第113話  野心の集い

 




 コンラート軍団の元執軍官ノルト・ミュラーは胃痛を堪えながら馬に乗る。

 振動が痛みをじわじわと促進させていた。

 街道を大軍勢が移動している。

 すでに動きの速い騎馬部隊と軽装歩兵は先に進んでいるので姿は見えない。

 目の前を歩んでいるのは重装歩兵だ。

 さらに後方を軍馬に与える飼料などを積んだ荷駄部隊が進んでいるはずだった。


 軍隊は戦闘員だけで運用されるわけではない。

 裕福な貴族は私設の料理人を同伴させているほか、戦いには参加しない召使いや従者も連れている。

 それから必ず商人が付いて回る。

 彼らは舌先を回して秘蔵の武器とやらを見せつけ、美しい護符を飾り、ときには必勝の戦い方を記した稀覯本だとかを高値で売りつけるものだった。

 もっとも、伝説の剣は鈍らであるし、賢者の本は下手な写本師が誤字だらけで写したため意味不明なことが書いてあるのだが……。


 そして、売春婦たち。

 彼女らは軍団が形作られた瞬間、現れる。

 あからさまに商売をすると憲兵に注意されるが、かといって居なくなっては兵士たちが困る。

 だから輜重部隊の隊長と娼婦の元締めは巧妙に結託して、円滑な運用をした。


 女と男のことである。

 金だけではなく心が結びつく場合もあった。

 兵士と娼婦は本当に恋愛関係となって、ときには結婚をする例が珍しくない。

 そうして足を洗うことになった女性は仲間だった売春婦たちから激しく嫉妬されるという。


 そうした社会の縮図のような集団が大移動するのである。

 それ自体が困難であり問題であり、常に指揮官たちを悩ませ試してくる。

 特にコンラート軍団は急な方向転換をしている。

 ミュラーは綿密な準備や計画のもと王道国第二皇子リキメルを攻撃する予定であったのが、どうしてこうなってしまったのかと苛立つ。


 リモン公爵の挑発に近い物言い……、あれで風向きが変わってしまった。

 そして、急転直下で自分は執軍官の地位を解任された。

 代わりは逸早くコンラート皇子の気分に合わせたマクマル・ピラト子爵が務めている。

 もはや自らはピラトの補佐官にすぎなかった。


 ポロフ原野の西の外れにコンラート皇子の野戦本陣が設営されていた。

 周囲は柵で囲まれ、親衛隊が警戒している。

 そこへ慌ただしく人が集まり軍議が始まろうとしていた。

 皇帝親衛軍からは執軍官として新任されたマクマル・ピラト子爵、ノルト・ミュラー子爵、千人将らの中から選抜された男爵五人が出席する。

 しかし、事前にピラト子爵は激しい剣幕で発言を控えるように部下たちへ命じてあった。

 それはほとんど脅迫に近いものであった。


「いいか。俺には策がある。このピラトについてくるなら良し。勝利した後に褒美をくれてやる。だが、邪魔するようなら抗命罪で処刑を覚悟せよ。本気だぞ!」


 ノルト・ミュラーは溜め息を飲み込んで、つい先日まで配下だったピラトを見る。

 ピラト子爵の年齢は四十歳ほど。

 酒の飲み過ぎで若干、顔色は赤黒い。

 威厳を出すために生やした口髭が整えられず乱雑に伸ばされていた。

 陰湿な視線が辺りを舐め回すように動いている。

 長い軍歴が人格を鍛えるというよりも、むしろ険阻にしただけという男だった。


 かつてミュラーにとってピラトは使い勝手の悪い部下だったが、強引な攻撃だけは得意としていたので我慢していた。

 それが今や立場逆転とは……ミュラーは内心悲嘆する。

 もちろん言葉にはしない。

 また胃が痛くなってきた。


 ピラトは沈黙を続けるミュラー子爵を見て満足した。

 勝ったとも思う。

 ほまれある皇帝国子爵家などと言っても重い軍役に喘いでいる貧乏貴族が実に多い。

 ピラト家も事情は同じで、伯爵家の与力になるよりは皇帝親衛軍で活躍した方が出世の見込みもあろうと軍人になって、早くも二十年。


 実際は北や南へ、身を粉にして戦い続けるだけの日々だった。

 予算は常に足りず、かわりに家財を持ち出しで補い、ようやく親衛軍の幹部になってさらなる出世も狙えるかと思っていた矢先にノルト・ミュラーに出し抜かれた。

 どうしてミュラーのような政治力もなければ魅力もない男が執軍官に抜擢されたのか理由が分からない。


 一説には単にコンラート皇子の気まぐれであると言われている。

 案外と本当のことなのではないかと思っている。

 そうでなければ説明がつかない。全く納得のいかない人事だった。

 通例なら皇族か公爵家が出自の者が執軍官を務める。

 そうでなければ最低限、伯爵家当主に与えられる顕職なのである。


 ピラトの心には怒りが沈殿していた。

 どうして軍歴では互角のミュラーが先に出世したのだと考えない日は無かった。

 いや、本当のところ互角どころではない。自分の方が遥かに上だ。

 ミュラーはどちらかといえば兵站を得意とする人間で、自分のように最前線で部下を怒鳴りつけながら戦う一級の軍人とは毛並みが違う。


 それは同じ馬でも気品ある競走馬とロバぐらいの違いであるのだ。

 それなのにミュラーが先に出世した。

 しかし……。

 ピラトは口を歪めて笑う。

 今や執軍官に任命されたのは自分だ。


 愚かなミュラーは自分が立案した策が変更されるのを嫌ってコンラート皇子に楯突くようなことを口走った。

 それは不興を買うのも当然だ。

 主の信任を失えば、すなわち地位など無いに等しい。

 千載一遇の機会に名乗り出た機敏さを、ピラトは自ら褒めあげる。

 一瞬の機転により輝かしい出世を遂げた。

 今や自分は皇帝親衛軍三万の軍勢を動かす男だ。


 その栄華により強気にもなる。

 ミュラーを始めとして部下たちは怒鳴り上げて、統率した。

 軍などというものは上意下達さえ出来ていれば、それで足りるというのが己の信念である。

 目を掛けてやる部下など言われたことをやれる者に限る。

 そうでない者は早々に切り捨てるつもりだった。


「では軍議に行くとするか。全て俺に任せろ。必ず皇帝国を勝利に導いてやる!」


 いかにも乱暴な言い方だったが、みな内心を隠して頷いた。

 まずは執軍官に従うのが皇帝親衛軍における絶対の習慣だからだ。

 それにピラト子爵は以前から粗暴な振る舞いがあるのを知ってもいる。

 なにしろ軍隊を動かして、数千の人間を突撃させるのはお上品にできることではない。

 ある程度の乱暴さは認められても否定していてはキリが無かった。


 ピラトとミュラーは定められた席に座る。五人の千人将らは離れた位置の椅子に座った。

 公爵連合軍からはエリアス・ドラージュ騎士団長、ヒーラー・ベルレアリ騎士団長、オードラン公爵代理として彼の弟、ジブナル・オードラン副騎士団長などが出席していた。


 軍議の参加者たちは、この場こそ、最も重要な戦いの場であると承知していた。

 つまり一番得をする立場を手にして、損ばかりが多い役割は他人に押し付けなくてはならないからだ。

 公爵たちは戦いが難しい局面なのを理解している。

 面倒なことは使い捨てに出来る子爵あたりに任せて、後から然るべき利益を得ればよいと考えていたところピラトが名乗りを上げた。

 渡りに船だ、奴にやらせてみればいいと冷たい視線を送る。


 コンラート皇子は上座で金箔張りの豪華な椅子に座って、首を傾げている。

 不機嫌そうに口を歪めてもいた。

 軍議にはあまり興味がない様子が窺い知れる。

 要はどのように勝つかしか聞きたくはないのだと、出席者たちに察させる態度でもある。

 各人、発言すべきこと、口にしてはならないことを計算する。


 ピラトは何としてでも軍議の主導権を握るのだと決心した。

 さらなる出世と名誉を手にするには、ここで勝利の立役者にならなければならない。

 ガイアケロン王子、あるいはハーディア王女を殺せば皇帝国に遍く全て者たちから最大級の賛辞が得られる。

 ピラト子爵は歴史に名を残す英雄となるのだ。

 それを思えば興奮が抑えられない。

 二十年の苦労の末、ついに巨大な夢を掴むのだ。

 早々に発言して軍議に結論を出す。

 主役はこの俺だとピラトは心で叫ぶ。


 コンラート皇子の右隣に立つエンリケウ・ドラージュ公爵が軍議の開催を宣言した。

 皇子を讃える長い前口上が終わるや否やピラトは発言する。


「昨日の勇敢なる前哨戦は我らの勝利でございます。河に設置されていた杭の除去などは済んでおります。重装歩兵一万二千人も来着しており、皇帝親衛軍としては本日より果敢なる攻撃を敵に仕掛ける他ないと考えるものです!」


 ピラトは得意満面で辺りを見回す。

 相手は公爵家の長男や親族などである。

 爵位家柄では及ぶべくもない。

 本来なら肩を並べて意見交換することなど不可能な高位の貴族たちとも対等に渡り合えるのだ。

 乱世ならではの状況に奮い立つ。


 そして、この戦いに勝ってみせればますます出世できるだろう。

 伯爵に任ぜられるのは間違いないと思える。

 広大な領地に加えて、ついに自分の騎士団を擁することができるのだ。

 欲しいものを全て手にすることが出来るかもしれない。

 心に野心が燃えていた。


 エリアス・ドラージュが意見を述べたいと申し出た。

 彼は傑物と認められた父親エンリケウ・ドラージュ公爵の子にしては小粒と陰で評されていた。

 それなりに軍歴は長いものの公爵家の優遇された立場のまま成長しただけあって、本当の戦争というものを知らないで成長してきた……そう噂される。

 しかし、妹のアデライドはコンラート皇子の正妻。

 父エンリケウはコンラート皇子にこの上もなく重用され、家臣団筆頭の地位でもある。


 よって軍議の面子の中でエリアス・ドラージュは別格に権威が高い。

 ピラトは仕方なく黙って意見を聞く。

 端正に整えられた口髭を触りながらエリアスが喋る。

 まだ三十代半ばとはいえ騎士団を束ねるにしては風格が若干足りなかった。


「公爵家連合の軍勢は南に先行していたこともあり、全軍はいまだ来着していない。しかし、無論のこと合戦をすることはできる。重装歩兵六千と軽装歩兵八千。それに騎兵が二千といったところか。後続は明日の夕刻に到着するということだ」

「皇帝親衛軍の軽装歩兵は約二万人。重装歩兵は先ほども報告しましたが一万二千人。騎兵が約千騎。ガイアケロン軍団を今朝、物見させたところ重装歩兵一万五千人前後。軽装歩兵が約一万人。騎兵三千と見積もりました。重装歩兵で互角以上、軽装歩兵では実に三倍近く優勢。騎兵でも対等。これは戦えば勝てますぞ!」


 ピラト子爵は話している内に増々興奮してくる。

 兵力だけ見れば、勝てない方がおかしい。

 いくら精兵揃いと言われるガイアケロン軍団だろうとも、覆せない劣勢だ。

 しかも、地形は狭隘かつ起伏がある。

 原野の周囲は岩場や森林があって騎兵は使えない。


 つまりガイアケロン得意の騎馬戦法はほとんど利用できないはずだった。

 もちろん相手が騎兵を積極的に活用できないようにコンラート軍団も騎兵を運用しにくいが、歩兵戦力で勝っているのだから大した問題ではない。

 いや、それどころか、むしろ地の利があるではないかとピラトは内心、ほくそ笑む。

 何という幸運だろう。

 こんな千載一遇の機会に軍を指揮する立場でいられるとは。


 ピラトは早くも意を決する。

 明日になり公爵家の部隊がさらに増強されると手柄を立てる機会が減ってしまう。

 大事なところを掻っ攫われて伯爵になれなければ一生悔いが残るだろう。


 決戦をするなら今日しかない。

 他の出席者たちに決戦を躊躇わせる材料は隠してしまった。

 親衛軍の軽装歩兵は昨日の強引な前哨戦の影響で負傷者が多数発生していた。

 怪我人や体調不良を訴える約三千人は補助戦力としたが、実質、その者たちに戦闘能力は無かった。

 ただ数字の上では戦力として存在するので嘘になっていない。説明としてはそれで充分だった。


 ヒーラー・ベルレアリ騎士団長は軍議の結論に従うとだけ話して後は黙った。

 ジブナル・オードラン副騎士団長が最後に意見を言うものの、ごく控えめな口調。

 なにしろ執軍官だったノルト・ミュラーが呆気なく解任されたところを目にしているだけに、下手なことを口にすれば立場に関わると考えないわけにはいかない。


「後続を待つのがよいか、本日これから決戦を挑む方が有利となるか……合議で決しようではありませんか。私としてはガイアケロンの手勢が意外な少なさとは思うのですが」

「そこです! このピラトは悪鬼ガイアケロンめは来援を待っているのではと危惧しております。我々と同じように明日には後続が姿を現すかもしれませぬ」

「それは確かな報せに基づく見立てなのですかな?」


 オードラン公爵当主の弟であるジブナル・オードランは貴族社会における駆け引きに練達していた。

 相手の主張には裏を取り、必ず責任も持たさなければならない。

 この二つは明確にさせておかないと思わぬ事で連帯責任を負わされてしまう。

 ピラトはこれまでの威勢の良さを少々引っ込めて説明する。


「……確証はありません。しかし、数で勝るとなれば戦いを挑むのが武人の作法かと存じます。臆病は何よりも恐れなければならない病であります」


 もはや主要な人間からは意見が出てこない。

 自軍の戦力と相手の戦力の比較は終わった。

 重要なのは敗北した時に責任を取るのは誰かということだが、それはピラトが負ってくれそうだと皆は考える。

 いざとなって責任回避しようにも、これほどの大言では逃げようがない。

 後は勝利した後、できるだけピラトの功績を減らして、どう自分に利益を誘導するかに思考は及ぶ。


 誰かが発言する前にピラトは一気に会議を決する賭けに出た。

 華々しい戦果を上げて皇帝の座に就くことだけを夢見るコンラート皇子は、勝てる戦いを断るはずもなかった。

 コンラート皇子に本日の攻撃を具申する。


「コンラート様。総攻撃の許可をお与えくだされ! 本日、これより決戦と参ります。戦えば必ず勝てましょうぞ!」

「ピラト。お前の言う通り、今日戦えば勝てるのか。語れ」

「さ、策がございます。我ら軽装歩兵では明らかな優勢。となれば古来より伝わる必勝の戦術があります。重装歩兵で正面の敵を揺さぶり、さらに側面および後方へ軽装部隊を送り込めば相手は動揺して、たちまち崩壊いたします。上手く行けば敵後方の街道を奪取することもできましょう。即ち敵は袋の中の鼠。もはや勝利は間違いなし!」


 そんな都合よく運ぶ策などあるものかとミュラーは顔を顰める。

 だいだい袋の中の鼠などと比喩を用いるが、この場合は虎を追い込むごとしだ。

 包囲されると分かって黙っている敵ではない。

 猛烈に迂回部隊へ反撃を仕掛けるだろう。

 その場合、軽装歩兵を主とした迂回部隊は本隊から孤立したまま戦うことになるのだ。

 それは不利すぎるではないか。


 だから、やるとすれば少数精鋭の部隊によって隠密に渡河させたうえで、姿をあくまで晒さずに森林を移動。

 ここぞという戦機にガイアケロン軍団の背後を突かせるのが効果的だ。

 しかし、頭で作戦を考えることが出来ても実行に移すのは困難にすぎた。

 少しでも戦況が変わり、時期を逸して奇襲させた場合……あるいは隠密行動が発覚してしまったとき、全滅するのは独立行動をしている味方の部隊だ。

 危険すぎる。

 止めなくてはならない。


「すみません。このミュラー執軍官補佐に発言を許してもらいたく」

「ならん!」


 激怒し、大声で制するピラト。

 自分の賭けを邪魔させるわけにはかない。


「お前はコンラート様のお怒りを頂いたことをもう忘れたのか! 黙っていろ」


 ピラトは憤激し、憎悪の表情でミュラーを睨む。

 これ以上、一言でも発すれば掴みかかるほどの気配だった。


 仕方なくミュラーは他の者の発言を待つが……もしかしたらあるかもしれないと期待した擁護の意見は出なかった。

 誰しも関わり合いを避けて黙っている。

 ミュラーは拳を握りしめて意見を飲み込んだ。

 出席者の視線は最終認可を与える主へと注がれていく。

 コンラートの顔が朱に染まり、気持ちが高ぶっているのが周囲に知れた。


 皇子の吊り上った目は虚空を凝視する。

 脳裏にあるのは、帝位戴冠を成し遂げた栄光の日の情景だけだった。

 それは同時に復讐の達成でもある。

 二人の弟は幽閉するか、処刑するか。

 いずれにしても哀れっぽく跪かせて命乞いをさせてやる。

 

 本来、長男である自分を盛り立てなくてはならない立場であるのに逆に帝位を狙っている狡猾な者めら。

 父ウェルスは誰よりも勇敢であれと自分に述べ続けたが、いくら努力しても満足してはくれなかった。

 会うたびにこれが悪い、この戦い方がなっていなかった、もっと武勲を立てろと口煩く注意するばかりで……とうとう次期皇帝にすら指名してくれなかった。

 父親に一度も認められなかった。

 沸騰するような怒りが噴き出る。

 それもこれも、全てテオとノアルトの陰謀が原因だ。

 あいつら……やはり殺してやる!


 従わなかった公爵や伯爵、親衛軍の将軍らなど一族郎党ごと皆殺しにするつもりだ。

 刎ねた数百の首を眺めながら勝利の美酒を飲み干す……。

 臓腑に染み渡るほど美味いことだろう。

 夢想と現実の境は霧のように曖昧となり、コンラートは甲高い声で叫ぶ。


「ピラト! 攻撃じゃ。攻撃せい!」


 決定してしまった。

 ピラトは歓喜に包まれながら返事をする。

 幕僚や騎士団長らは、粛々と従うのみである。

 エリアス・ドラージュが発言する。


「陣立てはどういたす?」

「ドラージュ騎士団長殿。このピラトに中央と左翼を任せていただきたい。公爵連合の方々は右翼に集中していただく」

「ということは……迂回攻撃は左翼側から敵の右翼を狙うわけですな」

「その通りです。基本は公爵様方々、目前の敵にのみ集中していただきたい。まさか勇猛さで親衛軍に劣る公爵連合ではありますまい。押しに押せば軍勢で勝る我らが自然と敵を追いたてる戦況になるかと思われます。細かい依頼があれば適時、伝令を送りますゆえ」

「公爵連合軍の指揮権までは委任できんが、執軍官のピラト子爵に従おうぞ。それとドラージュ騎士団はコンラート様の護衛に二千人を当てるゆえ配置は動けぬが、知り置いてくだされ。では幸運を」


 エンリケウ・ドラージュが卒なくコンラート皇子の機嫌をさらに取り成し、閉会の宣言をする。

 軍議はそれで終了だった。

 ノルト・ミュラーは黙って命令に従う。

 駆けるように幹部たちは親衛軍の持ち場まで戻る。

 もたもたしていると攻撃が遅れてしまう。

 しかし、ミュラーはピラトに呼び止められた。


「ミュラー補佐官。お前は騎馬隊第三列の指揮官をせよ」

「ピラト執軍官殿。それでは補佐官の役目ができませんが」

「お前の顔など見たくもない。この戦いで騎馬隊に出番はなかろう……俺が勝つところを後ろで見ておれ!」


 無駄に品のない気迫を発散させながらピラトが馬に乗って前線へ進んでいく。

 ミュラーは二年前、唐突に抜擢人事で一万人を指揮する将軍に任じられた日のことを思い出す。

 あの時ほどコンラート皇子に感謝した日は無い。

 たとえ二十年の軍隊経験を経ていても弱小の貧乏貴族にはあり得ない名誉だ。

 しかも、その戦力を使って奮戦した結果、ついに執軍官まで命じられた。

 もっとも周囲の大貴族が出自の者からは妬まれて、ろくに支援してもらえずに大変な苦労をすることになったものだが……。


 ノルト・ミュラーは数名の従者を伴って戦場を視察する。

 河に設置されていた障害物、それは本来、王道国の攻撃を防ぐための物だったのだが、それを取り除く戦闘が昨日あった。

 軽装歩兵の四百人あまりが死亡。千五百人を上回る重傷者は冬の寒さの中、後方に送りもせずにほとんど放置されている有様だった。


 問題なことに無事な軽装歩兵たちも昨日の前哨戦で酷く疲労している。

 飛来する矢や石、魔法の攻撃に耐えながら水浸しになったうえ、屋内で充分に暖を取ることすらできなかった。

 大量に焚火を燃やしたものの、たちまち薪が枯渇して夜間は寒さに凍えてしまった。

 すべては準備不足のまま攻撃をしたことが原因だった。

 軍事に拙速は許されても遅滞は許されないという原則があるにせよ、これはいかにも拙い状態であった。


 戦列を形成しつつある皇帝親衛軍の重装歩兵は、わずかな休息しかとらずにここまで来た。

 動きが遅い輜重部隊はずっと後方に置き去りにされている。

 大量の食糧や油、予備の武器などは何もかも前線に届いていない。

 軍団の兵たちは誰しも温かい物を食べられずに、固いパンと葡萄酒などを口にした程度だ。

 そうした兵士たちが号令に従い、整然とした列を作っていく。

 ミュラーは負傷している軽装歩兵の男に声を掛ける。

 太腿を矢で射られたらしく、ろくに歩けない様子だった。


「おい。そこの兵卒。教えてくれ。昨日の攻撃はどうだったか。敵の反撃は厳しかったか」

「そらもう雨みたいに矢が飛んできましたぜ。ただ、それより河の水が冷たくてかないやせんでした。とてもじゃねぇですが長いこと作業なんかできねぇんで、次々と交代して働きやした」

「大して深くない河だそうだが」

「へい。せいぜい漬かるのは股ぐらいなんですがね。杭を取り除く作業なんかしていりゃあ全身に冷水を浴びますぜ。氷みてぇなもんですよ。体が動かなくなりやす」

「橋を造った方が良かったか」

「そりゃ濡れずに渡れればそれに越したことはありませんや。けれど橋を架けるのは難しいことではございやせんか」

「それを考えるのが将軍の役目だ」

「……あんた、もしかしてミュラー子爵様?」

「私のことはどうでもいい。お前は後方へ行って体を休めろ。間違っても攻撃に参加するなよ」

「いや、しかし……負傷兵といえども予備隊として攻勢に加われと言う命令がありやして」


 ミュラーは舌打ちする。

 やはり焦って力攻めなどするべきではない……。

 だが、自分はもう執軍官ではなかった。


 戦列を作るのに時間が掛かっていた。

 なにしろ皇帝親衛軍の重装歩兵だけで一万二千もの人数なので仕方がない。

 親衛軍の千人将と百人隊長は優秀だ。

 指揮官がピラトに変わったところで役目に変わりはない。

 規則と命令に従って陣形を形成していく。


 ミュラーは味方からガイアケロン軍団へと視線を移す。

 河の向こう岸よりさらに奥。

 緩やかな斜面の上に、長大かつ乱れの無い戦列を組んでいた。

 夜明け前、薄暗いうちから既に列は出来ていたという。

 夜中も松明が頻りに動いていたというのだから、夜間も陣形を維持していたということだろう。

 なんと練度が高く、不気味な軍団なのだろうとミュラーは溜め息を吐く。


 ガイアケロン軍団は数日前から付近の森林で材木を伐採するなどして、あとは戦列を維持したまま待機の様子だったという。

 ミュラーはガイアケロンの狙いを想像するが、いまひとつ分からない。

 皇帝国の反転攻勢を察知して、迎撃のために軍団を送り込んできたのだろうか。

 それとも始めからリモン公爵領の攻略が目的だったのか。


 それにしては渡河して攻撃する素振りはみせていなかったと報告されてもいる。

 もしかするとリキメル王子が支配している地域へ攻撃させないための先手だったのかもしれない。

 考えれば考えるほど誘導されてしまったのではないかという疑いが出てくる。


 コンラート軍団の攻勢準備が整ったのは朝というよりも昼に近い時間帯だった。

 親衛軍の重装歩兵一万二千人と公爵連合軍の重装歩兵五千が戦列を作った姿は壮観としか言いようがない。

 弓や投槍、投石などで戦う軽装歩兵らはその後方で、ごく大雑把な集団を作っている。

 戦列戦法を使わない軽装歩兵は列を形成する必要性が無いから、兵科ごとに集まるだけだ。


 ついに軍楽隊が前進のラッパを高らかに鳴らす。

 タントンタントンタントン……という歩調を合わせるための太鼓が小気味良い。


 ミュラーは騎乗のまま後方の小高い場所から様子を見守る。いずれにしても騎馬隊の最後尾を宛がわれた自分に出番はないのだから、そうする他ない。

 親衛軍の重装歩兵は縦横十列ずつの百人が中隊を形成し、その中隊が二十個ほど横に整然と並んでいく。

 最前列中隊は主に新兵で構成されてあり、中隊二列目、三列目と後方になるほど歴戦の兵士の割合は増えていく。

 攻撃の最終段階で、もっとも経験の豊かな戦列が敵に襲い掛かる手筈だった。


 右翼は公爵連合軍。皇帝親衛軍は中央、左翼と戦列は長く続き、三メルテほど先の場所で終点となるが、それは地形のためだった。

 それ以上広がると、林や藪があるうえ足場が悪いために列を作ったまま前進できない。

 ピラトの計画ではそうした地点から後方に控えさせている軽装歩兵を迂回攻撃させるというが、上手く行くかどうか五分五分の賭けだろうとミュラーは考える。


 渡河が始まる。

 前進は途端に遅くなる。

 後列は立ち止まらなくてはならない。

 水飛沫を上げて兵士たちが進む。

 盾を油断なく頭上に構えていた。

 それと言うのも河を渡りきった直後から、敵の強弓の射程に入り込むからだ。


 渡河のさなか、何かに躓いた兵士が数十人と転倒して全身を濡らしたのが見えた。

 それでも進まなくては命令違反になってしまうから歩いていくが、あんな様子で戦えるものなのかとミュラーは危惧する。

 渡河を無事に終えた部隊が、すっかり乱れてしまった戦列を再び元に戻す。

 さすがは規律のある親衛軍だと頼もしくもなる。

 これが練度の低い部隊ならば、どうなっていたことか……。


 ガイアケロン軍団に動きがあった。

 これまで待ち構えている様子を見せていた最前列の戦列が一斉に背を向けると、整然と後退していく。

 まるで皇帝国の軍勢に恐れをなして逃げているかのように見えた。

 それを見た味方は意気が上がり、次々に河へと入っていった。

 早くも追撃戦のような様相だが、すぐにミュラーは度肝を抜かれる。


 突然とガイアケロン軍団に逆茂木さかもぎが現れた。

 木材や太い枝を尖らせて、前方に突き出す構造で組み合わせて地面に杭打ちで固定してあるようだ。

 杭の先端の高さは下腹部程度。奥行二列ほどの簡易的な物だが、それは戦列が作れそうな、かろうじて平地と呼べる地形をすっかり塞ぐほど長い。


 あらかじめガイアケロン軍団戦列の後ろに隠れるように設置しておかれたので、高所からの偵察でも分からなかったらしい。

 逆茂木には後退のための、ちょうど百人隊が十列になったまま通れる空隙が十か所ほど設けられているのが見えた。

 ミュラーは数日前から伐採の音がしていて夜間、敵陣で松明が光り、槌音がするという報告があったのを思い出した。

 削り出した杭を打ち据える作業だったのだ。


 ガイアケロン軍団は逆茂木の後ろで再び戦列を作った。

 これでは砦に攻撃するようなものである。

 状況は全く変化してしまった。


 ガイアケロン軍団は敵地への侵攻攻撃を意図していたはずなのに、突然と守備的迎撃戦へと変化してみせた。

 謀られたとミュラーは悟るが、攻撃中止とはならない。

 出世欲に駆られたピラトが待つはずが無かった。


 せめて敵が逆茂木の内側に逃げる前に攻撃を仕掛けたかったが、渡河に手間どって間に合わなかった。

 基本である敵情偵察を疎かにしたツケである。


 せめて数日前から偵察隊を何度も派遣していれば、人の列で隠してある逆茂木を発見できたかもしれない。

 もう全ては遅いが……。

 ミュラーは顔を石のように強張らせるしかなかった。




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