13-2
開始の合図とともに、アタルは勢いよく駆け出すと、すぐさま目の前にあった障害物に取りついた。
模擬戦用のフィールドはおよそ50mプールと同じくらいの広さだが、至る所に壁や高台などの障害物が設置されている。そして、それら障害物の壁面には、過去の訓練で染みついたペイントマーカーの汚れがたくさん付着していた。きっと、数多の生徒たちがここで自分の腕を磨いてきたのだろう。
(さてと、これから分島さんと戦うわけだが、この場合、僕はどんな負け方をするのがベストだろう?)
この勝負、アタルは勝つことなど
(無抵抗で彼女に瞬殺されても、周りの連中は違和感なく結果を受け入れるだろう。だけど、果たしてレイラがそれで納得してくれるだろうか……)
アタルがレイラ陣営に属している以上、多少は彼女の役に立ちたいという思いもある。だが、それで
(分島さんには申し訳ないが、仕方ない。終始苦戦を強いられつつも、それなりに生き延びる。それで、頃合いを見計らって勝負に破れるという演出で行くか)
真剣に模擬戦に取り組む妃織に悪いと思いながらも、アタルは勝負の進め方を決めた。
そして、ただならぬ雰囲気の中、アタルは障害物の陰に隠れながら、慎重にフィールドの中心部へと向かう。その間、物音ひとつ立てぬよう息を殺し、
(ダメだ……、何も聞こえない。彼女は本当にフィールド内にいるのか?)
アタルがどれだけ注力しても、フィールド内には足音どころか、妃織の気配すら感じられなかった。不気味なほどの静けさに、アタルはぞわぞわとした胸騒ぎを覚えた。
互いの姿を認められぬまま、すでに五分が経過した。
姿見えぬ相手に、なぜだかアタルは焦りを感じ始めていた。レイラやアタルに敵意を向けていたのに、いざ戦ってみると、驚くほど希薄な存在感は気味が悪かった。
戦いもせず、そのままこう着状態に陥るかと思われた時だった。
物陰から顔を出して、アタルが周囲を警戒していると、何かが真上から降ってくるような気がした。何かを感じとったアタルが思わず後ずさると、目の前を黒い何かが
「うおっと!!」
脳天に向けて振り下ろされた、黒いゴム製のククリナイフを、間一髪でアタルは回避した。もし、今の一振りを食らっていたら、審判の唯花はきっと訓練を終了させていただろう。
だが、アタルの頭の中では勝敗よりも、あのゴムの塊を頭に叩きつけられて、果たして無事で済んだのか気が気でなかった。身の毛がよだつような想像がアタルの頭をよぎるが、今はそんなことを考えている場合じゃなかった。
「ちっ! なかなか勘が鋭いわね、それともただの偶然かしら」
とっておきの一撃を避けられ、妃織は少し驚いた様子だった。だが、すぐに態勢を立て直すと、アタルの視界から消えるように壁の裏側に回り込む。
まさか妃織が二メートル以上もある壁を、音もたてずに飛び越えてくるなど、アタルは全く想定していなかった。しかも、いきなり急所を狙ってくるあたり、彼女は情けをかけるつもりがないことがよく分かった。
アタルはすぐさま持っていた拳銃を構えなおすと、警戒心を最大限に高めて臨戦態勢に入る。
だが、不意の一撃を外した妃織は、もう自分の気配を隠すことをやめたようだった。そこかしこから彼女の強い存在感が、ビリビリとアタルの肌に伝わる。
(ここから移動したほうがいい。できれば、背後を気にする必要のない袋小路にでも行きたいところだけど……)
そう思いながら、アタルは障壁に背中をくっつけてから呼吸を整える。そして、一呼吸おいてから壁から勢いよく飛び出すと、銃を構えて通路のクリアリングを行う。
(いた――!)
アタルが通路に飛び出すと、数メートル離れた通路に妃織の髪が引っ込む様子を
妃織が待ち伏せしている可能性を考慮し、通路には近寄らないようにしつつ、反対方向の通路へとアタルは逃げ込む。その間も、背後から妃織が襲ってこないか、目を光らせていた。
直後、アタルの予想通り、妃織がアタルの背中を狙って姿を現した。
すぐにアタルは足を止めて振り向くと、妃織のすぐ近くの壁に向かって拳銃の引き金を引いた。甲高い発砲音とともに、手の中の拳銃のスライドがブローバックすると、空になった薬莢を空中に放り出していく。
銃口から飛び出たペイント弾は、アタルの狙い通りの場所めがけて飛んでいくが――。
「なんだ、これっ!?」
妃織よりも先に、なぜか撃ったほうのアタルが声を上げていた。
それもそのはず、アタルが撃ったペイント弾は、予想よりも遥かに遅い弾速で
アタルが自分の存在に気がついて反撃してきたことに、妃織は多少驚いた様子であった。
だが、運が悪いことに妃織はアタルの弾をしっかりと見ていた。すぐに、お前の弾は見切ったと言いたげに、彼女は余裕に満ちた笑みを浮かべ始めた。
(参ったね。こんなんじゃ、僕の一方的な不利だよ)
心の中で苦笑しつつ、アタルは続けざまに拳銃の引き金を数回引く。そうしながらも、銃口を微妙に妃織からそらしつつ、これ以上彼女に攻め入らせないようけん制する。
「そんな狙いのつけ方じゃ、当たんないわよ!!」
そう言い残して、妃織は再び障害物の陰に隠れる。
だが、妃織に挑発されても、アタルは冷静だった。もしアタルがその気だったら、あのとき妃織の急所を容易く撃ち抜いていただろう。
それでも、アタルはあえて弾を外した。しかも、弾を当てないように妃織の動きを予測しつつ、一瞬のうちに銃口をわざとブレさせる。そんな誰も真似できないような芸当を彼はやってのけていた。
当てる以上に難しいことをやっているのだから、悔しさのかけらも感じなかった。
アタルは、妃織から距離をとるために、迷路のような細い通路をひたすら進んでいく。そうしながら、頭の中でフィールドの地図を少しづつ完成させていく。もちろん、妃織に襲撃されても対応できるように、引き金には指を乗せたままだった。
(よし、次はあの角を左に……)
アタルがそう思った矢先だった。
何かが突然、こちらに向かって勢いよく迫ってくる。迫りくる物体の数は三つ、どれも手の中に納まるくらいに小さい――投擲用のナイフだ。
すぐに察したアタルは銃弾ではたき落そうと考たが、弾倉に込められているのが、恐ろしく威力の低いペイント弾だったことを思い出す。仕方なしに、アタルは回避することを選んだ。
うまくナイフを躱したところで、目の前の曲がり角へと銃を構える――が。
「なっ、いつの間に!?」
アタルがナイフに気を取られていた隙に、すでに曲がり角から妃織が飛び出していた。一瞬だけ目を逸らしていただけなのに、彼女は瞬間移動したかのようにアタルとの距離を詰めていた。急いで銃口を妃織へと向けようとするが、時すでに遅し。アタルはとうに彼女のククリナイフの間合いに入っていた。
「遅いっ!!」
妃織は右手に持った訓練用のククリナイフを、アタルの首筋めがけて振り下ろす。
このままだと、負ける。そう思ったアタルは、もはや捨て身の技に頼るしかなかった。
「ぐッ!」
急所狙いの妃織の攻撃を防ぐために、アタルはとっさに左腕を盾にした。
骨まで達する衝撃と、弾けるような痛みがアタルの左腕に走る。そして、怒涛の如く押し寄せる痛覚に、思わず顔をしかめた。
だが、左腕の犠牲のおかげで、またもや一撃でゲームセットになるのは免れた。だだ、その代償は高くついたが。
「機転を利かせたつもりのようだけど――」
妃織はそう言いつつ、今度は左手に持つククリナイフで追撃しようとする。
だが、彼女にこれ以上攻撃させることをアタルは許さなかった。防衛本能のままに、手早く拳銃の銃口を妃織の胴体へと向けると、そのまま右手の人差し指に力を込めた。
――アタルと妃織。ふたりの間で、乾いた破裂音とオレンジ色の閃光が
(あ、ヤバっ。つい無意識で、撃っちゃった……)
考える前に行動していたことを、アタルは後悔する。
妃織に弾を当てないように加減していたが、さすがにこの近距離で銃を撃てば避けようがない。だが、今さら気づいたところで、どうしようもかった。
アタルの反撃に驚いたように、妃織は後ろに向かって大きくジャンプした。そうやって彼女はアタルから数メートルほど距離をとった。
願わくば、彼女の体操服にペイント弾が当たってないでほしい。アタルはそう心の中で祈る。
だが、状況はアタルの想像の上をいっていた。
「!? 一発も……当たってない?」
妃織の体操着は、黄緑色のペイントマーカーの汚れ一つついていない、純白のままだった。あれだけ接近した状況で、一発も弾が当たっていないことに、アタルは思わず声を出すほど驚いた。
苦も無く20メートル先の標的を狙い撃てるのに、これだけ近くの的を外したとなれば、アタルには別の意味でショックだった。
そんなアタルの驚きぶりを、愉快とばかりに妃織は眺めていた。そして、右手に持っていたククリナイフをアタルに見せつけるように掲げると、くるりと刀身を返す。
真っ黒な刀身には、黄緑色の汚れが付着している。それは紛れもなく、アタルの撃ったペイント弾に他ならなかった。
「残念でした。あなたの弾は、私には届かなかったようね」
小ばかにするように舌を少し出して、妃織はアタルを再び挑発する。
アタルは悔しそうな表情をする。だが、それは形式的なもので、心の中では安堵のため息をついていた。
たとえ事故だとしても、彼女に勝ってしまうのだけは避けなければならない。
「くそっ、当たれえっ!!」
妃織の挑発に誘われたように装いながら、アタルは彼女に向かって拳銃の引き金を引いた。もちろん、彼女に弾が当たらないように、狙っていたのは壁であるが。
「あははははっ! ほら、私に当ててみなさいよ!」
挑発され、ムキになったアタルをあざ笑うかのように、軽々とした足取りで妃織はアタルの弾を避けていく。本気で狙い撃っていないアタルの弾丸を避けることなど、彼女にとっては造作もないことだった。そうして、妃織はまたしても障害物の裏側へと姿を隠した。
(厄介な相手だな。動体視力と反射神経が、僕が今まで出会った誰よりもいい)
妃織の能力を分析しつつ、アタルは拳銃の弾倉を交換する。そして、姿を隠した妃織の気配に注意しつつ、アタルはその場を離れた。
『お前ら、もう20分経過したぞ。残り10分で互いに片をつけろ! 分島、いつまでも遊んでないで、少しは本気を出せ。そんで、神代。逃げてばかりじゃ、一発も分島に弾を食らわせられないからな。相打ち覚悟で突っ込め!!』
「いやいや、相打ち覚悟で突っ込むなんて、みじん切りにされに行くようなもんでしょ!?」
スピーカー越しで、唯花が残り時間を告げる。ついでにアタルに対しては、なんとも手厳しいアドバイス。思わずアタルは突っ込まずにはいられなかった。
(……潮時ね。なんか引っ掛かるところがあるけど、彼の実力も見れたし、そろそろ終わりにしようかしら)
残っている五本の投げナイフを手に取ると、妃織は最後の攻撃の準備をし始める。
正直言って、アタルとの戦闘は妃織にとって退屈で仕方なかった。自分の思った通りに相手は反応し、多少追い詰めたりしても心底驚くような反撃もしてこない。まるで、ロボットを相手にしているようだった。
ただ、あれだけ挑発してみても、不思議なことに神代アタルからは闘志のかけらも感じられない。最初から諦めているのか、それとも別の意図があるのか、妃織はアタルを不気味に感じていた。
(この勝負、負ける要素はないし、勝つのは当然。それに、私が本当に戦っているのは彼じゃなくて、あの女なんだから――)
ナイフを持つ妃織の手には、無意識に力が込められていた。
××
「あいつら、いつまで茶番をやってるつもりだ……」
模擬戦のフィールド外で、モニターを見ていた唯花は苛立っていた。
教師として、彼女は妃織とアタルが手を抜いて戦っていることなど最初から見抜いていた。だが、今はあえてそれを指摘するつもりはない。
唯花が苛立つ理由。それは、分島妃織と神代アタルの演技まがいの模擬戦を、この場の誰もが見抜けないことだった。
「やれやれ。こんなんで、こいつら大丈夫なのかよ。まったく、先が思いやられる」
ため息をついて、唯花は生徒たちの将来を案じていた。
そんな唯花の懸念などつゆ知らず、妃織の勝利を絶対のものと決め込む生徒たちは、ふたりの戦いをしっかり見てなどいなかった。いかにして、妃織がアタルにとどめを刺すのか、その結末にしか興味がなかった。
(分島さんが手加減しているのは分かるけど――)
だが、唯花の嘆きに反して、この場にたった一人だけ、ふたりの訓練をまじまじと見つめる存在がいた。
(どうして、彼も手を抜いているんだ?)
その瞳には、モニターに映る神代アタルへの疑念が渦巻いていた。
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