第36話  親切な兄貴、出陣の準備

 





 朝、アベルたちがそろそろ部屋を出ようとするころ、扉の外で誰かが来た気配がした。

 アベルが扉を開ければ、そこにカチェがいる。

 毛布の上に寝そべっているワルトの頭を撫でていた。


「おはよう! アベル」

 

 カチェは、いつもの通り元気だった。

 少しだけ高慢な感じがするけれど、品のある整った顔。

 菫の色合いをした瞳は、瑞々しい輝きを湛えていた。

 皇帝国敗退の知らせは影もない。


「ロペス兄様たち、明け方前に徹夜で騎行して帰って来たわ。準備が出来しだい、騎士団本部で会合を設けるみたいよ」

「じゃあ、ご飯を食べたらガトゥ様と合流して本部に行きましょう」


 アベルたちは食堂に行く。

 中には騎士が三十人ぐらい、従者が百人ほどいるだろうか。

 いつもより騒々しい。


 味方が王道国に敗退したらしいという噂は既に知れ渡っていた。

 気心の知れた騎士同士が、それぞれ数人や十人近くのグループになって声高に戦いを論じていた。

 従者たちはそれを熱心に聞いている。

 アベルから見ると、どことなく熱に浮かされているような興奮気味の様子だった。


 カチェは数人の騎士から同席を請われたが、断ってアベルとイースのいつもの席に座った。

 アベルは肉と豆のどろどろしたスープを口に放り込む。

 カチェも作法を端折って、黒パンをスープに付けて大胆に食べていた。

 あまり会話もしないで食べることに専念する。

 素早く食事を終えてガトゥの小屋へ行った。


 ガトゥは鎧や槍を取り出して、布で磨いていた。

 従者がいないから、自分でやるしかないのだ。

 彼は笑顔で装備の手入れをしながら言う。


「アベル。たぶん、城には最低限の守りを残して、領内の人員は洗いざらい国境へ行くだろう。俺たちも戦場に行くと思っておけ」

 

 アベルは固い表情で頷いた。

 ガトゥは獰猛な感じで、にやりと笑う。


「戦場こそ騎士の咲く場所だぜ。敵は傭兵を大勢雇っている。傭兵なんか盗賊、人攫いと同じだからよ。一人でも多く殺しておかないとならねぇ。領内に攻め込まれてみろ。何もかも略奪されちまうぞ」

「やっぱりそうなりますよね……」

 

 アベルも傭兵団の実情は知っている。

 強盗、人間狩り、人身売買、集落への恐喝、遊び半分の殺し、放火、破壊……。

 およそ悪事の全てをやるのが傭兵団だ。

 彼らは争いの絶えない亜人界や中央平原を我が物顔で闊歩している。

 質の悪い傭兵団は入国を拒否するほどだ

 そんな奴らが王道国に雇われて、皇帝国に侵入して来れば、何が起こるか明らかだった。


「戦場にいるってことは、命を賭ける覚悟があるってわけだ。だから遠慮仮借なく相手してやりゃいいんだ。情けなんかかけていたら、こっちが殺されるのがオチだぜ。おめぇ、王道の上流貴族を捕虜にしてみろ。身代金で数年は遊んで暮らせるぜ。首だけでも褒美で金貨がいただけらぁ」


 ガトゥは、でかい口を大きく開けて笑った。

 本当に楽しそうだった。

 武人らしい態度だった。


 自らを戦士階級と自負している者たちは、合戦こそ活躍の場で、命懸けの機会だと思っている。

 合戦はイースが普段やっているような賊退治とは、まるで別物だ。

 相手は高貴な騎士、貴族、もしかすると王族で相手にとって不足なし。


 なにしろ倒せば出世、身代金、名誉もありと栄光が待っている。

 やってもやっても、大した評価にも金にもならない賊の取り締まりとは根本的に違うのだった。


「アベル。難しいことを考えるなよぉ! 合戦なんか強者どもの夢だぜぇ! 悩んでやるようなもんじゃねぇよ。がははは!」


 ガトゥがあまりに陽気なため、アベルも引き摺られて笑ってしまう。

 まぁ、これも一つの態度なんだろうな……。

 アベルはそう思った。


「ガトゥ様。槍一本で国盗りってやつですね」

「おれぁ国はいらないなぁ。女がいればいい」

「はは、分かりやすいっすね」

「それ以外になにがあるってんだ! そうだ! アベルよぉ。今日の夜は、俺と女のいる店に行こうぜぇ。出陣前に英気を養おう! 安い店じゃないぜ。歌謡音曲もできりゃ床も上手い女ばかりの、ポルトでも一番いい所に連れていってやるよ」

「え。ガトゥ様。それって……」

 

 娼館だろうなとアベルは気が付く。

 心当たりはある。

 このポルトの街には、酒を飲ませるだけではなく、娼婦と遊べる店が集まった場所があったはずだ。

 アベルの感覚ではこの世界には美女が、うんと多い。

 さぞかし粒ぞろいであろう……。


「おれぁ、娼婦にゃ人気あるんだぜ」

 

 ガトゥは美男子ではないけれど、大きい鼻、でかい口、野生的な目つきといった味のある顔をしている。

 戦闘になるとかなり怖いが、普段は気の良い兄ちゃんという感じだ。

 気さくだし、金払いは悪くないから本当のことだろう。


「アベル。まさか、女のいる店に行ったことないのかよ」

「あるわけないじゃないですか」

「おれぁ、童貞を捨てたの十二歳だぜ」

「はやいっ!」

 

 アベルは叫んで口をあんぐりと開けた。

 ガトゥは笑い飛ばす。


「普通だよ。従者は七歳とか十歳ぐらいでなるだろ。十二や十五で騎士見習い。もう戦場に行ってもおかしかない。だから、それぐらいの歳でやることやるんだよ。初めてだと女も優しくしてくれるぜ」

「ははあ……。なるほど。考えてみれば結婚だって十五、十六で始めるし。それぐらいでも世間並みか」

「そうそう。童貞だと初夜で上手くいかないからよ。やっといた方がいいんだぜ」


 アベルは、ふ~むと感心しつつ頷く。

 そういうのもあるかと。

 単純で即物的だけれど……一理あるというか。

 でも、ちょっと自分の趣味ではないかな……。


 アベルは唐突に背筋が寒くなった。

 嫌な予感の、あれだ。

 振り向くとカチェが、凄い顔で睨んでいた。

 眉間に皺を寄せて、ぴんと伸びた眉は急角度で上昇している。

 紫の瞳は爛々と殺気じみた気迫を発していた。

 可愛い唇は少し捲れ上がって、歯噛みしているのが見えた。


――げえっ! 怖いっ!


「あ、あの……行かないよ? はい。カチェ様。僕は、そういう所には、行かないですよ? なんか気に障ったらしいですが落ち着いて……ね?」


 カチェの顔が、すぅ~と柔らかくなった。

 それから、にっこり笑った。


「ええ。信じていますよ。アベル。貴方はそういう所へは行かないですね?」

「はい!」

「モーンケ兄様などは、そういう遊びが好きらしいと聞きました。ケイファードや女官がよろしくないと言っていました」

「そうですよねっ!」

「アベルは、わたくしに誓えますか。そういった悪所に立ち入らず、また興味も持たないということを……?」


 アベルはカチェの拳が固く握りしめられているのを目敏く見つけた。

 力が入っているせいでブルブル震えていた。

 この両の拳が、返り血で染まった日を思い出した。

 言うことを聞かなければ自分の血に塗れたカチェの拳を洗わされる姿が、はっきりと目に浮かぶ。


「誓えますか?」


――誓わなければ、やられるな!


「ち、誓います……」


 ここは少女の倫理観と暴力に降服することにした。


「はい。よい返事です。ガトゥや兄様がどこで何をしようとそれは構わないのですが、アベルは駄目ですよ?」


 なんでおれだけとアベルは内心、思うのだが何も言えなかった。

 アベルはイースの反応も確かめてみる。

 いつもと変わらないように見えた。


「イース様にも誓っておきますか」

「私はアベルが非番に、どこで何をしようと気にならない……」

「そうですか」


 アベルは少し残念になった。

 イースに女の心配をされてみたいものだ。


「……そう考えるべきなのだろうが、不思議と止めて欲しいとも感じるな」

「えっ! なぜですか?」

「アベルが遊びで身を崩してほしくないからかな。まだ強くなってほしい」


 イースは無表情でそう言うのみであった。

 ガトゥは諦めた風に、にやけて頭を掻いた。


「丈夫な首輪が二つも付いてやがるなぁ。こりゃ大変だ」


 ガトゥにとってアベルは弟らしきものだった。

 自分なりにアベルを可愛く思っている。

 年齢に似合わず慎重ではあるが、まだまだ隙のある少年だ。

 色々と教えたくなる対象だった。


「なぁ、アベルよ。おれが女でしくじってベルギンフォンの御家から放り出されたのは知っているよな」

「あ、はい。前に聞きました。たしか公爵様のご息女と相思相愛になって……とか」

「へへへ。悪いけど、そりゃだいぶ美化した話なんだ。嘘と言ってもいい。本当の事、教えてやるよ。おれぁ、ベルギンフォンのお嬢様と密かに通じた挙句に……駆け落ちしようって約束をしたんだ。なにしろ公爵家の娘と男爵では吊り合いがとれるわけねぇ。それしかない。その時はそう思ったわけだ」

「駆け落ち。そりゃまた……!」


 カチェも興味津々で聞き入る。


「それで、夜中に城を抜け出す算段を立てて、おれぁ金と女性の旅装とを準備して、いよいよ決行となった。その頃は公爵様の側仕えをしていたから、お城も勝手知ったるものよ。お嬢と亜人界まで逃げれば、あとはどうとでもなると思った。心臓が口から飛び出そうになりながら、約束の場所で待っていた……」


 カチェは無言で何度も頷く。

 頬が熱を帯びる。

 これが興奮せずにいられようか。

 真の愛を駆け落ちしてでも貫くなんて、素敵すぎる。


「それで、やってきたのは衛兵と、公爵様だった……。最初はお嬢が途中で捕まったのかと思った。だけれど、公爵の後ろから付いてきたのは、お嬢本人さ。そして、こう言ったものだ。ガトゥと火遊びしすぎた。思いのほか燃え上がったから、ついついこんな約束までしてしまったけれど、今日で仕舞にしたいとな。お前も遊びの限度を知らぬ不粋者よ……でも、まあまあ楽しめた、と」

「そんな、酷いっ! 裏切りっ!」


 なぜか、カチェが猛然と怒っていた。

 ガトゥは唇を捻じ曲げるように苦笑した。

 裏切りなんて、ご大層な話ではないと割り切りはついていた。

 刺激に飢えた貴族の娘と、思い上がった生意気なガキの競演……。


「おれの兄貴は、戦場で戦死したんだけれどよ。公爵様がその忠義に免じて、罪には問わないと情けくれた……。普通だったら貴族誘拐罪で処刑もんさ。でも、そんな温情も屈辱に感じてすっかり荒れちまってさ。喧嘩三昧、だいぶ乱暴狼藉をしているうちにベルギンフォンに居場所がなくなった。それでハイワンドに投げ捨てられた……。

 でも、今となっては誰も恨んじゃいねぇよ。おれが子供だった。

 女は、顔があって胸があって尻があって、それでいいじゃねえか。相手をおおらかに受け入れてやれよ。戦になりゃあ、いつ死ぬかも分からねぇ。身軽になっておくのがいいぞ」


 ガトゥは、半ばはカチェに話しているつもりだった。

 男だって理由があって女を求めるんだ。

 娼婦という後腐れない女を欲して何が悪い。

 女だからって男に何でも要求できるわけじゃないぞ……。


 カチェが心配そうな顔つきでアベルを見ていた。

 強気な紫の瞳が、いつになく曇っている。

 このままガトゥと一緒に行ってしまうのではと不安になっているのが、アベルによく伝わってきた。


「ガトゥ様。せっかくの誘いですけれど、今はそういう気持ちにならないので止めておきます」


 カチェに遠慮したわけではなかった。

 やっぱり愛し合ってそういうことをしたいなぁと単純にそう思ったのだった。

 愛とは何なのか、少しも分からないのだが……。


 親切な兄貴のような男はもう何も言わなかった。





 ~~~~





 アベルたちは騎士団本部へと行く。

 会堂は人で犇めき、騎士や従者たちが既に集まっていた。

 アベルは決定を待っていようと思ったのだがカチェに手招きされた。


「わたくし、お爺様から大人扱いって認めていただいたからロペスお兄様に従うだけのつもりはありません。アベルもついてきて。幹部の集まりに参加しましょう」

「イース様。どうしたらいいですか?」

「アベルはハイワンド遠縁の者だ。カチェ様から誘われているのなら、そうすればいい」


 アベルとカチェは騎士団の会議室に入り込む。

 入り口を固めている衛兵は咎めなかった。

 アベルが部屋に入ると中にはロペス、モーンケ、スタルフォン、ポアレットなど主だった者が全員いた。


 ロペスは徹夜で移動したらしく寝不足の顔つきをしている。

 アベルは目立たない感じで部屋の隅に立っていることにした。

 まず重要な議題は、どれだけの部隊で国境の街リオンに行くかということだ。


 裁決者のロペスが即断の男なので直ぐに意見は纏まっていく。

 結果、モーンケはポルトに残って、もし国境からも皇帝国が後退することになった場合に備えて籠城の手配を進める。


 さらにハイワンドの各地にいる駐留騎士を一人残らずポルトに集める。

 市民軍団には非常事態を通告して、自衛を命令する。

 ロペスは動員可能な全ての手勢を引き連れて、明日にも出陣、ということになった。

 カチェがロペスに言い切った。


「ロペス兄様。わたくしも一緒に出陣するわ。止めないで頂戴ね。あとアベル、ガトゥやイースは、わたくしに預けてください。道中、スタルフォンだけでは不便です」


 顰め面をしたロペスは投げ捨てるように言った。


「ふん。いずれか遠方に嫁いでいれば戦禍も避けられたろうに……戦場で父上に挨拶するもよかろう。叱っていただけ!」


 方針は決まり命令を聞いた騎士たちが血相を変えて走っていく。

 出陣には手間がかかる。

 今度のように緊急の移動では食料を積んだ荷駄部隊を伴わない。

 食べ物は自分で調達しなくてはならない。

 もし合戦に遅参すれば面子を失うどころではない。

 みんな大慌てだった。


 アベルはイースと共に、街で必要な物を買うことになった。

 街の人々の様子が、どことなく騒々しいのを感じる。 

 空気が変わっていた。


 店先で商売人同士が会話しているので少し聞き耳を立てると、話題は皇帝国の敗北についてだった。

 もうハイワンドやベルギンフォンからは逃げたほうが良いとか、千載一遇の機会だとか、そんなことを喋っていた。

 聞き捨てならないことも口にしている。

 ガイアケロンとハーディアの軍団は傭兵を雇っておらず、略奪や乱暴は絶対に働かないという……。


 あんな噂が領内に広まれば市民の中には抵抗しないで降服する者ばかりになるかもしれない。

 しかし、もし嘘だったらどうするつもりなのだろう……。



 物価は早くも値上がりしていた。

 普段の倍ほども金を払って食料を買うことになった。

 アベルは急いでシャーレの元へ向かう。


 薬師ダンヒルの店は今日も混雑していた。

 受付のお姉さんに頼み込んでダンヒルを呼び出してもらう。

 するとシャーレがダンヒルと共に現れた。


「アベル!」


 シャーレがエメラルドグリーンの瞳に喜色を満たして駆け寄ってくる。

 胸に飛び込んで来た。


「シャーレ。仕事は上手く行っているかい」

「うん。親切にしてもらっているよ」

「おぅ。ウォルターの息子。どうしたい?」


 ダンヒルは小柄な老人だが、筋の通った気迫みたいなものがある。

 目にも力があった。


「内密のお話があります」

「じゃあ、あっちへ行こうか」


 奥の小部屋に通されるなり、アベルは切り出した。


「中央平原で皇帝国が破れたらしいです。ハイワンドの騎士も、ほとんど全員で国境まで出撃します。ポルトでも防衛戦の準備が始まる。今日はシャーレのことを頼みに来ました」

「そうか。来るべき時が来たなぁ。執軍官がコンラート皇子だと聞いた時から、こんなことになるのではと思っておったよ。さては占いで軍隊を動かしたかのう」

「お願いです。シャーレを安全な所に逃がしてあげて欲しいのです」

「実は準備してある。馬車に馭者。食べ物もな。逃げるとしたら帝都のつもりじゃ」


 シャーレが血相を変えてアベルにしがみ付いた。


「戦場に行くの? アベルが! 大丈夫なの!?」

「……分からないな」

「あ、あたし、アベルが騎士様になって、そうしたらウォルター様の治療院の跡継ぎになるって、そう思っていたよ! だから、そうしたらそこで働かせてもらおうと思っていたんだ! ね、ねぇ。そうなるよね?」


 純粋なシャーレにかける言葉が上手く見つからなかった。


――人生なんか、いつだって思い通りにならないんだ。

  どれほど努力しても何一つ手に入らないことだって、あるんだよ……。


「シャーレなら場所さえ選べば幸せになれる。争いのないところで薬師になるといい。僕はイース様の従者だから戦争に行くよ」

「従者は辞められないの? アベルはお医者様になるんでしょう」

「実を言うと……僕は心に恨みや憎しみを溜め込んだ人間なんだ。そういう人間だから……もしかすると争いを避けられない人間なのかもしれない」

「え……?」


 シャーレはアベルの言っている意味が良く理解できない。

 恨み?

 アベルほど優しい人間などいないと思っているぐらいなのに。


「僕は自分にできることを、やってみるよ。強くもないし、英雄になりたいわけでもないけれど」


 シャーレは、アベルの顔に強い決意があるのを見つける。

 とても自分が引き止められるようなものではなかった。

 そして、アベルは去ってしまった。




 ~~~~




 翌日の昼、アベルたちはポルトを出発した。

 アベル、カチェ、イース、ガトゥ、スタルフォン、ワルトに加えてもう一人。

 カザルスだった。

 カチェが戦に行くと聞きつけた彼は、絶対に付いていくと言い張ってアベルから離れなかった。


「ボ、ボクだって男だからなっ! 戦わないといけない時なんだよ!」


 青白い細面にダラダラと脂汗を流して、訴えるのだった。

 カザルスは決死の表情で、断っても勝手についていくと主張するばかりだ。

 実際のところ魔法が使える人間の手助けは、ありがたい。

 アベルはガトゥと相談して連れていくことになった。

 カチェがカザルスに近寄り、きちんと相対して言う。


「カザルス先生……。ハイワンドのために客分教師という身分でありながら戦線に加わってくださること、感謝の極み。祖父、バース伯爵に代わりまして深く御礼申し上げます」


 貴族らしく、優雅かつ折り目正しく礼を述べる。

 カザルスは茄子に似た顔を、ふやかしたみたいにして天にも昇らん表情をしていた。


 アベルは少しだけ感心してしまった。

 カチェへの愛情は本当に命懸けなのかもしれない。

 アベルの知る限り、カザルスはカチェに告白したり何かを要求したりする素振りはない。

 無償の忍ぶ恋ってやつだろうか。

 現実的に言ってガトゥのような身分違いの懸想であるから、結ばれることはまずないはずなのだが……。


――まぁ、人の恋路だ。勝手にすりゃいい。




 アベルは旅の途中、異常に気付く。

 傭兵や得体の知れない武人風の者が一人もいない。

 それは見事なほど姿を消している。


「ガトゥ様。なんであいつら居なくなったのですか」

「劣勢の側に雇われるのは、よほどの金を先払いされた場合だけだ。ハイワンドにはもうそれだけの金がない。勝ち馬に乗るには、こんな所にいたって仕方ねぇだろ」

「じゃあ王道国につくのですか」

「そうとは限らねぇ。ハイワンドより西側の領地に移動したやつもいるだろう。それに、いくら傭兵とはいえ昨日まで皇帝国の側にいた者は簡単には信用されない。雇われても損な役回りをやらされるのが目に見えているさ」

「素早く移動して旨い立場を探すわけですか」

「そうでなけりゃ、流れの傭兵や武人なんかやっていられねぇよ」


 そのままアベルたちはハイワンド領の東へ移動していく。

 あと数日で国境を越えて中央平原となる。

 そこは暴力と死、栄光と名誉が絡み合う戦場だ。






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