第56話 トイレの〇〇さん

 今更だけど、幽霊にはアイデンティティってあると思うかい?

 はは、どういう事って顔してるね。アイデンティティ、つまりは自己同一性って事だよ。

 分かりにくいかな。要するに、幽霊に自意識、一貫した自我、自分はかくあるべきって考えがあるか?、って事さ。

 どうなんだろうね。そもそも、死後も生前の記憶があるものなのかな?

 でも、幽霊の行動なんて大概が断片的で脈絡のない行動の繰り返しだ。同じ言葉をブツブツ言うだけだったり、死んだ時の姿で現れるだけだったり。

 僕さ、これには持論があるんだよね。今からそれに関する話をするから聞いててよ。

 

 —トイレの〇〇さん—


 社会人スポーツをやってる人から聞いた話。

 その人は身体を動かすのが好きで、社会人になっても市民クラブに所属して、スポーツをしていた。

 やってたのは主にサッカーだけど、同じような運動好きの知り合いに誘われて、テニスやマラソンなんかも手広くやっていたそうだ。

 ある時、市民体育大会のマラソン選手に選ばれた。走る距離は結構長い。これは前日から特訓をしないといけないな。そう考えた。

 それで、普段から解放されている運動競技場を利用することにした。トラックの周りに小道が作られていて、そこをグルグル走って一定の距離を毎日走ることにしたそうだ。

 仕事帰りに運動競技場へ立ち寄って、夕方の涼しい内に一時間ほど走る特訓。施設内にはコインシャワーや自動販売機もあるから申し分ない。充実した特訓をすることができた。

 通い出してから一週間ほど経ったある日、いつものように走っていたら、突然体調を崩した。腹痛が治まらなくて、顔中に脂汗を掻き出した。

 これはまずいと思って、施設内のトイレに向かおうとした。ところが、施設の綺麗なトイレは入り口側にある。よりにもよって、今いるところは正反対のところだ。

 ああ、どうしよう。青ざめていたら、一番近い別方向の入り口の外に、併設されていた公園のトイレを見つけた。

 見た目は少々汚そうだったけど、背に腹は代えられない。意を決してよろよろと公園のトイレに向かった。

 辿り着いたら、あちこちに蜘蛛の巣が張っていて、照明は薄ぼんやりしてる。ちょっと不気味だったけど、しょうがない。入って一番近い個室を開けたら、トイレットペーパーが無くなっていた。

 ああ、なんだよもう。悪態をつきながら二番目の個室を開けたら、そこにもトイレットペーパーがない。

 嘘だろう、勘弁してくれよ。半ば祈りながら三番目の個室を開けたら、幸運なことにトイレットペーパーはあった。予備まで積まれてるほどに。

 ああ、助かった。用を足しながら一安心していたら、ふと寒気がした。

 あれ?・・・この場所、怖くないか・・・?

 その人、実はめちゃくちゃ怖がりな人だったんだよ。 

 さっきまで掻いていた脂汗が、全部冷や汗に変わった。まずい、緊急事態とは言え、凄まじい場所に来てしまった。人気もない、薄暗くて静かな夜のトイレ。一刻も早く出ないと。

 用を足し終えて、急いで出ようとしたら、不意に外に人の気配を感じた。

 不思議なことに、足音はしなかったのに、絶対に入り口近くに誰かいるって感じたそうだ。

 思わず息を潜めた。変な話だ。いい大人なんだから別に個室に入ってたって恥ずかしいことじゃ無い。それでも、なぜか気付かれちゃいけないって思った。

 すると、その気配が少しずつ近付いてくるのが分かった。個室の前を通り過ぎて、ここに来ようとしている。

 ああ、一体何なんだ。勘弁してくれ。

 その時、ふっとこんな言葉が頭をよぎった。

 トイレの三番目の個室には、花子さんがいる。

 恐怖のあまり頭がおかしくなってしまったのか、変なことを思い出してしまった。ああ、何でこんなくだらないことを思い出したんだ。怖くってしょうがないってのに。花子さんなんているわけないだろ。でも、もしかして、ここは三番目の個室だし、もしかして・・。


 ——違うよ。

 

 耳元で声がしたそうだ。低い、けれど確かに女と分かる声が。

 うわああああああっ。

 動転して個室のドアを弾き飛ばすようにして出た。そのまま外に飛び出ようとしたけど、反射的に振り返って個室の中を確認してしまったそうだ。

 そこには、さっきまで自分が座っていたはずの便器に腰掛ける、無表情の女がいた。白いパジャマを着て、首が直角に折れ曲がった女が。

 一目散に外に出て、明るい運動競技場まで逃げたそうだ。まだ部活動をしている学生たちがたむろしていたから、その人だかりに安心して、ようやく近くで息を整えられた。変な目で見られたけど、構わなかった。

 あんまり怖かったから、その日は友達を呼んで一緒に帰ったそうだ。適当に理由を付けて誤魔化して、車で家の近くのコンビニまで付いて来てもらった。

 その後、なんとか無事に帰り着いたけど、その夜は目が冴えて眠れなかったそうだ。

 もう思い出したくもないけど、あれってトイレの花子さんじゃないですよね?って、その人は苦笑いしながら話してくれたよ。

 僕はこう答えたんだ。

 ええ、その幽霊は自分はトイレの花子さんじゃないから、違うよって言ったんじゃないんですかねえ、ってね。

 その人はガクガク震えてたっけ。幽霊って、人の心が読めるんですか、って。

 幽霊に読心術があるかどうかはさておき、君はどう思う?そこにいたモノはさ、少なくとも、トイレの花子さんを知っていたって事なのかな?

 すると生前の記憶もあるし、それを否定したって事は自我もあるって事になる。

 それとね、僕、そのトイレの場所を聞いて調べたんだよ。すると、そこのトイレでとある事件が起きていたことが分かった。

 そのトイレではね、自殺があったんだよ。深刻な家庭問題で悩んだとある主婦が、そのトイレで首を吊っていたんだ。夜中に家を抜け出して、突発的にね。

 僕、こう考えてるんだ。

 死んだ時の未練や怨念が強いほど、幽霊のアイデンティティは確立されたものになる。

 そして、そのアイデンティティが強ければ強いほど、そのモノは存在する力が強くなる。

 深刻な家庭問題。その主婦、夫に不倫された挙句に子供の親権も取られて、離婚されそうになっていたんだよ。

 ははは、よく分からないって?

 僕だって本当の事は分からない。でも、僕が知る限り、個性の強いモノはそれだけ凄惨な過去があるんだ。そういう話はたくさん聞くしね。

 でも、疑問は残る。

 どうしてトイレの花子さん・・じゃない、トイレの○○さんは、違うよ、って否定しただけだったのかな?

 やっぱり、アイデンティティが強かったから、間違われたくなかったのかな?はは。

 

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