亮の迷い
父
そうでなくとも、亮の足は今にも止まりそうだった。
――この先に行きたくない。
故郷の村を発った時から、頭の中で何度もわめいている。十五歳になって、父と同じく足軽として戦場に出るようになった。いつ敵と向き合ってもおかしくないし、そうなった場合、相手が誰であれ殺さなければならない。怯えや迷いを抱いている場合ではない、というのに……
北近江で浅井長政と対峙した時は、駿岳に心の中の怯えを見抜かれたのだろう。撤退していく朝倉義景の追撃に、父は亮の同行を許さなかった。
――お前はそこにいろ。敵は兵を動かせない。大きな戦闘にはならないはずだ。
そう言っていた。
実際、父が越前国に発ってからも、
駿岳は十日前後で北近江に戻ってきた。
父が無傷で戻ったことに、亮はひとまずほっとした。しかし父の一言で、亮の背筋は凍った。
――一乗谷に火を放った。当分は人も住めないだろう。
変だった。一乗谷もまた、戦に関係ないはずの者たちが大勢暮らしている。朝倉義景が一乗谷に逃げ込んで、それを追跡しなければならなかったにせよ、放火までする必要があったのか。
まさか父は、兵でもない民にまで手を……?
父にそんな疑惑すら湧いてきて、亮には、なかなか振り切れなかった。
それでは、まるで
三年前に垂井で故郷の村に火を放った、朝倉義景の兵たちと大差ないではないか。
もちろん、一乗谷への放火は、命令されてしたことなのだろう。
でも、垂井の家の前で母が殺されたことを踏まえて、そんな行動をしたのか。
亮はそんな疑問を、父にぶつけることもできず、ただ胸の内に抱いていた。
……と、
前を歩いていた駿岳が、足を止めた。亮は父の隣まで追いつく。
亮の背丈は、すでに父と並んでいる。三年前は父の顔を見上げていたのだが、今はそうする必要はない。
「……まだ迷っているのか」
小さな声でささやいてくる。
「迷えるうちが幸いだ。戦場、それも激戦地となれば、そのような時間もなくなる」
周囲の味方に聞かれないように、こんな風に声を絞るのだろう。聞かれれば、亮は士気のない臆病者とみなされかねない。
兵たちの中には、そうした兵が周囲に悪影響を及ぼすのを恐れる者もいる。そして戦場の混乱に紛れて、殺してしまうこともある、らしい。父駿岳に聞いた話だが。
「この先、敵味方の区別だけはつけるようにしろ。目の前の輩が敵と判断したなら、迷うな」
「父上は、迷わないのか」
亮もまた、小声で尋ねる。この一言に、ずっとつきまとっている父への疑念すべてを込めたつもりだ。
隣の駿岳は、無表情のままだった。
「今さら迷う暇もないよ」
「越前国でも、そう割りきっていたのか? 一乗谷に火を放ったってことは、やっぱり抵抗を受けて……」
「もう過去の戦だ。持ち出してどうする」
逆に父にたしなめられて、亮は黙り込んだ。
やはり、答えてはくれないのか。
「一乗谷の件は、朝倉の残党に抵抗を受けたからだ。それに焼き払っておけば、越前の朝倉による支配は終わったと知らしめることにもなる」
「そこに暮らしていた人たちは?」
「避難していたらしい。あまり見かけなかった。一乗谷を出た後は、順調すぎるほどだったよ。民も変な抵抗をしてくることもなかった」
亮は、ほっとした。父の手が、血でさらに穢れたというわけではない、ということか。
「じゃあ……」
「だがあの地は、平穏なままではない。近いうちに混乱に陥る」
「どういうことだ?」
「何が起こってもおかしくない。越前には、いずれお前も赴くことになるだろう。そうなった場合、さっきの言葉を思い出せ」
無理にでも納得するしかなかった。今は些細な事情で、いつどこで戦が起こったり、おとなしかった民が蜂起したりしてもおかしくないのだから。
「
駿岳が発した言葉に、亮はえっ、と洩らした。
「忘れていない。三年前、敵なのに俺を助けてくれた」
だが母は死んだ。慶充という一瞬しか会ったことのない少年は、今でも、母の死に顔と一緒に思い出される。
「彼と会った」
何食わぬ顔のまま、駿岳は告げた。
「本当か」
あの少年は、まだ生きている。朝倉の軍勢に属していたから、ひょっとしたらと思っていたけれど、父からその言葉を聞いて、亮はほっとした。
「立派な青年になっていた。妹や、知り合いらしい少年と一緒に一乗谷から逃げていた。もちろん、私たちのことも覚えている」
たった一瞬のことなのに、相手も覚えているなんて。亮に、ほのかな期待が生じてきた。もしどこかで会えたら、感謝していることを伝えたい。
三年前に敵が放った矢が飛んできて、亮は死ぬかと思った。だがあの時、慶充が刀で矢を払い落としてくれたおかげで、自分はこうして生きている。でもあの時は、慶充とは一言もかわせないまま別れてしまった。亮には、それが何となくでも悔やまれる。
「その慶充も、殺さなければならなくなる」
亮の期待を裏切るように、駿岳はそう言った。
「どうして」
恩人に対する不穏な言葉に、亮は食らいついた。
「まだ予測にすぎないがな。越前国にもしもの事態が起これば、ということだ」
父は、挑発しているのか。戦場に出るようになって、戸惑いばかり抱える亮はたしなめるために。
だがその割には、駿岳の言葉に確信めいたものが潜んでいた。軽口などではない。越前国に直接赴いたからこそ予測できるほどの、何かがあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます