9-4
『ご主人様っ!? しっかりしてください、ご主人様っ!!』
ヘッドセットを通して、マナが必死に呼びかける。
……いままで、彼女のこんな声を聞いたことがなかった。よほどの事態なんだろう。アタルは、そのことが他人事のように思えた。
(……頑張って足掻いてみたけど、こればかりは仕方ない。諦めは、とうについている)
敗北の二文字が、頭の中をよぎる。だが、アタルは否定せず、それを受け入れた。冒頭では戦いを有利に進めていたが、後半の圧倒的な力の差に、成すすべなどなかった。
〝
どうでもいいような思考が、アタルの頭の中を駆け巡る。死ぬ直前なんだから、もっと家族のことや、やり残しを後悔するものと思っていたが、少し意外だった。だが、終わりはすぐそこまで迫っていた。
(なんだか、眠くなってきた……)
心地の良い眠気に、アタルは身を任せる。体にのしかかる重力は、いつの間にか消え、身を震わせるような寒さも、緩やかに感じなくなっていく。
『――――――! ――――――――――!!』
マナが何か言っているようだが、その言葉がアタルに届くことはなかった。
五感の一つひとつが、死んでいく。
最後に残った感覚は、視覚。だが、それも終わりを迎えるように、ゆっくりと、抵抗もせず、アタルは瞼を閉じた。
××
世界を覆う、蒼い
気が付けば、僕は青の世界にいた。見上げれば、美しく、混じり物のないくらい澄み切った淡い
あの日見た景色と、似ている。最初に、僕が思ったことだった。
得体の知れない世界に追いやられても、不思議と、僕は落ち着いていた。だが時折、心がノイズが走るようにざわつく。そんな心を鎮めようと、僕はあたりをゆっくりと見回す。だけど、水平線いっぱいまで、空と海以外の何物も見つけることができなかった。
死んだら、三途の川を渡るとか言われているけど、僕の場合は
しばらく、あたりを見回していたが、やがて何も変わらぬ景色に飽きてきた。そして、僕は行く当てもないのに、適当な方向に向かって歩き始める。対岸なんて、どこにあるのか、見えやしない。だけど、何となく歩きたい気分だった。
もしかしたら、このまま永遠に歩き続けるかもしれない。でも、僕には急ぐ理由もないし、時間だって無限に与えられている。
「……どこに、行くつもりだ?」
僕の背中から、声がする。
その声の主を、僕はとてもよく知っている。だけど、立ち止まりこそすれども、僕は振り返らなかった。
「さあね。どこに向かっているのか、僕自身もよく分からないよ」
自分でも驚くほどの、素っ気ない返事だった。心は落ち着いているのに、なぜこんな風に返答したのか、よくわからない。
それでも、背後の声の主は嫌な素振りをひとつも見せず、また僕に話しかける。
「そうか。それにしても、残念だったな」
「なにが?」
「新島って奴との戦いだ。お前は……、十分健闘したよ」
ずきりと、心が
背後の人物は、僕の痛いところを容赦なく、突っついた。
「ああ……。でも、結果は知っての通りさ。僕が弱かったから、敗けたんだ」
そう言って、僕は空を見上げた。雲ひとつない、清々しい空模様が僕の心の慰めだった。新島に敗れ、この世を去る途中の景色にしては、なかなか乙なものだ。
あれほどまで、力の差を見せつけられては、手も足も出ない。まあ、幻想人なんて誰も見たことのないものを最初に見たという、記念だけは貰っておこう。
「なあ、お前は、私と初めて出会ったときのことを覚えているか?」
「いきなりどうしたんだい? まるで、別れ……そうだった。今回ばかりは、本当に君とお別れすることになるんだったね」
僕は空を見上げたまま、答えた。
そして、僕は心に封じていた記憶の扉を叩く。僅かな間に、目まぐるしいほどの思い出が、僕の頭の中を駆け抜けていく。時折、胸に痛みを感じることもあるが、それすら懐かしく思える。
「お前は、あの日と比べて変わってしまったよ」
「そうかな? 僕としては、あまり変わってないように思えるけど」
「いいや、変わった」
背後の声は、強く否定する。僕は、声の主の意図が分からず、ただ黙っていた。そんな僕を見かねたのか、背中からため息が漏らす声が聞こえた。
「私は、あの日、死にかけだったお前を助けた。どうしてだと思う? それは、お前が私を見ても、諦めず、死を明確に拒絶し続けたからだ」
「……………………………………」
「あの日のお前は、必死に抗った。だが、今のお前はどうだ? こんな結末を迎えるために、お前はあの時、生きることを願ったというのか?」
背後の声は、静かに、そして激しい非難の色をにじませていた。
どの言葉も、僕の胸に突き刺さる。そして、突き刺さった言葉の数に応じるように、胸の奥底が熱くなる。平静だった僕の心は、炎が燃え上がるように激しく、何かを求めるように渇望していた。
やがて、僕は胸のざわめきに耐えられなくなっていた。
「だったら……僕にいったいどうしろっていうんだ? 僕は死んだんだ。いまさらそれを覆すことなんて、できやしない! 今の僕には、こんな何もない場所で、何もできず、ただ消えていくだけなんだ!」
あふれだす感情のまま、僕は叫んだ。あまりに衝動的過ぎて、自分でも何を言っているのか、よく覚えていない。
「だったら、どうして、お前は歩こうとしたんだ」
「それは――」
言葉に詰まる。ただ、何となくとしか言えなかったが、どうしてそう思ったのか、説明できない。
「それにだ。何もできないと言っておきながら、なぜ、お前はそんな悔しそうな顔をしている?」
ハッと、僕は息を呑む。
心が、震えるようだった。こんな綺麗な場所にいても、心にノイズが走る理由が、ようやくわかった。
僕の心は、まだ諦めていなかったんだ。そして、何もないと分かっていても歩き出したのは、僕の体が停滞することを嫌がったから。
心も、体も、何もかも諦めてなどいなかった。諦めていたのは、僕自身だった。
僕は、笑った。本音に背き続けた自らを、
そして僕は、はじめて後ろを振り返った。僕の視線の先には、もはや見慣れた存在が静かに佇んでいた。
黒く艶やかな黒髪をもち、フリルの入った赤と黒のワンピースを着た妖精、オフィーリア。彼女は、優しく微笑んでいた。
「ありがとう、オフィーリア。危うく、僕は諦めるところだった」
「まったく、いつになっても世話のかかる奴だよ、お前は。次はないぞ」
「いつも悪いね。まだまだ、僕は未熟者だ」
そう言って、僕とオフィーリアはたまらず、吹き出した。こやって二人で笑いあうなんて、いつ以来だろうか。ようやく落ち着いたところで、僕は本題を切り出した。
「……ところで、こう言ったところで悪いんだけど、僕はいったいどうすればいいのかな?」
それを聞いたオフィーリアは呆れたように、肩をすくめた。
「まったく、救いようがないな。さっきまでの意気込みは何だったんだ」
「僕だって、諦めたわけじゃない。こんな何もない場所から一刻も早く、現実世界に戻らなくちゃいけないのはわかってる。だけど、その戻り方がわからないんだ」
「だったら――〝強く願え〟」
「願う?」
「ここはあの世じゃない、お前の世界だ。どうするかは、すべてお前次第。ここに居続けるか、抜け出すか、お前が決めるんだ」
「僕が決める……」
視線を落として、僕はつぶやいた。そして、再び顔を上げた先に、もうオフィーリアはいなくなっていた。辛く苦しい時に、教え導いてくれた彼女の消失に、たまらない
「オフィーリア、重ねてお礼をいうよ。それじゃあ、僕はまた、現実世界に戻ることにするよ」
そう言ってから、僕は瞼を閉じた。今度は、負けることのない強い意志を持って。
すると、一陣の突風が僕の体に吹きつける。彼女が背中を押してくれたように、僕は感じた。
××
「やっと……、死んだか」
新島幹孝は、地面に転がる死体を見下ろしながら、つぶやいた。
目の前に倒れ伏すのは、先ほどまで抵抗していた神代アタルの亡骸。さんざん新島をこき下ろし、必死の抵抗の末、敗れた戦士の最後にしては、あっけなかった。
「ふん。死んでも、その手に銃を握ったまま逝ったのか。とことん気に入らないガキだな」
アタルは、その身を幻想子の結晶に貫かれて、死亡した。だが、死ぬ直前まで諦めなかったためか、手にはホールドオープンしたままの
念のため、新島はアタルの頭を踏みつけてみる。その光景は、勝者と敗者の構造を表しているようだった。生きた人間ならば、その屈辱には耐えられまい。
だが、アタルは何も反応しない。当然だ、死んでいるのだから。
「ふむ。人を踏みつけるというのは、どんな感触かと思えば、なんてことないな。そこらの蟻を踏み潰すのと、あまり変わりがない」
そう言って、新島はアタルの頭から足を退けると、そのまま彼の亡骸に背を向ける。すでに、新島の意識は別のことに向けられていた。
そっと新島は、左腕を胸の前に持ち上げ、嵌めていた腕時計を確認した。だが、そこにあったのは、文字盤が壊れた腕時計。おそらく、神代アタルとの戦闘で壊れたのだろう。ガラスは割れ、秒針の吹き飛んだ文字盤は、
「やれやれ、これじゃ、いまが何時かわからんな」
壊れた腕時計を捨て、新島は歩き出す。向かうその先は、この処分場で一番、東京が見える場所。
(約束の時間は……午後七時だったな。早く向かわなければ、世界が変わるその瞬間、フィンブルの冬がやって来る瞬間を、この目で見届けなければ……)
――世界の終わりは、すぐそこに――
胸を躍らせつつ、新島は〝その時〟が早く来るのが待ちきれなかった。新島の足取りは、浮かれたように一歩、また一歩と次第に、軽やかなステップへと変わっていった。そして、もう一歩と踏み出したときだった。
背筋が、急に寒くなる。何か嫌な予感がする。
(気のせいだろう。まさか、な……)
そう思い、いや、半分は期待しつつ、新島は振り返った。
「!!!!? なっ、なんだ、貴様――――」
あまりの光景に、新島は腰を抜かした。そして、その表情は驚きと、恐怖が入り混じっていた。
新島の視線のその先、そこには、西日に照らされた何かがいた。
それは、ボロボロになった衣服をまとい、右手に拳銃を握りしめながら、確かに立っていた。だが、それはとても、人と呼べる状態などではなかった。左腕の袖口にはあるはずの左手がなく、何よりも、虹色に輝く結晶が腹から背にかけて貫通している。誰がどう見ても、化物と呼ぶにふさわしい姿だった。
だが、それは決して幻などではない。その証拠に、先ほどまでの絶望に満ちた表情とは違い、それは笑っていた。恐怖に慄く新島をみて、一杯食わせたことに満足気な笑みを浮かべていた。
神代アタルは、再び立ち上がっていた。
「そんな……馬鹿な……。どうして、そんな状態で立っていられるんだ!?」
「そんな、化物を見るような目で見ないでくださいよ。新島先生」
アタルは、新島を睨みながら皮肉るように言う。だが、その双眸の瞳の色は、戦っていた時のものと異なっていた。
――変幻自在に変わるその色は、まさに虹色、そのものだ。
そんなアタルを見て、さらに新島は混乱する。
(いったいどうなってるんだ!? 幻想子の結晶に貫かれて、なぜ生きている?)
目を白黒させながら、何もできずただ固まる新島を前にして、アタルは持っていた
平然と動き出すアタルに、新島は得体の知れない恐怖に
そんな新島を気にすることなく、右手が空になったアタルは、身体を貫く結晶に手をかけた。そして、ゆっくりと、着実に、結晶を引き抜いていく。途中、体に残った血液が勢いよく噴き出そうとも、アタルはお構いないしに、手を止めることはなかった。そうして、ついにアタルは、大きな幻想子の結晶を引き抜いた。体の中心に空いた穴からは、向こうの景色が見える。そんな光景を目の当たりにして、新島は己の手足が震えていたことに初めて気が付いた。
「こんなに大きな結晶に貫かれていたなんて、思いもしなかったな」
そう言うと、アタルは持っていた結晶を放り投げた。結晶はくるくると回転しながら、音をたてて瓦礫の山に突き刺さる。
「新島先生、あなたには感謝しますよ。……僕が何者であるのか、思い出させてくれたんだから」
ふいに、アタルの周囲の景色が白くぼやけはじめた。突如現れた
次の瞬間、アタルの胴体の穴が徐々に塞がり始めた。しかも、それは胴体だけではない、引きちぎったはずの左手さえも、再生していた。
「僕の体の大半は、幻想子でできている」
そう言い終えたところで、アタルの体は何事もなかったように、元通りになっていた。腹部に大きな穴のあいたシャツからは、向こう側の景色など見えはしない。血色のよい、肌が露わになっていた。そして、左の袖口からは、五本の指がきっちり揃った手が、そこにあった。
突然の現象に、新島は言葉を失う。
それでも、ひとつだけ、分かることがある。それは、神代アタルは人間ではない、別の何かであることを。
「さあ、お互い、正体を晒したところで、続きをしましょう。ここからが、本番だ」
何かに突き動かされるように、アタルは再び踏み出した。
――神代アタルを突き動かすもの。それは、〝
その意志は
それでも、純度を増せば増すほどに、固く、より強く、折れない意志へと成長していく。
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