第110話  説得の行方

 




 アベルたちは渡し縄に掴まり、半ば水に浸かりながら渡河する。

 冬になりかけている季節。

 山間部でもあり流れる水は身を切るごとく冷たい。

 対岸に渡った後、濡れている状態は耐え難く、急いで熱温風の魔法で体を乾かした。


 川沿いを苦労しながら移動する。

 やがて岩山に歩いて登れそうな場所を見つけたので、そこを進む。

 ぼやぼやしていると日が暮れてしまう。

 稜線を越えると背の低い雑草が生えた斜面、そこを下ったところに林がある。

 地形を読む限りでは、その先にポロフ原野の裾野が広がっていた。


 林の間を半ば走るように進む。

 先頭はワルト。亜人界の山岳地帯で生まれ育ったワルトは森などに高い適性を示した。

 かつて魔獣界の密林を移動したときも、イースに次いで危険生物の接近に敏感だった。

 こうして先頭を進んでもらうと警戒にもなって頼もしい。


 幸い林は直ぐに抜け出た。

 それと言うのも樹木が伐採された形跡があり、木材を運搬したと思われる道を見つけることができたからだ。

 リモン騎士団が砦や宿舎などの建設などに利用したものと思われた。


 さして広くない原野であるのでアベルたちが進んでいると、やがて柵に囲まれた軍営地がある。

 警戒兵が全周に配置されているので、アベルは手を振りながら堂々と接近した。

 兵士が声を上げて仲間を呼ぶ。

 たちまち小隊……、十五人ほどの者が槍や剣を手にして近づいてくる。

 

 魔法のあるこの世界。一見したところ丸腰でも、実は強力な使い手だったということもあり得る。

 ましてやアベルやカチェは刀で武装しているうえ、軽装的とはいえ鎧まで身につけていた。

 しかも、敵国の強大な軍団が接近している状況。

 これで警戒しない方がおかしい……。


 兵士を率いた小隊長は、四十歳ぐらいの口髭を生やした男で騎士階級のようだ。

 装備や雰囲気でそういうことが伝わってくる。

 長剣を抜いて、すでに脇構えにしていた。


「すいません。僕らはハイワンド公爵家の関係者です。リモン公爵家の三男リッシュ様か長男ファレーズ様にお取次ぎ願えませんか?」

「お前ら、なんだ? 馬にも乗らない使者などあるか! 謀るな!」


 アベルは首飾りにしてあるハイワンド家紋の印章を取り出して小隊長に見せたが、効果はいまいちだった。

 メダルを凝視していたものの首を捻る。

 芳しい答えはない。

 やはり最前線にあって敵と対峙しているという状況では、容易に信用してもらえないらしい。


「分かりました。それなら手紙を今から書きますので、それをリモン騎士団の幹部に届けてください」

「いや、取りあえず武装を捨てて大人しくしろ」


 拘束され、尋問に応じたところで結果が良くなるとは思えなかった。

 徒に時間を無駄にしてしまう。

 アベルは高圧的に出ることにした。

 声を張り上げる。


「無礼を働くな! 僕はハイワンド家のアベル。こちらの女性はカチェ様。もしリッシュ様に僕らが不当な扱いを受けたと申し出れば、お前の立場など無くなるぞ。いいから手紙を届けろ!」


 相手はアベルの勢いで、少したじろぐ。

 アベルは背負った雑嚢の中から油紙に包まれた紙と携帯式の筆記用具を取り出してカチェに渡す。

 子供のころからウォルターに字の教育を受けたし、スタルフォンからも本格的に指導をしてもらった。

 しかし、典雅な手紙の書き綴りに関しては英才教育を施されたカチェの方が上手だ。

 カチェは周りを囲む兵士の一人に声を掛ける。


「貴方、その盾を動かさないで」

「え……?」

「手紙を書くのに平らな物が必要なのです。字が乱れたら承知しませんからね」


 対応の仕方が分からずに困惑している兵士をカチェは気迫を込めて睨む。

 美しいカチェがそうすると天性備わった気品も相まって、大抵は呑まれてしまう。

 兵士は盾を揺れないように固定して沈黙した。

 そうして強引に即席の机を用意したカチェは皆の見ている前で手紙を認める。

 流れるように羽ペンを操り、あっという間に書き上げた手紙を小隊長に渡す。

 中年の小隊長は、顔つきを変えた。


「俺は字が読めるのだが……これは大変な達筆だ。なかなかここまでの字は書けるものではない」


 小隊長は乱暴なことはするなと命じて、部下一名を伴い走っていく。

 すぐに軍営地から馬に乗って、いずこかに騎行していった。

 後は結果を待つだけだ。

 考えてみれば衝動的にガイアケロンの軍陣で考えを述べて飛び出し、ここまで飲まず食わずだ。


「カチェ様、ワルト。ちょっと食べておこう」


 雑嚢から焼締めたパンと燻製肉を取り出す。

 保存の効くように固く焼かれたパンは、そのまま咀嚼するには歯応えがありすぎる。

 通常は汁物の中に入れて、溶かしたようにして食べる。

 今はないから革袋に入れた葡萄酒をぶっかけて口に入れた。

 兵士たちがつまならそうに、しかし文句を言っても仕方ないと思ってか、黙ったままアベルたちを見ている。


 そろそろ陽が傾き、空が緋色に染まりつつある。

 五騎ほどの集団が馬蹄もけたたましく接近してきた。

 先頭を進むのは、白鋼の鎧が鮮やかに光る騎士。

 馬にも華やかで立派な帯があつらえてあって、一目で相当な上級貴族なのが理解できる。

 目のいいアベルはそれがリモン公爵の三男リッシュなのを確信した。


 燻したような濃い金髪を伸ばしたリッシュは薄茶色の瞳に驚愕の色を浮かべていた。

 飛ぶように下馬するとアベルの肩を強く掴む。

 それから笑った。


「ははっ! 本当だ! アベルがいたぞ。それにカチェ殿まで」

「リッシュ。頼む。火急の件につき典礼無視でセドリック・リモン公爵様に面会願えないか」

「……分かった! ドニとウルヌは馬をお二人に貸せ!」


 アベルらはリッシュの先導に従い、原野を移動する。

 途中、兵士や物資を運ぶ従者の姿が目立つ。

 彼らはガイアケロン軍団が侵出してきているのを既に理解していて、緊張感を発散させていた。

 馬上、リッシュが話しかけてくる。


「アベル。私自身、祝賀会の数日後すぐに父上とリモン領に戻ったのだが……噂が絶えなかったぞ。武帝流の仲間たちは君とカチェ殿のことを心配していたんだ。突然、姿を消して別れの挨拶も無かったからな」

「すまない。秘密の任務だった」

「だろうな! きっと最前線か亜人界にでも行ったに違いないと想像していた」

「だいたい正解。ところでウェルス陛下が崩御されたのは間違いないのか?」

「確かだ。我々は帝都から早馬で伝えられた。前線にいる貴族や将兵は戦時特例により葬儀には参加していないが、在帝都の貴族という貴族は皇帝墳墓への見送りをしたことだろう」

「次代皇帝について何も知らないんだけれど……まさかコンラートなんてことはないよね」

「それなんだがな……。信じられないことに後継者が指名されていない。今は皇帝陛下不在の異常事態だぞ」

「皇帝が決まらなかった!」

「元々、仮に後継者がコンラート皇子になったとしてもテオ様を支援する貴族たちは公然と反対し服従しないことになっていたのだが……。ウェルス陛下は最後まで何もお決めにならない御方だったという……」


 リッシュは悲しそうな顔をしていた。

 やはり貴族を統御するはずの皇帝が決断できないというのは、臣下にとっても情けないことだろう。


「リッシュ。リモン公爵様への頼み事は、かなり無礼になる」

「でも大事な件なんだろう?」

「僕はバース公爵様の命を受けて行動している。結果としては必ずリモン家のためにもなる。リモン公爵様と面会の際には僕の立場に立ってほしい」

「味方しろってことか? 何を言うつもりだ」

「ガイアケロンとハーディアの軍団とは戦わないでくれ。戦えば……君も死ぬぞ。戦死の覚悟は出来ているのだろうけれど。なにも急いで死ぬことは無い」

「すっかり防備のできた我らに対して防衛戦の回避ときたか……。いいだろう。アベルは共に鍛えた仲だ。それにこの狭くて忌々しい原っぱはな、実は言うと墓場としては前から不満だった。どうせならもっと大きな戦場で華々しく死にたい」


 リッシュは爽快さを感じさせるような笑顔。

 貴族や武人には時々、驚くほど命に執着せず、いかに満足して死ぬかを目指している者がいる。


「アベルは知らないだろうけれど私の妻は妊娠している。来年、出産だ。義務は果たしたから、後は出来るだけ貴族として相応しく戦うだけさ」

「それなら、なおさら簡単に死んだらいけないのでは」

「理由にならんさ。子持ちの兵士なんかどれだけいる」

「……」

「アベルもさっさと子供を作っておけよ。貴族の……いや、人間の義務か。まぁ、なんだ。公爵家などと言ったところで三男が継げる物など僅かだ。せめて武人として自分を完成させたいのさ。それには、どうもここは気に入らない」

「死が人生の完成となるには……よく生きないとな。後悔ばかりで終わる人も大勢いるが」

「憶えているか。祝賀会の時、私の妹がいただろう。三女で年齢は十四歳。ちょっと生意気なんだがアベルにちょうどいいよな……って! カチェ殿。し、失礼しました。そんなに怖い顔で睨まないでください」

 

 リッシュは本気で驚いていた。

 アベルはどんな顔をしているのか確認しないでおくことにする……。

 とても怖いから。



 アベルは馬に乗りながら距離を特に意識して測る。

 もちろん目測だが、それなりに自信はある。

 河から、およそ五メルテほど離れた高地に隠された陣地があった。

 警戒は厳しく、槍を持った兵士が全周囲を軍列によって防衛していた。

 目立つ砦ではなく、実際はそこがリモン騎士団の最前線司令部なのをアベルは理解する。


 近衛の騎士が守る軍陣の入り口。

 アベルとカチェは中に入るが、ワルトは制止される前に自分から歩みを止めた。

 奴隷の獣人が入れる場所ではなかった。


 幕内の、しかるべき上座の場に金箔で装飾された重厚な椅子があって、そこに腰を下ろしている人物こそリモン公爵自身であった。

 年齢五十代後半と思しい公爵の顔。

 頬から顎にかけて、褐色の髭で覆われていた。

 風格を出すために髭を生やす武人は多い。

 

 落ち着いた視線が送られてくる。

 皇帝国貴族社会おいて帝室に次ぐ最高位の爵位を持つ人物だけあって、格式および威厳は本物だった。

 アベルは公爵の前で右手の拳を胸に当てて一礼。


「セドリック・リモン公爵様。祝賀会以来でございます。ハイワンド家のアベルです」


 リモン公爵は灰茶色の視線をアベルと脇に控えるカチェに向ける。

 岩石のごとく険しい表情に一抹の緩みを見せてくれた。

 貴族社会を生き抜いてきた百戦錬磨の風格を持つリモン公爵は、訪問を受け入れる姿勢を見せてくれている。

 祝賀会の際には大いに歓待したから、それが功を奏しているのかもしれない。

 それにハイワンド家とは境遇が近いこともあって以前から密接な関りがあると聞く。


「ハイワンドの若者が、突然どうされましたかな」

「このアベル。バース様の名代として参上しました。不躾でありますが重要事につき、お人払いを願います。我らと一族の方のみにしていただけませんか」


 リモン公爵が手で仕草をすると、近習の騎士や小姓は一人残らず陣幕から出て行った。

 残ったのは当主本人、リッシュ、それと三十五歳ぐらいの男性が一人。

 おそらくリモン家長男にして騎士団長のファレーズだろうと想像する。

 アベルは名乗り自己紹介すると相手は答える。やはり予想通りだった。


 顔はリッシュと全然似ていない。

 リッシュがどちらかといえば颯爽とした青年なのに対して、長男は猪首で角ばった顔の厳つい男だ。

 母親が違うのかもしれなかった。

 アベルはどう会話を展開させるか考える。


――名代というのは嘘だが仕方ない。

  さて、どんな風に説明するか?

  いかなる形であれリモンとガイアケロンの正面衝突だけは避けたい。

  そこからだな。


「率直に申し上げます。このアベルとカチェ様は密かに越境を試み、ガイアケロン軍団の偵察をしてきました。彼の軍団は恐るべき精強さ。無論のことリモン騎士団も皇帝国にあって精鋭とは存じますが正面決戦をしては激しい損害を受けることは必定。ここは本城へ後退して助勢を待つのが唯一最上の策と具申するしだいです」


 アベルは一気に主張する。

 小出しにするよりも、いきなり大きく言い切ったほうが良いと判断した。

 ファレーズは、はっきり不快の感情を顔に浮かべる。

 リモン公爵の考えは読み取れない。

 表情は塑像のように動かなかった。

 沈黙を破ったのはファレーズだった。


「アベル殿とやら。ハイワンド公爵名代というが他家の軍事方針に口出しするとは無礼に過ぎるぞ。テオ様、直々の命令というのならいざしらず、君に何の権限がある」

「はい。ご無理ごもっともでございます。ただ、リモン公爵家ならびにテオ皇子様のためと、その一心です」

「この原野を防備すること二年以上。テオ様はここであの悪鬼と戦い、防いで見せたのだ。そこを我らが簡単に退いては名誉に関わる。せめて一戦交え、ガイアケロンとハーディアに一撃与えてやる。後退して籠城は最後の手だ」

「仰せのこと、ご立派な武人の心意気と染み入るばかりですが……」


 どう説得したものかアベルは考える。

 それまで黙っていたリッシュが初めて口を開いた。


「我々の連絡要員や方々からもたらされる情報によればテオ皇子様とノアルト皇子様は、ここよりさらに南西の戦線に主力を振り向けている。主な相手はディド・ズマとイエルリングだ。逆にコンラート皇子の派閥はガイアケロンとハーディアを狙っているかもしれない。ウェルス陛下御臨終の間際、自分がまずガイアケロンを破って見せるとかそういう事をコンラート皇子は口走ったらしい」

「コンラートがここに向かっている!」

「まだ噂のこと」


 アベルは内心、激しく期待する。

 リッシュの説明は続いた。


「困ったあのコンラート皇子は手柄を上げて皇帝の座を手にするつもりさ。ところが、ここからあと四十メルテばかり西のところで足踏みしている。どうやらさらに南下して山地を迂回、旧レインハーグ領を占領している王道のリキメル王子を攻めると方針を変えたのかもしれない」

「……! どうして目標をリキメルに変えたのですか?」

「深読みすれば始めは真意を隠して、つまり元々ガイアケロンは目標ではなくて敵やテオ様を騙したと考えられるが……あの愚劣なコンラート皇子にそんな器用なことができるとは思えない。誰かの注進があったのかも」

「なんとかしてコンラートの軍団をこちらに誘導できませんか!」

「さてね。来てくれてと頼んだところで来るかな? 奴らとは同じ皇帝国の軍勢とは言え、もはや完全な分裂状態だ。ウェルス皇帝陛下が亡くなられたがが外れた今、協力どころか下手したら内乱になるだろう……」


――そこを無理やりにでも来させないとならないんだ!

  どうせ戦うのなら相手は絶対にコンラートでなければならない。


 アベルはセドリック・リモン当人に目標を定める。

 リモン公爵家の頭領で、つまり鍵だ。

 この人物さえ動かすことが出来れば事態は転変する。


 貴族は貴族しか人間扱いしない……。

 その態度は爵位が高くとも低くとも似たようなものだ。

 中にはそうではない者もいるが、それはあくまで少数者である。


 アベルは自分の立場を思い出し、自らを鼓舞する。

 公爵家の継承権持ち。これは世に稀と言える立派な地位だ。

 しかも、最後の手だがテオ皇子の内諾を得ているという嘘を吐くこともできる。

 もし、のちに発覚して問題となっても構わない。

 別に皇帝国で出世しようという野心はないのだから。

 それどころか、もう戻る意志すらない……。

 嘘でも卑怯でも土下座してでも、あとは野となれ山となれだ。


「リモン公爵様! このアベルはバース・ハイワンド公爵の孫として敵地となった旧領を偵察せよと命じられました。また、隣接するリモン様のために命懸けとなるように仰せつかりもしました」


 もちろんリモン公爵については嘘だ。

 そんなこと一言も命じられていない。

 秘密同盟の件はあまりの重大事につき幕僚で知っているのは立案者のバース公爵本人と、それにテオとノアルトの両皇子のみ。


 万が一、テオ皇子が皇帝となる前に露見し騒ぎとなり、言い逃れできなくなったときにはバース公爵の独断で仕出かしたことになる手筈だった。

 そうとなればバース公爵の失脚は確実。

 ハイワンド家は裏切り者として断罪される……。


「……」

「ガイアケロン軍団の将兵、まことに恐るべきとしか言い表しようなく。ここはコンラートを招きいれてガイアケロンに当たらせるのが最も上策です」

「父上。私はアベルの物見を信じるよ。ファレーズ兄さん。こんな原っぱを死守するよりも本城で決戦をしよう」

「反対だ。砦まで作ったのだ」

「それだって、所詮は急造の拠点だ。城の方が堅固だよ」


 これまで息子たちに論を出させて自身は沈黙していたリモン公爵が口を開いた。


「コンラート皇子は六万人以上の兵力を率いて東進してきた。一応、計画では十万人の動員を目指しているそうだ。それには準備も時間もかかるはずだが……。

 そして、我々の得た情報によればガイアケロン軍団の兵力は最大でも四万程度。だが、それはあくまで最大動員数であって、実際には多方面に兵力を割いておるはずだから歩兵は三万以下、騎兵は五千がいいところではないかと儂は考えている」

「はい」

「このポロフ原野は狭い。四方の裾野は林や岩場となっているから戦列がまともに動ける場ではない。河の上流と下流は共に峻嶮で大部隊は近づくことすらできぬ。つまり万を超える人数が展開できる場は原野の中央部のみと限られている。こういう場所では敵方を上回る大兵力を壁のように配置して力押しすれば、それで勝敗は決する」


 アベルは質問してみる。


「原野の中央部に南北へと流れる河がありますが……それは戦局に影響しませんか」

「我々は対岸に拠点を作っていない。下手に渡河すると背水の陣となってしまう。ならば相手の渡河を待ち構えていればよいと考えた。しかし、王道国側を圧倒するような軍勢がある場合は別だ。強硬渡河をすればよい。濡れるのを良しとすれば渡れぬことも無い。あるいは艀を使った仮設橋を作れば、それすら解決する」


 大規模な戦術の論理だった。

 アベルは取り合えず口出ししないでリモン公爵の聞き手になる。


「ガイアケロンは騎兵を上手く使うようだが、ポロフ原野はそれには不向き。現に以前の合戦ではテオ様とノアルト様が奴めの侵攻をここで防いだ」

「つまり……」

「この地ならばコンラートは自分でも勝利できると考えるのが妥当。また、実際にそうなるはずだ。それにも関わらず、どうしてリキメルに食指を見せているのか儂には分からない。リキメルに対する勝利では次代皇帝となる決定的な功績とは到底言えまい。もしかすると攻撃の意図を欺瞞する行動なのかもしれぬ」


 リモン公爵の言う通り本当に偽装なら、結局は何もしなくてもコンラート軍団はポロフ原野にやって来ることになる。

 しかし、放っておいて風任せとするわけにもいかない。

 アベルはどうしても真偽を確かめたかった。

 さらにリモン公爵は説明を続けた。


「先日、コンラート皇子の使者がこの軍陣を訪れてきた。いわく、今からでもテオ様の支援を止めて、コンラート派閥に与すれば過去の不作法は忘れてやるとのこと。リモン領は安堵するばかりか、奪還したハイワンド領の半分をリモンに渡す意向があると……。逆に従わないのならば皇帝に就いたとき爵位を剥奪してやると脅してきた。

 だが、もう儂はあの愚かな皇子に従うわけにはいかない。よってリモンの選択肢は二つ。早期の内にガイアケロン軍団へ決戦を挑みコンラートの手柄となるのを防ぐか……あるいは静観に徹するか」


 長男ファレーズが、無論決戦だと力強く答える。

 アベルは同じ主張を繰り返して決戦に反対した。


「コンラートがどれほどの兵力を用意するのは分かりませんが、最終的にはガイアケロンが勝つはずです。ガイアケロン軍団と言えば騎兵という印象が強いのでしょう。中央平原では彼の騎馬軍団に敗北したとも聞いています。しかし、最下級の歩卒にしても恐るべき熟練兵たちです。手痛い損害はコンラートに支払わせるべきです」


 ファレーズはハイワンド当主の名代と主張するアベルを苦々しく見る。


「アベル殿とやら。貴殿、随分とガイアケロンを買っているようだが、そうならなかった場合はどうする。決戦せねばガイアケロンを前に怯懦の姿勢を見せたとリモンは笑い者にされる。仮にガイアケロンやハーディアの首をコンラートが獲れば、それこそテオ様に言い訳できぬのは我らぞ」

「……」


 アベルは再び黙考の態度に戻ってしまったリモン公爵の足元に跪いた。

 同格の公爵家同士は略礼で済ませるのが習慣なので、この態度は極端な謙りだった。


「もしリモン家の名誉が傷つけられたとなれば、このアベルが全身で償う覚悟です。何もかも、僕の具申が原因。煮るなり焼くなり好きにしてください。コンラートではガイアケロン軍団に勝利できるはずがありません。必ず負けます。

 もしリモン騎士団が傷つくのを止められなかったとなればバース様やテオ皇子様に会わせる顔がありません。どうか……」


 カチェも無言のままアベルの隣に立ち、優雅な仕種で片膝を着いた。

 真摯な態度にリッシュもファレーズも口を噤んだ。

 父親の判断を待つ……。

 しばらくしてリモン公爵は重たい口調で語りだした。


「先代ウェルス皇帝陛下は哀れな方だ。皇后様とは子に恵まれず、だいぶ後になってから迎えられた第二婦人との間にコンラート様が生まれ、第三婦人がテオ様とノアルト様をお産みになった。腹違い、しかも別々に育てられたせいで必然的に疎遠となった。

 皇子らと臣下どもが各々協力するようにと苦心の連続。異なる意見の間で身を苛まれ、ついに心臓まで患われてしまった。ハイワンド家に公爵位を授けられたのもコンラート様の失敗を穴埋めする意味があった。領地や利権の大部分を失ったハイワンドに皇領を裂いて与えもした……。

 陰で批判する者もいるが陛下には、そうしたお優しさがあったのだよ……。確かに優柔不断ではあったが残虐な人柄ではなかった。配下が失敗しても厳罰に処すことは無く、罵りもしなかった。平穏な世ならば、善き皇帝と呼ばれていたであろう。王道のイズファヤート僭称王めが対等な外交を求めなどしなければ……。そのように儂は思っておる」


 リモン公爵は顔に深い憂愁を浮かべていた。

 長い間、皇帝と崇められていた相手の実像を知る者の辛さが滲んでいる。


「……もう夕方だが、今からコンラート皇子に会いに行くとするか。皇子にはこう言うとする。リモンばかりでなく他の貴族の態度を変えたければ今度こそガイアケロンと戦って勝ってみせろと。味方を捨て置き、逃げ出す皇子の背中は見飽きておるとな」


 もし本当に言葉通り伝えるのなら、それは侮辱であり煽り文句でもあった。

 ファレーズが目を剥き、慌てて進言する。

 額には大汗を掻いていた。


「親父殿! もはやウェルス陛下がいた頃とは訳が違うのですぞ! 単身コンラート皇子の元に行き、しかも批判まですれば命すら危ういかと」

「ファレーズ。アベル殿の目を見てみよ。命を使って大仕事に取り組む男の瞳。儂らも決断のしどころというもの……。ガイアケロンの軍団は、よほど恐ろしいと見抜いたようだ。我が子のような騎士どもが、元は名もなき同然の原野で死に絶えるとは苦痛に過ぎる。それにコンラート皇子が心を入れ替えたかどうかも見ておきたい。そう簡単に胎に勇気が入るのならば誰も苦労はしないが……」


 リモン公爵は椅子から立ち上がり、陣幕の外へ大声で声を掛ける。

 近習の騎士が入幕してきた。


「馬を用意いたせ。二十騎ほど付いてまいれ」


 慌ただしく準備が始まる。

 素性を知らしめるためにリモン公爵家の紋章が刺繍された軍旗も用意された。

 旗は戦場で個人を特定するという重要な目的のためにあるので、派手な原色であることが珍しくない。

 リモン家のそれは緋色の猪が二対で向かい合っている柄だった。

 夕焼けに照らし出されて、いっそう赤く映えている。


 ファレーズはまだ何か言いたそうだったが、父親の意志が固いと見て黙った。

 アベルはリモン公爵について行こうと考える。

 コンラート皇子という男が、どういう面をしているのか確かめておきたかった。

 それに焚き付けておいて後はお任せというわけにもいかない。


「リモン公爵様。このアベルも連れて行って貰えますか。身分は明かせないので従者のような立場として……」

「好きにいたせ。ただし、何があっても保障しかねるが」


 同じ皇帝国の勢力であるが、コンラート皇子の陣は敵中と呼んでもいい場所だった。

 リモン公爵は特に選んだ騎士と魔術師を引き連れて、素早く西を目指していく。

 アベル、カチェ、ワルトもその馬群に従った。

 先導者が魔光を発動し、夜道を明るく照らし出す。

 馬群は疾駆する。

 上手く行けば真夜中になる前にコンラート軍団と接触できると思われた。


 まずはリモン公爵への説得工作は成功した。

 だが、これからついに敵陣の内部へと潜り込む。

 いったい何が起こるだろうか。

 



 

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