第76話 帝都で逢いましょう
アベルたちの報告が終わった後、今度はシフォンとハンジャがバース・ハイワンドと面会することになった。
皇帝国公爵という途方もない人物と話をしなければならない。
体が強張るほど緊張してきた。
だが、ここは人を頼れる場面ではない。
ハンジャと共に執務室に足を踏み入れる。
そこには威厳と呼んでも足りない雰囲気を纏った初老の男性が椅子に座っていた。
秀でた額には深い知性が宿り、濃い青の瞳には厳しいだけでなく気品があった。
シフォンは直感的に、何もかも偽りなく話さなければならない相手だと悟った。
それから背を伸ばし必死にバルティアで起った王道国の攻勢と敗北、両親の惨状、ハイワンド家に助けられ帝都まで旅を共にしてもらったことへの謝辞など、精一杯の儀礼と気持ちを尽くして話しをした。
バース公爵は心の読み取れない固い表情していたが、ときおり頷き、同意し、その重々しい態度は人物と立場の尊貴さを際立たせた。
貴族としての教育を受けていたシフォンだが、バース公爵の静かな迫力に圧倒されていく。
あらましを説明しきると、バース公爵は語りかけてくる。
「成り行きは理解しました。バルティアの名家ゼノと言えば、お名前ぐらいはこの私も聞き及んでおります。かくなる経緯とあれば力を貸すのは皇帝国の公爵として当然。ぜひ、この邸宅に逗留しながら活動されるとよいでしょう。食事や生活に纏わる雑事についても手配します。自分の家のように思ってください。微力ながらお力添えもいたしましょうぞ」
寛大な言葉にシフォンもハンジャも、ひたすら頭を垂れるのみであった。
ハイワンドとの交流は、ほんの一か月前から始まったことであるが、命を助けられ、カチェやアベルからは手厚く看てもらい、右も左も分からない帝都にあっては邸宅で保護してもらう運びとなった。
もはや返しきれないほどの大恩と感じるばかりだった。
バース公爵の言葉は続く。
「さて、ここからは込み入った話しになります。心してお聞きください。まず、皇帝国の政治状況は非常に複雑化しております。このハイワンド家は王道国との和平派であり、第二皇子テオ様ならびに第三皇子ノアルト様を強く支持するものであります。ですが、現在、属州総督官を務めているルグート・ゲラン公爵は第一王子コンラート様を支援する派閥に属しております。ゆえに貴方たちはゲラン公爵や彼らの派閥に接触を試みる際は、決して我々との関係を知られてはなりません。知られたならば、敵とみなされると覚悟してください」
ウェルス皇帝の元、一枚岩のごとく団結した貴族階級を想像していたシフォンやハンジャは皇帝国の分裂した内情に衝撃を受けた。
バース公爵からの忠告は多岐に及び、シフォンはそれらを記憶に刻みつける。
どれ一つとして疑うことなく、守らねばならない絶対事項と心した。
やがて会見は終わり、バース公爵は二人を来賓用食堂へ通し夕食を提供するようにケイファードへ命令した。寝室の手配も合わせて命じる。
バース公爵は突然と舞い込んできたシフォン・ゼノが無残に騙されて、何もかも奪われる日が遠くないことを確信していた。
ゲラン公爵は多かれ少なかれ金に汚い貴族たちにあって、ひときわ欲深い男と評していい人物であった。
半端な額の献金など、無駄に終わるだろう。
ましてやゼノ家は皇帝国と交流のある名家とはいっても、所詮は無数にある属州の貴族にすぎない。
本貫地であるバルティアは既に陥落していて、短期的な利益を生む対象でもない……。
身ぐるみ剥されて、体よく放り捨てられるに違いない。
だが、ゲランの人格については、あえて二人に説明をしなかった。
盛大に騙されて、狡賢いゲラン公爵に憎しみを募らせればよい。
自分はただ事態が動くのを静観するのみと、バースは考えていた。
カチェは祖父バース公爵と再会を終えて、風呂に入り、夕食を済ましてから寝室に案内される。
客用の寝室であり、豪華な天蓋付きの寝台があった。
絹の寝具に包まれ、一人で寝る。
変な感じがした。
旅の間、夜間は常に誰かが傍にいた。
焚火の傍で眠り、ふと目を覚ますとアベルが不寝番をしていたものだ。
今は部屋の外の廊下で女性の騎士が、見張りをしている。
しかし、部屋では一人である。
何かが違うと感じる……。
明日の朝、アベルと食事をしてこれからのことを相談しようと思った。
~~~~
アベルは夜明けと同時に目を覚ます。
小鳥の囀りが聞こえた。
外に出て、近くにあった井戸から水を汲み上げた。
手桶に溜まった水を「加熱」の魔法でお湯にしてから、服を脱いで体を洗う。
清澄な朝の空気が清々しい。
大邸宅にある林の中なので、まるで田舎に住んでいるようだった。
実際は世界最大の都の内部であるわけだが……。
家に戻るとアイラが朝食の準備をしていた。
それを少しばかり手伝う。ゆっくり休んでいろと言われたけれども。
あとは持って帰った数種類の香辛料の袋を渡した。
大部分はモーンケが売ると言ってどこかに隠してしまったが、小袋ほどの分け前を渡されていた。
その量と質にアイラが驚いている。
「どうしたの、これ!」
「魔獣界と亜人界の境界にホロンゴルンという街がありました。そこで買ったものです。現地では安いものです」
「この量の胡椒や丁香を帝都で買ったら大変よ。金貨が十枚あっても足らないわ」
「香辛料だけではなくて戦利品もたくさんあったけれどね。モーンケ様が分けてくれるかは知らないけれど。あいつケチだから期待しないほうがいいな」
朝食は肉入りの粥に、茹で卵。たくさんの野菜が入ったスープだった。
やはり母の手作りは美味い。
食事が終わった後、アイラが髪を整えるべきだと言う。
断ることなど出来ないので後頭部の長すぎる髪の毛を切ってもらった。
耳元は少々、刈り上げる。顔やうなじに剃刀を当てた。
さっぱりした。
それから長旅で痛んだ服をアイラに繕ってもらうことにする。
直ぐには終わらないというので、代わりにウォルターの服を借りた。
絹の下穿きに上着。その上から革の胴着を着た。
靴は旅の間、ずっと履いてきた鉄の覆いがついた革製の長靴。
実用一点張りの武骨な作りだが、旅において足元の装備はこうでなくてはならない。
ウォルターの服はまだ、ちょっと大きすぎるものの折り込んで着てしまった。
姿見があったので、アベルは全身を確認する。
服の仕立て自体は絹だけあって、なかなか上等に見える。
過剰ではない程度に刺繍やレースが付いていて、品の良い服だ。
均整の取れた体をそうした服で包むと、びっくりするほど似合っていた。
別にナルシストの毛はないと思っているつもりなのだが、貴公子とはこいつのことだと感じる……。
アイラが、どうしたことか鼻息も荒く自慢げな顔をしていた。
「母上?」
「さすがウォルターと私の子だわ! 旅の汚れも落ちて……完璧ね!」
アイラは、やたらと嬉しそうにしていた。
母親の気分がいいのなら、それが一番良いというものだ。
妹のツァラも興味深そうにアベルを見ている。
「どうだい。お兄ちゃん、身綺麗になっただろう」
「はい。でも、かえってきたばかりのお兄さまのほうが山の動物みたいでかっこよかったです」
「母上。ツァラは見方が渋いね。男を見る目があるんじゃないの、これ」
「我が娘ながら恐ろしいわ……」
出かけるにあたり、アベルは防具や武装はどうしようか迷う。
はっきり言って帝都の治安は、かなり悪かった。
ウォルターに相談してみる。
「刀ぐらいは必ず持っていけ。防具は不意打ちされるような心当たりがあるなら、しておくんだな。昼は、ぎりぎり治安は維持されているが、夜は覚悟して移動しなければならない。強盗に遭わない方が珍しいぞ」
狙い撃ちにされるほどの心当たりはないので胸甲やら籠手やらは装着しないでおく。
いくら魔力で身体が強靭になっていても、やはり防具など邪魔なのである。
アイラが「無骨」に気が付いた。
「見たことのない刀ね。どこかで手に入れたの?」
「ん……。そう。ちょっとある人から貰ったんだ」
「見てもいい?」
アベルは頷く。
魔女アスから授けられた刀。
もの凄い斬れ味だ。
アイラが鞘から刀を抜くと、やや紫に似た輝きを湛えた刀身が現れる。
禍々しくて、お世辞にも綺麗な刀ではない。
こいつを美しいと感じるのなら……殺人に淫する者かもしれないとアベルは思う。
例えば、アイラから貰った「白雪」はその銘のごとく、清潔な気配のある刀身をしている。そこに美を見出したとしても理解できることだ。
だが、「無骨」からは不気味な、殺人道具としての凄味ばかりが伝わってくるのである。
アイラが怖いぐらいの視線で刀を見詰めていた。
それから鞘に仕舞う。
「……この刀。お母さん、あまり好きじゃないわ。切れ味は良さそうだけれど」
「無骨っていう銘です。骨なんか無いみたいに斬れると言われて、ある人から貰いました。実際、そんな風に斬れます」
「……アベル、ずいぶん人を殺したみたいね」
「数え切れないぐらい悪人にも出会ったし、戦争にも参加しました。けれど、慣れてはいないつもりです」
「そうよ。大切なものを守ることに意味があるのであって、人殺し自体には価値はないわ。そこを勘違いしている戦士が、けっこういるけれどね」
「戦いを楽しんでいる人間には会いました。僕にはよく分からないけれど」
支度を整えて、いよいよアベルは出かける。
刀は「白雪」だけを腰に佩いた。それから棒手裏剣と小刀も携える。
貴族区と平民区を越えるのに必要な手形をウォルターに借りた。
ハイワンド家の紋章が描かれた紙で、騎士団の人間であるということを証明するものだった。
馬を管理している施設の場所まで、ウォルターに案内してもらう。
本当に呆れるほど広くて立派な邸宅と敷地だった。
そのことをウォルターに話す。
「そりゃそうさ。この邸宅は、もともと二百年ぐらい前に第三十一代、バーモン皇帝陛下が別宅として建設されたものなのだから」
平民の暮らしとは、まさに天と地の開きである。
馬小屋というより馬長屋というような施設にアベルの愛馬がいた。
赤毛をした、実に良く働く馬だ。
筋肉が発達していて、俊敏さと頑健さを兼ね備えているのが見てわかる。
気性はちょっと荒いが戦闘に使うような馬はそうでなくてはならない。
ウォルターが目を細めて笑いながら言った。
「いい馬を持っているな。アベル。羨ましいぜ」
「はい。赤毛のご機嫌なやつです」
馬は自分が褒められていると敏感に悟って、嬉しそうに嘶いた。
馬丁に鞍を付けてもらいアベルは騎乗する。
シャーレに会いに行く。
ウォルターに手を振り、馬を駆けさせて門まで飛んでいった。
門番に開門を頼むと頑丈で重たそうな扉を開けてくれた。
気が急いている。
貴族区の道路を、やや急ぎつつ進む。
途中、出会うのは貴族ばかりだ。当然ではあるが。
派手に染色した煌びやかな衣装を着込み、数十人の家臣を連れ立った者もいれば、質素な服装をした貧乏貴族という風体の人物とも擦れ違う。
ウール門に到達。
門は彫刻などで壮大に飾られていて、貴族と平民の生活の場を分け隔てる威容を誇っていた。
衛兵にウォルターから借りた証明書を見せてアベルは平民区に出る。
証明書には、この者ハイワンド騎士団に属することを証する、とだけ書いてある。
だから持ってさえいれば……誰でも良いということになるわけで、そうした紙一枚で通行できてしまうあたりザルだなぁとアベルは思った。
門を出ると、いきなり数人ほどの物乞いの群れがアベルの馬に近づいて来た。
これも当然というべきか。
金のある者に物乞いしなければ意味がない。
門から出てきた貴族風の人間は、乞うには最適の人物だろう。
アベルは金をバラまいて悦に入る趣味はない。
上手く
ウォルターに説明された方角へ馬を進ませた。
朝だと言うのに、すでに喧噪に満ち満ちた街。
ありとあらゆる物資が、ありとあらゆる人間によって運ばれていた。
モンバール通りというのは、やっぱり良く分からなかった。
アベルは道端の物乞いに銅貨を投げ渡す。
物乞いは鮮やかに空中で硬貨を掴み取った。
「モンバール通りってどこ?」
「ここを、あちら東に進むんですぜ。交差点を二つ目で南に折れるとモンバール通りでさぁ」
アベルは人々の間、ゆっくりと馬を進めた。
急ぐと危ない。
とにかく商店の数が多い。
大通りの両脇に例外なく何らかの商店がある。
小売りの店もあれば問屋風の店もあった。
モンバール通りというのは薬品や薬草など、医薬品に関するものを扱う店が多いらしい。
シャーレが働くテルマ薬品店を探す。
目の良さには自信があったものの簡単には見つからない。
仕方ないのでアベルは道を歩く丁稚らしき少年に聞いた。
「テルマ薬品店って知らないか?」
「貴族様。何事も
十二歳ぐらいの丁稚の少年は達者な口ぶりでそう答えた。
アベルは銅貨を取り出して渡す。
「お兄さん、ありがとな。そのお店、もうちょっと先に進めば、ありますわ。でっかい看板があるからアホかメクラでなければ見つかります。でも、銅貨に免じてもうちょっと丁寧に教えてあげます。赤い字でテルマとダンヒルの薬品店と書いてあるんや」
「テルマ薬品店じゃないの」
「詳しくは知らんけれどダンヒルって人が三年ぐらい前に来て、そいで一緒に店を始めたから看板も新しくなったらしいです」
「ありがとう」
アベルは礼を言って先を進む。
丁稚の少年は、ちょっと変わった貴族の子弟だと思った。
まず平民に礼を言う貴族など、滅多にいない。
それに若いのに何だかやたらと落ち着いて……妙に姿がいい。
だが、ふんと思う。
貴族だって病気になれば平民と同じように苦しむ人間だ。
せいぜい偉そうにしていろ。
まぁ、さっきのくすんだ金髪の少年はどこか違う雰囲気だったけれどな……。
アベルが、しばらく通りを進むと教えられた通りの店があった。
間口も広く、人も出たり入ったりしていることから流行っているのが分かる。
馬から降りると店の奉公人が飛び出してくる。
二十歳ぐらいの、やや太り気味の男だった。
「これはこれは貴族様。テルマとダンヒルの薬品店にようこそ!」
「あのさ。僕はエリック・ダンヒル様と雇人のシャーレ・ミルの知り合いなんだ。二人はここにいるかな?」
「あ! はいはい。ダンヒル様は貴族様ともお知り合いの多いお方。ミルも最近、ますます腕の上がっている薬師でございます。貴族様は以前に調合薬を頼まれた方ですな」
「えっとね。僕はハイワンド家の者だ。以前からの知り合い。シャーレ・ミルに会いたいのだけど」
「なるほど! 合点がいきました。それでは店の中でお待ちください。本来ならダンヒル様かテルマ様が診療したのちお薬を作るものですがミルをご指名とあらば、そのように手配します」
アベルは店の中に案内された。
様々な薬が煮られたり、擂られたりする独特の匂いがしている。
カウンターがあって十席ほど。
薬の欲しい人が席に座って、薬師と面談して、それで薬を作るようになっていた。
何か事情のある場合には個室に通されて、そこで診察することもあるはずだ。
カウンターの奥では薬師見習いたちが五人ほど忙しく作業していた。
奥に続く扉もあって、そこでも人が働いている気配がある。
店は繁盛していてカウンターは一杯だった。
しばらく待っていると一席が空く。
他にも待っている人が居るのに順番を抜かしてアベルは入れてもらった。
貴族に対する優遇らしい……。
座って、どきどきしながら待っていると、やがて奥から白いエプロンをした女の子が出てきた。
アベルの前に座る。
エメラルドのような緑に輝く瞳。
髪の色は子供の頃に比べて少し濃くなった金髪。
直毛はすんなりと綺麗に胸のあたりまで伸びていて、陽の光が輪になって反射していた。
張りがあって健康的な肌。
優しいだけでなく、同時に賢そうな顔つき。
そこにいたのは間違いなくシャーレだった。
とびきり美しい女性に成長していた。
まだ少女らしさが残っているものの、働いているせいか、どこか大人びている。
「いらっしゃいませ。貴族様……えっと……あれっ?」
「あの……。信じられないかもしれないけれど僕はアベルだよ。テナナで共に育った……」
シャーレは疑うような、驚いたような、そういう警戒心を露わにさせる。
首を振っている。
「シャーレ。すっかり大きくなったね……。嘘じゃないよ。ずっと遠くにいたんだけれど、やっと帰ってこられた。母上にシャーレがここで働いているって聞いて、急いで来た」
シャーレは急に席を立った。椅子の倒れた音がする。
そのまま机を越えて抱き付いてきた。
熱の塊みたいな、温かい肉体だった。
アイラや魔女アス、イースとも違った匂いがする。
かつてテナナの家で、もたれかかって昼寝をしてきた幼いシャーレと同じ香り……。
店員や客まで何事かと見ていたがアベルもシャーレもそんなことはどうでも良かった。
しばらくの間、固く抱き締め合っているとシャーレの親方であるダンヒルが現れた。
ポルトの頃と同じく、小柄だが活力の漲る様子だった。
「お前さんは……まさかアベルか!」
「あっ。ダンヒル様」
「……なんじゃあ、仲の良いことは結構だが一応ここは薬品店なのでな。すまんがそういうことは連れ込み宿なんかでやっておくれ」
アベルは急に我に返った。
あまりの感動で周りが見えなくなっていた……。
「シャーレ! ちょっと……離れようか」
「いやだよっ。離したら、またアベルがどっかに行っちゃう」
「い、行かないから……」
シャーレの抱き付きは、むしろ強くなる。
胸とか、かなり成長しているのが感触で分かった。
あからさまな男女の情交に、お客さんたちが囃し立てた。
「もうちょっと暗くなってからやれよ。まだ午前だぜ。気が早すぎらぁ」
「ここは媚薬も売っていたのかい。俺にも一つ調合してくれ」
アベルは顔を赤くさせながらシャーレを引き剥がし、ダンヒルに案内されて個室へ連れて行ってもらう。
そこでも改めてシャーレは、しがみついてきた。
泣いていて涙がアベルの胸元を濡らしていた。
こうなっては、もう何も言えないというものだ。
ただ、ひたすらシャーレの背中を撫でてやる。
やがてシャーレが落ち着いてきた。
それから怒涛の勢いで質問攻めにしてくる。
アベルは一つ一つ丁寧に答えていった。
あっという間に時間が過ぎていく。
ある程度、区切りのいいところでアベルは聞いた。
「シャーレ。仕事はいいの?」
「良くないけれど許してもらう。アベルはアイラ様のところにいるの?」
「そうだよ。ハイワンド公爵様の邸宅にある」
「あたしも今日、行きたい。連れて行ってほしいよ」
「ま、まぁいいか。父上も母上も喜ぶだろうし」
「えへへ。やった!」
アベルたちが個室から出ると、ダンヒルがニヤニヤと笑っていた。
薬師たちも興味深々という態度である。
「よう。色男。女の涙で服を濡らすとは、すっかり出来た男になったもんだな。ポルトの頃は紅顔の少年だったのになぁ」
――色男? いや、まだ童貞なんだけれどよ……。
シャーレはダンヒルに今日の休暇を願い出る。
話の分かる男であるダンヒルは笑顔で快諾してくれた。
「ダンヒル様。僕の為に申し訳ありません」
「なに。気にせんでくれ。仕事は他の者に任せればいい。シャーレは普段から良く働いてくれておるからのう。こんな時に休暇ぐらい取らせてやりたい。」
ダンヒルは和やかに笑っている。
アベルは思わず感心してしまう。
前世では半日の有給休暇すら取れない会社ばかり経験してきた。
体調不良などでどうしても働けなくても、休んでしまったら溜まった仕事は誰かが消化してくれるわけでもないから結局は残業や休日出勤で補わないとならない。
それと比べてなんとホワイトなことか。
文明のレベルは関係ない。
経営者の人格の貴賤がこうした違いを生む。
「ダンヒル様。それではシャーレを連れて行きます」
「好きにせぇ。ただし、傷物にしたら責任を取るのだぞ」
「えぁ? や、やだなぁ。そういうことはしないですよ。だいたいシャーレが断る……」
アベルがシャーレを見ると彼女は顔や耳まで赤くさせて俯いていた。
初々しい、可愛い態度だった。
アベルまで胸が熱くなってくる様子……。
照れ笑いしながらアベルはシャーレを伴って店を出た。
興味深そうに注視してくる女性店員と不機嫌そうにした男性の店員が数名いたが……構うものか。
アベルは馬に乗る。シャーレに手を貸して、二人乗り。
ゆっくりと帝都を馬で進んだ。
気分がいい。
都会のドライブといったところだろうか。
さっそく家に帰ろうとしたが、シャーレは買い物をしてから行きたいと話した。
「いいけれど帝都の地理がさっぱりだ」
「あたしに任せて。モンバール通りからウール門あたりまでなら詳しいから」
アベルは頷き、指示されるまま二人乗りで進む。
背中のシャーレは、アベルの腰に抱き付いていた。
体温が熱いぐらいだった。
赤毛の愛馬は、しきりに耳を動かしている。
馬は耳に感情が表われるものだ。
二人乗りをすることはほとんどないから違和感があるのだろう。
ちょっと落ち着きがない。
それに人間の多さも影響しているに違いない。
馬というのは人以上に神経質なところがある生き物だ。
アベルは赤毛の馬に語りかけながら首筋を撫でてやる。
すると嬉しそうに首を振った。
薬品や医療品を扱う店がなくなり、次は飲食店が増えてきた。
飲食店といっても下層のものから上流階級の人間が行くような店まで色々とあるが、この付近のものは中流から上といった風情だ。
そこを過ぎると今度は市場となる。
もともとは広場らしき場所で、そこに露店が無数に犇めいている。
皮を剥がされて、頭を切り離された牛や豚が並んでいた。
シャーレは牛の尾のスープを作るつもりだと、材料を買っていく。
どうやらアイラと一緒に夕食を作るつもりのようだ。
「アイラ様には、お世話になったの。あたし、ちょっと体調を崩したことがあって……。そうしたらお屋敷にあるウォルター様のお家で看病してくれたの」
「そうらしいね」
「あ。知っているんだ」
「そういえば、ドロテアさんやアンガスさんとは連絡は取れているの?」
ドロテアとアンガスはシャーレの両親だ。アイラの親友でもある。
テナナ村の診療所で一緒に働いていた。
「ハイワンド領は今、王道国に占領されちゃっているから分からないの。でも、噂に聞くとね。支配しているハーディア王女は、それはそれは寛大で賢明な人なんだって。こういうこと言うと怒る人もいるけれど……。だから、無事にしていると思っているの」
気丈なことをシャーレは口にするが、心配しているに決まっていた。
その後、野菜や香草、果物などを買って、アベルたちは帰路につく。
ウール門は相変わらず出たり入ったりが激しい。
貴族区にも沢山の人間が住んでいて、物資を必要としているのが良く分かる光景だった。
シャーレ自身は貴族から発行された入区許可証を持っていないとアベルは思っていたのだが、なんとしっかり入手していた。
考えてみればそれもそのはずで、ダンヒルはもともとハイワンド家のお抱え薬師なのだ
いまでは公爵家の薬師なのである。
ダンヒルの雇い人でウォルターとも関係の深いシャーレは、入区許可証を与えられるだけの人間だったわけだ。
貴族区の中に入る。
景色が一変する。
よく舗装された道。むろん、ゴミなど落ちていない。
道路の隅を使用人が歩き、道路の中央を騎馬でもって移動できるのは貴族階級の者だけである。
アベルは冷静になって考えてみると、自分が貴族ではないのを思い出す。
立場はいまだに騎士見習い。
皇帝国において最下級としてでも貴族と認められるのは、準騎士からである。
――まぁ、いいか。
バレやしねぇだろう。
背中のシャーレが無邪気に言ってきた。
「アベル。すっかり立派な貴族様だね。衣装も似合っていて、最初は誰か分からなかった。どこかの立派なお血筋の青年だと思った。本当に、すっごく格好よくなってビックリした!」
「いや、へへへ……。ここだけの話し、僕はまだ騎士見習いなんだ。貴族でも無いんだよ」
「え~! 冗談でしょ?!」
「それが本当のことなんだな、これが」
振り返るとシャーレが唖然とした顔つきで固まっていた。
アベルは苦笑しつつ馬の操作に集中した。
舗装された道路の両脇には側溝があるので、間違っても馬が落ちないようにしてやる。
貴族の屋敷は大規模なものでも小さいものでも、例外なく壁で仕切られている。
これは文化というか常識中の常識というものだ。
壁にも家格が表われる。
古めかしくて威厳がある壁は、大抵は公爵家とか伯爵家のものであった。
道を騎乗で進む者は、ほとんど例外なく貴族である。
商人は荷物があるので、普通は馬車を使っていた。
貴族は従者を連れずに外出することは稀なので、どんな小貴族でも数名で移動していた。
今のアベルのように、街の女性らしき者と二人乗りをしているのは珍しい……と言うより皆無である。
そういうわけから、すれ違いざまに他の貴族から注目されてしまった。
その表情を観察してみると憮然とした顔をした者がいる反面、逆に上手くやりやがってという風に笑っている奴もいた。
やがてハイワンド公爵の邸宅前に到着。
警戒は相変わらず厳重で門の前だけでなく、前を通る道でも公爵家の騎士が巡回していた。
アベルが門番に声をかけると、もう顔だけで開門をしてくれる。
気になったので、そのことを質問してみる。
「あの。顔だけで通ってもいいのかな」
金属の鎧を装着して、槍で武装した門番は答える。
「普通はそういうことはないのです。スタルフォン様から貴方のことは出入り自由だと通達されました。教えて欲しいのですが、貴方は何者でしょうか?」
「ハイワンド家、遠縁の者です……。名前はアベル・レイ」
「レイということは……、もしやウォルター様の関係者でしょうか」
「そう。僕の父上」
アベルがそう言うと門番たちは一斉に態度を改めた。
完全な直立不動。
アベルは不思議に思いつつ、一礼して門の中に馬を進入させた。
邸宅に用事はないので、そのまま北側の林の方へ移動。
家の前まで赤毛を乗りつける。
シャーレに手を貸してやって馬から降ろす。
気配を感じ取ったアイラとツァラが二人、扉から笑顔で出てきた。
妹のツァラとシャーレは仲が良いらしく、昨日会ったばかりのアベルより、よほど懐いていた。
シャーレは買ってきた食材をアイラに見せて、二人で何を作ろうかと楽しそうに相談している。
アベルは夕食まで馬の世話をしたり、道具の手入れをするなどして過ごした。
カチェに顔を出せと言われていたことなど、すっかり忘れていた……。
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