第33話 戦争の鼓動
カチェは目覚める。
バチッ、と頭が冴えて眠気は欠片もない。
まだ、朝一番の鐘すら鳴っていない。
けれど、もうじき鐘撞き男が鳴らすはずだ。
寝台から出て、壁の木戸を自分で開けると銅製の桶に水魔法で水を満たす。
顔を洗って、拭く。
寝間着を脱いで、絹の下着を身に着けた。
訓練があるから汚れてもよい、動きやすい綿の服を着る。
しかし、アベルの前に行くので、ちょっとはオシャレしたいと考えてしまう。
これまで意識してやったことなどないけれど……。
結局いろいろと試した挙句、フリルの付いた白いスカーフを首に巻くにとどめる。
鏡の前に座り、髪型を整えた。
きっちり、眉の上で前髪は一本の乱れなく水平に切りそろえられている。
紫がかった藍色の髪は艶やかに肩上で纏まっている。
カチェは頷く。悪くない。
朝食はお城では食べないことにした。
ケイファードが、とうとう伯爵家の全員が食べなくなって料理長が嘆くと言っていたが、一人で食べたくないのだから仕方ない。
昨日の夕べは楽しかった。
城下町の小さなお店で、食べたことの無い料理を口にした。
亀料理。
みんなで一つの料理を取り皿に分けて、わいわいと賑やかに食べるのだ。
お酒も飲んで、ちょっと下品な話しをして……。
食事と言うのは、あんな風なのがいい。
部屋を出ようかと思った頃、朝一番の鐘が鳴った。
本城を出てイースの部屋に行く。
日当たりの悪い、痛んだ建物。
狼人ワルトが入り口で尻尾を振っている。
「ご主人様のご主人様! おはようだっち!」
「おはよう、ワルト!」
アベルが部屋を出るとカチェがいた。
「あ……カチェ様。おはようございます」
今日はちょっと起きるのが遅れた。
下着の隙間から見えてしまっていたイースの形の良い綺麗なおっぱいを見ていたら、朝一番の鐘が鳴ってしまった。
まったく罪なおっぱいだよ……。
「あっ……お、おはよう」
カチェはアベルの顔を見たら、声が詰まって上手く喋れなくなってきた。
自分でも何をやっているんだろうと思う。
カチェの顔は真っ赤だった。
――わたくし、おかしいわ……。どうしたのかしら?
もじもじしているカチェをアベルは不審に感じる。
まぁ、ときどき訳が分からなくなるのはいつものことだと納得した……。
イースも後に続いて出てきたので、三人と一匹が食堂へと赴く。
ワルトは裏口でピエールから余り物のご飯を貰ってご機嫌だ。
アベルがちらっと見ると、肉の欠片が入ったスープとお粥だった。
まともと言うか……むしろ結構、美味しそうな普通の食べ物。
最近、待遇が上がっている。
騎士団の料理長ピエールは腫れぼったい目蓋に視線も鋭く、もう犯罪者みたいな顔をしている。
笑顔ですら怖い顔の人だけれど、ワルトにその悪そうな笑顔で食べ物をくれていた。
アベルは苦笑する。
本当なら心温まる景色なのに、何か後ろ暗い取り引きに見えた。
カチェが食堂に入ると騎士や従者たちは右手を胸に当てて正式な礼をしてくる。
「おはようっ!」
カチェは次々と軽快に挨拶をして、給食の列に並ぶ。
それを見て、えっ、という顔をしている者も多い。
カチェが先日、賊と勇敢に戦って立派な働きをしたことは騎士団に知れ渡っている。
今や騎士団ではカチェへの信望が非常に高まっていた。
それに際立って容貌も美しいので、年若い従者や騎士見習いには輝くような憧れの的だった
そのカチェが、従者に混じって列に並ぶ……。
それは驚く者もいるはずだった。
イース、アベル、カチェが小さい食卓に盆を乗せて、食べ始める。
朝飯はどろどろになるまで煮詰めた感じの肉と豆のスープ。黒パン。炒めた野菜。
好き嫌いの無いカチェは美味しそうに食べていた。
アベルから見てなんとなくだけれど、イースもどこか楽しそうに食事をしていた。
赤い瞳に、柔和さが漂っている。
アベルが騎士団に来たばかりの頃、燃料補給のように食物を口に運んでいるだけの時と比べれば、ずいぶん潤いがある。
アベルは食事をしながら、いつにも増して視線を感じた。
騎士や従者からのものだ。
普通、カチェから気に入られていたら妬みで酷い意地悪でもされるところだろう。
だが、アベルがハイワンドの縁者なのは知れ渡っているので、変なちょっかいを出してくる者はいない。
しかし、これからはどうなるか分からないな、とアベルは思う。
組織や人間社会なんて、汚い嫉妬や出世欲が渦巻いているものだ……。
イースのような損得を計算しないで汚濁に対して潔癖、利益を望まず、孤独を恐れない者が例外、稀なのである。
カチェはアベルに聞く。
「今日の予定は?」
「ロペス様が捕えた賊の裁判があるかもしれないから待機です。それまでガトゥ様と訓練ですね」
「いいわねっ!」
食事が終わったら歯磨きをして、ガトゥの小屋へ行く。
彼は既に鍛錬を始めていた。
そういうことは怠らない男だった。
アベルは、とにかく色々な技を身につけようと躍起になっている。
やはり卑怯なものに負けたくないという気持ち。
なにより胸の中で渦巻く様々な欲求と衝動。
イースの元で強くなって、その飢渇に向かって突き進みたい。
アベルの核にいる男は思う。
――俺の頭は前世のままやっぱり鈍いかもな。
だが、掟や他人の思惑に我慢するだけの沈黙する善人にはならない。
今日はガトゥに暗奇術を見せてもらう。
基本的に武芸者は自分の技を教えたりしない。
ガトゥは、見て憶えろという態度だ。
それでも優しいぐらいだった。
技を見ようとすると、目で盗みやがったな、などと罵声を浴びせられることは普通だった。酷いとそのまま決闘という流れになる。
技を読まれれば、どうした得意技があるのか、どういう攻撃を好むのか暴露してしまう。
自分の命と直結しているのだから誰だって必死だ。
ガトゥの使う暗奇術というのは、どんなものでも道具として使えというのが根底にある。
剣が無ければ、木の棒でも石でも使うべし。
天地みな得物とせよ。
これを術理として基本に置いている。
暗奇術の攻撃は、まず投擲で敵の様子を測ったり、姿勢を崩すことから始まる。
だから、棒手裏剣や小型の手斧などは必ず持っている。
それがなければ印地打ちといって、石を投げる。
魔力によって身体強化した投擲は、ただの石といえども危険な一撃だ。
顔面に命中すれば戦闘不能に追い込める。
それから二刀流をしばしば使う。
攻刀流にも二刀の構えはあるが、上級者の使う難技という位置づけだった。
アベルもアイラから、二刀の技は一つしか習っていない。
これは騎士の間でも永遠の論争なのだが、一刀と二刀、どちらが有利かということである。
単純に二刀が有利なら、常に二刀の側が勝ち、つまり世の剣術は全て多刀使いのものとなる。
でも、現実にはそうではない。
二刀は使う者が下手だと、片方の武器がかえって邪魔をして攻撃を逸したり、酷いと自分で自分の武器を打ち付けたりしてしまう。
要は一刀だろうと二刀だろうと、状況に応じて使いこなせた者が勝つ、ということだろうか。
アベルにはとても結論など見出せる命題ではなかった。
暗奇術では、手数多ければこれ有利、という教えがある。
さらに隠剣と言って、体や外套を組み合わせて剣を隠して、相手の意表を突くような攻撃を試みる。
ガトゥはいい加減な性格をしてそうなのに、暗奇術に関しては複雑精緻なテクニックを持っていた。
カチェは手斧を握って、的である木の幹に投擲する。
腕だけでなくて、腰や背中、体全体を連動させて投擲すると威力が増すのを早くも理解していた。
回転する手斧が凄まじい勢いで飛んでいき、幹に深々と突き刺さった。
実戦なら、即死しないまでも致命傷になり得るだろう。
アベルは素直に感心する。
「上手いなぁ……。大して練習してないのに!」
「ふん。コツは掴んだわ。魔法と違って詠唱はいらないし、魔力を読まれて中和や干渉される恐れがないのは利点ね。やっぱり魔法剣士が一番強いとは限らないわ」
それからイースが大剣で行う素振りを見てみる。
イースの剣術は基本、圧倒的な攻撃力と素早さで成立している。
魔人氏族の血がなせるものなのかイース個人が突出しているのか、彼女が魔力で身体強化した斬撃が綺麗に決まると盾や鎧を破壊してしまう。
これを防御するには、よほど「柔」の動作で攻撃を逸らすしかない。
アベルが思うにそれができるのは極一部の達人だけだ。
以前、イースはガトゥを自分と互角と評していたが、それは敬意の発言であって、現実ではイースの方が強いとアベルは考えている。
あの強撃をいつまでも耐えきれる者が、どれほどいるだろうか?
しかも、イースは時として切っ先の軌道を奇妙に変化させることがある。
視界の虚を突く攻撃は、それと認識できたとしても手遅れとなって決着がつく。
詐術に満ちた剣術は父親ヨルグを連想させる類似点でもある。
夢幻流という変化に富んだ流派。
その斬撃だ。
剛直なだけでなく、陰に篭るような不気味な気配を宿した剣の動き。
イースは恐るべき精妙さを兼ね備えた難剣も使えるわけだった。
アベルはカチェに言う。
「もし、イース様と似たような実力の持ち主と戦うことになったら、迷わず逃げることです。逃げられないなら、降伏したほうがいいぐらいです」
「そうね。わたくしも確かに勝てる気がしないわ……」
イースはその会話を聞いて言うのだった。
「アベル。お前には私に並ぶ可能性がある。弛まぬ訓練と実戦を重ねろ。力で及ばないのなら無理に対抗しようとせず、受け流せ。表面的な力の大きさなどものともしない達人の世界には、私など足元にも及ばない使い手がいくらでもいるはずだ」
イースすら凌駕する使い手……。
想像してみるが良く分からない。
世界は広いので、どこかにはいるのだろう。
強者が互いに魅かれてめぐり逢い、死闘を繰り広げる。
仮に自分がそこにいたとして、何のために戦うだろうか。
少なくとも他人のために戦うことは無いだろう。
やるとすれば、何か途方もない妄想じみた夢のため……。
~~~~~
アベルたちが訓練をしていると、カザルスがやってきた。
腰に片手剣を佩びている。
「やぁ、アベル君。約束だからねぇ。ボクにも剣を教えておくれ」
カザルスは、そう言って、にや~と笑った。
茄子みたいな細長い顔は期待に満ち満ちている。
そして、ちらちらとカチェの方に視線を送っていた。
カチェは訓練に集中していて、カザルスにはほとんど注意を払っていなかったけれど。
アベルはそう言われてみれば、そんな約束をなりゆきでしていたのを思い出す。
カザルスの持ってきた片手剣を貸してもらう。
ふむ、と唸る。
ウォルターの使っていた細身の両刃剣に似ている。
重心の吊り合いは取れていて、あまり長くないから使い易い。
普段は刀ばかり使っているから、久しぶりの直刀だった。
「まぁ、基本的には突く、斬るの武器ですね。けれど、カザルス先生は護身用に使うのですから攻撃的な構えよりも、防御的な構えをまず身につけたほうが良いでしょう」
アベルはウォルターに習った「吊り」の構えをとった。
柄の位置を頭上に持っていくのだが、このとき切っ先は上段に構えない。
剣の先を地面に向ける。
これで敵の上段や中段の斬撃を受け止めて、弾いてから攻撃するわけだ。
アベルはカザルスに吊りの構えを取らせて、木刀で打ち込む。
カザルスは戦闘の鍛錬を積んでいるわけではないからアベルの手加減した攻撃を受け止めるので必死だった。
特に相手の攻撃に反応する動きが鈍く、体幹の維持も上手くいっていない。
体幹が傾ぐと体の可動範囲が大幅に偏る。
つまり隙だらけとなって命とりになる。
だが、アベルが意外に思ったのはカザルスが結構、強い力で反発してくるところだ。
「カザルス先生。身体強化できるんだ!」
「大型の魔道具を作るのに身体強化はあると便利だからね。子供の頃から自然と出来るようになったな」
「でも、戦闘として使うのとは別です。全然、速さがない」
「し、仕方ないだろう! 剣戟などやったことはないぞ」
「敵は待ってくれませんよ。何といっても戦いは敵から攻撃されない位置を占めてから、先制攻撃するのが最も有利です。素早く動いて、良い位置を奪って、即座に攻撃です」
「そんなこと口で言うのは簡単でも実際にやるのは……困難だぞぉ」
「そうです。だから、カザルス先生は相手にそれをさせない剣運び、足捌きをしてください。さぁ、もう訓練は始まっていますよ。足を止めない! とにかく踊るように動き続けて!」
アベルは手加減したとはいえカザルスの手が痺れるぐらいの打撃を連続で与えた。
カザルスは思わず片手剣を落とす。
木刀を首に突き付けた。
「もう、やめますか?」
「い、いや! 止めないぞっ」
カザルスは目に闘志を燃やしている。
すべてはカチェのためだ。
しかし、好意だけで、いつまで続くだろうか……?
アベルは不安になるがカザルスは真剣そのもの。
教えられた型の稽古を愚直に繰り返している。
しばらく好きにやらせてみることにした。
次にアベルはカチェと木刀での鍛錬を開始する。
向かい合う。視線と視線がぶつかった。
下手な会話を越えた相互理解が訓練からは得られる。
なぜなら相手の意図を読み合うからである。
瞬間、静から動への急激な転換。
カチェは上段を突然として下段に変えて近寄ってくる。
間合いを越えた。
下段から、鋭い突き。
いなすだけで精一杯だ。
カチェは切っ先で圧迫を加えながら蹴りを入れてきた。
辛うじて防ぐ。
躍動するような変化にアベルは翻弄されそうになる。
明らかに強くなっていた。
まるで飛ぶような上達速度だ。
稽古が一段落したところでカチェは体が熱いので上着を脱いだ。
喉が渇いたので「清水生成」を詠唱して、口に水を注ぐ。
喉を鳴らして飲む。
何だか、いつもより口が渇く。
変だなぁとカチェは感じる。
風邪なんかひかない。
体調は良いぐらいだ。
それから、ふとアベルの顔を見る。
今は体を伸ばす運動をしていた。
顔の造り自体は整っていて、だが、どこか悩み深い影がある。
アベルへの愛情をはっきり認識した今となっては、そこですら好ましいから困る。
そういうことを考えれば考えるほど、妙に緊張してしまう。
カチェは、自分はどうしたのだろうと自問する。
また、喉が渇いてきた……。
アベルは、カチェの可愛く膨らんだ唇から透明な水が零れて、首筋を伝い胸元へ流れていくのを見詰めた。
張りのある肌の上で、弾かれた丸い水滴が踊っているみたいだった。
上着を脱いだせいで下着姿だから形の良い胸の輪郭がはっきり見えた。
見たいけれど凝視していてはいけない気がして視線を、むりやり逸らせた。
変な気分になる。
さっきからカチェがよく水を飲んでいるけれど、自分まで飲みたくなった。
そのまま正午まで、みっちり鍛錬する。
アベルとカチェは、普段より激しい訓練をした気分になった。
しかし、どうも理由が分からない。
カチェは息切れしながら首を少し捻るばかりだった……。
~~~~~
ガイアケロン王子とハーディア王女の兄妹二人は陣幕の中に入る。
中にいるのは王道国第二王子リキメル。
年齢は二十七歳。
ふくよかで温和な顔をしているが、それは表向きの表情にすぎないことを兄妹は知っている。
内面には暗殺、陰謀、手段を選ばない方法で権力闘争を勝ち抜こうとする野心が煮えたぎっている。
今は第一王子のイエルリングとも協調しているが、薄皮一枚で保たれている妥協だった。
他の派閥と利益を争っている大貴族たちを仲間に引き入れ、勢力拡大を狙っていた。
リキメルは貪欲が肉を纏ったような男だ。
金銀の装飾を凝らした大きな椅子からリキメルは立ち上がろうともしない。
そのまま待ち構えている。
王族同士は頭を下げないのが慣わしだった。
それというのも兄弟姉妹において王位継承権は設定されていないという特殊な事情がある。
ゆえに立場は対等だった。
すべては父王イズファヤートの思惑による……。
リキメルと相対する形で兄妹は席に着いた。
彼の腹心の部下、大貴族ビカス・カッセーロが同席している。
ビカスという男は痩せていた。
血色は悪く、骨張った顔についた疑り深そうな目が暗くこちらを見て来る。
様々な陰謀で対立する王族や貴族を潰してきた毒蛇のような男だ。
ビカスは三十八歳という話しだが、まるで老人にも見えた。
噂では酷い偏食家だという。
他、屈強な護衛が八人。魔法使いが四人ほどが控えている。
二人の兄妹と面会するのにも、用心は欠かさないというわけだった。
リキメルが、満月のような顔に柔和な笑顔を浮かべた。
普段は丸い円らな目が、細められて溝のようになった。
「よく来たな! 弟、妹よ! 決戦前の挨拶に来てくれたのか」
前口上などしないままハーディアが本題から切り出す。
要件を済ませてリキメルの軍陣からなど、早く去りたい。
「リキメル兄様。今日はたってのお願いがあります」
「これは珍しいな。私に頼み事とは。なにかな?」
「凶悪な罪人をハイワンド伯爵領内に送り込む作戦を止めていただけませんか。ハイワンド領は、さらなる進撃をしたとき我ら兄妹に統治が任されることになっている土地。非道の輩を送り込んでは、民に王道国への反感を育てることになります」
リキメルは穏やかな笑みのまま言う。
「さて、何か誤解をしておるようだなぁ。我が父王イズファヤート様は敵の領土の切り取り勝手次第をお命じになられている。別に誰にどこをやるとは、仰せになってはいない。憎き皇帝国のどこを攻撃しようとも自由であろうに」
「進軍の割り当ては決まっております。皇帝国ベルギンフォン公爵領へはイエルリング王子。リキメル王子はレインハーグ伯爵領。そして、ハイワンド伯爵領へは我らとなっております」
「それは、あくまで大体の取り決めよ。戦場の働きに常はない。それに、お前ら一万数千の部隊でハイワンドを平らげようというのは、いくら武勇自慢のガイアケロンとハーディアでも無理というもの。たとえこちらが部隊を流動的に動かしたとしても、それは手伝ってやろうという兄の真心。受け取っておくれ」
リキメルは、にんまりと笑った。
何も知らない人が見れば篤志家と勘違いするような優しい笑みだった。
その実、ごく僅かでも自分の権益を損なう約束など決してするつもりがない。そのせいで民衆がどれほど苦しもうともまるで気にしない男だった。
ハーディアは毅然として言った。
多くの男を虜にしてきた魅力的な琥珀色の瞳には、静かな怒りがある。
「真心にしては遣り方が薄汚いと申しております。暁の鷹だとかいう潜入部隊を編成して無法者を支援するなどもってのほか。なんでもあらゆる悪事を好む非道の輩たちらしいではないですか。そういう作戦での助けならいりません」
ビカス・カッセーロが皺枯れた声を上げた。
「その暁の何とかですかな。心当たりのないこと。妙な言いがかりでリキメル様を侮辱なされないようにお願いします」
リキメルは笑顔のまま黙っている。
ビカスは汚れ役を平気で買う。だから腹心になれた男だ。
後日、証拠が上がっても発言したのはビカスだからリキメルまでは追求できない。
そして、ビカス自身も身代わりを用意するのは容易な男だ。
「話しても無駄ですか……。わかりました。では、我らがそうした潜入部隊を見つけたのなら、生け捕りして尋問することにいたします。それでは、十日後の決戦ではお互い、死力を尽くしましょう」
終始、発言したのはハーディアだけだった。
ガイアケロンが立ち上がる。
リキメルは改めて、背の高い男だと思う。
どちらかと言えば小男に属する自分とは、まったく別物。
ガイアケロンの精悍な顔には、余裕のある微笑が浮かんでいた。
薄く青みがかった鈍色の瞳は威圧感などないはずだが、直視し難い迫力があった。
リキメルは笑顔のままだったが、ガイアケロンのことが心底嫌いだった。
憎悪しているといっていい。
並外れて体格が良く、武人が思わず感じ入るような強者の気配を漂わせた弟など、決して許すつもりはない。
しかも、長らく頭の腐った白痴の振りをしていた慎重な男でもある。
策略を巡らし機会を見て殺すか、そうでなければ辺境に幽閉でもしなければ落ち着かない。
それは自分だけでなく他の派閥のあらゆる者がそう感じていることだろう。
追い落とす機会はいくらでもある。
たとえば戦で不手際をしたところを発見して、王に讒言するという方法もある。
差し当って、まずは自分が罠に落とされないようにするしかない。
使役していた罪人や武人崩れたちは、褒美を与えると偽り集めて、一人残らず処分しなければならない。
リキメルは笑顔のまま別れの挨拶をする。
「互いの勇戦、武運を祈っていますよ」
やはり篤志家のような顔であった。
ガイアケロンは陣幕を出たところで、大あくびをした。
顔には、仕方ないなという笑み。
「ハーディア。なんか意味があったのかな。この会見」
「釘を刺せました。ああとまで言えば、積極的に同じ手は使わないでしょう」
「だといいけれどな」
「やられてしまったことについて嘆いても仕方のないこと。手を打ちます。皇帝国の捕虜を解放しましょう。このときのために手厚く保護してきたのです。我らが非道の者ではないと民衆に分かってもらわないと、王道国の平定に無駄な抵抗をされてしまいます」
「そうだな。捕虜のあいつら、友達になれてよかった。一緒に家を作ったりして、楽しかったなぁ!」
「お兄様。大工の真似事は、もうおよしになってくださいまし」
「家を壊す仕事より、造る方が尊い職業だ」
「家の無い人に家を造ってあげるのが王者のなすべきこと。でも、それは人とお金を用意して指示をすればよいのです。自ら金槌だとかノコギリだとかは使わないものです」
「なかなか面白かったんだ」
ガイアケロンは大らかな笑みを浮かべて、そう言うのだった。
陣幕の外にはガイアケロンの腹心、オーツェル・エイダリューエが待ち構えていた。
「リキメル様もビカスも、何一つとして協力してはくれぬでしょう。今回の王族連合はあくまで仮のもの。中央平原で勝利し、いよいよ皇帝国本土へ侵攻を開始するとなれば手柄争いで協力の維持は出来ますまい」
結果を予測しきっていた彼はそう言う。
学者風のオーツェルという男は、やや陰気な知性を感じさせて戦士の貫禄など微塵もなかった。だが、参謀としてはそれで充分だった。
王族兄妹は馬に跨り、自軍へと戻る。
周囲には体格の整った戦士や軽装の魔法使いが集まり二人を守っていた。
みな、表情が明るい。
ガイアケロンとハーディアを心から慕っている仲間たちに由緒ある貴族の家柄の者は少なかった。
たとえ貴族であったとしても下級貴族が多く、大半は平民、あるいは流浪の者すら混ざっていた。
実力はあるが癖のある人間たち。
だが、ガイアケロンは気に入った者と一緒に戦うことを、なによりも望んでいた。
それが災いして窮地に立つようなことがあろうとも、喜んでその試練と向き会うつもりだった。
これまで常に寡兵ゆえに勝利の覚束ない戦いに臨み、その全てを瞬間的な決断、勇断で乗り越えてきた。
武勇でおのれと匹敵するような者とも好んで勝負し、捻じ伏せ、果ては仲間にして自信を養ってきた。
やがて軍勢の宿営地に到着する。
兵士たちが二人の姿を見ると、熱狂的に元気よく手を振ってきた。
それに二人は答える。
軍勢は約一万三千。
二人の兄に比べて数は少なないが、全ては手足のごとく動く精兵だ。
それに今、仲間は確実に増えている。
さらに亜人界にも働きかけをして、人を集めていた。
その試みは成功しつつある。
中央平原には今、王道国が用意できるほぼ全軍が集結している。
第一王子イエルリングの七万の軍勢。
第二王子リキメルは四万の軍勢。
普段は戦場に出ないはずの第一王女ランバニアすらも、五千人の軍勢を集めているという。
それに傭兵たちの統領ディド・ズマが自ら率いている強大な傭兵軍団。
周到に準備した大作戦で、皇帝国と決戦をする。
勝てば戦局は大回転を起こす。
一挙に数百年以上、兵を進めることの無かった地域まで王道国は進攻することになる。
ガイアケロンは心が湧きたつようだった。
重たく不動だった歴史が激しく動き出す予感がある。
新しい舞台に相応しい人間が、自然的であるか運命的にか、あるいは神に選ばれてか、人の波の中から現れるだろう。
その波濤に自分とハーディアは儚くも消えるか、それとも流れに乗りどこまでも進むことになるか……。
この戦い、王族たちにとって決して負けられない。
重大な合戦で不手際を仕出かせば父王イズファヤートは、実の子でも冷酷に切り捨てる。
叱責どころでは済まない。
全てを奪われて王統から除籍される……。
父親。
王道国の王でもある男。
ガイアケロンにとって父とは、身を切り刻まれるほどの怒りと憎しみそのものだった。
だが、妹ハーディア以外、その事実を知るものはいない。
皇帝国の軍団がどれほど強大であろうと、負けるわけにはいかない。
泥水をすすり、死体の山を築いてでもやらなくてはならないこと……。
今はその渇望に向かって突き進むだけだった。
ガイアケロンの瞳には困難に立ち向かい、敵を打ち破ろうという王者の輝きがあった。
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