第54話 魔王神の前線基地(下)


 最上階のバルコニーは、他の階層と大して変わりがない。


 鏡のように磨かれた床。埃のない手すりの彫刻。三人がかけるのに丁度良い大きさの黒石のテーブル。天井から吊るされた、意味ありげな赤い杯。


 美しく整っていて、どことなく禍々しい。



「赤の杯か。主様、この都の掌握はすぐにでも終わりそうだぞ。しかもおあつらえ向きで、この上なく丁度良い」



 レスティが私の腰を持ち、杯に向かって掲げる。


 まるで生贄にされる子供のようだ。


 黒と赤の組み合わせは血を表す事が多い。それも聖なる意味ではなく魔なる意味で。加えて杯なんて言ったら、どれだけの量を要求されるのか予想するのは簡単だ。


 最低でも、アレを溢れさせるくらいは絞られるのだろう。



『いやいや、完全掌握なんぞしようとしたら代償がきつい。数秒でも連ねれば十分じゃ』


「数百人分もあれば足りるだろう? 主様なら一人でやっても問題ない」


「レスティ、安請け合いはしないっ。グレイグ殿、私達は何をすれば良いのですか?」



 私の問いに、グレイグはどこからか小さな針を一本取り出し、テーブルの上に置いた。


 何の魔術も施されていない、鉄製の普通の針。眺めているとそよ風でコロコロ転がって行き、私達の前まで来て静かに止まった。



『ソイツで指先をつついて、血の一滴を杯に入れて頂ければ良い。それで、広域支配魔術『赤の杯』がほんの一瞬発動し、しなずち殿とレスティ殿が支配者にあったと効果範囲内の生者全員に認識される。支配者から外れれば、不在の支配者を代行する管理者に自動的に充てられ、支配者がいない限り都の全てを好きに出来る』


「本来は国を征服したがる愚者を唆し、死ぬまで血を捧げさせて魔術を発動。後は、少量でも自分の血を入れて、いつまでも代行に居座り続けるっていう代物だ。昔はそれなりに流行ったが、世界を巡回する勇者達に見破られて殆ど破壊されたと聞くな」


『真っ当な国ではそうなる。ここは真っ当ではないからの。グアレスと儂がおるし、勇者も英雄も寄り付かん。さて、どちらからやるかの?』



 杯が浮き上がり、天井から吊るす紐が解かれてテーブルに置かれる。


 レスティは私を椅子に座らせ、針を放り捨てて杯だけを寄越した。


 眷属となって圧を増した蛇の目は、『良いからやれ』と脅しの色を宿している。グレイグに視線を向けて助けを求めるも、彼も諦めたようで、肩をすくめて続きを促す。


 何か、レスティの私に対する扱いが雑に酷くないか?


 疑問と疑惑を篭めて彼女の顔を覗く。口角をわずかに上げ、浮かべる微笑みは慈母のそれではない。気になる娘を虐めて楽しむサディストのそれだ。



「やんないとダメ?」


「グレイグ殿に主様の力の一端を見せると良い。上に話が昇れば、アイシュラ様から魔王へのオファーが来るかも知れんぞ?」


「レスティを魔王にしたのってアイシュラ神なのか。どうでも良いけど、それをやったらグレイグ殿が困るんじゃないのか? 話を聞く限り、支配者がいると困る術なんだろう?」


『お気になさるな。レスティ殿も何か考えがあっての事なのじゃろう。お好きになさるがよろしい』



 色々と投げやりな許可が出て、私は杯を手に取った。


 数百人分で良いと言っていたので、とりあえず五百人分を凝縮する。指先からポタリと底に落とすと、杯が赤と黒の波動を纏って浮かび上がる。


 微かな心音が神殿内に響き始め、反響する度に強まっていく。刻む間隔も加速度的に短くなり、仮に心臓なら破裂しておかしくない強さと速さへと至り――――唐突にソレは臨界を迎えた。


 軽く渇いた音と共に杯が割れる。


 注がれていた血が赤く輝く雫となって漏れ落ち、咄嗟に伸ばした私の手に落ちた。同化し直そうとすると、雫は拒否するかのように肌の上で纏まり、次瞬、刀身のみの直剣へと形を変えて手の中に納まった。


 弥生時代の古代剣によく似ている。


 戦国時代に鍛えられた刀ではなく、古墳や遺跡から出土するあの形。アメノハバキリ、フツノミタマノツルギ、クサナギノツルギといった、世界的にも独特の格を持つ不思議な剣。


 何だ、これ?



『これは一体……?』


「血の杯は広域支配とは別に、もう一つ効果を持っていてな。十分な量の血を捧げる事で、捧げた者に支配者の証を授ける。証を持つ者は、自分より存在が下位の者を従えられる力を得、その多くは魔王と呼ばれて世界に弓引く存在となる。私のように」


「まさか、レスティの魔剣って……?」


「私が割った杯だ。アイシュラ様からは『割らない方が良い』と言われていたんだが、どうなるのか知りたくて試しに、な。結果、ブロフフォス領の広域支配が切れて家臣に裏切られ、魔王となってギュンドラ達を相手に馬鹿をやったんだ」



 レスティは後ろから私の両手を取って、剣を握らせた。


 皮膚を介して通う力は私と同種で、レスティと同種にも感じられる。


 この似通った力の色が支配の色なのか。纏わりつく感じはなく、擦り抜けるような感じもなく、安心はないが不安もない。どっちつかずな曖昧さが何とも奇妙で、言われなければ支配だなどと認識はできなかった。


 そんな私の心情を察したのか、魅惑的な囁きが耳元を撫ぜる。



「試してみるか? 丁度、主様が助けた者達が白石屋敷に集まっている。剣を掲げ、『従え』と一言告げれば良い。そうすれば――――」


「私はお前と同じになる、と」


「――――そうい、う、事、だっ?」



 突然、興奮した様子でレスティが私の身体を抱きしめた。


 息が荒く、目の焦点が定まっていない。


 眷属化による影響で精神が暴走しているらしく、手付き足付き体遣いが捕食者のそれだ。胸元を大きく開いて谷間に私の頭を挟み、テーブルに押し付けて体の自由を奪おうとして来る。


 私を睡姦した時のユーリカによく似ている。


 あっちと違うのは、私達の契約は正常に作用している事と、レスティの理性がまだ抵抗している事。私の服を剥いで素肌を露わにしておきながら、触れようとすると寸での所で震えて止まる。



「私と、私と主様が同じ、同じ同じ同じ同じ同じになるっ! なルナルナルナルナルナルナルッ!」


『レスティ殿、いかがなされた!?』


「お気になさらず。多分、欲求不満が過ぎて暴走しているだけです。三時間ほど二人っきりにしてもらえませんか? 彼女をまともに戻します」


『しょ、承知した。何かあれば、三階下の鐘を鳴らしてくだされ。すぐ参りますじゃ』


「ありがとうございます」



 グレイグの気配が消えるのを待たず、体を回転して正面から向き合う。


 分体のラスティが愛されても、シムナに付き合う形でレスティは貞操を守り続けた。軽いスキンシップは頻繁にしていて、解消されず積み重なった情欲が、今堰を切って溢れ出ている。


 きっかけはおそらく、赤の杯。


 レスティにとって、アレはとても重要な記憶の一つなのだろう。それと同じ事を私がする事で、私達は同じに――――特別な関係となる。


 特別なら、きっとシムナへの遠慮はしなくてもいい。欲の限り、愛の限り、これまで抑え込んできた全てを曝け出してぶつけてしまっても問題ない。


 むしろ、したい。


 しなくてはならない。


 だって、今を逃したら、理性がまともに戻ったら、またこの感情を抑え続けないといけないから…………。



「眷属化も気を付けないとならないか。シムナ達の時はこの教訓を生かそう」


「あるじ、様、ごめん、な、さい――――っ」


「レスティは悪くない。悪いのは私だ」



 そっと、軽く、唇に唇で触れる。


 このまま本心と理性を戦わせては、いつまで彼女の心が保つかわからない。


 戦う必要なんてない。そう教えてあげないといけない。


 その為の方法を教えないといけない。


 だから、



「おいで、レスティ」



 私は、彼女の全てを受け止める。

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