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緩い風に梨の木の葉が揺れていた。
乾いた空気と冷たい風が気持ちよかった。
庭には、梨、バラ、その他、色々な花が植えてあった。
庭はしっかり手入れをされていて、芝生も緑に揃っている。
小さめの梨を一つもぎって服で拭く。
かじると瑞々しく甘い果実が口いっぱいに広がった。
梨をかじりながら庭を歩き、花を見ていると、気持ちもいくらかすっきりしてきた。
そうやって自分の中に芽生えたマイナスな気持ちをその時その時でうまく捨てないと、ここへ来たのが間違いだった。仕事を辞めてまで来るような場所だったのかと自分自身に後悔しそうだったのだ。
一度そう思い込んでしまうと、愛は一気に冷めていく。それを瑞香は知っていた。だからそうならないように努力しなければならなかったのだ。
もし別れて都心に戻っても今までと同じような立場で同じような仕事があるかどうか、不安なところでもあった。だから踏み出せないでいた。
そういう気持ちになった時には外の新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んで、自分の中のグレーな気分を透明なものに入れ替えることにしていた。
庭の奥には司が木で建てた小さな小屋があり、そこには南京錠が三つかけられていた。
中には庭道具しか入っていないと聞いていた。小屋の周りだけは芝も伸び放題で手入れはされていないので歩きにくい。なので今まで行ったことがなかったが、今日はなぜかそれが気になった。司の性格上、きちんと刈り揃えなければ落ち着かないはずなのに、どうしてこの小屋だけはそんな状態にしておくのか、ちょっとひっかかった。
芝や雑草を掻き分けて近づく。小屋の周りを一周してみたけれど、窓一つない。中に何があるのかわからない。
しかし、これだけ田舎でこれだけ古い家だ。庭道具しか入ってないとはいえ、大切にしている物や昔ながらの引き継がれている家宝のようなものもあるだろう。
南京錠を三つするほどだ。大切なものが入っているに違いない。
そう思えば思うほど中を見て見たくなる。
幸いにも木で作られている。木の隙間から中が見れないかと、中が見えそうなところを探してみるが、かなりしっかりした造りで隙間は無かった。
手入れがされていないのに、小屋はなぜか埃っぽくもなく、南京錠も錆びついてない。新しい。
ぐるぐる周りを回っていたけれど、入れそうもないので諦めようとしたが、家の中に入ってもやることもなく暇だ。瑞香は更に小屋の周りを周り、小屋を触ったり叩いたりしながら中に入れないか、もしくは何かの形跡がないか、探し回ることにした。
そんな時、小屋の中からことりと物の落ちる音が聞こえた。瑞香の全身にチクリとした痛みが走る。
小屋の中から声がするなんて、そんなことあるはずがない。
あるわけがないと言い聞かせ、ドアのところまで行き、耳を当てて音を聞いたが、何も聞こえない。
「誰かいるんですか?」
この中に人がいたらそれはそれで事件だ。
しかし、瑞香の笑いをかき消すことが起きた。ぼそぼそと声が聞こえたのだ。
瑞香の顔から笑みが消えた。
「嘘だ。人がいるなんてありえない。誰か、いるんですか?」
返事はない。
ドアを開けようと、南京錠のかかっているところをがちゃがちゃやってみてももちろん開くはずもない。
「……て、くだ、さい」
空耳じゃない。声が聞こえた。
「なんて言ったんですか?」
「助けて」
「……今鍵を探してきますから待っててください」
「助けて……出して」
床だかドアだかを引っ掻くわずかな音が耳に入る。
心臓が痛くなった。この中に誰かがいる。そして助けを求めている。
瑞香は反射的に体が動いていた。家に向かって走った。鍵を探さないと。鍵がどこにあるのかわからないけれど、探さなければ開けたくても開けられない。南京錠だって太くて頑丈だ。鍵がなければどうにもならなかった。
咄嗟に閃いたのは合鍵の存在だ。家の中のどこかにあるかもしれない。
以前勤めていた不動産屋では合鍵はマストだった。合鍵置き場は鍵がかけられてきちんと管理されていた。しかし、ここにそんなものがあるかどうかわからない。そもそも合鍵があったとしてどこにおいてあるのか知れないのだ。
芝と雑草を掻き分けて急いで家の中に戻り、手当たり次第に鍵を探す。引き出しという引き出しを開けても無い。
家中の棚や鍵が入っていそうなところを探してみたが、どこにも無い。
司の部屋かもしれない。
そう思った瑞香は司の書斎の前で足を止めた。
『絶対入らないでね。子供の頃のものなんかもあるし、見られたら恥ずかしいものもあるから』
と言われていた。確かにその気持ちはわかる。
だれしも見られたくないものはあるのだ。瑞香も鍵付きの箱に入れて家の押入れに押し込めてある。プライバシーを守らないとならないことはわかる。しかし、そんなことを言っている場合ではない。助けを求める人がいるのだ。
近所の子供かもしれない。遊んでいるうちに入り込んでしまってもしかしたら寝ちゃってしまったのかもしれない。そのうちに鍵をかけられて閉じ込められたのかもしれない。それくらいしか考えられなかった。あの掠れるような声では大人か子供かの区別はつかないけれど、きっとアクシデントで閉じ込められたに違いない。いつからそこにいるのか、かなり弱っているような声だったので、ゆっくりのんびり司が帰ってくるのを待っている時間はないだろう。
深呼吸。
ドアノブに手を伸ばしたところで、
「ねえ、そこで何してるの?」
司がベランダに立っていた。こちらをじっと睨みつけている。
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