香菜実と理世
香菜実は、家の先で着物を洗っていた。すぐそばには理世も一緒だ。
「佐奈井め、またこんなに汚して」
着物を水に浸して汚れを落としながら、理世は悪態をついた。佐奈井が昨日着ていた物は、至るところが土で汚れていた。洗い落とすのに苦戦しているようで、理世は手元が乱暴になっている。
「いろいろやんちゃする子だから」
香菜実はなだめるように言う。昨日、佐奈井は兄と一緒にどこかに行って、帰った時には土まみれになっていた。また、刀の稽古をつけてもらっているらしい。一乗谷の滝でそうしていたように。
佐奈井の父峰継も、洗濯で大変な思いをしただろう。汚しすぎて、怒られることはなかったのだろうか。
「いくら遊び盛りだからって、何をしているんだか」
理世はさらに悪口を言う。
佐奈井は、今もこっそりと慶充に刀の稽古をつけられているところだろう。また土まみれになって戻ってくる。
怒られませんように、と香菜実は祈っていた。たぶん、無理だけど。
「……でも、父親思いで優しいのはいいとこね」
怒っていた理世が、急にそんなことを言ってきた。
「うん」
大野郡に至る道中で動けなくなった自分を、佐奈井がおぶってくれた。相手は異性で、気恥ずかしさがないわけではなかったが、おかげで移動が遅くならずに済んだ。
それに、嬉しかった。
慶充以外の家の者の生死すらわからず、孤独と不安を感じていた。兄を支えるのは自分だけで、足手まといになってはいけないという焦りを抱えていたから、佐奈井の背が頼もしかった。見捨てたりしない、と言ってくれているみたいで。
「佐奈井って、いつもああなの? 活発なのも含めて」
「あれで普段どおり。ちょっと神経質だったけど、落ち着いてきたかな」
再び剣術の稽古を始めたのも、その表れかもしれない。
家の者との再会の見込みはなくなってしまったけれど、佐奈井や兄が元気にしてくれているのならば、何か充分すぎる気がした。
「香菜実ってさ、佐奈井のこと好き?」
理世が香菜実の耳元に顔を寄せて、こっそりと尋ねてくる。香菜実は思わず、洗いかけの着物を桶の中に落としてしまった。頬が熱くなる。
「な、何? いきなり」
「ごめんごめん、急に聞いて」
理世はいたずらっぽく笑う。この人はいつ冗談を飛ばすのか、いまいちわかりづらい。
「でも見ていたら、佐奈井と仲がいいから。本当はこんな言い方はしたくないんだけど、身分差だってあるのに」
「今さらそんなものを気にしていられないよ」
「あの子、慶充とも仲がいいみたいだからね。香菜実も引きずられたのかな?」
佐奈井と一緒の時の慶充は、よく話し、そしてよく笑う。佐奈井相手に木刀を振るう動きも、どこか軽やかだった。
「……かもしれない」
理世はいたずらっぽいが、他人に言いふらしたりするような嫌味までは感じない。香菜実はほほえみながら、素直に認めた。
「いいかもね、あの子。もうちょっと身綺麗にしろって言いたいけど」
「だよね」
理世のささやかな会話に受け答えしながら、香菜実は家の者のことを思う。
香菜実にとって、家の者、父や慶充を除いた兄と一緒にいる時は、ただ肩身が狭かった。
三年前、父や慶充を含めた兄たちが美濃国の垂井まで戦に発ち、兄の一人が討ち死にして戻ってから、家の中は険悪な雰囲気にあふれるようになった。まず始まったのは、父による慶充への暴力だった。
――なぜお前だけが生きているのか。
父は慶充を罵っては、胸倉を掴み、殴りつける。
香菜実には、とても止められるものではなかった。ただ見守るしかなく、慶充に痣や傷ができたのならば、後でこっそりと手当てするだけだった。
垂井に攻め入った際、兄の一人が殺された経緯は、慶充によって知らされていた。
父たちは、慶充が余計な行動をし、それに対処している間に敵に殺されたと話している。けれど慶充の話を聞くと、ずれているのではないかと思う。
慶充はただ、戦地の村人を守ろうとしただけらしい。死んだ兄は、慶充が守ろうとした親子をしつこく手にかけようとして、結果として現地の者――あろうことか駿岳らしい――に殺された。
父や兄たちの慶充への乱暴は、収まるところを知らなかった。暴力だけでなく、朝倉義景が一乗谷の外に軍を出す際、慶充だけ同行させなくなった。香菜実と一緒に炊事や洗濯ばかりを命じるようになり、父はその出来がよくないとわめいては、飯の入った木椀を慶充に投げつけたこともある。慶充の体に至るところにある痣は、刀の稽古のためだけではない。
香菜実にとって、慶充が受ける仕打ちはとても納得できなかった。慶充は弱い者を助けようとしただけだ。その見返りでなぜ、乱暴され、屈辱的な仕打ちを受けなければならない?
しかし香菜実は、それを誰かに打ち明けることはできなかった。相談できる母は亡くなっていたし、何よりも慶充が、家の中でのことは黙っているように言ってきたからだ。
やりきれない気持ちを持て余していた時に出会ったのが、佐奈井だった。
佐奈井は出会った当初、身分差を気にしている様子だった。だがこちらが慶充と佐奈井の関係を誰にも話さず、むしろ隠していることを知ると、すぐに仲良くなった。香菜実も香菜実で、しきたりや他の家臣とのしがらみにとらわれることもなく、のびのびとすごしている佐奈井がうらやましくもあった。
「……香菜実、手が止まっているよ。どうしたの?」
理世に声をかけられて、香菜実は我に返った。
「ごめんなさい、私」
いいのいいの、と理世は濡れた手を横に振った。
「……誰かを本気で心配する目、しているね」
「私って、心配しかできないから。ここに逃げてくる間も、足手まといになっていたし」
香菜実は皮肉に笑ってみせた。
「だめな風に考えない。香菜実もよくやっているでしょう」
理世がなだめるように言う。
「どうして?」
「傷ついた兄の手当てをしたし」
「それは、別に特別なことじゃない」
家族が傷ついたら、誰だってああする。
「こうして頑張っているし」
理世はまた、汚れがひどいと非難した佐奈井の着物を桶の中で強く擦る。
「ただの洗い物でしょう」
香菜実はつい、思ったことをそのまま口に出していた。理世は手を止める。
言ってはいけないことを言ったかな、と香菜実も動きを止めた。
「香菜実、ちょっと言っていいい?」
小さな声で、理世はささやいてくる。よく聞き取れなくて、香菜実がきょとんとしていると、
「愚痴は百害あって一利なし!」
理世が突然に大きな声を出した。通りを歩いている人たちが驚いて、理世と香菜実に目を向ける。
「ちょっと、声が大きいって」
香菜実はたしなめるが、理世は気にしていない様子だった。言ってやったとばかりに、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「少しは堂々としなさいよ」
理世は言って、香菜実のすぐ隣まで寄った。
「慶充は妹思いだし、佐奈井も、あれはあんたに気があるよ」
また、香菜実の頬が熱くなった。
「だったら、気楽にしたらいい。あんまり難しいこと考えたり、役に立とうと焦ったりせずに。ちょっとでも笑ったら、それだけであの二人、元気出すはずだよ」
香菜実はうなずいた。
一乗谷で慶充や佐奈井と三人きりでいた時を思い出す。
佐奈井がおどけて、面白くて香菜実が笑みをこぼすと、その後、二人の木刀の動きが速くなった。香菜実も、家の中では寡黙にならざるを得ない兄が、元気を出したみたいで、見ていてほっとした。
――理世の言うとおりだ。
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