第31話 愛の芽生え
アベルは釈然としないまま、夜明けまで不寝番を続けた。
イースの普段とは違った態度の理由は考えても分からない。
やがて星と月だけの夜空が、ほんの僅かに明るくなっていく。
まだ夜明けとも言えないような時間だが一行は起き上がり、追跡を再開する。
ワルトが言うには地面に残されている怪しい足跡は二十種類ぐらいの臭いらしい。
つまり二十騎が纏まっているということだ。
賊の可能性がかなり高い。
足跡は、やがて本道から逸れて支道へと伸びていった。
ガトゥが淡々と、だが、どこかしら冷酷な感じに言う。
「相手は慣れた連中だ。下手な尾行はすぐに察知する。ここは見つけ次第、戦闘に持ち込んで何人かを生け捕りにして尋問する。もし百足のソロスがいたら、生け捕りなんか考えなくていい。やつの首を何としてでも獲るぞ」
アベルは苦しい戦いになる予感をひしひしと感じる。
重圧感で胸が苦しい。
ちょっとした間違いで、敵の繰り出した刀剣により頭蓋を割られてしまう。
そんな死線の際を彷徨う戦いになるだろう。
自分の心に勇気なんてあるのか……こうした瞬間、いつも自問する。
別に並外れた正義感があるわけでもなく信念を意識したわけでもなく、取り合えずイースやガトゥに付いて行って、必死に戦っているだけで過ぎてきた。
そして、心に渦巻く怒りや憎しみ、呻きのような衝動が何かを求めていた。
今はまだその正体が何なのか、分からない。
カチェは黙って、邪魔にならないように心掛けた。
自分の実力は知っている。
自惚れではないが魔力による身体強化ができるから、刃筋の通った一撃で大の男の胴を両断する自信がある。
鉄にすら、ある程度は斬り込める。
しかも、自分は魔法も使える。
決して己は弱くはない……。
だけれど、ここで一番の未熟者は自分だと言い聞かせる。
それはゴブリン狩りの時に思い知っていた。
丘を越えた先に、ふいに数棟のあばら家があった。
平屋建てで二軒ある。
どのように見ても廃屋で人が住んでいるとは思えない。
しかし、無数の馬の足跡は彼の方向へと延びていた。
アベルは、まずいなと覚る。
もし建物の中に見張りがいたら、すでにこちらは見つけられている。
今更、引き返しても隠れても意味はない。
ガトゥが即断、鋭い気合を込めて命令した。
「全員、突撃! 二手に分かれて、それぞれを攻撃しろ」
直後、イースが先頭を騎行する。
アベルはカチェへ叫ぶように言った。
「カチェ様! 僕から離れないで! 戦っても勝てそうもないとき、万が一の時はスタルフォン様と迷わず逃げてください。絶対にですよっ」
カチェはアベルが、見たこともないような必死の形相をしているのを認めて慌てて頷いた。
やはりこれは相当、危険な状態なのだと思い知らされる。
アベルたちは自然と二手に分かれる。
イース、アベル、ワルト、カチェ、スタルフォンが手前の建物。
ガトゥ、ダンテ、ヨルグが奥の建物に進む。
連れてきた街の護衛たちは状況の激変についていけず、後ろをうろうろしていた。
馬で急接近していくと突然、窓の木戸が開いて矢が飛んできた。
アベルは瞬間的に「突風」をイメージして魔法名を唱える。
抵抗を受けた矢が遥か上方に逸れていった。
アベルは「炎弾」を唱えて、窓の脇に命中させる。
木造だから派手に壁が飛び散った。
中を狙わなかったのは、あくまで生け捕りを目指すためだ。
まず恐怖心を与えて、敵を動揺させる。
馬から飛び降りたイースが扉を蹴飛ばすと、ノブのあたりが劣化していたらしく呆気なく開いた。
もしこれが当たりだとすると、中には斬流第七階梯の使い手や魔術師がいることになる。
死闘だ。
イースは大剣を突き出した姿勢で賊の潜む廃屋に入っていった。
後ろにアベルが付く。
居間らしき場。
薄暗い。
内部に五人の男がいた。
全員、剣を抜いていた。
いずれも髭は伸びきり視線は荒み、野獣さながらの気配に満ちている。
室内だというのに鎧を装着していた。
二人は冑まで被っている。
相対するイースは無造作に足を運ぶと、間合いに入った敵へ腰を落として上段斬りを仕掛ける。
賊の両手剣とイースの大剣が激しくぶつかる。
決着は一瞬。賊の剣が押し負け、イースの大剣は男の額に減り込んだ。
脳漿、血が飛び散る。
生け捕りが目標なのだが、まず気勢を制する意味で一人は殺したのだとアベルは察する。
それからアベルは「氷槍」をイメージした。
それほど大きな氷柱を創る気はない。これは牽制である。
アベルの詠唱と共に、腕ほどの氷の槍が射出される。
賊の顔面を狙って撃った。
回避されるだろうと考えていたのだが、賊はアベルを魔法剣士と思わなかったのか、まるで対応できずに氷の槍が頬に食い込んだ。
「ぐえぇぇぇええ」
という、くぐもった呻きを上げた。
顔を氷の槍で横から串刺しにされた賊が倒れる。
アベルは興奮が高まってくる。
吐く息が鉄臭い。
呼吸が荒くなる。
思考するような余裕はなくなっていく。
辛うじてイースの邪魔にだけはならないように動こうと思いつく。
イースの左斜め後方、脇へと位置取りする。
刀を正眼に構える。
賊は魔法を使ってこない。
ということは、魔法剣士はいないのだろうか。
アベルは敵を観察する。
百足のソロスは頬に傷があるという。
しかし、そうした特徴の人間はいない。
賊は一人が死に、一人が瀕死なのに抵抗を止める気配がない。
「うわああぁぁ!」
賊の一人が気合の声を上げると、イースへ斬り込んでいった。
凶暴だが、雑な攻撃だった。
見抜いたイースはあっさり賊の剣を弾くと、間合いを詰めて体当たりをした。
なりは小さくとも魔力による身体強化は強烈だ。
しかも、ぶつける態勢や呼吸は絶妙。
弾き飛ばされた賊の体が宙に浮き、床に叩きつけられる。
アベルは駆け寄って倒れた敵の足に斬りつけた。
片足が脛のところから、皮一枚残してほぼ切断された。
白い骨が露出する。
皮だけで、ぶら下がった足が振り子のように揺れていた。
「げええぇえ!」
男が脛を押さえた。
無言で戦い続けていたイースが初めて口を開いた。
「私は騎士イース・アーク。お前らに勝目はない。降伏しろ」
賊の一人が、懐から両刃のナイフを取り出すと器用に投げつけてきた。
イースは見切って大剣で防ぐ。
金属音、火花。
賊の残った一人が、連携攻撃のつもりで接近するや突きを放ってきた。
イースは半身、体を動かして突きを回避すると、下段から大剣を振るう。
賊の、剣を握っていた腕が肘辺りから切断された。
落ちた腕が床に転がる。
「ああぁああぁああ!」
賊が腕を押さえて前屈みになる。
隙を逃さずアベルは顔面に飛び蹴りをした。
仰向けに倒れて失神。
最後の一人はイースが薙ぎ払いを仕掛けると剣が折れた。
それで戦意喪失したようで突然、跪いて許しを請いだした。
「や、やめてくれっ! 降参するっ! 殺さないでっ!」
「まず剣を捨てろ。小刀もだ」
賊が武器を放り棄てた。
まだ若そうな男だった。
細目の鼠に似た、狡そうな顔をしていた。
アベルは嫌な顔の男だなと思った。
アベルは馬のところまで戻り、縄を持ってくる。
賊たちを縛り上げると必要最低限の止血を施す。
顔に氷槍が突き刺さった男は、もうじき死ぬと思われた。
ほとんど動かない。
捨て置くこととする。
カチェは見ていただけだったが、全身が冷や汗でビシャビシャだった。
掌の汗は何度拭ったか、分からない。
肩で息を繰り返す。
頭がくらくらと回転してきた。
やはり実戦は考えていたものと違う。
アベルはガトゥたちの様子を確認しにいく。
そちらも、もう決着はついていた。
中に五人の賊がいた。
その内、三人は死んでいる。
残る二人は腕に深い傷を負っていた。
跪いて降伏している。
アベルはガトゥに聞く。
「どうでした?」
「あのヨルグ殿が一人で始末したよ。大した使い手だ。欲を言えば、もう少し生け捕りにしてほしかったが……それは言うまい」
死体はそのままにして、尋問は廃屋の中でやることにする。
早く情報を引き出して今後の方針を立てなくてはならない。
何か一つでも騙されたり言い逃れをされたら命取りになりかねなかった。
手前の家へ捕えた賊全員を連れてきて、ガトゥが質問を始める。
相手は唯一、無傷で降伏した男だ。
死にたくないからこそ降伏したはずで、聞くには一番いい相手のはずだった。
武装も装備も解いたから拘束はあえてしていない。
知っていること言えば助けてやるとガトゥは言う。
アベルは冷え切った視線を拘束された賊たちに向ける。
無傷の賊はぺらぺらと舌を回して、言い訳を繰り返している。
二十歳ぐらいの、まだ若い男だったが狡賢そうな顔で少し笑いながら自分はむしろ被害者だろう、というようなことを言い出した。
意味不明だったのでそれは聞き流す。
切羽詰まった人間は、よくそういった支離滅裂なことを言い出す。
若い賊は次に、殺していない、というあまりにも明白な嘘を言い始めた。
しかし、それは連れてきた護衛の証言で即座に否定された。
「おれ、憶えているぞ。おめぇ、俺らの仲間が倒れたところで止めを入れただろう。それから松明を持って放火だってしたはずだ。楽しそうに働いていたよな。くだらない嘘をつくな」
若い男は、何度も目を瞬かせる。
息が荒くなり出した。
次に口を開いて抗弁すると、人違いだという言い草だった。
ガトゥが怒鳴る。
物凄い大声だった。
カチェが思わず小さい悲鳴を上げるほどの大喝だった。
「てめぇらの頭はどこにいるんだっ!」
「えあっ……。いま……偵察に行っていて……たぶん夜、ここへ帰って来る」
「主だった幹部と数の内訳は」
「百足のソロス。魔法剣士のボック。それから魔術師のゼルマーネ。あとは最近になって仲間にした凄腕の剣士で、名前はイビサ。他には……合流してくるはずだから。剣士が三十ぐらい……いや、もっといるか。良く分からない」
嘘を言っている様子ではなかった。
「帰って来た時、なんか合図があるんだろ? どうやってやる?」
「松明で合図を送る」
「どういう風に」
「向こうが松明で円を描く。こちらは左右に振る」
「逆に注意しろってのはどういう風にやる」
「何もしないでいることだ」
ガトゥは頷いた。
長年の経験から合図に関しては嘘ではないと感じる。
この程度の胆力の人間は、ここまで切羽詰まった状況で芝居を打てはしない。
「な、なぁ。言ったんだからもう許してくれるよな? もう放免してくれえ。喋ったことがばれたら、俺が殺される。それよか、あんたらも逃げろよ。ソロスも幹部もそこらの騎士なんかよりずっと強い。敵うわけねぇ。他の奴らだって傭兵崩れや兇状持ちの荒くれだぜ」
重傷で死にかけた賊が絞り出すように言った。
睨みつけている。
「てめぇ、喋りやがったな……! 黙っていればソロス様がこいつらを殺してくれたのによ。俺たちだって助けてもらえた。それを……合図をばらしやがって! ソロス様に必ず報告するからな……。指先から切り刻まれて殺されろ! けつの穴に槍を突っ込んでやるよ、腰抜けめっ」
死にかけであっても裏切り者への脅しは凄味の利いたものだった。
「いっ! ひっ! そ、そいつらを殺してくれっ! 全員殺せっ」
鼠みたいな顔をした若い男が、なぜかアベルに要求してきた。
逆に問い返す。
「お前こそ、何人殺したんだよ? さんざん殺したんだろ? 抵抗できない人を……」
アベルが胸を蹴飛ばすと、今度は弾みでうっかり殺しただけだから許してくれ、ということを言い出した。
相手が悪い、こっちは殺すつもりまでなかったのに刃物で抵抗してきたからそれで仕方なく殺した、放火は命令されただけだ……。
あまりに低劣で自分勝手な言い訳でアベルは限界を感じる。
眩暈に近いほどの怒りが込み上げてくる。
アベルの脳裏に、真っ黒に焦げた子供の死体が蘇った。
冷たい殺意で心が満ちていく。
反省もしない。
謝罪もない。
自分は悪くない、全部他人が悪い……。
――こいつは生かしておいても、また同じことをやる害虫だ。
誰かが始末しなければいけない……。
「それは強盗を仕掛けてきたお前の言うことじゃねぇだろう……」
「助けてぇくれえぇ!」
「そうやって命乞いする人間を何人殺してきたんだ! 子供まで殺しやがって!」
「約束っ! 約束した!」
「約束ってのはな……人間とするものだ!」
悲鳴とも泣き声ともつかない絶叫を立てる賊。
その姿に、アベルはどうしようもなく、自分が殺した父親が重なる。
いつもいつも不満ばかりで、自分以外の人間を妬み、あげく抵抗できない者へ憂さ晴らしのように暴力を与える最低の男。
虫以下のやつだ。
人間の形をした糞の塊。
あの小男……。
死ねばいい。
殺してやる!
アベルは燃えるような怒りと共に上段から刀を振り下ろした。
切っ先が賊の額に食い込み、滑らかに刃は顎まで斬り通る。
賊は前のめりに倒れて、鼠によく似た顔面がじっとりと赤潰れていく。
床に血液が広がっていった。
やっと卑怯で薄汚い言葉が止んだ。
アベルは、溜め息をつく。
ほっとした。
これ以上、あんな汚物のような言葉を聞いていたら、こっちの心が汚れる。
縛られている賊たちにアベルが静かに言った。
「お前らも、これからこうなる……。反省も謝罪もいらないぞ。せめて落ち着いて死んでくれ。じゃないと手間だ」
自分でも腹の底から冷え切った声が出たなと思った。
縛られた賊の何人かが激しく暴れ出す。
拘束はしっかりしたもののはずだったのに、一人の縄が緩みだす。
立ち上がりかけたところで、アベルが「氷槍」を唱える。
賊の腹部に腕ほどの氷柱が突き刺さった。
座り込むような形で崩れ落ちる。
細い呻き声を上げた。
「魔力を使うのも惜しい奴らだな。これから、また戦うから……お前らの仲間を皆殺しにするから魔力が惜しいって言っているんだ。意味わかるか? 分かったら賊なんかやらねぇか……」
そんな様子のアベルを、ダンテとヨルグが見ている。
特にヨルグは、暗い笑みを浮かべていた。
自分と似た者を見つけた、そう思っていた。
アベルは一応、許可を取っておく。
なにしろ、捕らえた賊を殺しておくのは当たり前のことだった。
後方に移送もできない。
そして、これから予想される激戦の結果次第では、こちらが逃げ出すこともあり得た。
となれば、ここで捕えたり重傷を負わせた敵は始末しておくしかない。
本当にドブ浚いのような酷い仕事だが賊退治などというものはこんなものだった。
「ガトゥ様。いますぐやりますか? イース様の手を煩わせるほどのものではないので僕が……」
「ちょっと考えがある……」
カチェの心臓が早鐘のように動いている。
息切れがする。
アベルの濡れて光った目に強く惹きつけられる。
固唾をのんだ。
カチェの心の中はアベルで一杯だった。
もう、それしか考えられない。
友達のように思っていたアベルは普段と別人のようだった。
激情がカチェにまではっきりと伝わってきて、アベルの強い意志に抗することもできず、心理状態は一体化していく。
賊たちは何も悪くない領民や子供を殺害して、それでいて卑怯な言い逃ればかり。
人間とは思えなかった。
魔獣のような人の肉を食らうバケモノと同じだ。
今こそ勇気を出して戦わなければならない……。
ここで逃げ出すような人間として生きていくつもりはなかった。
カチェはアベルを見る。
必死だった。
戦いを楽しんでいるようには、とても見えない。
それよりは歯を食い縛って嫌なことをやる少年の姿がそこにあった。
カチェの心臓が一段と高鳴る。
顔が熱い。
胸の奥に切なさが湧き上がるように広がっていった。
アベルの必至で健気な姿。
弱い者への暴力を憎む心の叫びが、聞こえてくるようだった。
なぜかアベルに抱き付きたくなるような衝動が体を駆け巡った。
カチェは長い間、ずっと感じていたアベルへの形を取らない好意が、くっきり輪郭を描いた自覚を持つ。
――わたくし、アベルのことが好きだったんだ!
恋慕の念と、これから始まるだろう賊との死闘についてなどが頭の中で渦巻く。
ここで死ぬわけにはいかない。
一人の戦死者も出さずに城へ帰るのだ。
そんなカチェへ、ガトゥが話しかけた。
顔には、いつものような余裕のある笑みがない。
「カチェ様。このガトゥ男爵。お願いの儀があります」
「な、なんですか?」
「そこの賊と決闘をしていただきたい」
アベルも皆も、ガトゥの意図をすぐに察した。
「カチェ様の魔力は尋常でなく強いです。さすが武門ハイワンドの血とこのガトゥ、以前から感心しておりました。しかし、相手が悪人でも人殺しに耐えられない人間はいるものです。それは優劣ではありません。持って生まれた人格です……。カチェ様がそうならば、この一回で人斬りの世界を諦めていただきます。武人だけが貴族の生き方ではありません」
誰も反対しなかった。
ここで覚悟のできていないカチェを戦闘に参加させたりすれば、最悪の結果になるかもしれない。
変な優しさを出して危機に陥らせることは、ありとあらゆる戦闘を経験してきているガトゥならば尚更やらないことであった。
「スタルフォン」
危険なことは決してやらせようとしなかったはずのスタルフォンにカチェが声を掛けても、彼は静かに頷くのみ。
スタルフォンは内心、これでカチェの武人としての人生が終わったとしても、それはそれで良いと考える。
教養のある深窓の令嬢として過ごし、やがて良い縁談に恵まれて婚姻するのが一番良き事だとも思えた。
カチェはアベルを見る。
もう他に意思を確かめる相手などいはしなかった。
アベルから先ほどまでの荒々しいまでの表情は消えていて、今は、むしろ穏やかな顔を向けていた。
事の推移を、どんなものであっても受け止めるつもりなのがカチェにはっきり理解できた。
後に引くわけにはいかない。
ここで、アベルの隣に立たなくてはならなかった。
「ガトゥ。分かったわ。貴族として戦うのが、わたしくの務め。ここでやるの?」
「表だと血を掃除しなくてはならないので……やり難くはありますが」
カチェは刀を抜いた。
祖父バース伯爵の武器庫から借りた名刀だった。
魔鉄の成分がいくらか入っている刀。
銘は「夕焔」
刀文に、焔のような湧き上がりがあるから、そう名が付いたのだろうとスタルフォンが言っていた。
ガトゥは片腕を切断された賊の拘束を解く。
それから頬を平手で強く張る。
無造作に剣を放り出した。
「おめぇに一つ、最後の機会をやる。こちらのカチェ・ハイワンド様と戦って、勝つか引き分ければ放免してやる」
三十歳ぐらいの賊は血走った眼を周囲に這わせる。
それからカチェの顔を睨みつける。
賊は馬鹿にしたように笑った。
少女と見て、勝てると踏んだのだろうか。
片手の賊が言う。
「本当だな?」
ガトゥは低い声で答えた。
「いいから、早く剣を取れ。選ぶ道なんか、これしかねぇよ。やらねぇなら俺が今すぐに殺す」
ガトゥの目には、酷薄なほどの冷たさがあった。
この場にいる誰もが賊にカチェを傷つけさせるつもりなどない。
もし、危なくなったら黙って加勢して賊を殺せばいいだけの事だった。
アベルは、いつでも自分が出られるように準備する。
賊が剣を手に取り、中段に構える。
カチェは刀を上段に掲げる。
心を整える。
集中力が高まってくる。
正々堂々とした勝負だ。
これが自分の選択だと言い聞かせた。
なんとなく流されて、安全な場所で誰かに守られながら過ごすのは自分の人生ではない。
戦うのだ!
体内の魔力を活性化させる。
爛々と力が漲ってきた。
カチェは対峙する。
賊は下品な罵声を上げて威嚇してきた。
「おらぁ! 貴族の娘っこが、決闘ごっこかぁ! 殺される前に降参しやがれ!」
少しも怖くなかった。
そして、怒鳴りながらケチな攻撃をしてきた。
自分より力の弱い者を適当にあしらってやろうという意図が透けて見えた。
カチェは賊の剣を脇から払う。
誰しもの想像を絶する速さと力だった。
カランと音を立てて賊が手にしていた剣は虚しく床に落ちる。
信じられないという顔をした男。
それから、顔を下品な笑顔にさせた。
「へへへ……。こっちは片手だぜ? 決闘ってのは公平にやるもんだろ。ちょっと拾うから待てよ」
屈んだ、賊。
カチェは首筋に刀を振り下ろした。
手ごたえは、ほとんどなかった。
刀の切っ先が首に食い込んで、首が落ちた。
終わった。
カチェは深く息を吐いた。
アベルはカチェの紫の瞳に、後悔や逡巡が現れていないのを見た。
むしろ、汚れや暗さのない、力のある輝きを感じ取る。
あの瞳が、ずっと美しいままであってほしい。
心から、願うようにそう思った。
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