大野の盆地

 移動しているうちに、大野郡の盆地に出た。すっかりと日が上がっていて、蝉の音がうるさい。

 一乗谷と違って、ここは広大だ。高い山々が、平原のはるか先を囲うようにそびえている。大野郡に来るのは初めてである佐奈井は、一乗谷と違う風景に呆けた目をしている。

「ここが大野郡?」

 佐奈井さない峰継みねつぐに尋ねる。

「ああ。来るのは久しぶりだがな」

 日没までにたどり着けてよかった、と峰継は思う。夜の移動は危険だ。

「後の案内は私に任せて」

 園枝そのえが先頭に歩いていく。

 出歩く者は多くいた。ほとんどが、大きな荷を背負っている。一乗谷から逃れてきた者が、宿を探しているのだ。中には、野宿する者もいるだろう。

 六人は歩いて、町にさしかかった。園枝はそのまま通りを進み、そして一軒の家の前で止まった。待っていて、と他の者たちに告げて、そして家に近づいていき、戸を叩く。

頼孝よりたか、いるんでしょう。園枝だ」

 戸はすぐに開いた。中から峰継と同じくらいの年の男が出てくる。

「園枝、久しぶりだな」

 男は静かに応じる。

「ここにいるということは、やはり」

「ああ。朝倉義景あさくらよしかげが一乗谷から逃げたと聞いてね。ここまで逃げてきたということだよ」

「危なくなかったのか」

 だが頼孝と呼ばれた男は、園枝の背後にいる峰継たちに目をやった。

「この人たちが護衛を買って出てくれて。中に通してやってくれない?」

 頼孝は、慶充よしみつと目を合わせた。不審な目で、彼を観察している。

「入ってくれ」

 そう言って、頼孝は中に戻っていく。園枝や理世も後に続いた。

 佐奈井と香菜実かなみは、足を止めたままだ。頼孝という男に、どうも穏やかでないものを感じたらしい。

「入るんだ。二人とも」

 峰継は声をかけた。

「ずっと移動して、疲れただろう。今は遠慮をしているほどの余裕はない」

 佐奈井はうなずいた。

「行こう」

 香菜実の手を取って、中へと連れていく。香菜実は戸惑いながらも、頼孝の家へと足を進めていった。


 中も広いな、と佐奈井は最初に思った。外から見て思ったけれど、頼孝という男の家は、一人で暮らしているには余りある広さだ。これだと、園枝や理世だけでなく、自分たちまでいても手狭ではない。

 だが、頼孝という男に穏やかならないものを感じた。中に通され、囲炉裏のそばに座らされた佐奈井は、落ち着けない自分を必死でなだめていた。頼孝は、どこか忌み嫌った目をしている。慶充や香菜実に視線をやる時、かすかに眉間に皺を寄せている。

 単純によそ者が嫌ならば、自分や峰継にも同じような視線を向けてもいいはずなのだが。

「まずは、長い移動だったそうだな。小僧、体は大丈夫か?」

 こんな言葉を、頼孝は佐奈井にだけかけてきた。

「うん、まあ」

「まずはゆっくりと休んだらいい。一晩泊めるくらいならばいいだろう」

 佐奈井の隣には同い年の香菜実がいるのだが、頼孝の視線は佐奈井を向いたままだ。この男はわざとらしく、香菜実を無視していた。

 恰好からして武士の家の者とわかる二人を、頼孝は嫌悪しているらしい。園枝もそのようなことを言っていた。

「ありがとう。あの、慶充と、香菜実もいていいんだよな」

 佐奈井は尋ねる。動揺しているせいで、しどろもどろになってしまった。

「私たちの護衛を引き受けてくれた。構わないよね」

 園枝が口を挟んだ。

「まあ、構わない。床の上で寝てもらうことになるが。それで、状況はどうなっているんだ?」

「一乗谷のことならば、もう先は長くない。殿が逃げて、混乱している。兵も逃げた」

 峰継は話した。

「だろうな。昨夜その朝倉義景がこの地に姿を現したらしいが」

「殿は今どこにいる?」

 慶充の問いかけに、頼孝は彼のほうを向いた。不自然な沈黙が漂って、佐奈井は身構える。

「それは、殿の身を案じてのことか」

 頼孝は、殿という言葉にあからさまな侮蔑と嫌悪を交えた。

「見たところあんたらは、一乗谷で身分を得ているようだ。大野郡に逃れた朝倉義景を追いかけてきたのではないか」

 予測できる問いだった。そして頼孝は、答によっては香菜実も含めてこの家から追い出そうとするような雰囲気すら漂わせている。

「殿の居場所を知れば、戦に巻き込まれるのを避けられる」

 慶充は冷静だった。

「私はただ、妹や佐奈井を巻き込みたくないだけだ」

「朝倉義景のことはどう考えている?」

「もう家来であるつもりはない」

「裏切ったか」

 頼孝の侮蔑するような話し方に、佐奈井は腹を立てた。立ち上がろうとして、腕を峰継に掴まれる。今は静かにしていろ、と暗に言っている。

「そういうことだ」

 慶充は淡々と答えた。


「……山際の寺にわずかな家来を連れて潜んでいる。実際にその寺から、使者らしい者が何度も出入りしていた」

「各方面に兵を募ろうとしているらしいな」

 峰継がつぶやく。

「ああ。もし本当に集まってくるとすれば、ここから逃れることも考えねばならん」

 また移動することになるのか。佐奈井は香菜実の心配をしていた。体調を崩した彼女が、相次ぐ移動に耐えられるのだろうか。

「だがまだ動きはない。焦って逃げるよりは、休むほうが先だろう」

 頼孝は香菜実を見た。香菜実の目には疲労が浮かんだままだ。

「しばらくはこの家にいればいい。ちょうど広さもある。水を汲んでくれば、疲労に効く茶も出せる」

 佐奈井は、ほっとした。


「あと、疲れているところすまないが、水を汲みに行けるか? 人数が増えたから」

「俺が行く」

 佐奈井はとっさに声を上げていた。慶充もまた、立ち上がった。

「佐奈井が出るなら……」

「慶充はだめ。肩の傷が開くだろ」

 佐奈井はそう押しとどめる。

「なら私が」

 理世が立ち上がった。

「仕方がないな」

 慶充は不満をつぶやきながらも、再び腰を降ろした。

 佐奈井たち三人は、そのまま外に出る。

「まっさきに名乗り出たな」

 外に出るやいなや、頼孝が佐奈井に話しかけた。

「父さんや香菜実を休ませたいから」

 途中で倒れた香菜実もそうだが、峰継も心配だった。平然としているようだけど、三年前の戦で足に傷を負ってから長距離を移動したことはない。多少は足の古傷が痺れたり痛んだりしているはずだ。

「孝行な息子だな」

 まあね、とだけ返して、佐奈井は移動を続ける。

「とはいっても、水を汲む場所まではそこまで離れてはいない。水なら至るところで湧いているからな」

 言ったそばで、頼孝は道を外れた。ちょっとした茂みに入り込んでいく。

 ついていって、佐奈井は木立の中に池を見つけた。地面から湧き出ている水が、よく澄んでいる。

「ここで好きなだけ汲んだらいい」

 頼孝は水をすくって飲み始めた。佐奈井もそれに倣う。冷たかった。暑い中ではありがたい。

 佐奈井は持ってきた桶で、池の水を汲んだ。水をいっぱいにすると、そのまま来た道を引き返していく。

「帰るのが早いな」

 いまだに池の水を飲んでいた頼孝が、佐奈井に声をかける。

「待っている人がいるから」

 佐奈井はそれだけ言い、頼孝や慶充を気にすることなく足を進めていく。

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