第105話  皇帝死去

 




 皇帝国第三皇子ノアルトは速足で進む。

 隣にはドット・ベルティエやユーディット・イスファーンが並び、さらに後ろには直衛隊が十人ほど付いてくる。


 場所は皇帝城の中央回廊。

 天井には装飾された梁が肋骨状に並んでいて荘厳な気配を漂わせている。

 行き交う貴族や軍人はいずれも余裕はなく、慌てて目的地へ進んでいる。

 皇族が通過していることにすら気づかない者までいた。

 そして、それを咎める者もいない。


 皇帝城は不気味な動揺と期待に包まれていた。

 昨夜、ウェルス皇帝の病状は深刻化。

 宮廷典医たちの診断では、もう臨終も間近だという。


 つまり、いよいよ次代皇帝が選ばれるのだ。

 潜在的には三十年近く続いていた権力闘争に一つの決着が訪れるかもしれない。

 己の属している派閥は勝つのか負けるのか。

 そして、何をしたうえで、さらに何を拒否すれば利益を得ることができるのか。

 貴族の多くが、最も心を傾けているのがそのことだった。


 ノアルトは皇帝寝所に到着。

 皇帝護衛兵へ声も掛けずに扉を自ら開けて入室した。

 舞踏会でも開けそうな広い部屋。

 大理石の台、鍍金が施された柱で作られた豪華絢爛な天蓋付き寝台……そこで父親が死の床に伏している。


 すでに周囲には皇族、公爵、重臣らが群がっていた。

 寝台を挟んでぴったりと派閥ごとに分かれている。

 一方は長兄コンラート派。

 もう一方が次男テオ派。

 ノアルトは当然、兄テオの元へ行く。

 居並ぶ貴族たちを掻い潜り、大理石の寝台へと接近した。


 父親であるウェルス皇帝が絹の寝具に身を沈ませている。

 生来、病気がちだった父親は痩せていて枯れ木のごとしだった。

 宮廷お抱えの御典医イマームが脈を診ていたが、状態依然として良くないと長兄コンラート、次兄テオに告げる。


 ウェルス皇帝は手の仕種で何かを伝えた。

 皇室侍従長のコフィエ・ラシューマが何か準備を始めた。

 皇族、貴族たちは緊張を漲らせつつ静かに待つ。

 この状況で行われることと言えば遺言に決まっていた。

 ラシュ―マが懐から何か取り出した。


「これは十日前、皇帝陛下みずからが認め、私に託されたものです。ご封印のあることをお確かめくだされ」


 ラシューマは巻物を高く掲げて人々に見せる。

 青い飾り紐は複雑に結われていて、結び方を知らない者が勝手に解くと元に戻すことができない。

 ノアルトは封が確かに父親の手によるものと確認した。

 飾り紐がラシューマの手により外される。

 侍従長の職務であるところの読み上げを行う。


「皇帝国の貴族たちに告げる。第五十八代皇帝ウェルスはここに一つ申し渡す。栄えある皇帝国の後継者は、これを指名しないこととする。王道国との戦争を終結させるにあたって、最も功績の大きい皇族を次代皇帝にすること」


 貴族たちが仰け反るように驚き、また声を上げる。

 それはほとんど非難の色すら含んでいた。

 ノアルトも訝しむのみだ。

 後継者を決めない遺言など前代未聞だ。


 ノアルトは父親に苛立ち、それ以上に哀れむ。

 父はどこまでも優柔不断な性格で、死の間際でもそれは変わらないということだ。

 しかも、最も重要な仕事であるはずの次代を誰に託すのかということですら、決めようとしていない。


 父の性格は思い込みが激しく、さらに興味に偏りがあった。

 大きな問題でも関心が無ければ人に任せきりとなり、逆に些末な事へ執着する性質があった。

 散漫で、力の配分を間違った政治。

 それでも増大を続ける戦費に心を痛めている様子はあった。

 しかし、戦争を止める決断もできず、和平派に与する強い意思もなかった。


 ノアルトは父ウェルス皇帝の心中を想像する。

 本心では休戦交渉をするべきだと感じていたのではないか。

 しかし、戦争継続派の抗議を受け止める気力が、もはや無かったのかもしれない。

 心臓を患って、もうこの十年来は半分病人の生活を続けていた。

 

 いつも顔は疲れ切っていた。

 もつれた白い髯、面相は痩せて肌は青黒いほどだ。

 瞳にも生気はない。

 力なく死を待つばかりの老人だった。


 ノアルトから見て寝台を挟んだ向こう側に長兄コンラートが座っていた。

 周囲は派閥の重鎮に固められている。

 ドラージュ公爵、オードラン公爵、ベルレアリ公爵などの顔ぶれが揃っていた。


 久しぶりに見る長兄コンラートは強張った表情をしていて、三十歳という年齢にしては老けていた。

 ノアルトやテオとは母親が違っているせいか顔は全然似ていない。

 彼の顎は細く、性格の弱さを表しているかのようであった。

 腫れぼったく吊り上がった瞳は始終落ち着きがない。


 数年前、テオとノアルトを狙った暗殺未遂事件があった。

 街道を移動中、賊に襲われたのだった。

 これは返り討ちにしたが、直衛兵が三人ほど殺された。

 他には毒の入った食べ物が食卓に並ぶ寸前になったことが一度。


 コンラートが直接、命じたのかまでは不明だ。

 取り巻きが勝手にやったのかもしれない。

 だが、その事件以降、コンラートは決して兄弟たちと会わなくなった。

 推論すれば、勢いで暗殺を試みたものの失敗。今度は逆襲されるのではないかと恐れた……ということだろうか。


 コンラートの性格は父親の悪い面をさらに強化したようなところがあった。

 根拠のない夢見がちな方策を好み、猜疑心や嫉妬心も余りあるほどだった。

 そのくせ自分こそは皇帝に相応しい才気に満ちた英雄だと自認していた。


 戦争に負けて逃げたにもかかわらず、もっともらしい理由をつけて自己正当化している。

 軍団を纏める自分が殺されれば混乱が起こる。

 武人として死には潔しとするが、万が一にでも捕虜となれば禍根が深すぎる……。

 敵の策略により一敗地に塗れたがこれは神の試練であるので、自分はこの困難を糧としてさらに次代皇帝の器に磨きをかける……。

 そのようなことをコンラートは必死に主張していた。


 次の皇帝が決まらない。

 その異常な状況に声を上げる者がますます増えてきた。

 沈黙しているのはノアルトの他、バース公爵や兄のテオぐらいのものだった。

 驚愕の表情を浮かべたコンラートが寝台に縋りつき、父の傍で甲高く訴える。


「これはいかがしたことぞ! 父上! 長男継嗣は皇帝国の習慣ですぞ! なぜ、一方的に覆しあそばされる……」


 合わせて方々からウェルス皇帝に真意を訪ねる叫び声が上がる。

 しかし、御典医イマームはそれを遮った。


「陛下のお体に障りありまする! おやめくだされ! おやめくだされ!」


 遺言というのは本当にそれで終わりだった。

 イマームが騒ぎを止めようとしない貴族のもとへ静粛にするよう依頼して回る。

 寝所の中を再び、重苦しい沈黙が支配した。


 ノアルトは長兄が恨みと憎しみの表情で睨んでいるのに気がついた。

 まったく敵への視線そのものであった。

 どうせ汚い策略だとか、自分にこそ相応しい戴冠を邪魔されただとか、そうしたことを考えているに違いない。

 苦悩の中、何も決められなかったのはウェルス皇帝の本性に原因があるのだが……、そうしたことに気づける人物ではなかった。

 コンラートが椅子から立ち上がると、突然、上擦った声で演説を始める。


「これは皇帝陛下の試みである。つまり皇帝国を救う者が皇帝の座に相応しいと。我は父の御心を叶えてみせる。いま決めた。王道の悪鬼ガイアケロンとハーディアを討ち取ってみせる! そればかりではないぞ。他の僭称王族たちもみな我が滅ぼす!」


 コンラートの表情は熱っぽいものであったが、視線は空中一点を見詰めていて、それでいてどこも見ていないような奇妙なものだった。

 計算や狙いがあっての言上ではなく、ただただ瞬間的な激情によるところだったようだ。

 コンラートには英雄になりたいというより、すでに自らは英雄なのだという思い込みがあった。

 肥大した自尊心のなせる業だろうか……。


 興奮した様子のコンラート皇子をドラージュ公爵が宥める。

 エンリケウ・ドラージュは年齢五十一歳。

 ほぼ禿頭、太い褐色の眉、引き締まった相貌には野心を感じさせる生気があった。

 老練な駆け引きを得意としていて、実質、コンラートの最も有力な後見人だ。

 しかも、息女アデライドはコンラートの正妻なので義父にあたる関係である。

 コンラートが皇帝位に就けば、国の実権を掌握するのはドラージュ公爵になる可能性が高い。


 ノアルトの右前、寝台に近い位置に兄のテオが着座していた。

 兄はコンラートの寸劇にも心動かさずに、ただ静かにしている。

 皇帝寝所には帝室関係者、貴族たちがひっきりなしに訪れては入れ替わっていく。


 いましがた入室してきた黒い貫頭衣の男は第十階梯魔術師ロン・ローグだった。

 ローグ魔学門閥の総帥にして、皇帝国に存在する最高の魔術師と呼ぶ者もいる。

 すでに齢六十歳を超えようとしているロン・ローグは遠く離れた戦場に出ることはなく、皇帝城に錬学所を構えてそこで魔術の研鑽を続けていた。

 表に姿を現すことが稀な人物だ。

 その彼はコンラート派閥に属している。


 他にも皇帝親衛軍の将軍たちの姿も見える。

 皇帝親衛軍は皇帝直属の国営軍なので、皇帝が死去してしまえば頭を失うことになる。

 よって、以前からコンラート派につくかテオ派につくか、激しい工作と駆け引きが行われている。

 現在のところ、皇帝親衛軍の約四割はテオ派だったが、残りはコンラート派だった。

 皇帝親衛軍には主戦派が多く、和平派の人物が大勢属しているテオ派とは必ずしも関係が良好ではない。


 寝所にはまだまだ人がやってきて、小声で会話を交わし続けていた。

 ひとつひとつは大した声量ではないものの、全てが合わさると騒々しいというほどだった。

 誰しもが今後の損得、懸念について不安になっていた。

 そのとき動きがある。

 ウェルス皇帝が腕を中空に彷徨わせ、掠れた声で呻き、何事か口にする。

 みな、耳を傾けた。


「……最後ぐらい……静かにしてもらえないか」


 父が苦しみながら口する、人生を凝縮したような言葉をノアルトは聞く。

 栄華栄耀を極めた皇帝国の指導者が死にゆく時に、臣下たちは千々に乱れ騒いでいた。

 優柔不断な父親は家臣を厳しく律するということはしなかった。

 その成れの果ての状況だった。

 

 ノアルトは口元を引き締めて悲しみを堪えた。

 思えば哀れな父なのかもしれない。

 自分の能力を超えた立場、権謀術数を胸に秘めた配下たち。

 これら全てに翻弄された皇帝であったのではないだろうか……。


「高貴なる血統の粋にして果てたる私は……あらゆる事業を行ってきた……。すべて良心に基づいて施した。しかし、何事も困難で成せなかった。死に際してもこの有様は無念と言うに余りあり……」


 ウェルス皇帝はまだ何か言葉を続けようとしたが、何か意味不明な呟きを残して意識を失った。

 御典医イマームが脈を測るが、しばらくして両手を合わせて祈った。

 ついに皇帝が死んだのだ。

 侍従長コフィエ・ラシューマが弔意の宣言をする。


「ウェルス・ヘリオ・アヴェスタ皇帝陛下御崩御。本来ならば新皇帝万歳を臣下らは唱えるものでありますが、ご遺言によりその儀、執り行わず」


 ノアルトの隣に控えているバース公爵が岩のように表情を固めたまま手を合わせた。

 貴族たちが声高に議論を始める。

 対立する陣営へ罵倒のような文句を投げる者もいた。

 皇帝国の亀裂はいよいよ増していくのをノアルトは感じる。

 まるで暗い深淵に国が崩れ落ちていくようだった。


 葬儀についても、揉めに揉めた。

 喪主すら決まらないのであった。

 ありとあらゆる主張がなされたが、皇帝の弔いを遅延させるわけにはいかないという、ただ一点のみにおいて双方が妥協した。


 結局、侍従長ラシューマの調停案により全く二つに分けて葬儀が行われることになった。

 皇帝の葬儀というものは膨大な典例によって成り立つ一大行事なのだが、これについても混乱することになる。


 厳かで沈痛な弔いが一体の屍の中心として、二重に執行された。

 皇帝城で別れの儀。

 次に皇帝国執政院に遺骸は運ばれて、ここで帝都にいる全ての貴族が別れの儀式に参列する。

 やがて棺は帝都郊外の墳墓に葬られることになった。


 皇帝国の各地に早馬が派遣されて皇帝陛下死去の報せが走る。

 広大な領土の隅々まで悲報が伝わるのには時間がかかる。

 よって、知らせを受けた時点で国民や奴隷は五日間、喪に服すことになった。

 これは戦時下の特例で、本来ならば十日間に渡って続くことだった。

 期間の最中、結婚式などの祝い事は出来なくなる。


 ノアルトは兄に従い、葬儀の手配に奔走した。

 カチェとの件について禍根はない。

 祝賀会の翌日。ノアルトがカチェへの恋情を抑えられなくなって衝動的に行動したものの、即座に事情を察した兄とバース公爵に諫められた。


 ことにバース公爵の怒りを抑えた迫力には凄まじいものがあった。

 十八年の長きに渡って支え続けて来た私の努力を全て崩壊させるつもりなのですか……という文句から始まり、滔滔と理屈を述べられて、どうしてもカチェを望むのでしたら全ての問題が決着してからにしてくださいと締めくくられた。

 決着が訪れる時など十年後か二十年後かもしれない。

 諦めてくれという意味であり、そして、何の反論もできなかった。


 兄テオはあえて笑顔で言ったものだ。

 憤懣が溜まっているのだろうと。

 憂さ晴らしをすれば気持ちも変わる。

 身分を隠して遊べるところへ行こう……。

 それは五歳年下の弟への親愛に満ちた態度だった。

 過ちを反省したのならば、つぎには受け止めてやらねばならないという度量を感じさせてくれた。


 あの日以来、カチェの姿は見なくなった。

 武帝流にも姿を現さなくなり、彼女とアベルのことを気に掛けるものが大勢いた。

 二人そろって姿すら見なくなってしまったのは、どうしたことだろうと。


 祝賀会であの二人を見初めた者がいくらでもいたので話題は消えず、ベルティエなどは何度も問い合わせをされた。

 困った彼はノアルトにアベルとカチェの件を質問してきたが、これには聞くなと一言答えたのみだった。


 ノアルトは、カチェがどうなったのかバース公爵に聞いていない。

 あえて問わなかったということでもあるし、聞き難いという理由もあった。

 どこかで何らかの使命を果たしているのではないかと想像していた。

 ノアルトの恋心は消え去ったわけではない。

 むしろ、いまだに激しく燃えている。




 戦支度は急速に進められている。

 長兄コンラートは華々しい戦果を上げて、それを根拠として新皇帝を名乗るつもりだった。

 彼らは既に帝都を離れて東に移動している。


 テオとノアルトも支持者たちと合流して戦場に臨む。

 負ければ死もあり得るだろう。

 しかし、それでも進まねばならないのが皇族の義務だった。

 困難が待ち構えているわけだが、ノアルトとテオの意気はめげていない。

 むしろ勝ちさえすれば流れは完全に自分たちのものとなる。

 どれほどのことができるか試してみたい。


 慌てて出陣したコンラートの後をテオ、ノアルトの二皇子は地盤を固めつつ、ゆっくり進むことにした。

 皇帝国東部の街、アカドゥールに派閥の軍勢を集めることになった。

 戦費は膨大なものになるが、いま皇帝国の財政は二分された状態だった。

 徴税されて国庫に納められた資金はコンラートとテオによって分割されることになったからだ。

 いまや貴族たちは戦費を捻出するために借金をするのは当たり前で、家財道具や利権の一部を売ってまでして費用を作り出していた。


 本来なら軍から財政まで一体となって力を発揮するはずのものですら統一されてはいない。

 もっとも、王道国も王族同士の連携はあまりとられていない。

 だが、中央平原での敗戦はその虚を突かれた。

 あの戦いに限って王道国は極めて連携のとれた動きを見せて、結果的に皇帝国は敗北したのだ。


 朝、夜明け直前にノアルトは目覚める。

 アカドゥールの街は親テオ派のブロンデル公爵の領地であり、街の中心には城がある。

 その城にノアルト、テオ、それに幕僚らが集まっていた。


 ノアルトは軍服に身を包む。

 艶のある濃紺の上着に金の飾りがいたるところに付いている。

 下穿きは純白の絹で、整った脚線があらわれていた。

 胸には権威を表す勲章をいくつもぶら下げ、腰に帯びた細身の長剣には精巧な文様が施されている。

 背には黒いマントを羽織った。


 朝食は取らずに郊外の軍陣へベルティエら側近たちと馬で移動する。

 兄テオは街に残って人と面会し、議論を重ね、政治方面の会議を受け持つ。

 ノアルトは軍勢の訓練である。

 皇帝親衛軍にしても貴族の部隊にしても練度に差があった。

 これは放置したまま戦場に赴けば、致命的な結果を引き起こすかもしれなかった。

 いまは出来ない事を減らして、出来ることを増やすのに専念すべきだった。


 平原に兵士たちが戦列を作り、旗が連立している。

 皇帝国旗、親衛軍の連隊旗、中隊、小隊……それから客将の立場で個人旗を掲げている者もいた。

 支持者の全軍が集まっているわけではない。

 広大な国土、属州を持つ皇帝国は各地に防衛兵を配置せねばならず、主戦場へ派遣できる兵数は限られる。

 その戦力ですら、二派に分かれている状態だった。


 ノアルトの眼前に展開するのは皇帝親衛軍の各種歩兵三万。騎兵五千。

 それに公爵勢の歩兵三万。騎士によって編成された騎馬隊四千。

 馬を駆って懸命に軍勢の中を行き来し、大声で叱咤するノアルトは兵卒から将に至るまで人気があった。


 享楽的な雰囲気など僅かも感じさせない面相に煌びやかな服装。

 鋭い意志を感じさせる号令は良く聞こえる。

 皇族としての風格に軍人としての溌溂さが溢れていて、しかも必死さまで感じさせた。


 派閥争いに否定的な武人や貴族たちですらその様子を見て、将器ありと好感を抱くようになる。

 そればかりでなく貴婦人や高名な詩人などもその魅力に惹かれて集まるようになった。

 期せずして陣営は華やかなものとなる。

 商人や文化人も巻き込んだ人脈ができあがりつつある。


 華麗で賑やかな周囲とは裏腹にノアルトの心中は嵐のように激しく熱していた。

 兄テオが皇帝になるためなら、全てを投げ打つ覚悟を持っている。

 それに、いまだ消えないカチェへの想い。

 彼女がどこに消えたのか分からない。

 会えないからこそ気になる。

 諦めろと言われ、たしかに理屈では理解していても呑み込めない気持ちを持て余していた。

 根拠はないのだが苛烈に行動していれば、いずれは再会できるような気がしていた。

 そうして、軍勢の訓練は二十日間ほど続けられた。


「ノアルト様」


 婚約者のカミーラが訓練を終えて城に帰還したノアルトの腕を取る。

 彼女はノアルトが心配だという理由で帝都からここまで付いて来ていた。

 しかし、どうやらその本心はノアルトに魅力的な貴婦人が近づくのを恐れたことによるらしい。

 甘ったるい香水の匂いにノアルトは眉を顰めた。


「もうじき調練も済む。君はここから帝都に引き返すのだよ」

「ノアルト様……。カミーラは悔しゅうございます。年末には結婚式の予定でございましたのに。なんでも帝都にお戻りになられる時期すらも決まっていないそうではありませんか」

「仕方あるまい。国難だ」

「それにしてもアカドゥールというのは田舎で驚きましたわ。薔薇の香水が九種類しか売ってございませんの。帝都では三十種類の中から選びましたのに。ここより東などどんな恐ろしいことになっているのでしょう。もし、ノアルト様になにかあれば、このカミーラ……おかしくなってしまいそう!」


 大げさな身振りでカミーラが震える。

 塔のように盛り上げた金髪がふらふらと揺れていた。

 ノアルトは感情を押さえつけてカミーラの肩を掴む。

 心中では怒鳴りつけてさっさと帰れと言いたいのだが、我慢しろと己に言い聞かせていた。


「戦場では一滴の香水も売ってはいない。カミーラの身が危険になるのは私が耐えられない。早く帰るんだ」

「……その前にここでお別れの宴を開きたくございます。バルボア家の家令に手配をさせていますから、こちらに出入りしているご婦人方をお招きして、わたくしとノアルト様の美しい愛を知らしめたく思います」

「その話か。みな多忙であるから断ったはずだが」

「いいえ。それではこのカミーラ、立場がありません。こんなにも美しい愛を誓い合ったわたくしたちは、結婚式も上げられずに別れなければならないのです。せめてそれを周りに知り置いていただきます。皇帝国の歴史に残る悲劇ですわ」


 こうなるとカミーラが退くことはない。

 自己顕示欲にまつわる事に関しては、絶対に妥協しないのだ。

 かくして戦支度で忙しい最中、つまらない宴で一日が潰れることになってしまった。


 ノアルトは戦場を想像する。

 長兄コンラートはリモン公爵領に隣接するベルレアリ公爵領に駐屯している。

 そこで一定期間、練兵したあと王道国のいずれかの軍団に挑むらしい。

 敵を叩けば絶好の宣伝にもなるだろうが……手強い相手だ。

 それにも関わらずコンラート派閥は兵力で上回れば勝機のある相手だと考えているらしい。

 約六万人からなる大軍を編成しつつある。


 テオとノアルトの攻撃対象は始めから決まっていた。

 将来の秘密同盟を目論んでいるガイアケロンとは極力戦闘はしない。

 目標とするのはイエルリングとディド・ズマの傭兵軍団である。

 それから第二王子のリキメル。

 これらの敵は旧ハイワンド領の南に存在していたベルギンフォンやレインハーグの領地に展開している。

 ここ一年は小部隊による小競り合いが多かったが、いよいよ反転攻勢だ。

 だが、相手も戦力を増強して待ち構えている。


 大部隊を展開させても、相手の主力に接近しないかぎり合戦は発生しない。

 しばらくは様子見、今まで通りに小部隊による戦闘を繰り返したうえで乾坤一擲の作戦となるだろうか。

 あるいは王道国が積極的に攻撃を仕掛けてくるかもしれない。

 そのときは有利な地形を占有しておいて迎撃する。

 ノアルトは、それにはどこが良いだろうかと脳裏に地図を思い描く。

 思考をカミーラの甲高い声が遮った。


「ノアルト様! カミーラは悲しみで胸が張り裂けそうですわ。髪を一房、首飾りに入れてお渡しします。戦場ではずっとそれをつけていてくださいましね」

「分かったよ……」

「このカミーラ。魔法の心得もありますゆえ、いざとなればお力になります。ええ、そうですとも。夫のためなら戦いもしますわ」

「突飛なことを言わないでおくれ。戦場では泥まみれになるものだ」

「いいえ。いいえ。カミーラは本気です」


 ノアルトは目を閉じて首を振る。

 このままいくとカミーラが戦場までついていくと言い出しかねないので説得しなければならない。


「花が汚れていけない。私に美しいものを守らせておくれ」


 彼女が頬を上気させて撓垂れ掛かってきた。

 これも皇族の務めとノアルトは諦めて婚約者を抱き締める。


 テオとノアルトの軍勢は十五日後、皇帝国南東部へと進撃した。

 主にイエルリングの軍団が蠢いている地域だ。

 コンラートの軍団は皇帝国東部、もとのハイワンド領の奪還を目指すらしい。

 同じ国の軍隊だというのに連携は全く取れていない。


 ノアルトはまずまずの仕上がりを見せている軍団を満更でもない気持ちで眺める。

 後は使命に従って自分のやるべきことを実行するのみ。

 ノアルトは死ぬ前にもう一度、カチェと会えるだろうかと想像してみる。

 答えなど出ない。

 せいぜい恥ずかしくない男にならなくてはならない。


 歴史が巨大な渦を巻き、庶民も貴族も関係なく呑み込んでいく。

 大部分は混沌に消えて、僅かな者だけがその中で光を放つだろう。

 ノアルトは自分が濁流に呑まれて消えるのか、それとも飛翔できるか、賭ける覚悟を決めていた。

 いずれにしても自分の運命に逆らってまで生き延びるつもりはなかった。

 そうでなければ皇族としてふさわしくないというものだ。





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