第92話  旅立ちは風のように





 カチェは浅い睡眠と覚醒を繰り返す。

 そうしている内に、庭から小鳥の鳴く声が聞こえてきた。

 朝、一番の鐘が鳴る。

 起き上がる気力もなかった。

 アベルの見送りなんかしたくもない。

 きっと泣いてしまう。


 朝食を知らせに来た女官を追い返した。

 体調が悪いから寝ていると言う。

 毛布を被って目を瞑る。

 アベルは、もう出発してしまったに違いない……。

 手の届かないところに行ってしまう。


 女官が何回か声を掛けてきたが、声を荒げて近寄らせなかった。

 そんな風に時間だけが過ぎていく。

 カチェが呆然と天井を見つめていると、再び扉を控えめに叩く音が聞こえた。

 それから少しだけ開かれた隙間から、緊張した声色で女官の声がする。


「ノアルト皇子殿下付き、直衛隊長ドット・ベルティエ様がお見えになっております。昨日の約束の件ということですが」

「……分かったわ。ちょっと待っていて」


 カチェはノアルト皇子が何か話しがあるというのを思い出した。

 体も気持ちも極度に落ち込んでいるが、皇子の頼みでは断るわけにもいかない。

 のろのろと動きやすい普段着に着替えた。


 ゆったりした象牙色の下穿き。上は白い絹のシャツ。

 革の胴着を身につけた。

 帯剣はしない。気持ちが落ち込んでいるせいで億劫だった。

 小さなエメラルドのついた首飾り。気に入っているので、それを首に掛けた。

 ついでに西方商友会の登録証を胴着の小物入れに突っ込む。


 姿見に自分の姿を映す。最低限、見苦しくない程度に髪を手櫛で整える。

 扉を開けるとベルティエが廊下で待っていた。いつも通り、自信に満ちて溌剌とした態度だった。


「すみません。カチェ様。すぐに済むそうなのですが」

「はい。それでは行きましょう」

「昨日の祝賀会は大成功ですよ。来客者たちは皆、ハイワンドを讃えていました」

「そうですか……」

「テオ様とノアルト様に勢いがあると誰しも感じたはずです」

「政治の事はよく分かりません」

「ノアルト様は、もしかするとカチェ様を直属の配下として抜擢するつもりなのかもしれない」

「え……」

「貴方と共に働けるのなら俺にとっても喜びです。共に皇子を盛り立てましょう!」


 何と答えればよいのか分からず、カチェは曖昧な笑みを浮かべた。

 以前なら喜んで受けるような話であるはずなのに……。


 大邸宅の二階東側にある貴賓室へと移動する。

 扉の前では直衛隊の兵士が四人ほど、厳重に警備をしていた。

 ベルティエがノックをすると、中から声がある。


 カチェのみ、ゆっくりと入室した。

 扉はベルティエが閉めてくれた。

 部屋の中央あたり、ノアルトが椅子に座っている。

 服装は白絹の上下で、大きな襞があしらわれていた。陽光を受けて、眩しいほどに白い。


「ノアルト様。カチェ、ここに参りました。ご用向きはなんでしょうか」

「ま、まぁ、座るといい」

「……」


 着席を促されたので、そのまま勧めに従う。

 皇子の発言を待つのだが、どうしたわけか言い淀んでいた。

 お互いの沈黙は続く。カチェは辛抱強く、待った。


「カチェは……側室というものを知っているかな」


 知っているも何も、自分こそが側室の子だった。

 父ベルルには正妻がいた。しかし、夫婦仲は悪く、正式に離縁しないまま愛人を設けた。

 その愛人こそ、自分の母だとカチェは考える。


「わたくしは妾腹の子でございます」

「側室というのは必要なものだ。身分高貴な者ほど婚姻はいささかも本人の自由にはならない。結婚した後も跡継ぎを絶やさないために子作りに励まねばならぬ。子が無いのなら、お出来にならない男と陰で蔑まれるわけだ」

「……」

「子をなすのは女の仕事とよく言われるが、とんでもない。好きでもない女を抱く行為など、男にとっても大変な労働なのだぞ。苦痛と言っても良いだろう」

「……かといって、側室が素晴らしいことですか? わたくしの兄たちとは今でこそ少し交わりもありますが、幼い頃はほとんど顔を合わせることもありませんでした。それに正妻様との関係は最悪ですよ。向こうは、わたくしや母を仇のように思っているようです。それから側室というものは、往々にして立場がないものです。主人の愛情のあるうちはよいでしょうけれど、当家のように行方不明となれば居場所など無いも等しく。現に、わたくしの母も祝賀会には出席していませんでした」

「そ、それは……それはベルル殿の差配が悪かったのだ」

「そうかも、知れませんね……」


 カチェは答えたきり、会話を繋げようとも思わなかった。

 何の用事なのだろうか。側室の話題など何故するのだろうか。

 不審を感じつつあった。


「俺は……俺はそんなヘマはしない。聞いてくれカチェ」

「はい。なんでございましょうか」

「俺はカチェを愛している。本当だ。適当なことを言っているわけではない。あらゆる非難や問題を差し置いても、君が欲しい。我慢できないのだ」

「……」

「だから愛妾にしたい。いや、本当は正妻にしたいぐらいだ。公爵家の者で、なおかつ功労者の君を一段低い立場に置くのは、礼を欠いていると理解している。だが、俺は出来る限りのことをする。許して欲しい。皇族は家臣にものを頼むということは無い。だが、慣例を無視して、請うぞ。俺のものになってくれ」

「……え?」


 何を言われているのか理解できなかった。

 愛妾?

 カチェは困惑の極みだった。


「返事は良しとしてくれるな」

「……ま、待ってください。ノアルト様にはカミーラ様という素晴らしい婚約者がいらっしゃるはず」


 ノアルトは面相を悲しげに歪めた。

 拳を震えるほど握りしめる。


「政略結婚だ。それ以上の意味や価値などない。これでも、ありとあらゆる苦痛を耐えてきたつもりなのだ。しかし、カチェのことだけは我慢できない。分かってくれ! 俺のものになってくれ!」

「カミーラ様は、本心からノアルト様を愛しておられました。幸福そうでした」

「それは向こうだけは満足であろう! 皇族と婚姻するのは貴族最大の功績となるからな。あいつは俺の地位を愛しているのだ。俺を愛しているわけではない。俺にしてみれば無数にあった選択の中から……たまたま、あいつになっただけのこと。それに決めたのは兄と重臣たちだ。俺の意見など、無いに等しい。皇族などと褒めそやしたところで女一人とて自由に愛すことができぬ」


 ノアルトの目には激しい情熱が燃えていた。

 何をするか予期できない。


「もうすっかり諦めていたところに君が現れた。昨日の舞踏会。俺の心は痛んだぞ。君がどこかの男と一緒になって、結婚してしまうと考えたら……居ても立ってもいられなかった。俺は、だから覚悟を決めたのだ。俺の覚悟に対して、答えを聞かせろ」

「考え直してください。まだ、結婚もしていない内に愛妾など持ったら……」

「俺が何とかする! 俺はバカじゃない。それぐらいのことは弁えているつもりだ。機を見て、必ずしっかりした立場をカチェに与える。兄が皇帝になれば、俺は皇弟となり、この国で二番目の権力を持つ。何とでもなる。バルボアもカミーラも、所詮は金と地位と権力が欲しいだけ。与えてやれば黙るさ」


 そんなわけがない。そうカチェは思った。

 直感が激しく訴えていた。これは危険だ、と。

 今、自分に巨大な運命の力が働いているのを自覚する。

 このままノアルトの熱意に絆され、望むまま愛妾にでもなってしまえば……絶対に悪いことが起こる。

 バルボア家から憎悪の限りを注がれることになるのは、あまりに明白ではないか。

 ノアルト皇子は激情のあまり冷静さを失っている。

 何とかしなくては……!


 とりあえず祖父に相談しようと思いつく。

 人生の辛苦を味わい尽くしているような祖父なら、きっと正しい判断をしてくれるだろう。


「あっ。あの……今すぐに返事をするのは無理です。ノアルト様」

「どうしてだ! 俺はすっかり覚悟を決めているのだぞ。良い返事をどうしてくれない? 応ずる以外の答えなど、俺は聞きなくない!」


 カチェは、この自暴自棄なほどの愛情とも感情の塊とも言えるものの、せめて半分でもアベルが持っていてくれればと思わずにはいられなかった。

 いや、きっと持ってはいるのだ。しかし、それはイースに注がれ続けている……。

 どんな結果になるにせよ、ここまで強い気持ちを向けてくれたこと自体は感謝すべきなのだろう。

 受け止めることは出来ないけれども。


「……困ります」

「カチェはまだ生娘だ。男を知らないから分からないんだ。俺は戦争も経験した。生死の儚さを知った。愛した女から裏切られたこともある。だから、そこらの男よりも遥かに愛を知っている。愛とは、独占することだ。他の者に渡さぬことだ。いつ終わるとも知れない短い一生で、相手を抱き締めて離さぬことだ。激しく愛せば、当然、行いも激しくなる。穏やかな愛などあるものか。愛とは命懸けになれることを言うのだ!」


 真っ直ぐな刃に突き刺されたようだった。

 愛とは、命懸けになれるほどのものだからこそ愛である。

 その説明だけには共感できた。

 心に去来するアベルの面影。

 あいつのためなら、命を捨てることになっても後悔などない。

 つまり、やっぱり自分はアベルを愛しているのだ。


 ノアルトの目は据わっていた。

 意志の弱い人間ではない。

 必要なら力で物事を解決する気力を湛えた人物だった。

 ならばと、カチェも覚悟を決める。

 これからは戦いだ。

 すなわち、先手必勝。


「わたくしは愛妾にはなりません。ノアルト様に剣で仕える気持ちはありましたが、体を捧げるつもりなど少しもないのです。分かってください」


 それからカチェは席を立った。

 そのまま部屋を出ようとしたが、後ろから肩を掴まれた。

 ノアルトが強引に口づけをしようとしてくるので、手の甲でそれを払った。

 さらに力をこめて肩を掴んでくる。

 カチェは素早く直下に体を落とすとノアルトの足首を取る。

 気合いを入れて叫んだ。


「があぁあぁあぁあ!」


 渾身の力でノアルト皇子を引っくり返した。

 ノアルトは己の視界が天地逆転したのを、奇妙なほどゆっくりとした感覚で捉えた。

 床が目の前にある……。

 背中が石の床にぶつかる。

 激しい衝撃。

 脳裏に火花が飛び散ったようだ。


 無理矢理、半身を起すとカチェが窓から表に飛び降りたところが見えた。

 慌てて追いかける。

 ノアルトは二階から地上を見下ろしたが、そこにはカチェの姿は見当たらなかった。

 どこにもいない。

 唖然とする。

 皇帝国の皇子たる自分をブン投げて、窓から逃走……。

 なんという大胆不敵な女か。

 扉の向こうから問い掛けがある。


「ノアルト様! いまの物音はなんでございますか」

「何でもない! ふざけていただけだ。気にするな!」


 皇族に対する不敬は、罪である。

 しかし、カチェを罪に問えるはずもなかった。

 誰にどう訴えろというのだ。

 探さねばと、ノアルトは決意する。

 この邸宅にいることは確かなのだ。

 絶対に説得してみせる。

 決してベルティエらに見つかるわけにはいかない。男の誇りが掛かっていた。

 ノアルトも窓から身を乗り出して、そのまま下に飛び降りた。

 受け身を取って、転がる。

 少し足が痺れたが、どうということもない。

 カチェはどこへ行ったのか……。


 カチェは全力疾走で召使い用の裏口に向かう。

 警備の者に声をかけた。


「入りますよ」

「あっ。カチェ様? なぜ、玄関ではなくこちらから……」


 無視してカチェは中に入る。

 厨房や倉庫の脇を通り、素早く召使いのための廊下から階段へと移動した。

 主人や来客者への不作法とならないように、廊下から階段に至るまで使用人専用の通路がある。

 そうした通路の出入り口は客人の目につかないように壁の羽目板を利用して作られていた。

 当然のことだが普段は閉じられている。

 よって一見したところでは、どこに出入り口があるのか分からないのである。

 カチェはアベルにも放っておかれた時間、退屈を紛らわすためにそうした通路を全て調べ尽くしてあった。


 何事かと目を見張る小間使いを横にしてカチェは二階に上がる。

 執務室から一番近い出入り口までやってきた。

 羽目板を押すと、少し反発してから手前に開いた。

 カチェは隙間から身を滑らして、一直線に執務室に飛び込む。

 ケイファードと、見覚えのある貴族が四人ほど控室の椅子に座っていた。

 おそらく面会待ちの人々だろう。

 カチェは態度を取り繕い、優雅に挨拶をした。

 貴族たちは立ち上がり、丁重に挨拶をしてくる。

 ケイファードの元に何でもない風を装い近づき、耳元で言う。


「お願い。急いでお爺様と話しをさせてちょうだい。一刻も早く」


 ケイファードは何かを察して、頷く。

 軽く扉をノックして、短く遣り取りをしてからカチェに目で合図をした。

 カチェは中に入る。

 執務室には祖父バースとテオ皇子が二人だけでいた。

 紫檀の机に走り寄って、テオ皇子に一礼する。


「どうした。カチェ」


 カチェはバースの耳元で囁く。


「信じられないようなことになりました。ノアルト皇子様が、わたくしを愛妾にしたいと口説いてきました。もし了承などすればカミーラ様は憤激し、わたくしを有らん限り憎むことでしょう。バルボア家と大変なことになってしまいます……!」


 バースは表情を押し殺したが、戦慄したといっていい。

 やっとのことで成立している協力関係。

 それはさながら、砂糖菓子の城であった。

 甘味を求める蟻たちが群がりはするが、簡単に壊れる柔いもの。


 もし、ノアルト皇子の愛妾にカチェがなりでもすれば、バルボア家から激しく恨まれるに決まっていた。

 確実にバルボアの協力を失うことになる。

 そればかりでなく、あらゆる貴族たちからハイワンドは油断ならない狡猾な家と睨まれるだろう。

 激しい不信と嫉妬を生むのは間違いない。

 何があっても信用を失うわけにはいかなかった。


「お爺様。わたくしはノアルト様に少々無礼を仕出かして逃げました。とにかく、ここは距離を置くべきです。しばらく身を隠しますから、あとで連絡をするということでよろしいですね」

「おお……カチェ。お前の賢明さがこれほどありがたいと思ったことはないぞ。よくノアルト様の誘いを退けてくれた」

「わたくし、愛妾なんて嫌ですもの。それでは、あとをお願いします」


 カチェは身を翻して、優雅な仕種でテオ皇子に挨拶をすると退室していった。

 バースはテオ皇子に向かい直り、言う。


「大変なことになりました。どうやら、儂の孫は傾国の美女になりかけたようでございます」

「ほぅ。面白そうな話しだな。詳しく聞かせろ……」

「はい。ぜひともテオ様には弟君の説得をしていただかなくてはなりません」




 ノアルトは目を血走らせながらカチェを探す。

 召使いが出入りする通用口にいた衛兵に聞けば、そこからカチェは中に入ったという。

 邸宅のどこかにいるのだ。

 うろうろと探し回るよりは、良い手を思いついた。

 きっと自室に戻るに違いない。

 部屋の前で待っていよう。ノアルトはそう思いつく。

 召使いたちが業務で使う通路のことなど、僅かも想像しなかった。


 カチェはノアルト皇子と鉢合わせになることを避けるため、再び召使い用の通路を歩む。

 次に訪ねるのはモーンケの部屋だ。

 最寄りの隠し扉を開き、目的の部屋の前まで来た。

 警護の騎士がいたものの、カチェを認めると畏まって挨拶をしてくる。


「モーンケ兄さん! カチェよ。用事があります。開けて」


 なかなか扉は開かない。もしかしたらノアルト皇子が来てしまうかもしれないと苛々しながら待つ。

 しばらくすると昨晩の宴で浮かれるまま酒を飲み過ぎて、二日酔い気味のモーンケが出てきた。

 急いで中に入る。


「なんだよ。珍しいな。お前が来るなんて」

「分け前をください。旅の途中で手に入れたお金とか戦利品よ!」

「おいおい。な、なんだよ。藪から棒に」

「お金がいるのよ!」

「あ、あれはお前……。俺が増やしてやるから。ちょうど利殖の上手い商人が見つかってよ。これが儲け確実って寸法なんだわ」


 カチェは右の拳を堅く握りしめた。

 腰に力を入れて、モーンケの腹に拳骨を叩き込む。

 兄は、くぐもった重い呻き声を出す。

 海老のように体を折り曲げた。

 目ん玉、飛び出そうな顔。


「わたくしの言っていること、理解できますよね? とりあえず財布を出してください」

「カチェ……強盗……」

「人聞きの悪いことを言わないでください。お兄様が独り占めするのがいけないのです。それで? 今度も腹がいいですか。それとも顔?」


 妹のどこまでも冷徹な視線。

 腹の奥深くまで、ずんと突き刺さった拳骨。

 内臓が、たったの一撃で悲鳴を上げていた。

 もう一発、こんなものを食らったら胃袋が爆発してしまう……!

 モーンケは慌てて懐から金の入った袋を取り出す。

 カチェが中身を確認すると、金貨が十枚。銀貨が数十枚といった感じだった。


「アベルの分もいるわね」


 冷静にモーンケの指に嵌っている指輪を全て奪う。

 金の台座に、赤や緑の宝石の粒が煌めいていた。


「お、おい。そいつは名工キップ・ヤップの一級品で……」

「ありがとう。兄さん。それじゃ、もう行くわね。ロペス兄様を上手く支えてあげて。二人でならハイワンドも安泰ですから」


 カチェは自室に戻らないことにした。

 一刻も早くこの場から離れた方がいい予感がある。

 迷うことなく窓から飛び降りると厩舎に向かって走る。

 モーンケは妹の所業にショック状態となり、ただ力なく床にヘタることしかできなかった。

 

 カチェは厩に駆け込んだ。

 顔なじみの馬丁に普段通りの様子で挨拶して、いつもの馬に馬具を付けさせた。


「ちょっと気晴らしに庭を走らせるわ」

「へい。ようございますな」


 カチェは馬に跨るとアベルの家に向かう。

 もう昼近くになっているから、いるはずはなかったが何か手掛かりがあるかもしれない。

 林の中を進むと、こじんまりとした質素な建物が現れた。

 馬を玄関の前で止めて、下馬する。

 思わず力の篭った調子で扉を叩いてしまった。

 中から叔母アイラとツァラが出てきた。


「カチェ様。どうしたのですか」

「アベル! アベルは……」

「……今朝、出発しました」

「任務ですね。どこに行ったか分かりませんか?」

「言ってはいけないことになっているのですが……」

「お願いです。アイラ様。教えてください!」


 カチェの、あまりも切実な様子にアイラは抗しきれなかった。


「旧ハイワンド領です。シャーレと薬師の夫婦を装って潜入するそうです」

「……! なるほど。なんとなく任務の内容が見えてきましたね。アイラ様。このカチェ、心より感謝いたします」

「どうするつもりですか?」

「アベルの背中を守るのは、わたくしです! 放っておくと、あいつ……どこで何をやらかすか分からないのですから。任せてください!」


 カチェは足元にいる幼い従妹ツァラを抱きしめた。


「ツァラとはもっと遊んであげたかった」

「カチェさまも、たびにでるのですか?」

「そうよ。わたくし、旅をしているほうが楽しいの。貴方もいずれ自分の生き方を見つけることがあるでしょう。それでは元気でね」


 馬に乗って手を振り、別れた。

 頭の中には主要な街道が思い浮かぶ。

 シャーレがいるのなら、旅路は安全な道を選ぶ。わざわざ遠回りするはずがない。

 それに西方商友会の施設を利用する可能性も高い。

 手掛かりはあるのだ。必ず追い付ける。


 カチェは正門へ馬をつけた。もしかしたらノアルト皇子がいるかもと恐れたが、幸いなことに姿は見えない。

 騎士や衛兵たちが警備をしている。


「カチェです。小用で出ます。開門せよ」

「お供はどうされましたか。まさか単騎で?」

「余計な詮索はしなくてもよい。バース公爵様の許可はあります。開門を早くしなさい」


 支配者の血筋を感じさせるのに充分な気迫をこめて命ずると、衛兵たちは重たく大きな門扉を開けた。

 カチェは外に出る。

 これは、それまでの人生から解き放たれたことも意味した。


 息を大きく吸い込む。

 気力、魔力が充溢していた。

 何かを失うことは、同時に何かを得ることでもある。

 だが、自分の場合は得るものばかりだ。

 アベルの隣で人生を切り開く。

 逃がすものか。





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