第56話  剣と薔薇 

 



 王道国の王子ガイアケロンと王女ハーディアは馬を駆って、戦線の偵察をみずから行っていた。

 場所は皇帝国リモン公爵領、ポロフ原野と呼ばれる地域になる。

 遠く王道国から出征を始めて、中央平原を制覇、数々の困難に満ちた合戦を勝ち抜いてここまでやって来た。


 ガイアケロンは見る者に不思議な心地よさを与える男だった。

 巨漢と言っていいほど体の大きな男が、穏やかな笑みを浮かべて、そして実際のところ度量がある。

 何があっても慌てることなく、恐怖しない男。

 部下を叱る前に自分が最前線に飛び出してしまう人間だった。


 口先だけでない王子。

 泥を浴びて、屍を超え、共に食べて、共に笑い、共に喜んだ。

 下級兵士から将に至るまで、気が付けばガイアケロンという男を心底好きになっていた。


 ガイアケロンが風雨に身を晒しながら歩んでいる。

 誰よりも先頭で攻撃をしている。

 俺も戦わないとならない。

 あいつが死んだらいけない。

 俺たちがもっと前に出ないと……。


 自然と多くの兵士たちはガイアケロンに対してそうした思いを抱いていく。

 ゆえにガイアケロン軍団は人数こそ少なくとも、王道国で最も獰猛、最も恐れ知らずだった。

 そのガイアケロンは大柄な体を、黒鉄くろがねの実用的な鎧で覆っている。

 選び抜かれた頑健な名馬に乗る姿を英雄と呼ぶ者も珍しくない。


 そのガイアケロンの隣には、いつも一人の女性がいる。

 見る者の心を打つような、世に稀なる美貌。

 高貴な気配を纏いつつ、まだ純粋な少女の面影を残していた。

 ところが、その美しさを凌駕する勇敢さを持っていた。

 それゆえ戦姫の異名を持つ異腹の妹ハーディアだった。


 ハーディアの伸びやかに成長した四肢は、鎧を装着していても優美そのものだった。

 赤みがかった豪奢な金髪が日光に輝きながら風に揺らぐ。

 琥珀色の瞳には万の敵にも挫けない意志の強さが宿っていた。

 俊足の白馬に跨る凛々しい姿は味方からは勝利の化身と讃えられ、皇帝国からは魔獣のように忌まれている。

 旗下の男たちにとって士気の源であり、命懸けで仕えるに値する王女だった。


 ガイアケロンとハーディアは小高い丘に登った。

 そこから皇帝国の布陣が見渡せる。


「奇妙な布陣だな……」

「ええ。お兄様」


 ポロフ原野は十メルテ四方の小規模な原野だった。

 原野を南北に割る形で河が流れている。

 その河に架かる木造の橋がひとつ。

 当然、橋は最重要の戦略目標だった。


 橋を越えて街道を西に進めば、皇帝国リモン公爵領の中枢地へと到達する。

 現在のところ、近場の迂回路は見つかっていない。

 河の上流は地形が険しく偵察隊は入り込めていないが、大軍の移動はほぼ不可能と見るべきだった。


 このポロフ原野を攻略できないとなれば、もっと広範囲に渡って、戦略的に作戦を考え直さなければならない。


 ガイアケロンは眼前に展開する皇帝国の軍勢を、じっくり観察する。

 旗印などから皇帝国の伯爵家で構成される伯爵盟軍はくしゃくめいぐんなのが見て取れた。

 視界から確認できる伯爵盟軍の戦力は騎兵二千、各種兵士が約一万人程度に留まる。


 伯爵盟軍は橋を防衛する布陣なのだが、戦力の八割ほどは河の向こう岸にいる。

 残り、たったの二割の兵力で橋を防衛していた。


 ガイアケロンは遠眼鏡を取り出して構える。

 橋の防衛状況を詳しく調べる。

 騎兵五、六百。

 槍兵や軽歩兵、弓兵が二千人ほど。

 橋の出入口に陣地を造って拠っていた。


 橋に至る街道は木柵や杭の障害物で塞がれていた。

 それから矢狭間のある物見櫓が二基。

 魔術で無効化できそうな程度の防御設備だった。


 対するガイアケロンとハーディアの軍団は騎兵六千。

 各種の兵士が一万五千人という軍容だった。

 数で相手を上回っている。

 しかも、激しい実戦で鍛え上げられた熟練兵が揃っていた。

 ガイアケロンはハーディアや幕僚の将たちへ問う。


「力攻めすれば勝てるようにも思える。あの橋だ。あれをどうするか」


 ガイアケロンの騎馬部隊、猟騎兵りょうきへいを統括する将、ナルバヤルがなまりの混じる発音で答える。


「橋、拘ることない。あの河、深くない。馬、渡れる」


 訥々とした言葉で、そうナルバヤルから進言がある。

 生まれた時から馬に乗っているような男だ。

 そうした彼が渡河できると見立てたのなら、それは確かなことだった。

 ガイアケロン自身も、そのように感じる。


 ナルバヤルの年齢は三十五歳。彼は元々、王道国の人間ではなかった。

 北方草原を活動の場にしている騎馬民族が出自であった。

 褐色の髪をしていて、眼つきの鋭さは動物じみていた。

 性格は恐れ知らず、剽悍そのもの。


 ガイアケロンとハーディアが自ら北方草原を訪れた時に、友誼を結び家臣となった男である。

 ガイアケロン軍団に属している猟騎兵の大多数は、そのとき騎馬民族たちの信頼を得て、配下に組み込んだ人間たちだった。


 騎馬民族たちは馬を手足のように操ってみせる。

 彼らは騎士ではないので従者を持たないし、また必要としない。

 馬の管理など自分でやる。

 その代わり、戦闘以外の事はあまり得意としない。

 特に人事管理、領地占領などは苦手というよりも頭からそっくり抜けていた。

 

「そうだな。ナルバヤル。俺からも見える限りでは、そう思える……」


 ガイアケロンは皇帝国伯爵盟軍の後方にある森を注視する。

 木々が重なり、奥の様子は見えない。

 もし、相手が予備兵力を隠すのなら、あの森ではないかと考える。


 歩兵や弓兵といった徒歩部隊を統括する武将、ドミティウスにも意見を聞いた。

 ドミティウスは顔を針金のような太い黒髭で覆った四十歳になる男。

 身長はハーディアよりも低いほどだったが、岩のように頑丈な肉体をしている。

 怒鳴り声の大きさは驚異的で、喧騒に満ちた戦場でも間違いなく耳に届いてきた。


 ガイアケロン軍団で雷親父と言えばドミティウスのことだった。

 経験、忠誠、性格、どれも腹心の将に足り得る男。

 そのドミティウスはガイアケロンに質問をしてきた。


「歩兵が渡河できる場所は判明しておりますか?」

「以前、密偵に調査させた情報が正しいとするなら、橋の近辺がまず浅い。それから上流に五百メルほど行ったところにも浅瀬がある。だが、おおむね股下から腰程度の水深だというので、軽装歩兵ならば浅瀬でなくとも渡河はできるはずだ……」

「ならば渡河と橋への攻撃を同時に行うべし。敵は橋も岸も守ろうとするはず。兵力の多いガイアケロン様に有利なり」

「兵士が体を濡らしてしまうが」

「冬なら問題ですが今の季節なら我慢させましょう」


 ガイアケロンは最後に軍師であり魔術師でもある、オーツェル・エイダリューエに意見を求めた。

 オーツェルは二十八歳の若さだったが、広い知見と冷静な判断力は信頼に値する。

 彼は濃緑の瞳を俯かせていたが、短い黙考の後、答える。


「一見、皇帝国の兵数が少なく見えます。しかし、相手はこのポロフ原野を失えば、あとはリモン公爵領の中心地にまで後退しなくてはなりません。当然、皇帝国はこの戦いを重視しているはずです。ところが、現状では奴らは寡兵。さらに、防衛をしたいのならば橋を落としておくべきであるのに、それをしていない……。よって別働隊を用意していると見るべきでしょう。大きな仕掛けを感じます」


 ナルバヤルが無表情で言う。


「見えない敵、恐れる。それ臆病者」


 続けてドミティウス。


「西南方面ではイエルリング様とディド・ズマめが活発に戦闘をしておる。敵は兵力を分散させているのだ。予備兵力があったとしても、多くはない。機を見て臆するは、愚かなり。橋は敵にとっても貴重品。たんに壊したくないのである」


 ガイアケロンは考える。

 決断の時だ。


 父王イズファヤートの冷酷な顔が嫌でも呼び起こされる。

 敗北は無残な死を意味していた。

 どんな犠牲を払ったとしても皇帝国に勝つしか未来はなかった。


 いや、そもそも未来などという明るい希望などありはしない。

 心に渦巻く憎悪。

 身を焼く業火のような怒り。 


 まだ、死ぬわけにはいかない。

 やるべきことがあった。

 ガイアケロンは命令を下す。


「ここで勝てなければ、どちらにしても戦略の練り直しになる。中央平原から続いた攻勢を失うことになろう。オーツェルの懸念にも一理あるが一度は戦う。ただし、無理には攻めぬ。状況が変われば退く」


 ガイアケロンは軍団へ攻撃手順を下知。

 将から千人頭、次に百人頭、そして五人組へと素早く下達されていく。


 自分自身も最前線で指揮を執るため、前方に移動する。

 その横にはハーディアが、ぴったりと寄り添った。

 全軍の視線が二人の兄妹を捉えて離さない。


 ガイアケロンとハーディアの人気は留まるところを知らなかった。

 傭兵の雇用を断るガイアケロンの元に、あえて少ない報酬と厳しい規律を求めた人材が集まってきている。

 戦力は王道国を出陣した頃よりも、むしろ増強されていたほどだった。


 そして、ガイアケロンとハーディアの未来を賭けた戦いが始まろうとしていた……。





 ~~~~





 皇帝国や王道国のあらゆる場所で話題になっているのは、戦争の推移である。

 中央平原の大合戦で皇帝国を敗退させたという勝報が来た後、王道国では至る所お祭り騒ぎが起こった。


 王道国の大軍団は三人の王子と一人の王女に率いられ、さらに皇帝国領土へ進撃。

 ベルギンフォンやハイワンド、レインハーグを攻略したという、さらなる勝利に王道国は熱狂していた。

 そして、口々に噂するのは王族や将兵の活躍についてである。


 盤石のイエルリング。

 英雄のガイアケロン。

 勝利のハーディア。

 そして、落ち目のリキメルと言われていた。


 第二王子リキメルは早々に降服した皇帝国レインハーグ領を占領したのち、すぐさまハイワンド領に侵攻。

 そのままの勢いでポルトへ攻め込んだまでは良かったのだが、大爆発を起こした罠によって三千人以上の死者と五千人にもおよぶ負傷者を出していた。


 この時、損害を受けたリキメルの軍勢は、捨て駒としてあるような傭兵団ではなかった。

 リキメルにとって貴重な直属の将兵が、一瞬で半減してしまったのである。

 手にした以上に、失ったものの方が大きかった。


 実質、これは早期での回復は不可能な損害だった。

 良く訓練された騎士や将兵とは、数年間もの訓練と実戦を経て、練り込まれるものである。

 ひとたび大被害を出してしまうと軍勢を立て直すのには年単位の時がかかる。


 だが、時間があればそれで済むことでもない。

 軍隊や将兵というのは指揮官が持つ「運」というものを異常なまでに気にする。

 手を尽くしてもあっさり敗れることがある合戦において、人知を越えた「運」というものは、それだけ圧倒的な存在だった。


 武運のない男。

 リキメルは公然とそう噂されるようになっていた。

 そうなってくると本格的に人が集まらなくなってしまう。

 凡才以下の男に仕えるのは損だ……ということになる。


 リキメル軍団は瓦礫の山になったポルトの城と、傭兵団や将兵による略奪によって無人になったポルトの街を手に入れたが、その後は全く精彩を欠いた。

 しかも、リキメル軍団の将兵の士気がかなり低下していただけでなく、なによりリキメル本人が戦争に恐怖を抱いていた。


 ガイアケロンが聞いた話しによると、城攻めの総攻撃では部下を鼓舞するべくリキメルが最前線で指揮を執る意欲を見せていたという。

 しかし、当日になり、どうも気が乗らないというので常のように後方の陣から指揮をしていた。

 そこへポルト本城の大爆発であった。


 もし、最前線にいたら大爆発に巻き込まれて負傷か、下手をすれば死んでいたという事実にリキメルは恐れ慄いているそうだった……。



 ポルトの攻城戦が終わったあと、残ったハイワンド領への占領はガイアケロンとハーディアが迅速に実行した。

 戦闘らしい戦闘もないまま、これに成功。

 さらに西の皇帝国リモン公爵領へ攻撃を開始した。


 だが、リモン公爵領で防衛線を築いた皇帝国の伯爵盟軍は頑強に抵抗してきた。

 以来、ガイアケロンとハーディアの攻撃を持ってしても、もはや快進撃とはいかなかった。

 占領したばかりの土地は細心の注意を持って統治に当たらなければならない。

 ガイアケロンは方々から優秀な文官要員を募り、旧ハイワンド領や中央平原の安定に配慮した。


 そうして、本日に至る。

 ハイワンド家の壮絶な自爆で幕を閉じたポルトの攻城戦から約一年半が経っていた……。





 ~~~~~





 ガイアケロンは自分の軍団が戦列を整え、あとは攻撃命令を待つばかりとなったのを確認した。

 将や千人長から異常の報告もない。

 息を吸い込み、戦場の隅々まで響くような声量で号令を発する。


「攻撃、開始!」


 まず、全身が隠れる大きな盾を構えた重装歩兵二千名が戦列を進めた。

 良く鍛えられた実戦経験豊富な部隊である。

 現場の指揮をする百人頭たちも最優秀の人材。

 橋の前面で待ち構える皇帝国伯爵盟軍に、遅滞なく攻撃を開始。

 身軽な軽装歩兵は橋に寄らず河のあちらこちらで渡河を開始する。


 同時にナルバヤルが直接指揮を執る猟騎兵、三千騎が河の上流、浅瀬らしき付近に全速騎行した。

 騎兵の多さはガイアケロンにとって最大の強みだった。

 橋の後方を遮断すれば皇帝国は防御目標を包囲されることになる。

 そうなったときに相手は孤立した部隊を見捨てて後退するか、それとも反撃を仕掛けてくるか。

 もし後者ならばガイアケロンが切り札の親衛隊と残余の猟騎兵の全てを率いて、敵の弱点を見つけ次第、全力攻撃あるのみ。

 

 すでに橋の付近は激戦状態。

 矢が嵐のように飛び交う。

 盾を持った歩兵同士がぶつかり合い、槍で突いたり殴ったりを繰り返していた。


 橋脚の下では、河に足を浸からせながら軽装歩兵部隊が強引な渡河攻撃を続ける。

 しかし、すぐに異常が起こる。

 渡河を試みていた歩兵や猟騎兵が、河の半ばで立ち往生を始める。

 河の深さは事前の情報通り、ぜいぜい腰程度であるのに転んで流されたり、進めなくて引き返す者もいる。


 皇帝国がそんな状態を見過ごすはずもない。

 河の対岸からは矢が盛んに放たれてくる。

 被害が拡大していった。


「どうした。なぜ、渡河できない」


 ナルバヤルから連絡がある。

 川底に障害物があって進めないから、他に渡河できる場所を探すというものだった。

 その後、さらに詳報が入る。

 河の底には杭が列をなして打たれ、その間に頑丈な縄が張ってあるという。

 それだけでなく、空の壺が埋まっている所もあるらしい。

 壺の口を馬が踏むと転倒したり、驚いて激しく暴れることになる。


 ナルバヤルとドミティウスの部隊が犠牲を出しながら渡河できる箇所を探していると、やがていくつか防御線の途切れを見つけ出した。


 ナルバヤルが直率した猟騎兵が、そうした隙間から渡河を再開。

 対岸へ突撃を開始した。

 同時に橋への攻勢はさらに激しさを増す。

 ドミティウス自らが最前線に飛び出して部下たちを激励、さらに橋の上へ突入していく。


 皇帝国と王道国の兵士たちが死に物狂いになって槍で殴り合い、剣をぶつけ合う。

 冑を割られ流血した兵士が倒れる。

 腕を切断された男が仲間に担がれて後方へ運ばれてきた。

 数少ない治療魔術師がその傷を塞ぐ。

 物見櫓の一基が火魔術の攻撃で火災を起こした。


 架かっている橋は馬車二台が擦れ違える程度の幅なので狭い。

 大軍を送り込んでも競り合いになってしまう。

 疲れたり怪我をした兵士は即座に後退させて、新手を送り込み続ける。

 そうして強引な前進を続けているが、状況は膠着しつつあった。


 だが、ナルバヤルの渡河攻撃は成功しそうな気配がある。

 戦況は、やや優勢だった。


 このまま押し切れるだろうかと、ガイアケロンは考える。

 もし猟騎兵が渡河攻撃に成功して、皇帝国側が対岸に配置している防衛線を破壊したならば、自分自身も予備兵力を率いて渡河に移るべきだ。

 伯爵盟軍の背後を突くように攻撃展開すれば、相手は橋を放棄して逃走するだろう。

 橋という戦略拠点を確保した時点で勝利であるし、さらに追撃を成功させれば大勝利となる。


 欲が高まってきたところで疑念が湧き上がる。

 だが、そう上手くいくだろうか……。


 ガイアケロンは冷静になっていく。

 激した感情のまま命令を出せば、いつか破滅する。

 もしかしたらオーツェルの言うとおり伏兵がいて、うっかり渡河したところを隠していた大軍で叩き潰す作戦かもしれない……。


 ガイアケロンがそんなことを考えていると、異常事態が発生する。

 川上から流木が大量に流れてきた。

 渡河を終えようとしていた猟騎兵や歩兵が流木に衝突、そのまま下流へ流されていく。

 溺死者が数十人と発生しだした。

 素早く軍師オーツェルはガイアケロンに意見を進言した。


「潮時かと思います。川底の障害物、この流木と周到な防御であります。たとえ突破に成功しても、大きすぎる損害になるでしょう。退くなら早いうちに」


 ガイアケロンは決断を迫られた。

 あくまで攻撃か、それとも後退か。


 隣にいるハーディアは沈黙している。

 兄を信頼していた。

 気づいたことがあるのなら助言もするが、この場では従うのみだ。


「退こう!」


 ガイアケロンは決定の声を上げた。

 全軍、攻撃中止の合図を送る。

 法螺貝が吹き鳴らされた。

 猟騎兵や歩兵が無念の後退を始めた。


 その時、皇帝国側に動きがある。

 新たな軍団が森の中から現れる。

 ガイアケロンや幕僚たちが遠眼鏡で様子を見る。

 オーツェルが緊迫した声を上げた。


「あの軍旗は皇帝親衛軍! 見慣れない旗印がありますが、あれは皇帝国第二皇子テオと第三皇子ノアルトのものであります」


 はっきりとは分からないが、およその見当で騎兵が四千、各種兵士が二万人程度と予測する。

 大軍である。


 皇帝国の新手は木造の橋、および数か所の渡河可能地点からガイアケロン軍団へ反撃を仕掛けてくる。

 伯爵盟軍と合わせて、歩兵だけでも約三万人。

 ガイアケロンの軍勢は、すでに数で不利になっていた。


 ナルバヤルの率いる猟騎兵が渡河を止めて、急いで戻ってくる。

 ドミティウスも同じく撤収しようとしているが、渡河地点を探し出すのに兵力を分けていたから時間がかかりそうであった。

 しかも、橋の付近は激戦が治まらず、後退の機会が見出せていない。

 下手をすると取り残されてしまう。

 戦局は急激に不利へと傾いていった。

 ガイアケロンにハーディアが緊迫の声色で言う。


「お兄様! 皇帝国の意図がはっきりしました。我々の後退に乗じて攻撃を仕掛けるつもりです」

「とはいえ退かなければ、このまま消耗戦に持ち込まれるな」

「私が橋を破壊してきます! 橋が落ちれば、敵は時間のかかる渡河に頼らざるを得ません。ドミティウスの部隊も後退できるはず」

「分かった。ハーディア、頼む。歩兵の指揮は任せた。俺はナルバヤルと合流して猟騎兵を纏めておく」


 兄妹は矢のごとく行動する。

 手持ちの予備兵力を全て率いて加勢に出た。


 いよいよ皇帝親衛軍が最前線に押し出してきた。

 天に響くような掛け声を叫び、橋から猛反撃をしてくる。

 損害にかまわず、味方の死体を踏みつけて突撃してきた。

 それをハーディアの直属部隊は、さらに押し返す。

 暴力と、それを上回るさらなる暴力の衝突。

 流血が河を赤く染める。


「ハーディア様。歩兵部隊の掩護に向かいます!」


 ヒルティという名の有能な女魔法使いが、そう言うや勇敢に駆け出していった。

 ハーディアの直属部隊が河を渡ってくる皇帝親衛軍を押し戻す。

 男どもが獰猛な唸り声を上げて殴り合う最前線へハーディアは迷わず突き進む。

 指一本とて皇帝国の兵にハーディアは触れさせまいと、親衛隊は命を捨てるかのように戦った。

 そうして木造の橋脚を魔法攻撃の射程に入れるとハーディアは詠唱を始めた。


 膨大な魔力が結集していき、それは巨大な氷の塊になる。

 氷塊は禍々しくも、それでいて豪華絢爛な花弁を連想させる造形だった。


「氷華繚乱隗」


 ハーディアが魔法を発動。

 射出された氷の塊は数十人に及ぶ戦列を組んだ敵兵を呆気ないほど薙ぎ倒し、橋脚に衝突。

 木の柱を小枝のように圧し折った。


 さらに橋に油が撒かれた。

 ヒルティが火魔術で着火すると勢い良く燃えていく。

 皇帝親衛軍から火事を消そうと魔法で作られた水が放射されるがハーディアがそれを魔術で妨害。

 やがて橋は崩壊していく。


 ハーディアは、ほとんど最後尾の位置で撤退を指揮する。

 その結果、味方の歩兵部隊は混乱することなく、整然と後方へ移動していった。


 渡河してきた伯爵盟軍や皇帝親衛軍に対しては、ガイアケロンの指揮する猟騎兵が巧みな騎乗弓射を繰り返す。

 ハーディアの率いる歩兵たちが撤退に成功してからガイアケロンの軍勢も戦場から素早く後退していった。


 撤退を指揮するガイアケロンの表情は普段通りであったが、内心は痛恨の思いだった。

 まだ集計はないが、騎兵百に歩兵三百は失った印象がある。

 貴重な戦力を、得るところのないまま失ってしまった。


 自分を信じて付いてきてくれた人間たち。

 心で、すまないと詫びる。

 無駄に死んだ……ということにはさせない。

 俺は必ず目標を叶えてみせるとガイアケロンは強く誓う。

 それが死者に対する義務だった。




 皇帝国の軍勢は熱狂的な勝鬨を上げる。

 将兵の中には泣くほど喜んでいる者も大勢いる。


 あの悪鬼ガイアケロンとハーディアに、やっと一矢報いた。

 王道国の攻勢をとうとう防いだ。

 その思いで万感の叫びをあげる。


 伯爵盟軍の総指揮官、リモン公爵が二人の皇子に敬礼をした。

 皇帝国第二皇子テオと第三皇子ノアルトが手を振り、将兵たちの喜びに応える。

 軍団の歓声は最高潮に達した。


 だが、皇帝国の部隊はガイアケロンを深追いしないことにした。

 下手に追撃をしたら何が起きるか分からない。

 せっかくの防衛勝利にここで汚点を付けるわけにはいかなかった。


 その判断に不満な男がいる。

 第三皇子ノアルトだった。

 二十三歳の才気煥発な若い皇子は、リモン公爵へ言い募っていた。

 ノアルトの明るい褐色の瞳に欲求不満の怒りが満ちている。

 やや頬の削げた眼光鋭い美男子といっていい風貌のノアルトが感情を露わにしていると、若年ながらかなりの迫力があった。


「リモン殿は流木の頃合いを間違ったぞ! 待っていればガイアケロンは騎馬部隊を自ら率いて渡河していただろう。そこで流木を放ち、後方を絶ってから我々を呼べば奴の首を獲れたはずだ!」


 リモン公爵は眉を顰めて、首を振る。

 中央平原からガイアケロンと戦っている自分に言わせれば、ノアルト皇子の主張は危険に過ぎた。

 下手に敵の退路を断ったらどうなるか?

 あるのは猛烈な反撃だ。


 ガイアケロンとハーディアの軍団は、高い練度と何よりも結束の強さが異常なほどであった。

 当然、将兵は命を捨てる覚悟でガイアケロンを守ろうとするに決まっていた。

 退路を断たれた相手の猛烈な攻撃に晒されたとき、兵数に勝っていたとしてもリモン公爵には勝てる自信がなかった。


 リモン公爵は助けを求めるようにテオ皇子に視線を送る。

 テオ皇子が感情を抑制した低い声で弟に声をかけた。


「ノアルトよ。決戦を急がないのは事前の軍議で決していたこと。我々はイエルリングやディド・ズマとも戦わなくてはならないのだ。奴らを消耗戦に引き込む方針なのを忘れたか」


 テオ皇子は二十八歳。

 年齢以上に落ち着いた印象を与える人間だった。

 母親に似て美男子なノアルトとは違い、父親であるウェルス皇帝に顔の造形は近かった。

 つまり、角ばった顎、縦じわが消えることの無い眉間、分厚い唇など。


 テオ皇子の茶色の瞳が喜怒哀楽を表す機会は少ない。

 皇族とは、そう易々と感情を示すものではないと幼少の時から教育されていた。

 また、生来、性格は沈着だった。

 テオ皇子のその様子を見て、武人の才があると称賛する者も多くある。

 兄であるテオは弟に言い聞かせるように話した。


「この勝利は王道国に対するよりも、コンラート兄上にこそ打撃になるだろう。これまでコンラート兄上は王道国に負け続き。我々が勝報を持って帝都に帰れば、大貴族たちも考えを変えるかもしれぬ」


 テオはノアルトが激した感情を治めていくのを見た。

 ノアルトは愚か者ではない。

 むしろ切れるような才覚を持っている。

 ただ、若者らしく血気盛んで、それを自分が冷ましてやらねばならない。


 敵は王道国だけにいるのではなかった。

 皇帝国にはコンラート皇子とその派閥という病があった。


 テオとノアルトは愚かな長兄に従うつもりはない。

 できるだけ早くコンラートを廃嫡に追い込むつもりだった。

 そのために帝都では腹心であるバース・ハイワンドが様々な政治工作をして足場を固めているはずだった。


 そのバース・ハイワンドは継嗣である長男ばかりでなく、孫全員を戦争で失っている。

 それと引き換えに武門ハイワンドの名は皇帝国に鳴り響いていた。

 孫たちが城で自爆して、リキメルの軍勢に大打撃を与えたからだった。


 ここのところ言動に不正確さが目立つようになってきたウェルス皇帝ではあるが、この壮絶な働きを激賞。

 異例なことにハイワンド伯爵家は公爵家に格上げされていた。

 そのバース・ハイワンドは以前からテオとノアルトの強力な支援者である。


 ノアルトは老臣バースがこの勝利を、さそがし喜ぶだろうと思い、機嫌を良くする。

 テオとノアルトは僅かな手勢で、急ぎ帝都へと戻る準備を始めた。

 今度は政治が舞台の戦いが始まる。

 危険さではどちらも同じことであった。







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