プロローグ:消せない記憶
暗い水底からゆっくりと浮上していくように、意識がはっきりとしていく。
……寒い。
僕が最初に感じたのは、体の芯から熱が逃げていく感覚。そして、揺りかごの中にいるみたいに、体がゆらゆらとした浮遊感に包まれていた。おまけに、まだ夏であるというのに、凍てつくような寒さを感じる。
何が起こっているのか分からない。とりあえずと、僕は今まで閉じられていた
それは、とてもきれいな景色だった。
だけど、景色は右半分見えたところで、途切れてしまっている。残りの左半分は真っ黒で何も見えない。それどころか、残された右半分から見える世界も端々が赤く染まっていた。
――なにかが、おかしい。
ぞわぞわとする胸騒ぎを抑えつつ、手と足を動かそうとする。だけど、体の反応は帰ってこない。おまけに、全身の感覚がほとんどないことにも気が付いた。……自分の置かれた状況が何一つわからない。
怖い。
心の中で抑えられていた恐怖が一気に全身を支配した。
「ううっ……ああ……あ…………」
僕は、悲鳴を上げた。でも、喉から出たのは言葉にならないようなうめき声。絶望に喘ぐ中で、僕はつい先ほど自分の身に起こった出来事を思い出した。
そうだ、僕は、飛行機に乗っていたんだ――――
××
小学校の修学旅行の途中だった。行先はグアム。僕の小学校は、修学旅行先が海外ということで、
初めて飛行機に乗り、窓側の席だった僕は、クラスメイトとの会話そっちのけで窓から見える景色に、ただ見惚れていた。水平線を境にして、窓から下に広がる海の濃い青と、空の水色のコントラストが印象的だった。
そんな空の上からの景色を、僕は飽きもせず見ていた。その時だった。遠い水平線の向こうで何かが光った。それも、赤と白の二色。
(星かな?)
こんなに明るいのに、星なんか見えるのだろうか。僕は夢中になって、その光を観察し続けていた。キラキラと不規則に瞬く謎の光は、僕の心を掴んで離さなかった。
やがて、真昼に現れた二つの星は、その輝きを次第に強めていく。
「なにあれ?」
僕と同じように、窓際に座る誰かが、外の光に気が付いたようだ。そのことを、僕は少し残念に感じる。星のように輝く光を、僕は誰にも邪魔されずに静かに観察していたかったから。
「なになに?」
「私にも見せて、見せて!」
「よく見えないな」
「ちょっと、どいてよ」
ほかの子供たちが一斉に、僕の座っている方向の窓に集まってくる。狭い座席の間を埋めるように、押し寄せるクラスメイト達を、僕は邪魔に感じた。でも、それをはっきり言えるほど、僕は気の強い性格ではなかった。
「みんな何してるの!」
担任の先生が、騒ぎを聞きつけてやってきた。まだなりたての若い先生は、生徒たちと仲が良い。注意しに来たところで、窓に張り付いていた誰かが事情を説明する。
「だって守屋先生、まだお昼なのに、海の向こう側に星が見えるんだよ」
「もう……何をいってるの。飛行機には他の人も乗っているんだから、あんまり騒がしくしちゃダメよ。早く元の席に戻りなさい」
クラスメイトの言うことを理解できず、先生は困っていた。それでも、興奮する子供たちをなだめるように、優しい声で注意する。
「先生、嘘じゃないよ。本当だって。ほら、先生も見ればわかるよ」
クラスで一番真面目な子が、先生に外の景色を見るようにと
それまで僕は、窓から目を離していた。だけど、先生と一緒になって、また外の様子を眺めるたとき、僕はあっ、と声を出して驚いた。
星だと思っていた小さな赤と白の光は、さっき僕が見ていたよりも大きく、そしてこちらに近づいていた。しかも、それだけじゃない。光はまるで意思を持った生き物のように、縦横無尽に空を移動しながら瞬いている。
その瞬間、僕はあの光の正体が、星ではないことが分かった。
「ちょっと……なによ、あれ……」
どうやら、先生も僕と同じことを思ったらしい。外の様子を見る先生は、目を白黒させながら、唖然とした表情で固まっていた。普段、教室で見ている
やがて、こども以外の他の乗客たちも、外の様子に気が付いたようだ。大人たちもみんな、窓を覗き込んでいた。騒然とする機内で、僕は重量バランスが偏った飛行機がひっくり返るんじゃないかと、やきもきしていた。
乗客の騒ぎ鎮めるために、機内アナウンスが流れたけど、英語だから何を言っているのかさっぱりわからない。だけど、先生はその内容を聞き取っていた。
「そんな……あれが、〝妖精〟なの⁉」
驚愕とした表情の先生が、漏らした言葉を僕は今でも覚えている。先生は確かに〝妖精〟と言った。だけど、僕はその時、その言葉が意味するものを、まだよく知らなかった。
先生の言葉が気になってもう一度、窓から光の正体を確かめようとしたときだった。突然、強烈な
××
……そして、今に至る。
飛行機に乗っていたはずなのに、なぜ僕は空を見上げているのだろう? あと、クラスメイト達はどこに行った? そして、どうして僕の体が動かないの?
ゆらゆらと揺れて、働かない僕の頭は、何一つ答えが導き出せない。だけど、ひとつだけ分かることがある。
それは僕が今、死にかけているということだった。
「あっ、あああ……ああぁぁぁ……」
死にたくない。そう思って必死に叫ぼうとしても、か細くて弱々しい声が、僕の現状を思い知らせる。僕はもう満足に、声を出すこともできないのだ。
憎いくらいに澄んだ空を眺めながら、僕は徐々に命の火が消えていくさまを、ありありと感じていた。自分の体がどうなっているのかも分からないのに、それだけは、はっきりと感じとれる。
孤独。それは、僕が生きるという希望を持つことさえも、許してくれなかった。
不意に瞼が重くなり、右目の視野が
力のない僕は抵抗することなく、ただありのままに死を受け入れようとした。痛みに苦しむこともなく、眠りにつくような感覚は、意外だと思った。
僕の意識は再び、水の中に沈んでいくように消え――
「駄目だ、死ぬな!」
暗闇に沈もうとする僕を、誰かが乱暴に引き上げる。
(いったい誰だろう、先生かな?)
僕は最後に、もう一度だけ頑張ってみた。体はやっぱり動かないけど、瞼だけは動かせる。それがいまの僕にできた、精いっぱいのことだった。
開いた僕の目に飛び込んできたのは、知らない少女の顔だった。艶やかで長い漆黒の髪に、大きな瞳が印象的で、まるで人形とも思えるような綺麗で整った顔だった。そして、少女の大きな目は、いっぱいの涙を溜め込んでうるうるとしている。
見た目から判断するに、同じ学校の子かなと思いもした。だけど、こんなにかわいい子が、僕の学校にいたかな。
「よかった……まだ生きてる…………」
目の前の少女は、僕が瞼を開けたことに驚いた様子であったが、その綺麗な顔はすぐに、くしゃくしゃに崩れ出した。
――温かい。
冷たい僕の体にほんのりとした温かみが伝わる。やがて少女は、喉の奥から絞り出すように言葉を放った。
「……すまない。私たちの争いごとに、お前たちを巻き込んでしまって……どんなに謝っても、もう取り返しがつかないことは承知している」
何を言っているの? どうして謝るの? そう少女に問いかけようとしても、僕の口からはもう言葉が出ない。
顔を涙で濡らす少女は、ひどく悲しんだ様子で立ち上がった。それまで顔だけしか見えなかったけど、その時初めて、彼女の姿を僕は見ることができた。
フリルの入った赤と黒のワンピース。それはまるで中世ヨーロッパの貴族が着るようなドレスと言ってもいいような、華美な代物だった。だけど、彼女が着ていたドレスはあちこちが破れていたり、燃えて穴が空いていた。残念なくらいに、みすぼらしいものに変り果てていた。
そして、服の裂け目からは、白魚のような綺麗な肌が露わになっていた。だけど、所どころ赤黒い汚れが付いている。不思議そうに僕は眺めていたが、その汚れが乾いた血液だと気付く。
――彼女は怪我をしている。それは、僕が巻き込まれた事故のせいなのかな?
何もできない僕は、名も知らぬ少女の様子を、ただ黙って見ていることしかできなかった。だけど、それはいつまでも続かない。気を少しでも抜いてしまえば、また僕の意識は
やがて、少女は意を決したように、片手で涙をぬぐうと、僕の方へと顔を向けた。
「これは私の消えることのない過ち、〝罪〟だ。多くの人間を死に至らしめた私の行いは、決して許されることはない。私は、償いのためならなんだってする。そのために、まだ救える命がないかと探していた」
そして少女は、僕に
「そして……お前は生きていた。私には、まだ
彼女の言うことを、何一つ理解することができない。だけど、彼女が僕に何かをしようとしていることだけは、なんとなく察した。
「私の身勝手な願いで、お前は私を一生恨むかもしれない。……それでもいい、すべては命あってこそだ」
「あ――」
そう彼女が言い終えると同時に、僕はあまりの驚きに、声を上げるほど驚いた。
彼女の背中には、一対の〝黒い翼〟が生えていた。翼は
(死神だ――)
少女の姿をしているが、得体のしれない謎の存在に、僕は戦慄する。それでも、異形と言えるその存在は、怯える僕を安心させるかのように優しく微笑み続けていた。
(嫌だ、死にたくない!)
彼女が微笑む理由が分からない。もしかしたら、彼女は僕の命を奪いにやって来たのかもしれない。
やがて、黒い翼の生えた少女は、僕のそばにしゃがみこむと、動かない僕の上体を抱きかかえた。何をされるか分からない恐怖に、僕は涙を流した。
「安心しろ、おまえは死なないさ。私の命を使ってでも、お前を生かすから」
そんなのできるわけがない、と僕は頭の中で彼女の言うことを否定する。それでも彼女の目の中には、揺るがぬ覚悟の炎が見えたような気がした。
「今日という日に、この場所で起こったことを、私は決して忘れはしない。そして、これからやることに、微塵の後悔もない。願わくば、お前がいつか、この日の出来事を乗り越えることを、心から願う――」
そう言い終えると、彼女は凛とした表情で僕に言う。
――少年よ、生きろ――
そして、僕は唇に彼女の温もりを感じたところで、再び意識を失ってしまう。だけど今度は、体が沈んでいくのではなく、浮き上がるような感覚だった。
これは今から五年前に起こった、とある事件についての、忘れることのできない僕の記憶。
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