第77話  カチェとノアルト皇子の苦悩

 




 ついにハイワンド家まで帰還した次の日、カチェはアベルが姿を現すはずだと待つ。

 ところが、やってこない……。

 そして、食事のときを除いてびっしりと教育を施される。


 女官長モールボンからは令嬢としての振舞いや作法の授業。

 スタルフォンからは歴史、皇室の儀典について……。

 朝早くから日暮れまで休む暇もない。

 

 晩餐に二人の兄が姿を見せたものの、ほとんど話すことはなかった。

 旅の間は役割分担や必要な作業についてなど相談事はあったが、今こうして帰ってくれば日常会話というものが成立する相手ではないのを改めて知ることとなった。

 その日は、そうして終わってしまった。



 翌日の朝、すっきりと目覚めてカチェは今日こそ、当然の事としてアベルが来ると思っていた。

 いろいろと不満を話したい。

 こんな窮屈な生活は耐えられない。

 遮るもののない草原の旅に比べて、なんと狭苦しい生活なのかと。

 だが、どうしたわけなのか昼にもアベルは現れなかった。

 ケイファードに聞いてみれば、今日も外へ出かけているという。

 そして、夕食は家族でとるので後日にあらためてと返答があったらしい。


 カチェは仄かな怒りを感じた。

 だいたい側付きの騎士というのは姫の近くから離れるなどあってはならないことなのだ。

 呼べば来る、呼ばなくとも必要な気配があれば察して来る、ともかく何があろうとも来る。そういうものなのだ。

 アベルが騎士ではなく見習いなのは承知のことだが、そんなことはもはや関係ない。


 腹立たしくはあるが、それなら代わりにシフォンを食事に呼ぼうとも思った。

 やはりまだ心配である。

 ところがシフォンはシフォンで、いよいよ皇帝国の大臣や将軍と会ってバルティアの惨状を訴える活動を始め、朝早くから出かけていた。


 カチェは、また自分が一人になってしまったと強く感じた。

 気が滅入ってきた。

 カチェは昼食も食べずに自室に戻ると、旅の時に着ていた木綿と革の服に着替えて庭に出る。


 いまは昼食時なので誰もいないが、騎士や従者が訓練をする場所があった。

 さがすと木剣、木刀、木槍などが立てかけられた小屋もある。

 カチェは木刀を手にすると魔力を燃え上がらせて、激しい一人稽古を始めたのだった……。




 ~~~~~




 皇帝国第三王子ノアルトは、ハイワンド公爵家を訪ねていた。

 帝都に滞在している間は、三日と開けずにバース公爵と会合を持つのが習慣になっている。

 様々なことを相談し、決めなくてはならない。

 軍事、政治、人事、陰謀……。


 その日も朝から秘密の会合室で、神経の使う懸案をバース公爵と決定した。

 バース・ハイワンドはノアルトにとって十五年来の忠臣だった。

 コンラート皇子の愚かさに見切りをつけた彼は、王道国との和平を訴えてノアルトと兄のテオを支援し続けている。


 王道国に加担している傭兵どもの頭領ディド・ズマによる凄惨な人間狩りや、コンラート派閥による陰湿な行動妨害をたっぷりと聞かされて、さすがにノアルトの気分は重い。

 どこもかしこも敵だらけだ。

 

 明るい褐色の瞳が疲労によってかえってギラついていた。

 頬の削げた様相と相まって、ノアルトの表情は険しく見える。


 そんな様子のノアルトは、沈んだ気分を回復させようと邸宅の外に出る。

 政争は激しく、暗殺の恐れもあるノアルトが単独になることはない。

 どんな時も必ず警護の者が付く。

 今現在は、三人の者がノアルトに付き添っていた。


 一人は、ドット・ベルティエ。

 年齢は同い年の二十五歳。

 長身で身のこなしの素早い、豹のような男だった。

 艶のある赤褐色の長髪と、雄々しい相貌の持ち主。

 むろん貴族出身。ベルティエ伯爵家の三男坊だった。


 幼いころからノアルトの従者であり、たびたび危険な遊びも共にしたベルティエは家臣というより親友に近かった。

 気安くドットと名前で呼びかけることも、しばしばある。

 もっとも皇帝の息子に友という概念は許されない。

 家臣は家臣として扱わなくてはならない。それゆえ公の場ではベルティエと呼ぶ。


 もう一人の護衛は、年齢四十歳になる中年の男。

 禿頭。

 赤銅色に日焼けした顔には無数の戦場傷がある。

 そのわりに人相がさほど悪くないのは、人当たりの良い和やかな笑みを浮かべているせいだろう。

 名前はギョーム・ネール。

 戦場を往来すること三十年という古強者だ。

 ありとあらゆる目に遭ってきた経験でノアルトを守っている。

 ノアルトが頼めば、表裏のある事態も上手く捌いてくれる男だった。


 最後の一人は女性。

 年齢二十七歳の治癒魔術師。

 名前はユーディット・イスファーン。

 イスファーン家は三代前には帝室と外戚関係にあった名家である。

 ユーディットもまた、幼い頃からノアルトに仕えている腹心の部下であった。

 第六階梯の治療魔術師という貴重な人材で、万が一の事態に備えてノアルトの周囲に付けられていた。

 名家の出身だけあって、ごく品のある顔立ち。

 翡翠のような瞳が目立つ。

 柔和なようで人を容易に寄せ付けない冷たさも有した視線。

 銀のサークレットを額に嵌めて、瞳に似た色の髪は腰まで流れている。

 職務に身を捧げていると公言していて、それゆえに未婚であった。


 ノアルトの一行が邸宅を出て、庭園を散策しているときだった。

 訓練所から裂帛の声がする。

 ノアルトは軽い気持ちで、そちらへと向かう。


 紫紺の髪をした女が一人鍛錬をしていた。

 魔力を有している者であるのがノアルトにはっきりと感じられた。

 爛々と燃え盛るような魔素が体に滾っている。


 木刀の振り方を見たところ、腕は中々ではないかと思えた。

 ノアルトはハイワンド騎士団の女戦士だと判断する。


「おい。お前、けっこう筋がいいな。流派はどこだ」


 ノアルトが声を掛ける。

 女が振り向く。


 美しいと形容するだけでは、まるで足りない少女だった。

 年齢は十八歳ぐらいだろうか。

 華を競うようにした貴婦人たちなど見飽きているはずのノアルトだったが、思わず歩みを進める。


 紫水晶のような瞳から生命力が溢れるようだ。

 まなじりが少し上がり気味になっているせいか気の強さを感じさせる。

 前髪は眉の部分で、きっちりと直線的に切りそろえられていた。

 肌は健康的に白い。

 化粧というものを全くしていない。

 貴族の気品が隠しようもなく感じられているのだが、着ている服は旅装に近い。


 やはり、女戦士か。

 あるいは男爵家のような下級貴族の子女なのかもしれない。

 ノアルトはそう判断する。


「流派はどこかと、わたくしに問い掛けたのですか」

「他に誰がいる」


 紫の瞳をした少女は、わずかに思案する素振りをしてみせた。


「……。正式に門弟になったことはありません。師は何人かおります」


 カチェの脳裏にアベル、イース、ライカナ、ガトゥが連想されていった。

 ノアルトは、ますます興味が湧いてくる。

 門弟ではないが師は幾人かいるという……。

 その素性の知れなさが、面白い。

 もしかしたら何か秘密があるのかもしれない。


「よしっ。これから私が稽古をつけてやる」


 止めようとするベルティエやユーディットの耳元でノアルトは言った。


「少し鬱憤を晴らさせてくれ。もう私は陰惨な事案ばかりで疲れているのだ。それと私の正体は決して話すな。つまらないことになる」


 ノアルトは自分の正体を相手が知ると急に態度を変えられることに飽き飽きしていた。

 失望といってもいい。

 それまで対等に接して、ときに激しい遣り取りを楽しめた者が遥か彼方に控えて遠慮がちにしか物を言ってくれなくなる、あの感じ……。


 それから女の態度の変わりようときたら、戦慄するほどだ。

 ノアルトの人格を楽しんでいたはずの女たちは、しかし、皇子であることに気が付くと、そのほとんどは様子を異にする。

 従順になり、かしずく。

 ノアルトの心はどうでもよくなり、地位と名誉に群がってくる。


 ありとあらゆる媚、誘惑、気を惹くための駆け引き……。

 そうしたものに没入していってしまう。

 女達の美貌の下には、皇帝国の皇子と関係を結ぶ野心が渦巻いていた。

 そうと分かればノアルトは相手を弄び、振り回し、飽きた玩具として手酷く捨てた。

 下心に満ちた女に、うんざりしていたのだった……。


「知らない人と稽古をするのは危険だと言われているけれど、わたくし、今日はやりたい気分です。でも木刀を使うから軽い怪我ぐらいは覚悟してください」

「ははっ。威勢がいいな。この女は治療魔術師だ。心配はいらぬ」


 カチェは頷く。知らない男は木剣を選んで手にした。

 一応の警戒心はあるが、ハイワンド公爵家にいるのなら関係者であろうとカチェは判断した。

 距離を取り、向かい合う。

 カチェはまず、攻刀流上段の構え。

 もっとも攻撃に適した形だ。


 ノアルトは中段の構え。

 帝室や上流貴族の者が多く属する「武帝流」の第六階梯まで修めている。

 腕に自信はあった。

 直接、敵を手討ちにしたことはないが、戦場で軍団を指揮してガイアケロンの軍勢と戦った経験まであるのだ。

 負ける気はしない。

 圧倒して、それからこの女がどうした素性なのか聞き出すつもりだった。


 ところが……相手の女戦士の攻撃は、鍛錬所で試合をしてきた者たちと違った。

 いちいち嫌なところを狙ってくる木刀。

 動きは素早く、しかも、魔力による身体強化のせいで猛烈な重圧が加えられてくる。

 ノアルトも魔力を身体強化に注ぎ込むが、すぐに防戦一方になった。

 さらには乱暴な蹴りまで入れられた。

 痛みと意外な攻撃に怯んだ隙を突かれて、腕を木刀で叩かれる。

 痺れて木刀を落とした。


「わたくしの勝ちね」


 ユーディットが慌てて駆け寄り、痛んだ腕に治癒魔法をかけてくれた。

 ノアルトは負けを認められない。


「今は意表をつかれた。やるではないか! 今度は本気でいくからな」

「えっ。本気ではなかったの? 戦場じゃ一回負けたらそれでおしまいよ。なんで最初の一撃に全力を尽くさないのですか」


 正論を吐かれてノアルトは、かっとなる。

 もともと気性が激しやすいと人から指摘されていたし、自覚もある。

 あるといって制御できるものでもない。


 ノアルトは興奮しながら、渾身の一撃を横薙ぎにした。

 避けられるはずがないと確信していたのに、女戦士は見切って、紙一重で回避。

 尽かさず突きを放ってきた。

 ノアルトは慌てて回避。

 しかし、女戦士は巧みな移動で間合いを詰めて、猛然と連続攻撃を加えて来る。

 ノアルトは体当たりで形勢の悪さを挽回しようとしたが、その出鼻を見抜かれた。

 女戦士は地を這うように、突然と姿勢を低くした。

 ノアルトの視界から消える。

 次の瞬間、足に激痛を感じて転倒した。


 ノアルトは無様な姿で地面にひっくり返って、なにが起こったのか理解できない。

 立ち上がろうとするものの左足が痛くて、できなかった。

 また、ユーディットに治癒魔術を掛けられた。

 呆然としてしまう。

 武帝流第六階梯の自分が、まったく敵わない……。

 しかも、相手の女戦士は涼しい顔をしていた。

 痛みが魔法で消えたので、ノアルトは立ち上がり、聞く。


「お前は何者なんだ。かなりの使い手。ハイワンドの騎士か」

「わたくしは……、すみませんが詳しくを語れない事情があります。それより、貴方こそ何者でしょうか」

「私も詳しくは語れぬ! それより今日、私は調子が悪いらしい。本来ならこんなことはありえない」

「あら。そうでしたか。それは残念です」

「ああ。残念だとも!」


 カチェはそろそろ戻らないとモールボン女官長とスタルフォンが怒りそうだと思った。


「すみませんが、わたくし用事があります。それでは」

「なっ……!」


 ノアルトが引き止める前に女戦士は身を翻して、走っていく。

 その背中に叫んだ。


「明日、またここにいろ! もう一度稽古だ!」


 返事はなかった。

 颯爽と消えた。

 思わず呟く。


「なんなんだ……あいつ」


 ノアルトは、あまりに鮮烈な姿が忘れられない。

 それから、たまたま負けた悔しさが沸き立つ。

 側近のギョームが面白いものを見たという風に口を歪めて話しかけてきた。


「ノアルト皇子。あの娘。若くはありやすが、人を斬り殺していますなぁ。実戦で磨かれた剣。間違いねぇです」

「そうか。どうりで……何かが違っていた」

「稽古はおやめになったらどうでやすか。ああした手合いとやっては手酷く殴られるもんで」

「いいや! やるぞ! さっきは少しも上手く立ちあえなかった。私は調子が悪かったのだ」


 ギョームは苦笑しつつ首を振る。

 負けたのは調子のせいではない。

 純然たる実力の差だ。

 道場剣法と実戦を潜り抜けて身につけた戦い方とでは、言葉にできない差がある。

 もう、それは絶対の質の違いなのである。

 しかし、そう説明したところで余計に激するのがノアルトという皇子なのを知っている。

 ギョームは黙っていることにした。


 ところがユーディットは嗜めるように言った。

 ずっと従者というより姉のようにノアルトに接してきたユーディットは、あれこれと物が言える数少ない人間だった。


「ノアルト様。軽率に過ぎます。暗殺者はどこに潜んでいるか分からないのですよ。よほど止めようかと思いました」

「このバースの屋敷に暗殺者がいるものか。それに顔を見れば分かる。暗殺などもっと卑劣な顔をしたやつがすることだ。あんな……あれほど美しい女が、そうしたことをするとは……思いたくない」


 語尾には力がなかった。

 まさかという者が裏切りを仕掛けてきた経験がノアルトにはあった。

 それは初恋の相手であった……。


 しかし、それでも先ほどの女は違うと、そう感じるのである。

 顔に汚さを受け付けない気高さがあった。

 明日の再戦が楽しみだった。




 ~~~~




 夕刻、カチェは姿を見せないアベルに、もはや激しい怒りを感じていた。

 しかし、家令のケイファードは久しぶりの家族再会なのだから、しばらくそっとしておくべきだと穏やかに進言してくる。

 本来なら十人ぐらいは集まって賑やかに食事をするはずの長机に一人座り、食事をする。

 淡々と饗される料理。

 鵞鳥のスープ、野菜と白身魚のゼラチン詰め、牛舌の蒸し焼き……。



 ふとカチェは母親のことを思い出した。

 子供の頃に催された新年会以来、会っていない。

 手紙も年に二回ほどだったか。

 そういえば母親も帝都にいたはずだ。

 だが、ここに姿を見せないということはハイワンドに興味がないとしか思えない……。


 カチェは悲しくなり、もう寝てしまうことにした。

 一人きりの部屋……。

 焚火を囲んでアベルやワルト、ライカナ、イースと共に寝ていた日々ばかり思い出される。




 翌日。

 カチェは昼に再び、一人稽古へと向かった。

 爆発しそうな心が猛っていた。

 すると昨日、稽古をした男が供を連れて、すでにそこにいる。

 頬の削げた男で、やや長身。

 贅肉の存在を僅かも感じさせない、禁欲的な体格の男であった。

 明るい褐色の目つきは鋭い。

 賢そうなのだが、性格に険がありそうな人物。


「来たな! 待っていたぞ!」


 待っていたと言うぐらいなのだから本当に待っていたのだろうが、カチェは正直なところ、すっかりその男のことを忘れていた。

 ただ、溜まった憤懣を発散させに来ただけであった。

 ちょうどいい相手がいた、そうとだけ感じた。


「があぁぁあぁ!」


 品のある美麗な顔からは想像すらできない血も凍るような雄叫びをあげて、女戦士がノアルトに襲い掛かってきた。

 ノアルトは全く対応できない。

 女戦士の繰り出してくる手は激しいだけでなく、時として汚いと評していいような癖のある剣術だった。


 挑発、偽攻撃、誘い、蹴り……それだけでなく、土砂崩れのように圧倒的な連続攻撃。

 ノアルトは何度も負けて、そのたびに治療魔術をかけさせた。

 やがて理解した。

 自分の調子が悪いわけではないと……。

 目の前の美しい少女は、自分にまったく勝ち目がない強者だった。


 ノアルトは木剣を地面に叩きつける。

 やり場のない怒りが込み上げた。

 ギョームとベルティエは、仕方ないと諦める。

 ユーディットは主の見境のない行動から思わず目を逸らす。

 自分たちの主はこういう性格なのだ。

 惰弱なよりは遥かにマシというものと、無理に納得してみる……。


「おい。女戦士! 名前と所属を言え」

「言えません」

「俺が出世させてやると言ったらどうだ」

「出世? どうでもいいわ」


 どこまでも意にそぐわぬ答えしか返ってこない。

 ノアルトは激怒寸前だった。


「よしっ……! 私の実力は剣だけに留まらないことを教えてやる。ついてこい! それが分かったらお前は素性を私に白状するのだ」


 カチェは一瞬、迷ったが付いて行くことにした。

 もう退屈な授業には飽き飽きしていた。

 それに剣だけではない実力とやらに興味が湧いた。


 ノアルトはハイワンド家の遊戯室まで速足で向かう。

 遊戯室は本来、札遊びをしたり、あるいはサイコロ賭博や球技を楽しむための場所である。

 そこでは、今のところ兵棋演習を行っている。

 一介の戦士に大軍の戦い方を教えてやるつもりだった。

 どこかで自分のいいところを見せなくては、誇りが上げる痛みに耐えかねる。


 縦横三メルはある巨大な遊戯盤の全面に皇帝親衛軍の黒い駒と、ガイアケロン軍団を想定した青い駒が対峙していた。

 地形も緻密に再現されている。

 想定しているのは皇帝国リモン公爵領東部。

 ノアルトは紫の瞳をした女戦士に説明する。

 これは兵棋というものだと。


「知っているわ。将軍が戦いの前にやるものよ」

「ふん。知っているだけでなくて、どう運用するのか分かっているのか」

「こういうのって自軍が何万で相手が何万とか平気で仮定してみるけれど、はっきり言って全然足りないわ。そんな大勢が必要とする食べ物はどうするの? 水は? どちらも三日なかったら戦いどころではないわよ」

「ほほう。兵站が重要だと言うつもりか。もっと説明してみろ」


 カチェはカザルスから習った数学を思い出しながら、兵士が一日に必要とする食料の質と量を説明する。

 さらに部隊単位となり中隊、大隊となった場合の量。運ぶための人馬の数……。

 よって食料の集積がどこにどれほど必要か、兵棋演習が広がる大きな机をはみ出さんばかりに使って説明した。

 北方草原でディド・ズマの傭兵軍団が食料不足に陥り、無残にも崩壊した様子を見てきたカチェは、そういう状況にならないための方策を幾つもあげる。


 聞いているノアルトは、徐々に戦慄した。

 女戦士の指摘はどれも軍師のような的確さで正しい輸送路を示唆していた。

 しかも、暗算はどれも正確でノアルトが計算したかぎり、どこにも間違いはない。


 皇帝親衛軍に兵站面で不備があると、今まさに気づかされている。

 食糧の重要さは分かっていたつもりだが、自分自身は飢えた経験がない。

 それがゆえに食料の大事さを理解しきっていなかったのではないか……。

 そう思わずにはいられなかった。

 拳を堅く握りしめ、歯を食い縛る。


 ノアルトは目の前の大人になりかけた少女が、ただの騎士や戦士ではないことを確信した。

 同時に人材を見出したと喜んだ。

 これは武将か側近に値する。


 そうだ。

 この者はバースの秘蔵の部下に違いない。

 そうノアルトは考える。

 ノアルトは弾むような心を持て余し、笑いながら聞いた。


「女。お前は何者なのだ。いや、かなり予想はついているぞ」

「ですから、教えられないと言っているでしょう」

「素晴らしい教養と剣術……。どうしても知りたいのだ」

「わたくしが? そんなことはないわ」

「謙遜するな」


 カチェは首を振る。


「わたくしの……近しい者は、もっと凄いのですよ。何でも知っているし、何でもできるのです」


 ノアルトは唖然とした。

 そう語る紫水晶のような瞳をした少女の顔は、やや上気して……まったくもって恋する乙女の表情でしかなかった。

 ただでさえも端麗でありながら強い生気を感じさせる顔貌が、さらに輝きを増している。

 花開くとは、このことか……。


 ノアルトは沈黙した。

 言葉が出なかった。

 こんな気持ちになったことは生まれて初めてだった。

 完璧な敗北……という心境なのだろうか。

 自分でも分からない。


 ノアルトは口を堅く結び、遊戯室を出た。

 その日はそのまま帰路についた。

 ベルティエが何か話しかけてきたが、上手く答えられなかった。


 ノアルトは皇帝城の内部にある自分の拠点に帰っても、まだ名も知らぬあの女を忘れられない。


 なんだろうか、この気持ちは……。

 激していないのに、もっとずっと奥深くから大きな感情が燃え上がってくる。

 単純な悔しさではない。

 あの女の……態度や表情が頭から離れなかった。


 そして、直感として恋人の存在を感じずにはいられなかった。

 あれほど強くて勝気な女戦士を恋人にしている相手とは、どうした者なのか。


 胸が、ざわつくほど気になる。

 ノアルトはもしや、これが嫉妬心というものなのかと思い至り、ただ拳を握りしめるばかりであった。




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