第91話 華麗なる貴族世界
アベルは大邸宅の正面玄関に向かう。
客を迎え入れるそこは贅を尽くして飾り付けられていた。
美々しい布が張り巡らされ、百合や薔薇の大輪が無数に配置されている。
豪華絢爛。まさに華やかな大貴族の祝い事という雰囲気。
まず招待客の内、貴族が午前中に訪れるからロペスやアベルは玄関でお出迎えするのである。
やってきた客は邸内の席に案内され、しばらく待つ。
正午を僅かに過ぎた頃合いを目指して第二皇子テオと第三皇子ノアルトが来るので、その際には主催者全員と招待客の貴族たちで来駕の出向かいをしなければならない。
だから玄関は重要なのである。
家令のケイファードやバース公爵が心血注いで美しく装ったわけだった。
バース公爵だけが玄関脇に設置された重厚な紫檀の椅子に座る。
ロペスはその右隣、あとは序列に従ってハイワンド家の者が並ぶ。
アベルはカチェの隣。序列第四位であった。
それより以下はいない。
ウォルターは相続を拒否している立場上、一族から離れた立ち位置だった。
スタルフォンなど騎士団の幹部たちと同じところにいた。
こうして一目で、誰がどういう地位なのか分かるようになっている。
お出迎えの場というのは、自己紹介や家の状況の説明でもあるわけだった。
騎士団の幹部たちも羽飾りを付けた冑などで派手に武装している。
選抜された騎士が五十人ほど整列していた。
やがて貴族たちの来訪が始まる。
最初に来たのはリモン公爵家の当主一行だった。
リモン公爵は伯爵盟軍の総司令官も務めたことがある人物で、今は王道国の攻勢で領地の一部を失っている。
たびたび敵の攻撃を受けて危機に瀕しているのでハイワンドとは立場が似ていた。
それゆえ非常に緊密な家同士だった。
リモン公爵と夫人。三男のリッシュにその妻。
次女、三女などが馬車に乗ってやってきた。
アベルたちは笑顔で挨拶。
リッシュとは乗馬遊びをしたこともある仲だ。
普段から交流のある人たちなので、くだけた雰囲気である。
「よぉ。アベル! 服が似合っているぞ。趣味がいいな。びっくりした」
「これはカチェ様が選んだから」
「最初はとんでもない道場破りが来たもんだと思ったけれどな。さすがは誉れ高いハイワンドの身内。どうりで強いわけだ。アベルならきっと出世できるぞ。いずれは軍団長さ」
リッシュは次に隣のカチェに挨拶をした。
「やぁ。カチェ様。なんと、今日は一段と美しい! このリッシュ……言葉がでない。帝国貴族で最も美しいとしか言えません」
「ふふ。褒め過ぎですよ。かえっておかしいです」
「いえ。誇張ではありません。武帝流の主だった独身はみんなカチェ様の守護騎士を務めたいと言っています。無理もないのですが側仕えのアベルがいてはね、なかなか難しいことでしょう」
「えっ……」
リッシュは意味ありげに微笑んで、次のモーンケへと移って行った。
アベルはその後も次々と現れる貴族たちに挨拶を続ける。
やって来るのは公爵家だけではなくて伯爵家、子爵家、男爵家などなど総勢八十家にも及ぶ。
頭数で約三百五十人。
もう、大変な騒ぎである。
そして、これは明確に反コンラート派閥の宴でもあった。
損得勘定で派閥に加わった者もあれば、真に国を憂いて第二皇子テオらを支持している者もいた。
あるいは派閥に引き込みたい意図があり招待した客もいる。
権謀術数が渦巻き、欲望が入り乱れる場でもあった。
大邸宅の内部にある大広間と、そこと隣り合わせになっている会堂に招待客が誘導されていく。
招かれた客人たちが互いに挨拶をして回っていた。
賑やか極まりない。
貴族は縁戚関係である場合も多く、久しぶりの再会に話しも弾むようだ。
派手に着飾った貴族たちの間を縫うようにして給仕たちが飲み物を配っていく。
招待された貴族たちがまず話題にするのが、生還したハイワンドの若者たちである。
長男ロペスの容貌魁偉なこと、見事な武者振りであることなど。
それから、なんといってもカチェの美貌は、あらゆる人間を興奮させた。
紫水晶の瞳に見つめられれば胸が高まり、甘美な頬に夢中となる。
微笑みを向けられれば心が躍るようであった……。
貴婦人たちは半ば嫉妬しながら、その健康的で輝くような肌を褒めた。
独身男性たちは、いまだカチェが未婚かつ婚約者もいないという状況に歓喜する。
あれほどの美しさと公爵家令嬢という高位の立場を持った女性を手に入れられる機会が、俺にもあるのではと喜び勇む。
未婚の令嬢の中にはアベルを気にかける者もいた。
立ち位置からハイワンド家の継承権を有している人物であることが知れる。
まだ少年、あるいは青年と呼んでもよいかもしれない。
均整のとれた体つきをしているので鍛えられているのが分かる。
物腰は丁寧で、群青色の瞳には落ち着きがあった。
整った鼻梁や頬。
顔立ちは端正そのものだが、少しもひ弱な印象がなかった。
どこか陰のある雰囲気を察した者もいる……。
どういう人物なのだろうと華やかに着飾った令嬢たちは好奇の念を抑えられずに噂するばかり。
午前中、アベルたちはひたすら客人を迎え入れる。
バース公爵なども普段は冷厳で傲慢なほどの佇まいであるのに、今は徳のある笑みを絶やさない。
そうしていると穏やかで頼れる実力者という雰囲気であった。
正午の鐘が鳴る。
ハイワンド一族、騎士ら、来客者たちも全員が一人残らず庭園に出ていた。
皇族を待つ。
先触れの使者が馬に乗ってやってきた。
赤い飾毛が鮮やかな冑が目立つ。
陽光で白鋼の鎧が鏡のように光っていた。
バース公爵が言う。
「あの先触れは、バルボア公爵家の長男ブリアックだ。名誉ある役目だから希望者が多いのだ」
遠くに見える正門から軍勢と言っていいほどの人数が入ってくる。
後列はまだ続いていて姿が見えない。
旗が数十も翻っていた。
冑から爪先まで統一された鎧で身を固めているのは第二皇子テオの直属衛兵隊のようだ。
黒毛をした立派な馬体に跨る男性がいる。
鎧はしていない。絹で織られた黒衣を身につけている。
腰に一振り、剣を帯びているだけだった。
年齢は二十代後半か、いっていたとしても三十歳ぐらい。
下馬したので身長が分かる。
けっこう大柄であった。
ロペスほどではないが、長身といっていい。
近づいてくる。
バース公爵が小声で言った。
「テオ皇子様だ」
アベルは末席にいる自分の元にテオ皇子が近づいてくるのを見ていた。
目の前に立つ。
引き結ばれた厚めの唇、角ばった頬骨。
顔が大きく見える。
褐色の瞳に落ち着きがあって、ちょっと鈍感な印象すらある。
良く評せば重厚という人物だろうか。
どんな性格なのかは不明だが、狡賢そうには見えない。
「アベルと申します。テオ皇子様」
「おお……。お前か。クンケルから聞いているぞ。いずれは武帝流随一の使い手になるだろうとな」
――適当なこと言いやがるなぁ。あのおっさん……。
「光栄なことであります。その……お役目、頑張ってきます」
「ああ。頼むぞ」
短く、それだけ言ってテオはカチェへの挨拶に移る。
次に来たのは苦手なノアルト皇子だった。
削げた頬肉から神経質そうな印象を人に与えるが、今は誰が見ても分かるほどの上機嫌。
どうした理由かアベルにも飛びっきりの笑顔を見せてくれた。
アベルは不思議に思う。
どちらかというと嫌われている気がしていた。
嫌悪というほどではないが、何か含むものを感ずるのである。
ところが、今に限っては信頼する部下に対するような態度だった。
演技をしてくれているのかなと思った。
なにしろ数百人の貴族がいるのである。
皇子が嬉しそうにしていれば、皆の気持ちも和らぐというものだ。
ノアルトは親しげにアベルの肩を叩き、それから耳元で囁く。
「聞いたぞ。交渉のため近々、発つそうだな」
「あっ。はい」
「皇帝国は権力闘争と王道国の攻勢で四苦八苦だ。国を救ってくれ」
「そ、それはずいぶん大げさな……」
「謙遜しなくていい。期待している」
ノアルトは喜びを抑えようとしていた。
しかし、できなかった。
アベルとカチェの関係はよく分からないが、特別の親しさだ。
もしかしたら恋愛関係なのではとまで感じさせるほど。
しかし、アベルは密命のためにここから出ることになった。
ということは……カチェに隙が出来る。
こんなことで喜んではならないと理解していたが、できなかった。
せめて命懸けの密命を帯びて発つアベルを労ってやりたい。
「吉報を待っているぞ。成功すれば褒美は望むままだ」
それから隣のカチェに移って行った。
ノアルトの心臓が高鳴った。
ここのところ政務などで忙しく、ハイワンド家を訪れる暇が無かった。
三十日ぶりだ。
ノアルトはカチェの洗練され美しくも凛々しい姿に思わず唸り声を上げかけて、飲み込む。
カチェの趣向だとノアルトは察する。
こういうところが本当に自分の好みと合う。そうノアルトは思わずにはいられない。
化粧はほとんどしておらず、口に紅すらさしていない。
だが、それでも誰より美しいのだ。
ノアルトの愛情は限りなく膨らむ。
どうすればいいのか……。
あまり長い間、カチェと話しをするわけにもいかない。
なんといっても自分の婚約者カミーラがすぐ後ろにいるのだ。
アベルは目の前に現れた化粧の権化のような女性に唖然としそうになる。
金髪は高く高く結い上げられて、そこに孔雀の大羽が火山の噴火のごとく差し込まれていた。
そびえたつ装飾の塔のようでもある。
口紅は鮮やか、耳飾りには巨大な金剛石の宝石。
肩から胸にかけても五色の宝玉が連なっていて、それが光を反射し、ミラーボールのようでもある。
ドレスの色彩は目に突き刺さるような黄色。
目がチカチカしてくる……。
襞は少ないデザインなので、体の線がけっこう大胆に浮き出ていた。
なかなか豊満な感じだ。おっぱいなんか、かなり大きい。
アベルを認めて、典雅な立ち振る舞いで挨拶をしてくる。
「わたくし、バルボア公爵家息女のカミーラでございます。ノアルト皇子様の婚約者として今日はお招きにあずかり光栄です」
「あ、あの……。アベルと申します。えっと……カミーラ様ほどの華やかで高貴な方を目にするのは初めてです。驚きで、何と讃えればよいか分かりません」
本当は化粧のオバケと評したかったが、厳重に堪えた。
言葉を包みに包んで、やっとのことでそう伝える。
カミーラは充分な称賛と受け取ったらしく、満足気に微笑み頷いた。
「多くの人がそう申しますの。でも、これは全てノアルト様のためですの。愛する人のために身を美しく整えるのは、女の喜びですわ」
「はい。さようですね。ノアルト皇子様が羨ましくあります」
「ほほほほっ!」
なんか良く分からないがカミーラの喜ぶツボを押せたらしい。
至極上機嫌になってくれたのでアベルは一安心。
カミーラが隣のカチェに挨拶をする。
「カチェと申します。ようこそ、カミーラ様。ハイワンド家は心から歓迎いたします」
「黒の天鵞絨……。質素ねぇ」
「はい。剣を嗜んでいますので、動きやすい服が好みです」
「まあ! 奇特な方ですわね。そういえば随分と薄化粧だこと」
「化粧は苦手でございます」
「しなくてもいいということかしら。大した自信だこと。まぁ、わたくしも二十の頃まではそう思っておりましたの。考えは変わるものですから、そのときには教えてさしあげてよ」
微妙に棘のあるカミーラは次へと移っていく。
今日の主役はハイワンド家なのだが、立場では皇族の方が上位である。
よって会場でも、主賓席に皇族の人達が座ることとなる。
上座に近いほど高位の貴族がいて、末席は男爵家の人々となるように配されていた。
誰一人、皇族の人達に背中が向かないように座席の配置は工夫されてある。
かなり広い会堂であるのだが、三百五十人もの人がいると、さすがに狭かった。
扉と窓は全て開け放たれて採光と換気が図られている。
涼を取るために魔法で作った氷の塊が金属の手洗に、いくつも置いてあった。
壇上にバース公爵、ロペス、モーンケ、カチェ、アベルが登る。
まず、バース公爵の挨拶。
「勇敢に戦い死んだと思っていた孫たちが帰って来ました。死守命令も遣り遂げ、王道に痛撃を与え、命も拾う。これぞ戦の不思議、軍神の加護、本人たちの奮闘と運があってこそでしょう。これからの皇帝国を支える四人を紹介します」
まず、ロペスが呼ばれた。
ロペスは巨漢を白い軍服に包んでいた。
金ボタンや肩の飾りが美々しく輝く。
体がデカいから、やたらと立派に見えた。
大男はこういう時に有利だ。
壇上にロペスが現れると、おおっという具合に歓声が上がる。
会場にはハイワンド騎士団で最後まで戦った者の生き残りも招かれていた。
だから演技ではなくて、本当に感極まって泣いている人物もいる。
ロペスは粗暴なほどの男で短慮な面もあるが、臆病者ではなかった。
むしろ、誰よりも先頭で暴れまわる生粋の武人である。
広い視野はないが、数千人規模の戦いを指揮する手腕は持っていた。
そんなロペスを慕っている者が騎士団には大勢いたわけだ。
次にモーンケ。こちらも壇上に上がると拍手される。
モーンケは得意になって手を千切れんばかりに振っていた。
嬉しそうだ……。
次にカチェが登場すると、叫び声に近い歓声が上がった。
やはり騎士団の生き残りからだった。
それから武帝流の門下生たちも大声を出して祝った。
何だか、やたらと人気があるらしい……。
ロペスの時よりも反応が鮮やかだった。
最後はアベル。
どうせ誰も反応しないだろうと思っていたが、そうでもなかった。
壇上に上がると、やはり歓声があった。
ただ、ちょっと悲鳴じみていた。
なにか会話が聞こえてくる。
「あれが血飛沫の従者アベルだぜ」
「ガイアケロンやハーディアと決闘したっていう」
「スゲェな。最前線で敵を殺しまくったと聞いたぞ。なんでも死に番からも生還したって……」
「あのイースの従者を喜んでやる男だ。普通じゃないんだよ」
「もう狂っているって噂だ」
「今度の功績が認められて、ただの遠い縁者からハイワンド家の末席に加わるそうだぞ」
「ひぇ~。そんな人の下でやっていけるかな」
アベルは漏れ聞こえてきた会話を耳にして震える。
――えっ。ちょっと待って。
なにその異名。血飛沫?
カッコ悪いし……変だし。
すっかりハイワンド騎士団では誤解されているらしい……。
しかし、アベルにもそんな言われようをされる心当たりがある。
何しろイースが周囲の者と交流をほとんどしない態度。
騎士団の者も亜人混血のイースとは一線を引いていた。
そんな様子の騎士団員とは、それほど親密にならなかったというか、むしろ苛立ちを感じていたぐらいだった。
イースに失礼な態度をとった者は騎士だろうと何だろうと黙っていなかった。
人から見れば気違いじみていたらしい。
それが尾を引いている……。
祝賀会は進む。
主賓席にいる第二皇子テオ様と第三皇子ノアルト様が祝辞を述べて、バース公爵が乾杯。
配られた葡萄酒を飲み干して、拍手。
まずは軽く酒を飲み、気分が解れたところでいよいよ舞踏会である。
ちょっとした興奮でアベルの心臓は鼓動を速めていった。
あらかじめ選ばれていた人たちが大広間に集められる。
やはり、モールボン女官長が言っていたように女性の方が多かった。
未婚男性六十人ぐらいのところ女性は百人ほどがいる。
アベルはいくら何でもバランス悪すぎだろうと呆れたが、戦争の影響では仕方ない。
カチェは顔見知りを見つけ出した。
夜警を務めている女騎士クラリス・ラインだ。
濃緑に染められたドレスを着ていた。
「クラリス。貴方も参加していたのね」
「はい! カチェ様。恥ずかしながらこのクラリス。二十四歳にもなってまだ未婚……なのです。別に高望みしているつもりはないのです。剣に熱中していたのと、せめて私よりも強い男性が良いなどと思っている内に時間ばかりが過ぎて」
「強さね。良くわかる理由だわ。わたくしも、せめて互角かそれ以上……ね」
「そうですとも。ただ、カチェ様は私よりもっと相手に困りますね。そうそういません。貴方様に勝てる人など」
「皆、そう言います……。そんなことはないのに」
帝室楽団の伴奏が始まり、男女が一列で向かい合う。
手を取って、大きな輪になる。
そして、舞踏の音楽が始まった。
アベルは長期戦になりそうだと気が付いた。
一組あたり一分間、踊って交代したとして……女性が百人ならば少なくとも百分である。
これは大変だ。
アベル、最初の相手は知らない女性だった。
まだ少女という年頃。
踊りながら、名乗ってきた。
ターナー子爵家の長女、リリアです……。
アベルも名乗る。
相手は緊張しているみたいで、会話は弾まなくてそれで終わってしまった。
こういうとき適当にシャレた会話ができると女にモテるんだろうなとつくづく思う。だが、どうにもならない。
三人目で知り合いがきた。
クンケルの娘。ルネだった。
普段は化粧なんかしていないが、今日は薄く紅を引いて艶っぽい。
薄い象牙色のドレスを着ていた。
狐色の髪には銀と宝石の簪を差している。
もともと顔の造作は整っているものだから、びっくりするほど美人になっていた。
アベルはルネの手を取り、踊りを始めた。
「ルネ。あんまり美人になっていたから驚いたよ」
「……んっ! 変じゃないかしら。アベル殿」
「少しも。素敵だよ」
ルネは顔を赤くさせて、それから体をさらに密着させてきた。
ドレスの素材は薄いので肉感が伝わってくる。
普段は屈強な男どもを打ち倒す勝気なルネが、そうした態度を取ってきてアベルは驚く。
「私のほうが四歳も年上なのに、貴方の方が大人みたい。変ね」
「……そうかもね」
「稽古では、とうとう一本も勝てなかった」
「本気でやれる人は少ないから、つい、むきになっている。負けたくなかったんだよ」
「……あ、あの、後で」
ルネが何か言いかけたところで次の人と交代になる。
そのあと、ほとんど知らない人と踊り続けた。
武帝流で見かけた女性の訓練生が僅かにいるぐらいだった。
その中には、アベル様と踊れるなんて光栄です、などと言って来る女性がいたりして……。
どう反応したらいいのか分からない。
「えっと」だとか「その……」だとか、稚拙な会話以前の言葉しか出てこないのである。
――童貞にはハードル高いよ。
ベルティエにでも話し方を教わっておけば良かった……。
やがて中休みになり、喉が渇いたのでミントや蜂蜜で味付けした水や葡萄酒を置いてある場所にいく。
贅沢なことに水魔法の一種で氷の塊を作り、それで冷やしてあった。
すっきりしていて美味である。
少し休んだら、また踊り再開。
カチェも参加しているので、やがて順番が回ってきた。
アベルとお揃いの黒地をした天鵝絨。下はスカートになっている。
カチェは、ほんの僅かに薄化粧をしていた。
もともと群を抜いて秀でた美貌、さらに増して麗しくなっている。
なぜかアベルを少し睨んでいた。
手を取り、舞踏を始めた。
「いい子はいたかしら?」
「憶えきれないですよ」
「どの娘も綺麗だものね」
どこか口調に険がある。
「……わたくしは熱心に口説かれ続けていますよ。手紙もたくさん貰いました。困っています」
「まぁ……そりゃ仕方ないでしょう。カチェ様、飛びっきり美しいから」
「わたくしのこと美しいなんて……初めて言うわね」
カチェは恥ずかしそうにして俯いてしまった。
それから体を寄せて来る。
体と体がやたらと密着していた。
女の熱い体温が伝わりアベルは眩暈を感じる。
耳には心地よい軽快な音楽。
体が軽やかに動く。
女性たちは誰もが華やかで、なかにはカチェのような別格の存在もいた。
どうしたわけか、みんな親しんでくれる……。
現実離れした夢みたいだった。
実際、貴族区を出れば家すらない浮浪者や労務者たちが蠢く市街が延々と続く。
猥雑に満ちた庶民の暮らしと、贅沢を極めた絢爛な貴族の世界。
その中心に自分がいるような感覚。
とてつもなく奇妙で、それでいて楽しい。
アベルとカチェは動きも鮮やか、完全に挙動一致して華麗に舞踏を踊る。
見物していた者たちが思わず溜息を漏らすほど似合った二人だった。
やっとのことで舞踏会が終わり、アベルが蜂蜜と生姜を氷水で割った飲み物を飲んでいると、女性が幾人もやってきた。
ルネに、ダルネア伯爵家のレーティなど、ほか十人ぐらい。
主に武帝流で知り合った女性たちだが、始めて見る顔もある。
――なんだなんだ!
アベルは呆気にとられて、次々にされる質問にたどたどしく答える。
周りを見てみると、どうやら気になる異性へ話しかける時間らしい。
ロペスなどには、もっと人だかりができている。
あれでも将来の公爵家当主となる可能性が濃厚なので最高の優良物件なのだろう。
アベルは何も知らない女性たちに、憐みの念が湧く。
武骨一点張りのロペスとは穏やかな結婚生活なんか送れないはずだが……。
もっと凄いのはカチェだった。
男の人が、引っ切り無しに訪れている。
カチェは誰か一人と会話を続けるということはなくて、次々に相手を変えていく。
不満が溜まらない上手いやりかたであった。
そのような手際の良さにアベルは感心するしかなかった。
内心、酷く落ち着かないノアルトは舞踏会の様子を離れたところから見ていた。
婚約者がいる自分は加われない。
カチェが次々に相手を変えて優雅に踊っていた。
嫉妬心を感じる。
くわえて、焦り。
自分の心にこれほどの激情が眠っていたかとノアルトは我がことながら驚く。
カチェと踊っている男の顔ときたら……どいつもこいつも興奮と喜びで輝いている。
俺のものだと言いたかった。
そうだ。
俺のものにしなくてはならない。
ノアルトは思い決める。
ならば急がなくては。
次にいつ会えるかも分からないのだ。
今夜、隙を見つけ出すのは難しい……。
今日はこのままハイワンド家に逗留して、集まった人々と深夜まで話しをしなくてはならない。
また、いまだ態度を明らかにしていない伯爵家の当主が来ているから、念入りに説得する作業もある。
明日がいい。
あらかじめ使者に申し付けて、少し内密の相談があるから二人で話しをしようと誘っておこう。
ノアルトは警護をしているベルティエを呼ぶ。
「ベルティエ。後で様子を見てカチェに伝えてくれ。明日、話しがある。昼ぐらいになるだろう。理由は言えないが重要なことだ。少しの時間で済む。場所は俺の部屋がいい」
「分かりました。そのように伝えます」
ベルティエは主の言葉を、そのまま伝えようと思う。
別に不審は感じなかった。
なにしろ、この祝賀会でこれだけの貴族が集まった結果、より絆が深まり、賛同者も増える。
あらゆる人間に、きめ細かに対応してやらないと人心は掴めないのだ。
カチェにも、そうした政治活動の一環で声を掛けるつもりなのだろうと考えた。
もしかしたら直衛隊に加えたいという希望がノアルト皇子にあるのかもしれない。
随分と気に入っている様子だ……。
未婚者の舞踏会が終わり、次いで、晩餐会が始まる。
アベルは用意されている席に着いた。
貴賓席の隣で、皇族の傍だった。
壁際ではベルティエやユーディットなどが警護をしている。
毒見も兼ねているから、彼らは忙しそうにしていた。
今日は出入りが多くて普段と事情が違うので、作業も念入りであった。
匙や杯に毒が塗られていては一大事なので、わざわざ持ち込んだものを利用していた。
それから料理は必ず毒見役の衛士が口に含んでから皇子たちの前に運ばれている。
あれではせっかくのご馳走も、それこそ興醒めである。
アベルは権力者も大変だと呆れるやら同情するやらであった。
大勢の客たちに料理が運ばれていく。
配膳係りの使用人だけで五十人はいた。
もちろん邸宅で雇用している使用人だけでは数が足りないので、不足した人数は騎士団から呼び寄せた。
素性の確かな従者が臨時の働き手として集められている。
とにかく葡萄酒だけは絶やさないように、ふんだんに配られた。
常に銀製のデカンタを持った係りの者たちが、油断なく会場を見まわしている。
三百五十人分の料理を一斉に出すのは至難の業、というか不可能なことであった。
まず皇族に供され、それから公爵、伯爵と並べられていく。
末席に行き渡るまでには、かなりの時間が掛かってしまっていた。
家令のケイファードは顔にこそ微笑を湛えていたが、目には緊張感が漲っている。
不満や要望が嵐さながら襲っているはずだった。
鳥のスープ、凝った形に焼かれたパンが出てきた後、豚肉を茹でてソースをかけた料理が出てきた。
付け合せは人参と青菜のバターソテー。
次に出てきたのは牛肉のカツレツだった。
期待しつつアベルは口にしてみる。
なかなか絶妙な感じに揚がっていて美味かった。
さすがに少し冷めてしまっているが……。
きっとピエールはあれから研究を重ねて、この味まで持ってきたに違いない。
周りにいる公爵や伯爵が食べたことのない料理だと喜んでいる。
ピエールの努力を思うと感動してしまった。
酒だけは尽きなかったのが幸いしたようだ。
それほどの不満や混乱もなく、晩餐会は終盤に移っていく。
鍍金で装飾された荷車の上に、牛肉をほとんど一頭丸焼きにしたものが幾つも乗せられてきた。
バース公爵が自ら、刀でもって肉を切り分けて、一番上等とされている赤身のヒレの部分を二人の皇族に献じる。
それが済んでから、次は公爵家から伯爵家まで数十人に及ぶ肉を同じように分けた。
一種の儀式めいた行為であった。
そういえば草原氏族との宴でも似たようなことがあったと思い出す。
あのときは盟主のウルラウが肉を分けていた。
やはり文化は違えど似ているところもあるのだと感心する。
最後に林檎の砂糖煮クリーム和えのお菓子が出て、献立が終わった。
テオ皇子による閉会の挨拶があって、それが閉めのようなものだった。
一同は結束を深め、祝賀会は良い雰囲気で終了する。
出席者たちは皇族とハイワンドの面々に別れの挨拶をして帰って行く。
ただし、特に内密の相談がある相手とはさらに懇談を重ねるという。
アベルが窓から外を見ると、ほとんど陽が没していた。
カチェと二人きりで話しをさせてほしいという男が大勢いた。
それはもう必死の懇願という有様だった。
しかし、その全てを家令ケイファードが頑なに断った。
いわく、今日はもう遅いので機会が整いましたら後日改めてという口実である。
男たちは悲痛な顔をして会場を後にしていった。
アベルの元にクンケルとルネがやってくる。
クンケルは子爵位を持っていたのを今日、知った。
なぜか、やたらと笑顔で接してくる。
武帝流の鍛錬所で見せている様子とは大違いだ。
稽古の時は不気味なまでの無表情を貫いていて、何を考えているのか全く読み取れない。
そして、狡猾なまでに計算された動きをしてくる……。
そうした男が、にこにこと笑っていては、かえって警戒心が湧くというものだった。
「アベル殿。見違えるような男ぶり! このクンケル、やはり見る目は間違っていなかったようですな」
「え……。な、なにがですか。師範」
「アベル殿には許嫁がおりませんな」
「はぁ。いませんけれど」
「我が家には伝承がありまして。それは、三番目の男を選べというものです。今日、舞踏会でルネと三番目に踊りましたな。これは運命というもの」
ルネは顔を赤くさせて俯いている。
――いやいや、そんな。
普段は乱暴なのに急にしおらしくして、なんか実は凄く可愛い女性みたいな。
ずるいだろ……そういうの。
「クンケル様さぁ。その話し、いま作ったでしょう」
「バカなことを言わんでくだされ。代々続く由緒ある伝承ですぞ」
クンケルは笑顔でいたけれど、目は怖かった。殺気にも似た迫力。
どうも本気だ。
アベルはたじろぐ。
愛娘の名誉がかかっているとなれば、無茶をしてくるかもしれない。
断れば……決闘だろうか。
下手すれば負けてしまう。
負けたらルネと結婚……。
「あの……。これは秘密にしておいてほしいのですけれど……。僕、ちょっと仕事でここを離れるのです」
「えっ」
「……ぬぅ」
二人は驚きの顔つきをした。
だが、武人である。
アベルが何かの事情で帝都を離れるのを即座に理解した。
ルネが震える声で聞く。
「帰ってくるのは……いつ?」
「分からないよ」
「愚問でしたね。聞くまでもないことでした。お役目、どうか果たしてください」
ルネはそう言ったきり、唇を引き結んで黙った。
それからクンケルが後を継いで話す。
「私の長男は戦死していますからな。アベル殿だけは、そうならないでくだされ」
「初耳です」
「斬流第九階梯のヒエラルクというのが、仇の名です。その異名、剣聖」
「聞いたことがあります」
「本当は第十階梯、至達者の実力があるとも言われています。しかし、本人がまだそれには及ばないとして自称しておりません。息子は戦場で一騎打ちに及び、負けたのです。才のあるやつでしたが……死んでしまえばそれまで。ルネの夫にふさわしい相手を見つけたら、わしは戦場に行き、ヒエラルクを殺すつもりでした……」
未練を残さず二人は丁重に挨拶をして去っていった。
剣の腕は高くとも、政治力はさほどないクンケルは密議には参加しないようだ。
宴が終わり、だんだんアベルの気が重くなっていく。
今日、このあとテオ皇子に密書を直筆で書いてもらい、明日には出発だ。
これまでカチェへの説明を伸ばしていたが、もう言わなくてはならない。
今夜だ。
アベルはカチェのことを考える……。
長い旅の間は毎日、一緒にいた。
峻険な山や広大な大地を共に移動をして、野生動物を狩り、料理もした。
カチェはそうした生活が楽しかったらしく日々を生き生きとしていた。
もともと飛び抜けて美しい少女であったが、今ではもっと磨きが掛かっている。
旅立てば確実に年単位で別れることになる。
もしかしたら帰った時には結婚しているかもしれない。
子供なんか出来ていたりして……。
アベルは何とも言えない複雑な気持ちになった。
知らない男との間にできた赤ん坊を抱えているカチェを想像してみる。
嫉妬というのとも違うが……不安感というか、傍にあったものが失せてしまった喪失感のようなものがあった。
――変な独占欲なのかな。
いけないことだよな……。
~~~~~
夜空は曇り、月すら姿が無い。
まさに陰謀の発するにふさわしい宵闇が満ちてきた頃、アベルは執務室に呼ばれた。
獣脂蝋燭の小さな灯り。室内にはバース公爵、テオ皇子、ノアルト皇子の三人だけがいた。
皇帝国と王道国、二つの世界の両方を騙して動かそうという面々。
目の前で一通の手紙が認められる。
テオ皇子の直筆だ。署名もいれる。
それからバース公爵が連名を書き入れた。
蜜蝋を蝋燭の炎で炙り、封筒の閉じ口に垂らす。
テオ皇子は金の指輪をまだ溶けて熱い蜜蝋に押し付けた。
個人紋章が印される。
そうして手紙を
アベルは袋を受け取った。
絶対に奪われるわけにはいかない手紙だ。
テオ皇子は重々しい口調だが簡潔に言った。
「アベル。我が密使よ。ガイアケロンを何とか説得してくれ。皇帝国は私が、王道は彼が支配する。これにより新しい世が開かれる。貴族は栄え、民衆に安寧が訪れるだろう」
「はい。明日の朝、出発します」
「この大任。果たしたならば我はアベルに報いることを誓う」
いずれ権力者の頂点、皇帝になるかもしれない男から直々に褒美や地位の約束がある。
ここまで状況を作ったバース公爵の政治力の凄味であろうか。
淡々とアベルは一礼して、執務室を後にした。
まずは、ここではない別の場所で巨大な動きのなかに身を投じよう。
渇くように欲しいものが手に入ると信じて。
そして、このまま家に帰るわけにはいかない。
足取りも重くカチェの部屋へと行く。
扉の前には警護の女騎士がいたが、継承権すら持つアベルの素性は確かなので訪問を許された。
扉が内側から開く。
カチェは普段着に着替えていた。
訪ねてきたアベルを見て珍しいことだが、かなり驚いている。
「カチェ様。ちょっと……急な用事です」
「な、なにかしら」
そう答えつつカチェには心当たりがあった。
アベルが、とうとう焦ってくれたのだ。
それはそうだ。
今日だけで数十通の手紙を貰った。
後日、届く分もかなりのものになるだろう。
一目惚れしただとか何だとか、いったい幾人に言い寄られたことだろうか。
それを見て、居ても立ってもいられずに慌ててやってきた……。
そうに違いない!
アベルが中に入ってきた。
どことなく顔に緊張感が漲っている。
なにやら切迫した勢いまで感じて、カチェは心配になる。
表ではクラリスが既に夜警についているのだ。
大声や物音を立てたらいけないんだぞ……と。
「アベル。お、落ち着いてね……。きっと興奮しているのでしょうけれど、気を付けないと、ねっ。わたくしにも分からない事ばかりですけれど」
「……?」
アベルは何を言われているのかよく分からず途惑う。
カチェにはときどきあることなので、気を取り直す。
「あの……。実は任務を受けました」
「……え」
「それで帝都を離れます」
「任務? わたくしは何も聞いていませんよ。いつ、帰ってくるのですか」
「分かりません。確実なのは……いつ帰ることができるかも分からない、ということだけです。もう側仕えも出来ないから……。でも、カチェ様ならきっと上手くやっていけると思っています」
カチェは喉が急速に乾いてくるのを自覚した。
任務ということは祖父からの命令だろう。
無期限なのは相当な遠方に出向くからだろうか。
戦争の最前線に赴くのでは。
きっと危険なこともあるに違いない。
カチェの心に爛々と炎が燃え盛ってくる。
アベルの背中を守るのは自分しかいないのだ。
イースはいないのだから。
それなのにアベルは今、一人で旅立とうとしていた。
どうにかしなくては。
「わたくしも行くわ」
「それは無理です。カチェ様には立場があるでしょう」
立場。
公爵家令嬢。継承権第三位。
そんなもの惜しくない。捨てても構わなかった。
価値を感じないものが身に纏わりついている。
「いつ、出発するのですか」
「明日、朝方に」
カチェは絶句した。
あまりにも唐突な別れ。
これで、こんなことでアベルと引き裂かれるのか。
もしかしたら、もう二度と会えなくなるのではないのか……。
アベルは嫌な気持ちになった。罪悪感みたいなものまで生まれる。
カチェは酷い顔をしていた。
こんな悲しそうな表情を見るのは初めてだ。
人を捨て去る気分とはこうしたものかと、頭を殴られるようにして思い知った。
だが、カチェを理由に留まったりしてはいけない。自分自身に言い聞かせる。
これ以上、言い訳じみたことも口にしたくない。
「今まで楽しかったよ。本当に」
アベルが踵を返した。
慌てて肩を掴む。
振り返る群青色の瞳がカチェの視線とぶつかった。
どこか得体の知れない気配を含んだアベルの眼。
でも、好きだった。
今日、声を掛けてきた貴族たちの何とつまらなかったことか。
誰しも身なりが整っていて、物腰も洗練されている。
中には洒落た会話のできる男もいた。
だが、それだけの男たちだった。
アベルのように言い知れない底力のある者はいなかった。
知れば知るほどアベルが好きになった。
一緒に連れて行って欲しい。
できれば、隣にいさせてほしい……。
「どんな説得も無駄みたいね」
「はい。決めました」
カチェは力を失い、そのまま椅子に座り込んで顔を
アベルは心中で激しく詫びる。
自分でも驚くほど、心臓が締め付けられるように胸が痛んだ。
そのまま走るように部屋から出て、華麗な貴族たちの宴が終わった大邸宅を後にした。
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