一乗谷を逃れる

 囲炉裏のそばに、峰継みねつぐ慶充よしみつは腰を降ろす。佐奈井と香菜実は、少し離れたところからその様子を覗う。

「またこうして話ができるとはな」

 峰継がそう切り出した。

「そう言ってくれると、こちらも嬉しくなる」

 改めて向き合う慶充もまた、堂々とした笑みを浮かべていた。

「仲、いいんですね」

 香菜実かなみが峰継に話しかける。兄が気さくに峰継と話しているから、ようやく心を開いたのかもしれない。

「ああ、なかなか話ができなかったがな」

 峰継は香菜実に優しく微笑んだ。

「直に話をするのはいつぶりだか」

「そうだな。で、話を始めようか。単刀直入に聞く。……お前は主君を裏切るのか」


 裏切る、という父の言葉に、佐奈井さないは背に冷たいものがよぎった。香菜実も兄への非難じみた言葉に声を失っている。

「お前にとっての主君朝倉義景あさくらよしかげは、今や滅びの危機にあるも同然だ。そばに従って、できる限りその身を守るのがお前の役目だろう」

「何てことを言うんだよ」

 つい、佐奈井は口に出していた。

「佐奈井、この人の言っていることは確かだ」

 慶充が、佐奈井をとどめた。

「家の者に留守を命じられてこの谷に留まっていたが、今は殿の危機。忠義を尽くすというなら、私はこの場にいない。殿と最後まで同行して、いざという時には身を挺するのが筋だ」

 裏切りを指摘されたのに、慶充は淡々と話している。

「どうしてそんなことを、平気で話せるの?」

 香菜実は兄を気遣った。

「もう決心したからだ。私はあえて、主君朝倉義景に背く」

 香菜実は兄の言葉に戸惑い、ただ手を握っている。佐奈井にとっても、そんな言葉が彼の口から出るのが不思議だった。一乗谷の者全員を敵にまわすような言葉ではないか。

 もし町の中で、周囲に人がたくさんいる慶充の家でこんなことを話したら、どうなるのだろう。峰継と慶充がわざわざここまで移動したのも納得できる。


 だが峰継は、慶充の宣言に対して平然としていた。

「そうだろうな。私も、慶充ならそう動くと思っていた。今の殿についていくことは、身の破滅を意味する」

「万に近い兵を率いて谷を発った殿が、最後には数人の家臣だけを連れて一乗谷に戻ってきた。もう織田の軍勢を相手にできるだけの余力はない。恐らく逃げた先では、自滅する覚悟で抵抗を続けるつもりだろう」

「必ず戦になり、敗北する。同行すれば、巻き添えになるだけだ。妹を抱えるお前なら、それは避けるべきだろう」


 戦、という父の言葉に、佐奈井は薄気味悪い恐怖を感じた。谷の者たちの慌てる様子を見たからかもしれない。今までは谷の外、ここから遠くの出来事だと思っていたのに。

「もし慶充が殿に同行するのならば、香菜実も巻き込む。それが嫌だから谷に残ったのだろう」

「あなたも同じことを考えるはずだ」

「だな。佐奈井を巻き込むとわかっていて、道連れを命じる輩に従うつもりは微塵もない」

「それにもう、殿を慕う家臣はいない。織田信長に投降した家臣は増える一方だし、朝倉景鏡あさくらかげあきら魚住景固うおずみかげかたといった家臣が、軍の疲弊を理由に兵を出さなかったのもその証左だ」

 慶充が挙げた家臣は、佐奈井も知っている。二人は朝倉義景の重臣だ。それほどの者が、裏切りを企んでいるとでもいうのだろうか。

「越前はもはや、外敵を防げるような状態ではない、ということだな」

「ちょっと待ってよ。慶充が谷に残って、これからどうするんだよ」

 佐奈井は二人の間に駆け寄った。

「ここにも織田の軍勢が押し寄せてくるんだろう。だから皆も慌てている」

 佐奈井は言いながら、噂で聞く織田信長の凶行を思い出していた。比叡山の焼き討ちと同じことが、ここでも起きるかもしれない。

「当たり前だろう。だから逃げる。峰継さんと、佐奈井も一緒に」

 いいだろう、と言いたそうに、慶充は峰継と目を合わせる。峰継はうなずいた。


「で、どこに逃げるの?」

「大野郡だ」

 大野という地名ならば、佐奈井も聞いたことがある。一乗谷から足羽川に沿って、五里ほど東へ進んだ先にある盆地だ。佐奈井はまだ行ったことはないけれど、地名だけならば知っている。

「慶充も、それでいいな」

「同意だ。恐らく殿もそこに逃げ込むつもりだろうが、仕方がない」

 朝倉義景は、逃げた先で最後の戦いに挑むつもりだ、と慶充は言った。もしそんな土地に向かったとすれば、自分たちまで戦に巻き込まれてしまうのではないか。

「怯えた顔をするな、とは言えそうにないな」

 峰継はそう、そっと佐奈井の頭に手を載せた。

「戦が起こるとわかっていて、そこへ向かうのだから。だがもう、敵は一乗谷の近くまで迫っているかもしれない。大野郡に逃げ込めば、敵に追いつかれるのが少しでも長引く」

「もう幼くないなら、多少の移動には耐えられるだろう」

 峰継は佐奈井の頭から手を放した。

「父さんは、足、大丈夫なのかよ。長い移動になるし、大野郡からだって、また逃げることになるかもしれない」

「俺の背中がある」

 慶充は言ってのけた。

「いざという時はおぶれる。元々、峰継さんがいなければ私は死んでいた。恩を返すいい機会だ」

 なら、心配はないかもしれないが。

「……父さん、無理はするなよ。古傷がうずいたら言えよ」

 佐奈井はそう念を押した。自分は、父の大きな体などおぶれない。

「もっとも、佐奈井と香菜実が、こんなことに巻き込まれるいわれはない」

 慶充が堂々とした、大きな声を出した。家の中に漂い始めた重苦しい空気を振り払おうとするように。

「戦が起こるとしても、二人を巻き込んだりはしない。そこだけは頼りにしてくれ」


 佐奈井と峰継は荷物をまとめていく。慶充と香菜実も、後で合流すると言って、いったん佐奈井の家から離れていた。

 持てるだけの衣類や食料を風呂敷に包みながら、佐奈井はただ、何も考えないようにしていた。今後自分たちがどうなるのか、想像するのは嫌だ。それでも、考えごとをしてしまって、手が遅くなる。

 いつ一乗谷に戻れるかわからないし、ひょっとしたらずっと、この家に戻れないかもしれない。そういえば、一緒に田を耕してきた他の家の者たちには、自分たちが大野郡に逃げることを伝えていない。

「他の皆には? 俺たちが行く先のこと、話さなくていいのか?」

「そんな暇があると思うか? それにすでに逃げた連中もいる。時間の無駄だ」

 峰継はただ、荷をまとめ続けている。その手が止まることはない。佐奈井もまた、黙々と荷物にいれる着物を小さくたたんだ。


 そうしているうちに用意は終わる。慶充は板の間の奥に普段置いている刀を腰に差していた。見て、佐奈井は不吉な思いにかられる。あれは父が足軽だった頃、戦場で振っていた刀だ。古いが、手入れはされていて、錆はない。

 父はその刀を持って外に出ることは、これまで一度もなかった。

 今後いつ戦うことになってもおかしくないのだ。

「出るぞ。慶充たちも待っている」

 峰継が告げた。

「うん、準備はできている」

 佐奈井もまた、荷を背負った。その重さに不安を抱きながら、家を出る。

 峰継は未練などなさそうに、そそくさと歩を進めていく。普段よりも移動が速かった。遅れそうになって、佐奈井は足を速めた。

 この場所に留まっているわけにはいかない。


 再び町にさしかかるが、谷から逃げ出したのかもしれない。さっきと比べて、通りを行き交う者たちは少なかった。家から佐奈井たちのように荷を背負って出てくる者たちを何度も見たし、すでに話し声や足音が聞こえなくなっている家も、たくさんあった。

「はぐれるなよ」

 人通りの多さに、先を行く峰継が言ってくる。

「うん、ちゃんとついてきているから」

 再び慶充の家の前にさしかかる。峰継は門をくぐり、戸を叩いた。すぐに開き、荷を背負った慶充が姿を現す。

「用意はできたか?」

「ああ。こちらもいつでも行ける」

 そしてすぐ背後にいる香菜実に、

「大丈夫か?」

 こんな状況なのに、焦りのない声で確かめる。香菜実はうなずいた。

「ただ歩くだけなら」

「よく言った」

 そして香菜実も外に出てくる。

「佐奈井も、いざという時は香菜実を頼む。だが気負いすぎるなよ。いざという時は私に頼れ」

 慶充は腰に刀と脇差を差している。

「わかっている」

 この先、何が起こるかわからないから、戦える慶充がいることはありがたかった。

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