーツェル。お前も何か隠しているようだな」

「俺は参謀だぞ。隠し事ばかりだ。そいつは本当にただの有能な戦士さ。懐刀にしたいから目立たせたくないのだが……色々とわけありだ」


 ギムリッドはしつこく聞いてこなかった。

 やがて石造りの屋根のついた回廊に差し掛かる。

 その先に別棟があって、どうやら一棟がまるごと風呂の設備になっているようであった。

 中ではガイアケロンが既に入浴しているという。

 馬廻りのヴァンダルなど顔見知り数名が入り口や周囲を警戒している。

 立派な扉から内部に入ると脱衣所があった。オーツェルが言う。


「どうした、アベル。お前は浴場の中に入って御方を手伝え」

「えっと……」

「まさか風呂の作法を知らないような野蛮人ではないよな? 当たり前だが風呂は服を脱いでから裸で入るものだが、そこから教えないとならないか?」

「それぐらい知っているよ」

「風呂に入る前、蒸し風呂で体を温めて垢すりをする。普通、王族や貴族は体の汚れを落とす専門の奴隷にやらせるのだ。しかし、ガイ様はそれを好まない。とは言え、一人きりでは不便なさることもある。お前はそこを手伝うのだぞ? 意味が分かっているか?」

「だいたい……」

「程度の低い返事だな! そんな態度で王子の相手をできるのは王道国でもお前ぐらいだぞ。呆れた不作法ものだ」

「もう、オーツェルがやったらいいんじゃない?」

「そうしたいぐらいだが、仮にも私はエイダリューエの一族だ。小間使いの真似はできぬ。それに御方がお前をと望んでいるのだ。さぁ、早く服を脱げ!」


 じろじろとオーツェル、それに何故かギムリッドが見てくる中で服を脱ぐ。

 変な感じだった。


「兄上、こいつ体だけは芸術品みたいだろ」

「まだ成長の途中だが鍛え抜かれている。それでいて余計な筋肉もない。素晴らしいな」


――馬の品評会じゃねえぞ……。


 言いたいことを堪えて服を脱いだら、渡された絹の薄布を腰に巻く。

 それから垢すりのためのヘラや石鹸の代わりに使う砂の入った瓶、手桶などを渡された。

 大きな青銅製の扉を開いて中に入る。


 壁、床、浴槽、すべて白い大理石で造られた、見たこともないほど広い浴場だった。

 湯気が湧いていて、室温は温かい。

 天窓から日光が降り注いでいた。

 私的な設備としては破格の規模で、この家が文化的かつ裕福な家であるのが良く分かる。

 中央あたりに床を掘り下げられて作られた大浴槽があって、人が楽々と数十人は入れる大きさ。

 普段、桶などに溜めた湯で体を清める者からすれば、もはや想像もできない世界だ。


 世の中には公衆浴場というものがあるものの、アベルはそれをほとんど利用したことがない。

 旅の間は自分たちでお湯を用意して、それで済ましていた。

 それというのも、そうした都会の大衆浴場は窃盗や喧嘩なども起こりやすく、そう易々と近づく所ではなかったからだ。




 アベルはガイアケロンの名を呼び、辺りを見回す。

 すると浴室の奥にある、やたらと湯気が出ている方から王子の声が聞こえた。

 石積みで仕切られた一角には木製の椅子があって、そこにガイアケロンは腰掛けていた。

 熱された床から濛々と白い蒸気が出ている。一種の蒸し風呂だった。

 地下に蒸し釜などがある仕組みのようだ。


「来たな。アベル。ここに座れよ。気持ちいいぞ」

「これは……湯気で体を温めるやつですよね」

「そうだ。充分に汗を掻いたところで垢すりをして、次に冷水を浴びたり微温浴槽に入る」

「普通、主人と家臣は同じ風呂に入らないものでは」

「気にするな。実際、主従じゃないだろう」


 ガイアケロンは磊落に笑った。

 アベルは王子の隣に腰掛けて、目を瞑る。

 湿度と高温で、すぐに汗が噴き出てきた。なかなか心地よい。


「親しい者同士は、こうやって交流するそうだ」

「裸の付き合いってやつですね」

「我は戦場暮らしが長いのでな。こういうことはあまり慣れない。それに垢すりなどは奴隷にやらせるものだが、良く知らない者に体を弄られるのは好まぬ……」

「風呂ってのは襲撃に向いているかもしれないですね。狙った相手は寸鉄帯びてないわけだから」

「そういうことだ。よほど安全なところでなければ利用できぬよ……。夏に、人気のない清らかな小川で身を洗うのが……たぶん一番気持ちいいな。あれで充分だ」


 身体が温まったところで蒸し風呂を離れて、大理石で造られた寝台のような場所に座る。

 アベルとガイアケロンは細かい砂を体に振って、ヘラで擦った。

 本来なら、ここに横たわったままでいれば専門の奴隷が何もかもやってくれる。


「すまないが背中を頼む」


 アベルは黙ってガイアケロンの背中を擦ったり拭いたりした。

 鍛え上げられた背中には、強靭な筋肉が張り付いていた。

 長身でありながら野獣のような素早さを発揮するのは、無駄なく発達した筋肉があればこそだろう。

 この逞しい五体には、とてつもない暴力が秘められている。

 確実に素手でも……凄まじく強いはずだ。


「よしっ。交代だ」

「……それは、ちょっと畏れ多いというか……まずくないですか」

「なんだ。照れているのか! そういうのはなぁ、年頃のお嬢さんが言えよ。まぁ、お前なら男色家が目の色を変えるだろうがな。我はそっちの趣味は無いから安心しろ」


 わっはっは、とガイアケロンに笑われてしまった。

 王族にして希代の英雄に背中を洗わせるという貴重な体験。

 アベルは可笑しくて、顔がニヤついてしまった。

 これは自慢できるかもしれない。

 悪鬼ガイに背中を洗わせた男……。


 垢おとしが終わったら微温浴槽から湯を汲み、頭からジャブジャブと被る。

 広く深い浴槽に身を沈めた。

 火照った体へ、実に心地よい温度だ。

 浴槽は数種類あって、温水、微温、冷水、それから薬湯となっている。


「風呂もたまには良いものだ。知らない者が一緒に居ては落ち着けないが」

「入浴は文化の極みって言いますからね」


 しばらく、会話はなかった。

 世間話など必要もなく、静寂も苦痛ではないとアベルは思う。

 やがてガイアケロンが切り出してくる。


「アベル……。兄リキメルとシラーズが到着するまで、さらに活動するのか」

「とにかくディド・ズマです。何とか奴を殺せないか調べます」

「そう悠長にしていられないだろう。兄弟が到着したら我らともども王城に行く。ディド・ズマも謁見するはずだ。おそらく結納金の前渡しをする。それが終わればズマは速やかに戦線へ復帰するはずだ。郊外には王都進入を許されなかった奴の兵団がいて、合流されてしまえば襲撃の機会は無くなる」

「分かってます。それまでに……」


 珍しくガイアケロンが溜め息を吐いた。

 雄渾にして凛々しくもある相貌に、はっきりと悩みの気配があった。


「本当なら、ズマは我が諫めるべきなのだ。だが、力不足で奴の過分な野心を制することができない。ズマは兄イエルリングの家臣でもある。明白な罪なく殺せば、後で裁かれるのは我の方だ。表立っては、なかなか動けん。悔しい」

「死んだ方がいい人間はいるものです。ズマ本人は無理でも手下どもは隙が必ずある。これまで好き放題やってきた奴らだ。支払いの時間が来たことを教えてやる」

「アベル。……お前は危険な男だ」


 そうだ、危険だと王子は笑って呟く。


「しかし、ハーディアのことを思うとお前を止められない。妹はこれまで、絶え間なく苦しんできている。もともと争いは好まぬ性格であったというのに度重なる戦闘が今の勇ましいハーディアを作り上げた。しかし、無理を重ねている上に、ズマのような欲深く残虐な男を引き寄せてしまった……。これ以上、ハーディアを痛めつけるものは我慢ならん。……許してくれ」

「いいえ、こいつは僕の好きでやっていること。あんな外道、なにがあっても許せないんだ」


 アベルの心に凝縮された執念が湧き上がる。

 自分の力など及びもしない巨大なものに平伏すか、噛みつくか。

 たとえ殺されるとしても、噛みつく方を選ぶしかない。

 

 繰り返される遠い日の悪夢。

 振るわれる拳。頭を抱えて蹲る、まるで虫けらのような自分。

 助けなど、どこにもなかった。

 父親なんてものは殺すしかなかった!


 ガイアケロンはアベルの横顔に目を見張る。

 僅かばかり正気を疑いたくなるような怒りとも衝動とも感じる何かが、青年の中にあった。


「アベル。お前は時として信じられないほど憎しみが露わになるな。周りの人間を残らず皆殺しにしそうなほどだ」


 アベルは沈黙することしかできなかった。

 心に宿った怨念。

 たとえ生まれ変わったとしても忘れられない憎悪。

 凶暴な力が溢れ返り、自分の魂が粉々になるまで止まれない気がする。

 ふとした瞬間に和みを覚えても、死の予感は消えることが無かった。


「お前なら正体が露見しないように襲えるはずだ。スターシャも協力している。二人を信じている」

「じゃあ、いつ襲ってもいいですね」

「こいつは飛び切りの賭けだ。賭けようじゃないか」


 王子の笑みは、優しいほどだった。






 ~~~~~~






 カチェは目が覚めた後、顔を洗い、手鏡を使って自分自身を映す。

 髪を整え、服を検めた。

 ハーディアの侍女兼護衛を装っているので、実用的で質素な服だった。

 麻の下穿きに、革の胴着。

 

 カチェは、そろそろ躊躇っているときではないかもしれないと考えていた。

 敵地の奥深くでアベルは昨夜も死闘を潜り抜けた。

 話しを聞く限り、かなりの強敵であったはずだ。

 その顛末後、ハーディア王女がアベルを気遣う様子は普通ではなかった。

 おかしい……。

 そう感じざるを得なかった。

 女の勘だ。


 侍女としての仕事、ハーディアの世話と言っても、今のところ大した件はなかった。

 王女本人は長い戦場経験で鍛えられているせいか贅沢を好まない嗜好だった。

 およそ自分の事は自分でする王女というのも全く妙なものではあったが。

 せいぜい着付けを手伝い、あとは必要な物を揃えるというようなことだが、何もかもエイダリューエ家から提供されてある。


 ハーディアの身支度が終わったあと、見計らったようにギムリッドが直接部屋に訪れてきて、朝の散策に誘ってきた。

 王女がそれを受けたので、カチェは二人の後ろを付いて歩く。

 侍女らしく……。

 他にも治療魔術師のクリュテとスターシャ、それにエイダリューエ家の騎士が遠巻きに警護している。

 昨夜の騒ぎが無ければ、ここまで厳重なことにはならなかっただろう。


 ギムリッドはガイアケロンに風呂の案内をしたと語っていた。王子の入浴が終わったら、ハーディア姫にも楽しんでいただきたいと勧めている。

 どうやら彼もハーディアの類い稀な魅力と立ち振る舞いに、すっかり心を奪われているとカチェは察した。

 二人は戦争の話題だけでなく、社会問題や文化活動について話し合っている。

 その内容からギムリッドが武骨なだけの男ではなく、芸術を理解する感性を備えた人間なのが知れた。

 

 散歩の途中。

 動物を象った透かし彫りのある回廊のところでガイアケロン王子と出会った。

 カチェはアベルの姿も見つける。

 思わず駆け寄って肩に抱き付いた。アベルは少し驚いている。


「体調は回復したの? 毒は抜けた?」

「もうすっかり良いよ。今さっき……薬湯にも入ったし。ど、どうしたのカチェ様。なんかやたら……その、体が近いけど」


 カチェはようやく離れて、何事も無かったかのようにハーディアの後ろに控えた。

 ハーディアは一瞬だけ、少し動揺した表情を浮かべていたが、カチェと視線が重なると余裕のある優雅な微笑みを浮かべた。

 なんというか……子犬がじゃれ合っているのを眺めていたような気配である。


 カチェは一人で力んでいるだけなのかもと少々恥ずかしくもあったが、さりとて今日は後れを取らなかったと達成感もあった。

 負けるわけにはいかないのである。


 ギムリッドはそうした様子を見て内心、思わず安堵していた。

 昨晩、ハーディア姫のアベルを心配する態度は不意なほど深いものだった。

 たかが百人頭に対して嫉妬心や羨望とは、名門貴族の嫡流である己の誇りが許さないところだが、やはり気になっていた。

 もしかしてハーディア姫はあのアベルという青年に、特別な想いを懸けているのでは……。


 しかし、いま目前で起こったこと。

 名は知らないが姫の侍女兼戦士というような少女はアベルへ可愛らしい仕種を見せた。

 いくらか風紀の乱れと言えなくもないが、王子王女が咎めぬなら……それなりのわけがあるのだろう。おそらく、危険な戦場で志を同じくした男女ならば、熱い情愛も伴うというものだとギムリッドは納得した。


 まったく自分の考えすぎだったとギムリッドは思い至り、苦笑する。

 いくら遠く離れていたからとはいえ、あらぬ想像をしたものだ。

 そう、まだ可能性は残されている。少なくはあるが皆無ではない。

 ガイアケロン王子が後継者争いに勝利して、ハーディア姫はこのギムリッドと結ばれる……。

 

 英雄的な気性と賢明さを持ち合わせたガイアケロン王子になら、喜んで仕えることもできるのだ。

 いずれ自分は宰相となって王道国に善政を齎すだろう。

 華やかな理想の未来。

 諦めるわけにはいかなかった。


 ハーディアは、内心を隠すことに慣れていた。

 心で憎み、顔で笑うなど造作もないことだった。

 王族とはそうしたものだ。


 ところが今のアベルとカチェの些細な遣り取りには、思った以上に驚かされる。

 動揺が顔に現れてしまった。 

 大したことでは無いはずなのに。

 嫌な気持ちではないが、やっぱりそうだったのかという気もする。

 残念なような……。

 なぜ、そう感じてしまうのか。

 せっかく深い共感があったアベルが、離れてしまう寂しさだろうか。


 ハーディアは自嘲する。

 父王イズファヤートとの謁見が控え、ズマの影がちらつく日々に感傷的になっているのだ。

 不眠に加えて情緒不安定とは……。



 遅めの朝食を摂り、アベルは昨日と同じ顔ぶれで再び王都に出かける。

 ディド・ズマの動向を掴むために、今日は奴の拠点近くまで足を伸ばす計画だった。

 それにしてもと……アベルは隣のカチェを横目に見た。

 いったいどういうつもりだったのだろう。

 衆人環視のある中で、かなり大胆に抱き付いたりして……。


 カチェの柔らかい体、甘い女の香りがやけに生々しく蘇った。

 これまで、わざと意識的に女として見ないようにしていた。寝食を共にする仲で一度でも変な気を起こしたら際限がなくなってしまう。

 それは分かっていても、あんな態度を取られると妙な気分になる。


 そして、意識してしまうとカチェは紛れもなく飛び切り美しい女性なのだった。

 この頃は、いよいよ成長してきて大人の気配も見え隠れしてきた。

 澄んだ紫水晶のような瞳は生気に満ち満ちて、命懸けの日々を送っているせいか、一種の名状しがたい危機感を纏った色気のようなものが全身から溢れていた。


 それは生半可な魅力ではなく、その証拠に旅の最中、同行した幾人かの戦士たちから少なくない恋慕の念を受けていたようだ。

 はっきりと断ったそうなのだが……。

 カチェのことについて考えていると、落ち着いていられない。

 胸がズキズキしてくる。


――だめだ。気持ちを切り替えないと。

  だいたい、俺には……。



 喧噪と混乱の渦巻く都がアベルたちを飲み込んでいった。





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