第71話  イース



 


 皇帝国が目前に迫ってくる。

 飛行魔道具で東の果てに飛ばされ、島と密林で一年以上を過ごした。

 北方草原では戦争に巻き込まれて再び約一年。

 ここまで来るのに、やはり一年ほどの時間を必要とした。

 アベルは自分が、もうじき十七歳になるのを思い出した。


 魔人氏族の学者ライカナ、草原氏族の少女ウルラウ……。

 他にも色々な人間に出会った。

 特に魔女アスとの出会いは今もって不気味な存在感を持っている。

 記憶を読み取られ、自分の魂を知られてしまった。

 絶対、誰にも知られなくなかったが。


――魔女アス……。あいつどうしているんだろう。

  もしかして、今も俺のことを見ているのか?


 中立の商業都市クタードの街まで、あと一日というところまできた。

 アベルたちはゼノ家の家令ハンジャと様々に打ち合わせをしてある。

 クタードの街にハンジャがよく知る有力商人がいるという。

 その人物は金さえ出せば、身分の売り買いを請け負う。


 皇帝国に渡るには、それなりの信用と身分が必要だ。

 アベルたちがハイワンドの生き残りだと主張したところで怪しまれて越境を断られかねない。

 一度、断られると同じ検問を通過するのは困難を極める。

 さらには下手をすれば王道国の密偵を疑われて、拘束される可能性すらあった。

 身を守る武器を失ってどこの誰とも知れない役人に自分を任せるなどあり得ないことだ。

 それなら身分を偽ってでも越境をして、なんとか当主のバース伯爵と再会しようと決まった。


 そこで、アベルたちは商人の身分を買うことにした。

 そのうえでアベルたちの身元は、さらにゼノ家と商家が保証するというわけだ。

 ゼノ家はその経歴上、皇帝国と繋がりが深い。

 皇帝国の有力者にも知り合いがいるという。

 これなら国境越えも上手く行くというものだ……。


 アベルたちは馬で移動を続けている。

 地形は起伏に富んでいて、街道から見える景色は原野や畑が入り混じる。

 人家はあまりない。

 血みどろの抗争があったバルティアだが農村部は平和そのものだった。


 午後になり、小さな石造りの廃屋があるので内部を見ると無人である。

 丁度よく水場もあり、付近には馬が好む草がたくさん生えていた。

 今日は無理をせずにここで休み、明日にクタードへ入ることになった。

 一行は荷物を降ろす。

 イースがアベルに普段と変わらない態度で言った。


「アベル。ちょっと頼みがある。あの樹の下で待っていてくれ」


 イースが指さすのは二百メルほど離れたところにある大木のことらしい。

 アベルは頷き、言われた通りにする。

 周囲の警戒でもするつもりなのかと思った。


 イースは一人離れていくアベルの背中を確認した。

 それからロペスの元に行き、一礼した。


「ロペス様。突然ではありますがお別れであります。ハイワンド家に保証していただいた騎士の立場、謹んで返上いたします」

「……」


 横で話しを聞いていたカチェは、あまりのことで言葉が出なかった。

 息が詰まる。


「このイース、珍しくも考えに考え結論を出しました。このまま皇帝国に仕えても先に私の求めるものは無いと気が付きました」

「ふん……。皇帝国には亜人を差別する法律がある。混血のお前も例外ではない。ポルトの戦いから三年以上。法律はさらに厳格に施行されておるだろうな。無理もなかろう。止めはしないぞ」

「ハイワンドには本当に良くしていただきました。どこの家でも扱いかねる混血の騎士を最後まで雇っていただきました。騎士の身分も守っていただきました。ロペス様。どうかご武運を。それとアベルを頼みます。ハイワンドの一門衆として充分に相応しいはずです」


 ロペスは金の入った袋をイースに渡す。


「これは餞別だ。もっていけ。ウェルス陛下が亜人を排斥せよと思し召しになるなら従うのが臣の務め。次に会う時は敵としてか味方としてか……。どちらでも構わぬぞ。いずれにせよ、武人として相対するのみ」


 イースは袋を受け取り、礼をするとロペスの前を離れる。


「モーンケ様。貴方は武芸以外の道に専念してロペス様を支えられるといいでしょう。人には実りをつける道があります。収穫の見込めぬ荒地を耕すのは苦行でしかありません」

「……俺は武人としては成功しないってか。これはハイワンドに生まれた宿命なんだ。余計なお世話だぜ。じゃあな、イース。お前には助けられたってことにしてやるよ」


 そう言うなりモーンケは、そっぽを向いた。

 次にはガトゥに別れの挨拶をする。


「ガトゥ様。長い間、私の面倒を見ていたたき、ありがとうございました。ガトゥ様の寛容さが無ければ適わぬことでした」

「面倒なんか見てねぇよ。イース。お前は最高の部下だったぜ。罪を犯してハイワンドに流れてきた俺の下で文句一つ言わずによくやってくれた。……まぁ、なんだ。俺ごときが本物の戦士にあれこれと言うことはねぇよ。じゃあな」

「アベルを頼みます」

「実は言うとな、こうなるような気はしてたんだぜ。アベルをハイワンド家に届けるのは俺の義務だ。安心して任せろよ」


 ガトゥは無言で頷いた。

 その横ではカザルスが思慮深い顔付で立ち尽くしていた。


「カザルス殿」

「そうか。お別れなんだね。ボクのせいで、こんな長い旅になってしまった。すまない」

「いいえ。あの追い詰められた状況では仕方のないことでした。それに飛行魔道具での経験は私にも得難いものになりました。カザルス殿のおかげです……。それでは、アベルを頼みます」


 表情を隠すということを知らないワルトがいる。

 腹が減ればそういう顔をするし、悲しければそういう顔をする。

 耳を垂らして、捨てられた子犬みたいな表情をしていた。


「ワルト。ずいぶん強くなったな」

「くぅ~ん……。イース様のおかげだっちよ」

「ふふ。何も教えていないぞ。獣人というのは自分より強い者を正確に見抜いてそこから学ぶというが本当だったな。アベルにずっと付いていてくれ」


 カチェはイースが一人一人に挨拶する様子を黙って見ているしかなかった。

 イースが居なくなるというのは想像を越えていた。

 危険な場面を何度助けられたことだろう。


 アベルは時としてイースの人格を熱っぽく称賛していた。

 怒らず、人を憎まず、妬むこともない……と。

 最初はその意味が良く分からなかったが、今となっては理解しているつもりだ。


 カチェは自分の心臓が徐々に速まっていくのを感じる。

 自分はともかくアベルはどうするのか。

 とても離脱を受け入れるとは思えない。

 そのことの方が心配だった。


「カチェ様。イースは、ここでお別れです……。本当に御立派になられました。皇帝国で存分に活躍されてください」

「アベルはどうするの? もしかしたらイースと別れないと言うかも。ええ、きっとそう言うわ」

「……」


 イースは赤い瞳を僅かに俯けた。

 驚いたことに、はっきりと悲しみが滲み出でいた。

 イースが他者に感情を悟らせるなど、それ自体が珍しいことだ。

 やはり酷く辛いのだと感じ取る。


「あのね。イース……」


 伝えるべきことはあまりに多く、それでいて時間は少ない。

 何を話そうかカチェは迷いに迷う。

 自分がアベルを異性として想っていること。

 イースには命の恩人として心から感謝していること。


 そうした心の内側を言葉にしようとしたが、今ここで言うべきことなのかと逡巡した末に結局は沈黙した。

 ここで自分の感情をイースに叩きつけたところで何も良いことは無い。

 それより別れというものは簡潔でありたい。


「引き留めたところで無駄なのは分かります。皇帝国には自由に入ることが出来ないから会いに来るのも難しい……。もう二度と会えないかも」

「先のことは全く分かりません。誰の人生もそうでしょう。それではカチェ様。ご武運を。アベルを頼みます」

「そうだとしても再会を願っています。イースこそ無事でいてください」






 アベルはイースが歩いてくるのを、ぼんやり見ていた。

 だんだんと近づいてくる。

 そういえば、ふとアベルは気が付いた。

 イースより頭半分ほど自分の背の方が高くなっていた。


――いま俺、175センチぐらいかな……。

  たぶんそんなもんだろうな。

  いつの間にか背を抜いていたんだ。

  イースより体の成長だけは速いなぁ。


 不思議なことにイースは大剣のみならず雑嚢まで肩に引っ掛けていた。

 周囲の偵察をするなら雑嚢はいらないはずだった。

 さらには旅の途中で自作した木刀を三本も持っていた。


「イース様……」

「ちょっと向こうまで歩こう」


 イースは無言で歩み続ける。

 太陽が沈んでいく。

 雲の端が黄金のように輝いていたかと思えば、やがて紫色に変じていった……。


 ふたりは黙々と進んでいた。

 アベルは異変に気が付く。

 並び歩むイースの横顔は、いつもの完璧に整えられた彫刻のようなそれではなかった。

 深く悩み、苦悶している表情そのものだった。


「イース様。体調が悪いんじゃないですか」

「……このあたりでいい」


 道の脇。

 草の少ない荒れ地であった。


「鍛錬をする。今日はあえて教えなかった技を見せる」


 イースは荷物を置き、鎧も外した。

 異常な緊張感を意識しながらアベルもそれに倣って胸甲と背甲を手早く外す。


 この世界。魔術にせよ武術にせよ、極端な秘密主義だった。

 たとえ弟子が相手であろうと丁寧に技術を伝授するということは滅多にない。

 何年も礼を尽くし、大金を渡して、やっと一度だけ教えてもらえるという程度だ。


 イースにしてもポルトにいた頃は、そうそう木刀での打ち合いなどしなかった。

 要所で教えてくれはしたが、まだ技量に圧倒的な開きがあったせいだろう。

 だが、旅の途中から徐々に木刀で掛かり稽古をやるようになり、やがて寸暇を惜しみ教えてくれるようになった。


 ようやく理解できるだけの基礎が出来たとも言えようか。

 最初の段階からあまりに高度な技術を叩きこまれたところで再現などできはしないだろう。

 ただ、今のようなことを言われるのは初めてだった。


 アベルは二振りの木刀を渡された。

 二刀流でやれという意味らしい。

 右の一刀は上段、もう一方は下段に構えた。


 イースは合図もなく無言のまま打ちかかってきた。

 胴を狙った鋭い中段の攻撃。

 アベルは上段からその打ち込みを迎撃するので精一杯だった。


 二刀だから攻撃の手数が増えるかといえば、そう単純なことではない。

 いくら力が強くても、人間の関節の可動範囲というものは限られる。

 死角というものは必ずある。

 それに刀のような武器は、あまりに接近されると攻撃し難くなるものだ。

 イースはその弱点を利用してきた。

 後退するアベルを容易に追随してきた。


 それからイースは、えぐい蹴り技を併用してくる。

 アベルは脛を強かに蹴り飛ばされ、痛みに歯を食いしばる。

 いくら訓練にしても強烈だった。

 慌てて木刀を薙ぎ払うが、イースは間合いを見切って避ける。


 苦し紛れの攻撃を空かされたアベルは僅かにバランスを崩した。

 そこを逃すイースではない。

 飛ぶように跳躍して片手突きを仕掛けてきた。

 避けきれず、アベルは下腹部に木刀の先端をもろに食らう。

 激痛。


「ぐぇ!」


 痛みに悶絶し、アベルは治癒魔法を使った。


「あ~、びっくりした。イース様。今日は激しいですね……」


 アベルは我が目を疑った。

 沈黙しているイースの眼つきには、どことなく殺気じみた気配すら漂っていた。

 やっぱり普通ではない。


「実戦ならばアベルは死んでいる。イエルリングの戦士、あのダレイオズという男になど到底、敵わない」

「あいつ、イース様と互角でした」

「互角? たぶん、あいつの方が強かった。そういう相手にお前は向かっていたのだぞ」

「死ぬところだったってわけですか」

「もう一度やる。私を殺す気で掛かってこい。本気だ」

「そんなこと……」

「私はアベルになら殺されてもいい。それでお前が強くなってくれるならな」


 アベルは絶句して立ち竦むしかなかった。

 だが、構わずイースは打ちかかってくる。

 慌てて、二刀の構え。


 今度は両方の木刀を左右それぞれ体の脇に配置する。

 腕は伸ばさない。縮めておいて相手が出てきたところを突き、あるいは薙ぐ意図だった。

 イースは当然のようにその意図を見抜いた動きをしてくる。


 これでは万が一にも勝てない。

 次の手だ。 

 アベルはワルトがやるような歩幅を一定にさせない変則的な跳躍を繰り返す。

 激しく動いて相手に隙を作るやり方。


 ただ、これはやっていてイース相手に大した効果がないのを自覚していた。

 それよりは真意を隠す予備動作の意味合いがあった。

 頃合いを見てアベルは構えを変える。

 両方の木刀を下段にして、突撃。


 真っ向からイースはアベルの剥き出しの頭に目掛けて木刀を振り下ろす。

 アベルは姿勢を極限まで降ろして、足の力だけで前方に跳んだ。

 切っ先が頭上を掠める。


 アベルは右の木刀をイースの太ももへ突きこむ。

 だが、当たる寸前でイースは回避。

 逆に背中を打たれてしまった。

 そのまま地面に倒れ込む。

 

 背中に痛みを感じつつアベルは立ち上がる。

 どうやっても勝てる気がしない。

 勝ち筋が毛ほども見えてこなかった。


 全く敵わないまま鍛錬は続いた……。

 イースは時折、自分の技と意図を言葉でも説明してくる。

 その内容は視覚の誘導、足捌きの妙技、機を見抜くコツなど実に多彩だった。

 特に相手からそれと悟られず間合いに入り込む移動方法は、舞踊の動きにも似たもので、説明されたからといって簡単に理解できるようなものではなかった。


 特に「深霧」という中段とも上段とも感じられる曖昧な構えには、全く手も足も出なかった。

 奥に無数の変化があるのは分かるのだが、実際どのように変わるのかは見当もつかず、それでいて自らの攻め手は非常に限定されていく。

 我武者羅になって突っ込むと見抜かれて先を取られ、撃ちこまれるだけだった……。

 

 ようやくイースが稽古を止めた時、既にアベルは疲労困憊。

 息が上がり、魔力も少なからず消耗している。

 こんなに激しい訓練、初めてかもしれない。

 へたりこんで、荒い息をつく。

 もし実戦だったら十回は死んでいる。


「アベル。お前の二刀流は精緻さ、動静の感覚。いずれも確かなものだ。攻撃と防御を同時に兼ね備えた剣を使えるようになれば、私と互角かそれ以上になるだろう」

「攻撃と防御」

「そうだ。二つは全く逆のものであるが、しかし、同じことだ。天と地ほど異なっていても、二つで一つ。そういう剣を使えるようになってみせろ」


――攻撃でもあり防御でもある……。


 イースは手にする木剣を地面に捨てた。

 いつの間にか太陽は森に沈もうという位置にあり、空の雲は淡い紅色から徐々に灰色へと移っていく。

 夜の兆しが迫ってきた。

 

「話しがある」

「今日は何か様子が違うよね。イース様」

「……私は皇帝国には戻らない」


 アベルは言っていることの意味を反芻する。


「戻らないって。つまり亜人界に残るってことですか? 皇帝国の法律のせいで」

「それだけが理由ではない。ここからは単独行を選ぶのが正しい」


 アベルは思う。

 イースが差別政策の著しい皇帝国に戻らないのは、むしろ当然だ。

 というか、少しぐらいは法律のことも想定していた。


「はい。このアベル、実はイース様の考えは想像ぐらいしていました」

「……」

「落ち合う場所と日時を決めましょう。僕は両親と再会して、何日か話しをすればそれでいいです。そうしたら亜人界に戻ってきます」

「そうはいくまい。両親がどこにいるのか分からないのだろう。見つけ出すのに手間がかかるということもあり得る。……だいたい、お前はハイワンド家の者だ。そう簡単に帰国して、またすぐ出て行くなど、できはしない」

「う~ん。そこはよく考えましょうよ。たしかに僕の両親の居場所が正確には分からないというのは懸案ですけれど。もしかするとバース伯爵様の近くにいるような気がしますね。とにかく、僕はどこまでもイース様についていきます。今度はどこに行きましょうか。北がいいかな」


 イースは渾身の力で拳を握る。

 小刻みに震えながら、声を搾り出した。


「いや。アベル。私はここで、お前と別れる。そうしなければいけないのだ」

「……ん? だから、うまく落ち合える日取りを決めておかないと」


 どうも会話が噛み合わない。

 呼吸……三呼吸ほどしてからやっと、え……と呟いた。

 何を言われているのか意味が分からなかった。

 別れる?


「すみません、イース様。ちょっと良く理解できない」

「私は……やたらと長い時間をかけて考えていた。やっと出た結論はこうだ。このままアベルと一緒にいれば、それは本当に心地いいだろう。私は保護者を気取り、見守る……という錯覚に耽溺できる。しかし、それをやれば実情のところ私の剣は鈍り、アベルの成長も止まる。悪いことしかない」

「……えっと。……やっぱり、あの、分からないです。成長が止まるって?」

「私はアベルと共にいると、依存心が湧いてくる。お前だったらこうするとか、こうしてくれるとか、私はどうするべきだとか。それは戦いにおいて一心同体の強みを増すだろうが、結局のところ個々の力を弱める。私はこれ以上、お前に依存したくない。もたれかかる寸前だ」

「それじゃ、だめなんですか」

「迷いや弱さは断ち切るものだ。私の心を探す旅を小さな依存で終わらせたくはない」

「僕はイース様にとって迷いの源になる」

「アベルが悪いわけではない。弱い心を持つ私が悪い」

「それで……僕を捨てるって?」

「アベルなら、もう一人でやっていける。そうでなければならない。それに捨てられるなんて思う時点で、お前まで私に依存している。私はアベルを甘やかしてしまっている証拠だ」


 アベルは動揺しつつ、あれこれと考える。

 しかし、どの思考もバラバラに千切れて形をなさない。


――俺がイースに依存している? 

  そうじゃないと……言いきれるか?


「あ、あのイース様。僕、貴方がいない生活なんか考えられないよ」


 アベルは口に出した直後、これが依存かと思い当たる。

 見つめ返すイースの瞳はどこかしら潤み、いつもの切れるような冷たさは消え失せていた。

 代わりにあるのは哀しみだったが、それも変化していき最後に優しさを感じる。


「私だってそうさ。もうアベルがいないことの方が不自然なぐらいだ。しかし、私はアベルを利用したくない。だが、このままではきっとそうなる。お前の傍で何となく甘ったるい日々を送って……。ずいぶんと幸せそうだがそれは選びたくない」


 イースがいなくなる。

 想像を超えていた。

 全身の血が逆流するような悍ましい感覚に苛まれる。


「いつの頃なのか憶えていないほど幼い時から私には戦いしかなかった。何かに執着したり怒ることができないのに生死の境にいると精神が研ぎ澄まされ、あるいは高揚して生命に実感が湧く。すると自分の内側に知らない心が見つかった気がしていた。   

 私は憎しみや悲しみをあまり感じないように、人を好きになることもない。

 いや、逆かもしれない。好きにならないから憎くもならない。

 人生で一番悲しかったのは母親が死んだときだ。あの時、母に悲しみと人の死を教えてもらった……。それから父ヨルグからは憎悪を教えてもらった。一時は私を本当の娘だと思おうとしたらしいが、やがて心底から憎んできた。

 私がもう少しアベルに傾倒していたら、こんな決断もできなかったに違いない。ずるずると共にいるばかりになっていただろう。

 お互いもっと強く、あるいは何か道を見つけて再会しよう。そうしなければならない」

「連絡を取る手段がない」

「何かで名を上げよう。そうすれば、いずれは噂話ぐらい入るかもしれない。いつか会いに行く」


 アベルは色々と言い分を考えたが、ここまで決意したイースを覆せる言葉がどうしても見つからない。

 もう言葉ではどうにもならない領域だった。

 いっそのこと決闘でもしなければ、止めることなどできはしない。


 ほとんど妄想だ。

 決闘なんかできないし、したところで勝てるはずもない。


「これ以上は私も辛くて耐えられない……」


 身を翻そうとするイースの腕を掴んだ。

 何か言わなければならない。

 こみ上げてくる言葉の数々。

 数え切れないほどの形をとらない単語の中から浮かび上がるたった一つの……。

 喉元まで出てきて、しかし、言えない台詞。


 愛。

 愛している。


 言えなかった。

 自分の内臓を取り出して見せるほうが、まだ楽だった。

 愛が何なのか分からない。

 それどころか愛というものに怯みすらある。

 自分の気持ち。

 イースへの膨大な感情は本当に愛か、そうでないか……。


 そんな、あやふやな気持ちで愛を口にすればイースはたちまち見破る。

 そうに決まっていた。


 それとも、いっそのこと押し倒し、犯してみれば分かるだろうか。

 そうすれば何か別のものが見える……。


 思わず体が動いていた。

 イースは抵抗しなかった。

 抱き締めても、なすがままだった。


――あれ。

  これってもしかして……やってもいいってことか。


 だが、冷や汗とも脂汗とも言えるものが額を流れる。

 そっとアベルは自分で股間を確かめてみる。


 少しも起き上ってこない。

 男が勃たない!

 それどころか、むしろ萎縮しているぐらいだった。


 それから、よくよく考えてみれば、人を愛するということをほとんどやってこなかった自らの人生に愕然とする。


「服が脱げないから、いったん離してくれ」


 イースが小さな声で囁くようにそう言った。

 腕から手を離した。


 イースは上着を脱ぐ。

 さらに肌着も外した。

 上半身が露わになって絹よりも綺麗な肌が夕闇に浮かぶ。

 

 この世のものとは思えない幻想的な姿。

 目の前にある柔らかな肉体は微光を放つように美しく、現実離れしている。


「私も女だ。恥ずかしいから……残りはアベルが脱がしてくれ。これでも初めてなんだ」


 イースは確かにそう言った。

 焦る。

 アベルは自分の体に狼狽えた。

 興奮しているのに反応しない。

 息が荒く、心臓なんか口から飛び出そうだ。

 それなのに男はやはり少しも勃っていなかった。


 アベルは下穿きの上から擦ったり揉んだりしたが、全然動かない。

 それより先に湧き上がるのは焦燥感と、もっと大きい感情。

 強いて言うなら、畏れ多い。


 イースを自分の自由にできる。

 思うさま自分がやりたいことをイースにぶちまけられる。

 己の欲望を余すことなく受け入れてくれる少女。


 今更になってやっと気が付く。

 自分の内面のどこを探ってもイースを押し倒してメチャクチャに犯してやりたいという気持ちが無かった。

 イースに求めるのはもっと別のもの……単に性交をするのが目的ではない。

 犯れるから犯る、などという安っぽい対象じゃない。


 抱けば何とかなるかも。

 そんなことを僅かでも想像したうえ、それをイースに察させた自分が恥ずかしくて死にそうだった。


 時間の感覚。吹っ飛んでいた。

 一瞬のような気がしていたが、もう辺りは闇夜に包まれていた。

 アベルは下半身を叩いたりもしてみたが、なんの突き上げる衝動もない。


 ついにイースは、のろのろと鈍い動作で肌着を拾い、上着を拾い、それらを着込むと仕上げに鎧を纏った。


 イースの瞳がアベルに注がれる。

 絶望的な羞恥心で顔を上げられなかった。

 体が砕けてバラバラになりそうだ。


「アベル。すまなかった。私では男の役に立たないと気づくべきであった。勘違いをした」

「そ、そんなことない。俺が悪いんだ!」

「……」

「俺、救ってもらいたい。お願いだ。清らかな心を持つイース様にしか出来ないから」


――この醜い、穢れきった俺と言う存在を助けてくれ!

  満たされない欲望でいっぱいの俺の心。


「アベルは、たまにそれを言うな。私が清らかだとか穢れがないだとか。ふふっ……、誤解している。私にだって邪心はあるし、足らぬところばかりだ」


――俺は父親を殺しているんだ!

  憎くて憎くてたまらない人間を殺して、

  それでも飽き足らない男なんだ!


「私にできることなど何もない……」


――この俺を救ってくれ。

  許してくれ。

  イース様!


「アベル。たまに見せるその眼差し。不思議だ。とても業の深い、その眼を見ているとお前なら何でもできるような気がする」


 この世の全ての色彩が溶け合ったようなアベルの瞳。

 見つめていると吸い込まれそうになるが、別れることにした。

  

「いつかまた会えるといいな。さようなら」


 あまりに唐突な別れ。

 イースは荷物を担いだ背中を向け、夜の道を歩みだす。

 見失ったら、もうそれで終わり。


 小さくなるイースの姿を見ていて、居ても立ってもいられずアベルは駆けだした。

 追いかけよう。

 まだ説得しよう。

 無様だが構ってなどいられない。


 イースは逃げるように走り出した。

 アベルはさらに速く足を動かす。

 それから魔光を唱えた。

 足元が暗すぎた。


 イースは引き離すつもりなのか、速度を上げた。

 アベルの追跡は続く。

 斜面を下り、丘を登り、曲がりくねった道、ひたすら追う。


――これ、ストーカー?

  まるでストーカーじゃねぇかよ!


 そう思いつつも、やめられない。

 だんだん距離が狭まってきた。

 それはそうだ。

 イースは完全装備で雑嚢まで持っている。

 対して自分は防具すら身につけず、刀を装備しているだけ……。


 どれぐらい走っただろうか。

 追いかけ続けている。

 アベルは体力に余裕があるのを感じる。

 まだまだ走れる。

 どこまでも追跡していける自信があった。

 追いつける!


 曲がり角をイースが走り抜けた。

 角を曲がった瞬間、イースは何かを投げつけてきた。

 大きな石だった。

 脛に当たる。


 猛烈な痛み。

 骨が軋みを上げた。

 手加減のない一撃。

 イースの拒絶の攻撃。


 走ろうとしても激痛で足が動かない。

 耐えかねてアベルは治癒魔法を使った。

 少し立ち止まっただけでイースに離された。

 さらに追う。

 やがて小川に突き当たった。


 足跡を屈んで調べる。

 これまで培ってきた追跡の知識、能力をフルに活用した。

 イースの足跡は河原から、川の中へと消えていた。


――対岸に渡った?

  もしかしたら下流に流れていったかも。

  いや、逆を突いて上流?



 アベルは魔光を出したまま暗い夜の川に迷いなく進入。

 幅のわりに深い小川だった。腰まで水に浸かった。

 水が物凄く冷たい。

 かまうものか。


 アベルは対岸へ全力で歩み、岸に上がって足跡を探したが見つからない……。

 水で濡れたあともない。

 動揺しながら、四足獣のごとく這い蹲りながら痕跡を探す。

 岩の上の僅かな痕跡も逃すまいと、懸命に目を凝らす。

 いくら目で追っても見つからなかった。


 イースは下流、もしくは上流へ川の中を移動したのだった。

 敵の追跡をかわす手法の一つ。

 ここまでやるのは、本当に振り切りたいからだ。


 アベルは膝を折る。

 胸の中に猛烈に滾る何かがある。

 破裂しそうだった。


 叫ぶ。

 具体的な単語にならない。

 腹の底からの絶叫。


「あああぁああぁああぁあ!!!」


 夜空に魔力を注ぎ込む。

 くだらない自分をぶち壊したかった。

 去ってしまったイースへの激情が混交する。


 膨大な量の魔力が空に凝縮されていく。

 イメージするのは大爆発だ。


 魔法が発動した。

 イメージのまま、星の瞬く夜空に巨大な赤い紅蓮の炎が拡大した次の瞬間、大轟音が響いた。


 イースは聞いたことがないほどの爆発音に驚き、振り返る。

 闇夜に炎が爆散している。

 まるで火山の噴火だった。

 閃光も凄まじい。

 アベルだ。

 アベルが自分を呼ぶ絶叫だと直感した。


 イースは瞳が潤んできた。

 唇を咬んで先に進む。

 泣いたことなど、思い出せないぐらい以前の記憶。

 母親が死んだとき以来、涙を流したことなどなかった。

 それなのに、今一筋の熱い滴りが頬を濡らしていた。

 イースは嗚咽しながら夜の山野を風のように駆け抜けた。




 魔力の爆発は続いた。

 三度、四度と夜空を焦がす大爆発を起こし、アベルは仰向けに倒れる。

 魔力が完全に枯渇していた。

 気分は最悪を通り越していた。

 激しい鬱の波に精神が翻弄される。


 何もやる気がしない。

 全てどうでもよかった。

 全身、ずぶ濡れで寒い。

 どうにでもなれと、投げやりな考えしか浮かばない。

 自分への侮蔑が止まらなかった。


 どれぐらい時間が経っただろうか。

 体が冷え切っている。

 対岸に魔光の輝きが灯っていた。

 しばらく岸辺をふらふらと彷徨っていた。


「アベル~!」


 カチェの声だった。

 無視するか少し考えたが、しつこく呼ぶ声が続く。

 アベルは残った魔力を絞り出して「魔火」を使った。

 マッチほどの火が掌の上に浮かんだ。


 バシャバシャと川を渡ってくる音がした。

 慌てた感じで足音が近づいてきた。


「アベル!」


 カチェが屈んで肩を揺さぶった。


「びしょ濡れになっているわ。体が冷えてる!」


 カチェが「熱温風」の魔法を唱えると強引にアベルの体を乾かしだす。

 アベルは力なく寝転んだままだった。

 温風が凍てついた体に心地よい。


 カチェはひとまずアベルと自分を乾かした後、焚火の準備に移る。

 河原には流木が沢山あった。

 それらを拾い、種火になる枯草を集める。

 着火して、アベルの傍に焚火を作りだした。


 それから「土石変形硬化」で小さな土鍋を作り、焚火に当たるようにしてお湯を沸かす。

 しばらくしたら、湯が沸いた。

 やはり即席で器も作る。

 だが、下手なのでグニャグニャに歪んだ変な容器になってしまった。


 それに白湯を入れてアベルに渡した。

 この一連の作業は、全くの無言のうちに続けられた。


 アベルは白湯をぼんやり見詰めていたが、しばらくしたのち口を付けた。

 カチェはアベルの表情を窺う。

 元気のない顔をしていた。

 虚ろ、と言っていいだろう……。


 何をどう話しかけたら良いのか、カチェには見当もつかなかった。

 ライカナだったら分かったかもしれないが、彼女とは既に別れてしまっている。

 こんな時、手本になる友人が自分にはライカナ以外に居なかったのだとカチェは思い知った。


 アベルを慰めたかった。

 しかし、その方法が分からないのである。

 もどかしい。


 実のところカチェは二人のことが気になり、時間を置いてから、そっとイースの去った方へ歩いていった。

 離れたところから見えたのはイースを抱き締めるアベルだった。

 後悔した。

 覗き見など下劣な行為だ。

 分かっていながら、目を離せなかった。


 長い時間だったのだろうか……。

 それとも大した間ではなかったのかもしれない。

 二人はそれだけで別れた。

 それ以上のことは何もしなかった……。


 パチパチと流木の燃えて弾ける音だけが響く。

 アベルの空になった器に再び白湯を満たして渡した。

 カチェはアベルが口を開くのを、ただひたすら待っていた。



 アベルの核にいる男は思う。

 人を愛してこなかった男が一匹……。


 愛が何であるのか探してみよう。

 成長して強くなり、いつかイースと再会しても、せめて恥ずかしくない人間になろう。

 カチェはアベルが笑っているのを見た。


「カチェ様。変な器。へただ。ははは……。でも、味のある形してるや、これ」

「わ、わたくし土石変形は苦手なのよ」


 カチェが恥ずかしそうにする。


「……戻りましょうか。みんな心配しているかも」


 アベルとカチェは立ち上がり、夜の道を引き返した。





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