第29話 二人の王族
王道国の王子ガイアケロンは、小高い丘から自分の軍勢を眺める。
親衛騎兵、弓兵、軽装歩兵、重装歩兵、輜重部隊、雑役部隊と軍団が長い列を作り中央平原を進んでいた。
三日前、皇帝国の軍勢と戦い、勝利した。
皇帝国の陣形に弱点を見出したガイアケロンは自らが先頭となり騎馬攻撃を仕掛け、敵を瓦解させたのである。
決戦を前にした小さい戦いであるが、旗下の兵どもは勇敢な主の姿を見て意気軒昂。
ガイアケロン軍団は士気に満ちていた。
彼ら兵士たちには高額の報酬があるわけではない。
だからとって許可なく略奪などしようものなら厳罰がある。
それでも喜んで協力するのはガイアケロン王子とハーディア王女に従って戦いたいから……というのが大方の理由であった。
そうせざるを得ない魅力が二人の王族には確かにある。
現在、ガイアケロンは二十一歳。
長身で均整の取れた肉体に贅肉は一片もついていなかった。
まさに堂々たる体躯。
そして美男子と呼ばれるに相応しかった。
精悍な顔貌は、雄々しさと美しさの混ざった独特な気配で纏われている。
涼しげに通った鼻筋、常に余裕を感じさせる瞳は僅かに青みを帯びた鈍色。
髪は艶のある灰色……あるいは日光の当たり方によっては藍色も帯びた。
藍色は父親、イズファヤート王の頭髪色でもある。
肌は戦塵を駆け抜けてきただけあって、やや日焼けしていた。
その日の行軍が滞りなく終わったところでガイアケロン王子は街道から離れる。
たまには一人になりたかった。
なにしろ軍陣においては訪問者が途絶えることなく、また数万人に及ぶ配下たちの様子を見るために、巡察を怠ることは無い。
ごくたまに訪れる自由があると心が和らぐ。
といっても特別にすることなどない。
理想は涼しい緑陰で午睡を貪ることぐらいだ。
これが何よりもの贅沢だった。
ガイアケロンは王子であるが奢侈な趣味など欠片も持たない。
泉の近くの木陰、ガイアケロンは横になる。
微睡みの中で思い出すのは、幼かったころの記憶……。
母親の手に引かれて、どこかに連れていかれる。
着いた先は、それまで住んでいた所とは別世界だった。
床も壁も白い大理石。
信じられないほど広く清潔な寝具。
甘い砂糖菓子の味、こんなものがあるのかと感動した。
その場こそが、王道国の中心。
イズファヤート王の宮殿だった。
あの日……。
ガイアケロンは広い庭に一人でいた。
突然、目の前に菓子の乗った手が差し出された。
相手は知らない女性。
美しい化粧をした女官だったと思う。
笑っていた。
よくできた笑顔だった。
どこにも汚点のない整った笑顔。
そして、どこか媚びた表情。
ガイアケロンも微笑み返す。
お菓子をくれたんだと思った。
菓子を手にした瞬間、誰かが倒れてきた。
はずみで女官の手から菓子が零れ落ちた。
土の上に転がり落ちた。
柔らかい菓子は衝撃で崩れた。
「申し訳ございませぬ。申し訳ございませぬ……」
誰かが平伏して謝っていた。
顔を地面に擦り付けていた。
さっきまで穏やかな笑みを浮かべていた女官が激怒している。
怒鳴り、罵声を浴びせ、足蹴にした。
その顔は恐ろしかった。
美しさなどどこにも無かった。
醜い、欲や恐怖に塗れたものであるのが、幼いガイアケロンには本能的に理解できた。
女官は地面に落ちた菓子を拾い上げると、慌てて去っていった。
「大丈夫。痛くない?」
ガイアケロンは地面に顔を擦り付けている人物に声をかける。
そいつは顔を上げた。
不思議な顔。
犬に似ていた。
半分人間で半分犬みたいな面だった。
妙な愛嬌がある。
歳をとっているのか爺に見えた。
「王子様。いいですか。ここは毒蛇の巣穴です。生きたければ工夫しなければなりません」
ガイアケロンは首を捻る。
どういう意味だろうか。
「私の事は犬爺と呼んでくだされ。これから蛇の毒をお見せしましょう」
犬爺は地面に落ちて崩れた菓子の、残されたほんの僅かの欠片を拾い上げた。
それからガイアケロンの母親が飼っている極彩色の羽根の小鳥に、その欠片を与えた。
小鳥は菓子の滓を啄む。
「鳥には悪いがこれも王子のため。この菓子には毒が入っておりまする。すぐには死にません。段々と腹が痛くなって、三日後には血の大便が止まらなくなりまする。七日後には体中が黒くなって腐りまする。どうかお気を付けくだされ……」
ガイアケロンが翌朝、籠の中の小鳥を見ると小刻みに震えていた。
次の日には、血の便を噴き出してた。
三日目には美しい羽根が、落ち葉のように抜け落ちてきた。
四日目には毛が粗方、虚しく籠の底に落ちていて、変色した肌が露出していた。
五日目に、体が黒くなって死んでいた。
ガイアケロンは理解した。
犬爺は言う。
「わしには獣人の血が混ざっております。わしはただの奴隷で雑役をしていますが、臭いで毒が嗅ぎ分けられまする。わしは離れたところから毒が入っていた時に合図をしますから、そうしたらどんなに美味そうな料理でも決して口に入れないでくだされ。どれほど甘い果実の汁でも一滴たりとも飲まないでくだされ」
ガイアケロンは問う。
その幼い目線には既に王者の気高さと高潔な魂が入り混じっていた。
「わたしは殺されたくない。どうしたら良いのだろうか」
「ならば犬のように振る舞ってくだされ。あたり構わず小便をしなされ。食事では匙を使わずに口と手で食べなされ。涎も垂れるがままにされるがよい。周りに愚かな、とるに足らない者と思わせるのです。そして、機会を待つのです」
ガイアケロンは忠告を、そのまま実行した。
やがて噂が立った。
ガイアケロン王子は、頭の腐る薬を食らわされた。
あるいは、もともと白痴だった。
いや、そうではなく身分の低い母親が原因だ。
何しろ王が戯れに手を付けた踊り子にすぎぬ……。
そういう話しが王宮を駆け巡った。
大理石の廊下で小便を放つガイアケロンを見た大貴族や王族は、嘲笑か、憐れみをくれた。
だが、犬のように四つん這いで遊ぶガイアケロンの視線は冷え切っていた。
鈍色の瞳の底で強い意志の光が宿っていることに、母親以外は誰も気が付かなかった。
成長は早かった。
幼さが抜け、少年の頃には誰に教えられることもなく魔力による身体強化が出来ていた。
ガイアケロンの体内に潜む力は猛り狂っていた。
それでいて犬として過ごす日々……。
やがて毒を盛ろうという者もいなくなった。
犬爺は気が付くと庭の隅で掃除をしている。
見つめていると、犬に似た顔を笑顔にした。
変な愛嬌があって、ガイアケロンはその時ばかりは本心から笑った。
ある日、妹が現れた。
名前はハーディア。
六歳だった。
当時は第四王女だった。
ハーディアの実母は病死したとされていた。
後から分かったことだが、実際には殺されていた。
王宮の陰惨極まる権力争いの結果だった。
母を失ったハーディアをガイアケロンの母親が、王に頼み込んで引き取った。
腹違いの妹。
豪奢な赤みを帯びた金髪が波打っていた。
幼い丸みを帯びた頬。
瞳は澄んだ琥珀色。
惨忍な敵に対してはまだ脆弱な、穢れのない魂がそこにあった。
ガイアケロンは妹を守り抜こうと決意した。
ハーディアもまた、生まれながら強大な魔力を持っていた。
遡れば千年もの血筋を誇る王族は魔力を欲するがゆえに、より良い血統を求めて娶る習わしがある。
そうした累代に及ぶ、長い積み重ねの極りがハーディアだった。
ハーディアの母は、高名な巫女だったという。
何を想い王の側室になり、何を想ってハーディアを産んだのか。
もう本人が死んでいるから、何の話しも聞き出せはしなかった……。
ガイアケロンが十一歳。ハーディアが十歳の時であった。
場所は別荘だった。
暗殺者が現れた。
ガイアケロンとハーディアのいた部屋に無造作に入ってきた。
三人の男。
慣れた気配。
手練れだった。
二人は剣士。一人は魔術師。
手には抜き身の白刃。
近づいてくる。
目には冷たい殺気だけがあった。
ガイアケロンは一目で、殺す気だと悟った。
殺される前に殺せ。
これだけだ。
ガイアケロンは体内の魔力を奮わせ、長机を持ち上げると投げつけた。
大人でも四人がかりで持ち上げるのがやっとという大きさである。
暗殺者は意表を突かれた。
慌てて避けたが、隙が生まれる。
ガイアケロンは部屋にあった自分の体と同等の銅像を片手で持ち上げ、それを軽々と棍棒のように振るう。
暗殺者の持つ剣が、脆くも拉げた。
そのまま敵の体に銅像を叩きつける。
いとも簡単に背骨が折れて、壊れた人形のような可笑しな格好で床に崩れた。
残った二人が驚愕する。
魔術師は「氷槍」を唱える。
腕ほどの氷柱が空中に一本、生成される。
ハーディアも同じ魔法を唱えた。
空中で二つの氷塊が激しく衝突したが、ハーディアの結晶させた氷の槍は全く規模が異なっていた。
男の体ほどもある大きさだった。
魔術師の氷槍は砕け散り、ハーディアの射出した氷の塊に上半身が潰された。
壁や床、天井にまで飛び散る大量の血と肉片。
最後の暗殺者が狂乱しながら、上段斬りをガイアケロンの顔面に目がけて仕掛けた。
斬撃の前に出された銅像に剣が食い込む。
ガイアケロンが腕を捻って銅像を振ると、刃が簡単に折れた。
折れた剣を持つ男が、信じられないという風に後ずさった。
ガイアケロンは何の躊躇いもなく、毬でも投げるように銅像を暗殺者に投擲した。
優美な女性を象った銅の塊、男の腹部に突き刺さった。
ガイアケロンが死にかけの男の耳を掴み、引っ張ると、かなり伸びたのちに、血を流しながら千切れた。
今度は髪の毛を掴んで纏めて引き千切る。
頭の皮が付いてきた。
金を貰っただけで知らない男から頼まれた、顔は面布で隠れていたから分からないとか、娘の方は必ず殺せと命令されたとか、そういうことを喋っていた。
助けてくれと呟きつつ、血を吐いて暗殺者は死んだ。
部屋の中は血とハラワタに溢れていた。
両手は血塗れ。
ガイアケロンとハーディアは、いつも共に生活した。
決して二人は別々に行動しなかった。
寝室も同じ。
食事も同じ。
出かけるのも、たまの行事も隣同士……。
奴隷の犬爺がいつも二人を見ていてくれた。
二人で一人。
ハーディアの琥珀のような瞳は、相変わらず犬のように振る舞う兄を微笑みで見つめていた。
白痴のふりをするガイアケロンは児戯としか思えぬ仕草で、妹にじゃれ付いていた。
王宮は毒蛇の巣だった。
何人かの兄弟たちは病だと言われ死んでいったが、実際は毒で殺されていた。
いつしかハーディアは第二王女。
ガイアケロンは第三王子になっていた。
やがてイズファヤート王はガイアケロンとハーディアを戦線に派遣した。
お飾りとして……。
士気を高める程度の効果しか期待していなかったはずだ。
年若い王族が最前線で泥に塗れる姿を臣民や将兵が見れば、辛い戦闘の慰めになると……そういう理由だったのだろう。
だが、ガイアケロンは王宮という毒蛇の住処から離れ、白痴のふりを止めた。
そうするとガイアケロンには持って生まれた誇り高い王者の気品が漂っていた。
ハーディアとガイアケロンは初陣から寡兵を手足のように操り、あるいは危険を厭わず自ら剣戟を交わして皇帝国の部隊を次々に破った。
以来、二人は皇帝国にとって悪鬼とも怨敵とも呼ばれるようになる……。
ガイアケロンは我が名を呼ぶ声に、身を起こす。
いつの間にかに時間が過ぎていたようだ。
妹ハーディアの姿が赤い夕焼けに照らし出されていた。
豪奢な金髪が落日の空気の中に熔け出しそうだ。
肢体は伸びやかに成長している。
女らしい肉体の内側で生命力が溢れるほど漲っていた。
相貌は、優しさだけでなく戦を乗り越える意志の強さを感じさせた。
幾多の凄惨な戦いを経ても琥珀色の瞳に、穢れの暗さは糸屑ほどもなかった。
ハーディアはその面影にいまだ少女の気配を残す、世に稀なほどの美姫でもあった。
ガイアケロンとハーディアの影が赤い斜陽に伸び、やがて重なる。
二人に敵は多かった。
相手は皇帝国の皇族や猛者どもだけではない。
血を分けた兄弟姉妹たち。
第一王子、イエルリング。
第二王子、リキメル。
第一王女、ランバニア。
その他、いまだ現れぬ血族たち……。
皆、王の血を分けた仲でありながら次代王位を巡って残酷な暗殺や陰謀を繰り返していた。
さらには、それぞれを推す後援者たちが、より一層激しく陰湿に権力闘争を繰り返す。
しかも、王の子供は公になっていないだけで、他にもまだまだいるのだと噂されている。
絡み合う毒蛇のような一族であった……。
勢力で言えばガイアケロンとハーディアは、最も寡少であった。
第一王子のイエルリングが総兵力八万の将兵を擁しているのに対して、ガイアケロンとハーディアは現状では僅かに二万を超える程度。
しかし、仲間は確実に増えていた。
苦境の最中にこそ、より輝くように光るガイアケロンの強靭さと磊落な人格。
ハーディアの美しさ、合間に見せる凛とした将器が人を引き寄せる。
損得を無視して魅かれた者が、旗下に集まりつつあった。
「お兄様。偵察騎兵が戻りました。やはり皇帝国の軍勢はさらに陣地を築いて待ち構えています」
「もうすぐ決戦だ。普段は互いに警戒して協力しない我ら王族兄弟たちが、珍しくも手を携えて皇帝国を陥れる戦略を練りに練っている」
「わざわざ焦って攻撃することはありませんわね。間者の報告によると、皇帝国の執軍官はコンラート皇子だそうです。なんでも王道国を滅ぼすと息巻いているとか」
「なるほど。ウェルス皇帝の長男が来るか。噂通りの愚か者なのかは分からないが、精鋭数万を引き連れてくるに違いない。敵に不足はないな」
「それと……今日、またディド・ズマめの使者が来ました。ぜひとも私たちに力を貸したいという申し出です。所有する傭兵を出来る限り派遣して、合力すると。三万人は用意できると豪語していますわ」
戦争をするにあたって傭兵の活用は常識に近い。
だが、ガイアケロンは頑なに傭兵を利用しないのだった。
ひとつは雇う際に必要な金の問題、もうひとつは隙あらば略奪や人さらいをする傭兵たちの戦い方にあった。
糧秣を必要なぶんだけ敵地から奪うというのなら、まだ分かるにしても、街を丸ごと破壊して金品を奪い尽くし、住人は奴隷とするやり方を認めるつもりはガイアケロンになかった。
だが、傭兵たちの多くはそうした非道を好んでする。
むしろ略奪こそ生き甲斐とすら思っていることだろう。
ディド・ズマという男が、数万人にも及ぶ夥しい傭兵たちを束ねている。
戦場を渡り歩く荒くれども統括できるだけあって、並大抵ではない。
彼こそはこの世の悪徳、あらゆる悪業の全てを体現したような人物だった。
いっそ人間とも思えず、魔獣だと考えた方がまだ分かりやすい。
そういう人物の力を利用してまで王道国は戦争に力を注いでいた。
ガイアケロンは妹ハーディアへ語り掛ける。
「もうすぐ戦局は大きく変わる。いや、必ず変えて突破しなければならない。負けるわけにはいかないのは、我ら王族に共通すること。
敗北すれば父王は、我々を許しはしない」
許さない……。
これは間違いなかった。
ハーディアは頷く。
父親であり王道国の王であるイズファヤートの残忍さ、冷酷さは誰よりも理解している。
運命を切り開く戦いは、激しさを増すだけであった。
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