迫る戦火
慶充は、突如入り込んできた男の様子に面食らっていた。甲冑を身に着けた足軽という身なりの男。急いできたためか、甲冑や具足が土で汚れている。
「ご注進です!」
長俊の前に片膝をつくと、男は叫んだ。
「何だ?」
長俊は目が見えないため、男を真正面に見ることができていない。真正面にいる男に対し、斜め右を見つめていて、話を聞いているのか傍目にはわかりづらい様だった。
「民草が蜂起しました! 多数の農民が武装して一乗谷に押しかけています!」
慶充と篤英は出す言葉もなかった。ただ男と長俊の言葉に耳を傾ける。
「して数は?」
長俊は低いが震えた声を出した。人手が足りず、兵力が整っていない状況での民衆の蜂起。相手の数によっては、自身の身が危ない。
男は、唇を震わせた。
「それが、三万ほど」
その言葉に、慶充は凍りついた。かつての一乗谷の人口を超えるくらいの数だ。
慶充の懸念以上の数だった。織田信長に対抗するため多大な軍費を浪費した朝倉義景への不満や、あっけなく投降した家臣たちへの不信、変わらぬ重税への怒り……それらが三万の農民の蜂起という形になって表れた。
「多すぎるな」
篤英がつぶやいている。
今の一乗谷に、防ぎきるだけの人員はいない。
「ひるむな」
長俊は言い聞かせた。
「三万といえども、しょせんは烏合の衆。お前たちは城戸に向かって、押し寄せる者どもを防げ。慶充、長きにわたる不在は、この防戦をもって不問にする」
「かしこましました」
声だけ忠義を装っているものの、別のことを考えているから、油断すると他意が見抜かれてしまいそうだ。
峰継は、もう一乗谷まで追いかけてきたのだろうか。
もし一乗谷で戦が起こるのならば、佐奈井や香菜実の身も危うくなる。
あの二人を、戦乱に巻き込むわけにはいかない。
慶充と篤英は館を出た。
慶充は暴徒と化した民が押し寄せているという、谷の奥の峠のほうに目をやった。谷は兵たちが慌ただしく走りまわっているが、それだけだ。今は静まり返っている。
まだ、暴徒が谷に到達するまで時間があるということか。
いや、よく見れば、山の中に動きまわる人影が見えた。もう目前まで迫っている。彼らの喧噪も風に乗ってかすかに聞こえてきた。
「白湯、持ってきたよ。寒いからね」
香菜実は湯呑を持って、佐奈井のそばに戻ってきた。
「ありがとう」
佐奈井は白湯の入った湯呑を見て、目を光らせた。こんな状況でも笑ってみせるのは、いつものように自分を励まそうとしているからだろうか。
「口、開けて」
両手を縛られている佐奈井は、自分で白湯を飲むことはできない。香菜実は佐奈井の口元に湯呑を近づけた。佐奈井が口を開けたところで、ゆっくりと飲ませていく。
飲み終えると、佐奈井はほっとしたように息を吐いた。
「温かい。喉が渇いていたから助かるよ」
「またいるものがあったら言って。何とかしてみる」
香菜実はそのまま、佐奈井のそばにいた。篤英の取り巻きが目を光らせている以上、迂闊なことはできない。白湯を持ってきたのも、香菜実が精いっぱい言い含めて、やっとのことだった。それでも、佐奈井にしてあげられることがあれば、してあげたい。
父峰継から引き離された上に、篤英の脅迫にさらされている。佐奈井自身は口に出さないけど、つらい思いをしているのだ。
せめて父親の暴挙の詫びのつもりだった。
「香菜実は? 具合悪くなったりしていない?」
佐奈井が尋ねてくる。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「夏のことがあるから。大野郡に逃げている間、つらそうにしていただろう」
朝倉義景が織田信長に敗れ、戦火から逃れるために自分たちも一乗谷から逃げている間のことだ。香菜実は具合を悪くして、歩けなくなった。途中からは佐奈井に背負われもした――。
佐奈井は、誰が心配されるべきなのかわかっていない。香菜実は腹を立てた。
「……馬鹿!」
佐奈井の胸を叩きつける。佐奈井は咳き込んだ。
「お、おいっ、何だよ急に」
――つらいのは佐奈井なのに。
「おい、むやみにしゃべるな」
篤英の取り巻きが冷たく言い放った。佐奈井を刺すような視線で睨みつけている。
香菜実と佐奈井は、互いに目を合わせた。今はおとなしくしたほうがいい、と無言で打ち合わせる。
その時、家の外が慌ただしくなった。戸が勢いよく開かれる。甲冑を身にまとった男が二人いた。
あれは、長俊の家来だ。
「今すぐ戦支度をしろ」
その家来は、開口一番にそう言い放った。
「民が暴動を起こして、この谷に押し寄せている。三万を超すそうだ」
三万、という数字に、篤英の取り巻きたちも驚いたようだ。
「すぐ城へ向かう」
取り巻きの一人が告げた。
「この少年は?」
もう一人が佐奈井を見下ろす。
「非常事態だ。構っていられるか。篤英様も応戦の支度をしているはずだ」
それで、取り巻き二人は家の外に出ていった。家の中が静まり返る。
――好機だ。
香菜実はとっさに家の奥に向かった。棚に置かれた短刀を持ち上げて、そして佐奈井の元に戻ってくる。
鞘から短刀を抜くと、佐奈井の縄を切りにかかった。
「何をしているんだよ」
「きっと峰継さんは、すぐ近くまで来ているはず。この隙に逃げて」
「父さんが?」
香菜実は、縄を切り終えた。解放されると、すぐに立ち上がる。
「香菜実はどうするんだ?」
「私も一緒に峰継さんを探す」
佐奈井の手首に、赤く縄に縛られていた跡がある。肌がささくれ、かすかに血もにじんでいた。腫れたりはしないだろうか。
香菜実は戸を開け、近くに人がいないのを確かめると、背後の佐奈井に目配せした。二人は外に飛び出していく。
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