第5話:イーファの心

 夜風が頬を撫でて通り過ぎていく。


 キウォール城で一番高い位置にある見張り塔、その屋根の上に腰掛けて、エンナはぼんやりと城下町を眺めていた。


 家々から明かりの光が漏れ、それに負けぬ月明かりが町全体を柔らかに照らしていた。エンナにとっては見慣れた、そして大切な景色だった。独りよがりな戦いに身を投じてしまいがちなエンナに、天駆の本懐であるべき、人々を守るという使命を思い出させてくれる景色だ。


 視界にひろがる町、そこに暮らす人々、延いてはキウォールを守るためにこそこの身があると思えることを寄る辺にしていた。


 そしてそのためにアンガスをどうするべきか迷っていた。


 アンガスの言っていることは一見筋が通っているように思われる。だが、あれはすべて空想にすぎない。起こるかも分からぬ災厄の芽を摘むためにヒトを殺すことなど許されるのだろうか?


 そもそも自分に誰かを殺すことなどできるのかが疑問だった。


 いくら考えても答えなど出るはずもない。


 いつのまにか思考は停止してしまっていたエンナだったが、


「やっと見つけました!」


 下から聞こえてきた可愛らしい声に現実に引き戻された。


 見下ろすと、見張り塔の窓から身を乗り出したイーファがその身を捻るようにしてこちらを見上げていた。目が合うと嬉しげに笑う。


「そっちに行ってもいいですか?」


「かまわないが、気をつけろよ……って、イーファ!?」


 おもむろに窓の縁に手を掛けると、なんとも身軽にそこに飛び乗ったイーファが、あろうことかそのまま屋根の上に向かって跳躍した。エンナは度肝を抜かれた思いだった。そんなことをして、足でも滑らしたらどうするのだ。危なっかしいことこの上なかった。


 屋根の上に片足を掛けたイーファの手をエンナは取り、慌てて引き寄せた。そのまま自分の方に抱き寄せたが、勢いを殺せず尻餅をついてしまう。


 それでもなんとかその場に座り込むことに成功して胸をなで下ろす。


「エンナ?」


 腕の中でイーファが心底不思議そうにエンナを見つめていた。きょとんとした表情で、大空の瞳を向けてくるイーファを前にして、エンナはその表情の意味するところを図りかねて小首をかしげたが、次の瞬間には自らの失態に気付いてしまった。


「……そういえば飛べるんだったな、あんた」


 そっぽを向いて平静を装って言ったが、顔が赤くなっていることが自分でもわかった。


「はい。でも、ありがとうございます。嬉しいです」


 くすくすと笑いながら、どうにも近い場所でイーファが礼を口にする。兄妹でこうも違うかと思うくらい、イーファの笑い方は無邪気だった。


「エンナ、わたし、もう大丈夫です」


「ああ、すまない」


「ふふ、なんで謝るんですか?」


 エンナの腕の中からもぞもぞと抜け出したイーファが、


「探しましたよ、エンナ」


 向かい合って言った。顔が近かった。


「俺になにか用か? というか、よくここがわかったな」


「フィオナさんに訊きました。エンナはよくここにいると」


「そうか」


「はい」


 ごく自然に沈黙が降りた。それは気まずいものではなく、むしろエンナには間近にある少女の存在が心地よく感じられた。


 なんとなしに隣に腰掛けたイーファを見やると、彼女は先程のエンナと同じように町並みを眺めている。


 月の仄かな光が照らすその横顔に見とれた。長いまつげの下にある、大空のような色と寛容さを湛える瞳、すっと通った鼻梁とほんのりと赤らんだ頬。出会ったときはひとつに結っていた、瞳と同色の髪を今は下ろしていて、風に遊ばれないように白く華奢な手で押さえている。


(正義の生き物、か)


 それがイーファを形容するに、いかにもふさわしく思われていた。


 ただ、だからといってアンガスを悪の生き物と言うのは、的を得ているようにも外しているようにも思えた。


「イーファ」


「ん? なんです、エンナ?」


 イーファがこちらを見た、ただそれだけのことに心が弾んだ気がした。


「なんだじゃないだろ。用があってきたんだろ?」


「んー、そうなんですけど、そんなに慌てないでくださいよ。せっかくこんなにも気持ちのいい夜なんですから。エンナはもう少し心にゆとりを持つべきだと思いますよ?」


「生憎と余裕のない性分でね」


「だめですねぇ。そんなんじゃ女の子にもてませんよ? そうだ、今すごく良い雰囲気ですし、わたしのこと口説いてみてくださいよ」


「……口説いてどうこうなる可能性はあるのか?」


「さあどうでしょう? 試してみては?」


 楽しげに意地悪く笑むイーファの姿はすこしだけアンガスと重なって、こういうところはやはりアンガスの妹かと思った。


「アンガスのことを訊きに来たのか?」


「あら残念、口説いてくれないんです?」


「俺は真面目に話している」


 戯れはこれまでとばかりに告げると、イーファが一転して真剣な表情になる。


「……そうですね。エンナはアンガスの話を聞いて、どう思いましたか?」


 声が僅かに震えていた。すがるような視線を向けられて、エンナはイーファの不安を取り除いてやれる言葉を探したが、浮かぶのは虚偽ばかりで、それを口にすることはどうしてもできなかった。


「アンガスがこの国の驚異となったなら、俺は迷いなくあいつを止める。ただ、今は無害なあいつを殺すのはどうかとも思う」


 だから素直に言った。それこそが今は必要なことと信じた。


 イーファは困ったように笑った。


「エンナは優しいですね」


「誰かを傷つけるのが怖いだけだよ」


「そう思えることが大切だとわたしは思います」


 イーファがひとつ深呼吸をした。そしてまっすぐにエンナを見つめる。


「エンナ、お願いがあります」

 既視感があった。自分を殺してくれと頼んだときのアンガスとイーファの姿が重なる。ただ、諦め混じりだったアンガスとは違って、今のイーファの瞳には強い意志が見て取れた。


「わたしと一緒にアンガスを助けてください」


 一息にそう言った。


 エンナは値踏みするような視線をイーファに向けたが、イーファは挑むように見つめ返してくる。引く気はないようだったが、その強気の裏側で不安に心が押しつぶされそうになっていることをエンナは敏感に感じ取っている。


「その願いに今すぐ応えてやることは、悪いができない。ただ、俺もそうできたらいいと思うよ」


「わかっています。エンナにも守るべきものがあることも、自分が無理なお願いをしていることも。……それでも、わたしはあなたに頼るしかないのです」


「アンガスもそうだが、どうしてあんたらは俺に難題をふっかけるかな。俺より優秀なやつならいくらでもいるだろうに」


 思わず本音をこぼしたエンナだが、


「わたしも、そしておそらくアンガスも、ひと目であなたを気に入りました。あなた以上に頼れる方はいませんよ」


 根拠もなく言い切られてしまう。悪い気はしないが、釈然とはしない。


「……具体的にはどうするつもりなんだ? ただ単にアンガスを放置しておくことはできないぞ。あんたがどう考えているのか、聞くだけ聞いてやるよ」


 イーファにもいろいろと思うところがあるようだ。無策でエンナにすがるようなことはしていないだろう。


 だがイーファが言い放ったのはエンナの予想し得ないものだった。


「エンナはアンガスと戦ってください」


「はぁ?」


「ですから、アンガスと戦って、そして勝って下さい。それも完膚なきまでに」


「いや、言っている意味がわからんぞ。あんたはアンガスを助けたいんだろう?」


「もちろん殺してはだめですよ。戦う目的は、アンガスに自分より強い者がいるとわからせることです」


 “俺は強いぜ、エンナ”。そう言ったアンガスの姿が浮かんだ。あれは自分の力に絶対の自信を持つ者の揺るぎなさだった。自分をどうにかできるとしたら、それは自分の悪なる本質だけだとアンガスは心底思っているのだ。


「……万が一暴走しても、それを止められる者がいることをあいつに分からせると?」


「話が早くて助かります。わたしたちで、あのお高くとまった鼻っ柱をへし折ってやりましょうよ!」


 ぐっと握り拳をつくるイーファは本気のようだ。


「そうは言ってもなぁ。そもそも俺はアンガスがどの程度の強さなのかすら知らないぞ。まあ、あの天魔の巨体を殴り飛ばすくらいだから並大抵でないのは分かるが」


「少なくとも、わたしひとりでは足下にも及びませんね」


「いや、あんたの力量も知らないから」


「試してみますか?」


 待ってましたとばかりにイーファは言った。


「試すったってな」


「わたしと手合わせしましょう。わたしもあなたの力を知っておきたいですしね」


 身軽に立ち上がったイーファがエンナを見下ろしている。美しい髪と、彼女のまとう民族衣装が風に遊ばれる。


 エンナは立ち上がらない。イーファに拳を向ける気にはならなかった。


「遠慮しとくよ。そんなことに意味はない」


 目を合わせず言った。


「えー? そんなこと言わないでくださいよ」


 拗ねたように唇を尖らせてイーファが声をあげる。そして、なにか思いついたようにしゃがみ込んで、座ったままのエンナと目線を合わせた。


 月明かりの下でもわかるほど綺麗な空色の瞳でのぞき込まれてエンナは思わず顔を引いた。出会ったばかりではあるが、エンナはイーファのこの目に弱いようだった。すべてを抱擁するかのような寛容さに安心を覚えると同時に、どうにもたじろいでしまう。


 無意識なのか、それともわかってやっているのかイーファもやたらと近いところでエンナを見てくるものだからたまったものじゃなかった。


「戦う理由が欲しいというのなら、賭けをしましょう」


「賭け?」


「わたしが勝ったら、その呼応石をください」


 白く細い指が、エンナの胸元に提げられた呼応石を指した。寂しく二つ並んだうちの一つを。


 エンナはイーファの意図を図りかねた。呼応石は仲間同士が手にして初めて真価を発揮する魔導具だ。イーファはどういうつもりでそれを欲するのだろうか。


「こいつはただの装飾品じゃないぞ? まあ、あんたにはよく似合うだろうが……」


 呼応石を身につけたイーファを想像して、本気でそう思った。イーファの髪や瞳の色は、この呼応石の光にさぞ映えるだろう。


「呼応石のことくらい知ってますよ。貴重な魔導具をただの装飾品なんかにしませんよ」


 エンナは眉根を寄せる。現状、呼応石がただのお飾りになってしまっているエンナには耳の痛い言葉だった。


「ならどうしたいんだ? 悪いが売り払ってもらっては困るぞ? これは姉さんが……」


「……売るわけないでしょう。エンナはどんな目でわたしを見てるんですか……。わたしを、あなたの隣に置いてくださいと言っているんですよ! 普通わかるでしょう! わざとやってます!?」


 だんだんと語気を荒げてイーファがまくし立てる。


 呼応石は仲間の証だ。その意味を知った上でイーファがそれを欲しがってくれるのは素直に嬉しかった。


 だが、


「打算的な思惑の上でこいつを誰かに渡したくない」


 イーファがエンナと仲間でいたいと思うのはアンガスの存在があるからだ。エンナの助けが今必要だからだ。


 そういう利害の上で成り立つ関係が真に正しいのかエンナには判らない。我ながら面倒な性格だとは思うが、どうしようもないことだった。


「打算、ですか。そう取られても仕方ありませんね……」


 途端にイーファが悲しそうに顔を伏せたものだからエンナは慌てた。


「いや、あんたが悪いわけでは決してなくてだな……」

 悪いのは悶々と悩むばかりで前に進むことのできない自分自身だ。それをイーファにぶつける形になっていることに自己嫌悪した。


「俺はただ……」


 そのときイーファが伏せていた顔を突然あげて、同時にエンナの手を両手で包み込むように取った。


「それでもわたしには、あなたしかいません。お願いしますエンナ。助けてください」


 まっすぐに自分だけを見る瞳。つないだ手で交わる体温。震えた、すがるような声。


 拒むことはできないと思った。単純だなと思いながらため息を吐く。


「イーファ、俺は俺にできることしかできない。……それでも、できる限りのことはすると約束するよ」


「ありがとうございます!」


 はじけるような笑顔がイーファの面に浮かんだ。エンナの手を包む両の掌に力がこもって、そのまま引き寄せられた。


「では、早速手合わせしましょうか」


「やっぱり仕合しあいはするんだな」


「当然です。エンナはアンガスの強さを見くびっていますから。わたしがその一端を見せて差し上げます」


「おー、怖い怖い。さすがは正義の生き物だ」


「言っときますけど、わたしは本気ですからね!」


 軽口を言うとじゃれるようにイーファがそれに応えてくれる。それだけのことが無性に嬉しかった。ほんとうにイーファと仲間になれたらいいなと思えた。だから、少しだけ歩み寄ってみる気になった。


「そうだな、もしあんたが俺に勝てたら、この呼応石を預けてもいい」


 するりと言えたことにエンナ自身が驚いていた。


 イーファも驚いたように目を瞠って、そして不適に笑んだ。


「預ける、というのが少し引っかかりますが、あなたらしいですね。俄然やる気が出てきました。後で後悔しないでくださいよ?」


「まあ、俺もそう簡単に負けやしないよ」


 いくらイーファが強いと言っても、エンナもかなりの手練れだし、そのことを自負してもいた。ここまでくると、イーファと戦うことへの引け目など何処かへ飛んでいってしまっている。基本的に戦うことが好きなのだ。


「それで、俺が勝った場合はどうするんだ? 賭けなんだろ?」


 何かが欲しいわけではなかったが、体裁上、一応訊いてみた。


「うーん、何がいいですか?」


「何でもいいよ」


「それが一番困るんですよね。……なら、エンナが勝ったら、わたしが何でもひとつ言うことを聞きます。そうれでどうです?」


「また安易なことを。アンガスと一緒にこの国を出て行けとか言われたらどうするんだよ」


 呆れたように言ってやると、イーファは何でもないことのように笑う。


「エンナは絶対にそんなこと言いませんから。わたし、信じてます」


 こうも屈託なく言われるとエンナも返す言葉がない。そしてそんな風に言うイーファを無下にすることもできそうになかった。


「まあ、それでいいよ。仕合はいつやる? 今すぐか?」


「はい。善は急げ、です」


「はいはい。なら城内の訓練室にでも行くか」


 エンナが腰を上げると、合わせてイーファも立ち上がる。かと思うと、イーファが屋根の上から勢いよく飛び出した。そのまま浮遊すると、くるりとエンナのほうに振り向く。


キウォールの夜景を背後に、イーファが艶然と笑んだ。


「いえ、ここでいいです」


「ここってあんた……」


「実戦は間違いなく空中戦ですからね。それに近い方がいいですよ。あ、もしかして夜目が利きませんか? だったら明日にしても……」


「夜戦うことなんてざらだよ。そんなことは問題ない」


「ならよかったです。では、魔導具を用意してきてください。わたしはここで待ってますから」


「必要ない。陣を張る魔導具はあるからな」


 片手をあげて指輪型の魔導具を見せてやるが、イーファは納得できないように首をかしげている。


「武器が必要でしょう? 丸腰で戦うつもりですか?」


「あんただって丸腰だろう」


「それはそうですが……」

 なおも渋るイーファだが、エンナに武器を使うつもりはない。体術には自信があるし、そもそも戦うと決めたもののイーファに刃を向ける気になれるはずもない。


「さっさと始めよう」


 問答無用で戦闘を始める。指輪型の魔導具がアースブルーの光を湛え、二つの呼応石も同様に光をこぼす。夜の闇をアースブルーの明かりが振り払った。


 イーファの目の前、その足下に陣が張られた。エンナは屋根からそこに飛び移る。

 勢いを殺すことなく、そのままイーファに向かって腕を振り上げて掌を向けた。


「まったく。以外とせっかちですね」


 イーファは慌てることなく、最小限の動きで身をずらす。


 突っ込むようにふるった拳が空を切り、エンナの身体がイーファの真横を通り過ぎようとする。視線が交錯した。口元に自然と笑みが浮かんだ。


 体勢を整えるべく次の陣を張ったエンナがそこに片足を置き、次なる攻撃に移行する。崩れた体勢のまま身をひねり、そのねじれを力に還元して再び拳を振るった。


 下から上へ殴り上げるように迫った拳を、なんとイーファは流れに逆らうことなく自らの掌で触れるや、そのまま引き寄せるように軌道を変えてしまう。


 イーファの距離に見事に誘導されてしまったエンナはそのあまりの流麗さに舌を巻いた。さすがに息巻くだけの実力は有しているようだった。


 お返しとばかりに反撃が始まる。イーファがその華奢な腕を振りかぶったのを視界に捕らえたエンナは思考を回す。


 避けるには体勢の悪すぎる状況。防御しかない。陣で防ぐには間に合わない。腕でガードするほかないだろう。アンガスが天魔のあの巨体を吹っ飛ばしたことを考えると、おそらくイーファの腕力も見た目通りではないだろう。ガードして、あえて吹っ飛ばされることで威力を殺す。そして吹っ飛ばされた後は……。


 これから起こるであろう事象と、その分岐を可能な限り予測する。エンナはこれを本能で行っていた。


 振り下ろされたイーファの拳と、自らの顔との間に腕を割り込み防御する。襲い来る衝撃に備えて歯を食いしばる。


 足下の陣はもう消えるはずだから、これに叩きつけられることはない。あとは吹っ飛ばされた先に陣を張りなおして着地するだけだ。


 予想通りのタイミングで、しかし想像を絶する衝撃が腕にあった。それほどイーファの拳には力が込められていた。


「ぐっ……!」


 骨ごと砕かれるのではないかと思う威力をなんとか後方に逃がしながら、痛みに耐えた。高速の中に持ち込まれた視界が一瞬なくなる。しかしなんとか飛ばされた方向に陣を張ったエンナはそこに着地を試みる。


 全身のばねを駆使して中腰になりながらもなんとか両手をついて、陣の上に降り立つ。


「さすがですね! でも、次を避けられますか?」


 浮遊をやめたイーファが落下を利用して迫っている。痛みと痺れですぐには動けないエンナは、そのままの体勢でイーファを見据えていた。


 落下に縦回転を加えた蹴り降ろしを放つイーファは、エンナが動けないことを見越しているに違いない。


 しかし当然エンナにも策がある。通常、陣は時間経過で消滅するが、今、エンナの足下に張られた陣は発現者のタイミングで消すことのできる演算を組んだものだった。


 タイミング計っていたエンナが、イーファの攻撃が当たる直前に陣を消す。羽根のない者の因果に従って落下を始めたエンナの身体は攻撃の軌道上から逃れることに成功する。


 すぐさま真下に新たな陣を張ってそこに立つ。イーファの脚が頬をかすめながらも空を切る。


 エンナはイーファの体勢をよく観察しながら、その流れに合わせてイーファの腕を両手で掴んだ。そのまま落下の勢いを利用しながら、足下の陣に向けて投げ飛ばす。


 投げ飛ばす最中、イーファの身体の重みが薄れていくのを感じた。浮遊することで投げ技からのがれようとしているのだ。


 そうはさせない。イーファが浮遊してしまう前に陣に叩きつけてしまえばいいのだ。足下の陣まで届かないのなら、新たに地面となる陣を作るだけだ。


 指輪型の魔導具が新たに光を灯す。今イーファのいる座標の真下に向けて、正確無比な位置とタイミングで新たに陣を張る。


「きゃっ……!」


 現れた陣に背中を叩きつけられたイーファが小さく悲鳴をあげる。

 エンナはそのままイーファの横たわる陣に飛び乗り、イーファの身体をまたぐように立つや、その顔に向かって拳を振り下ろした。


 来たる痛みに備えてイーファはぎゅっと目を閉じた。


「俺の勝ちだな」


 イーファの眼前で拳を止めたエンナが言う。


「うぅ、悔しいです」


 目を開けたイーファが言葉通り悔しそうに言った。意外と負けず嫌いな性格のようだ。


「他に言うことは?」


「……参りました」


 渋々と、しかししっかりとした声音で言ったイーファは、恨めしそうにエンナを睨む。


「そんなに睨んでも俺の勝ちだ」


「わかってますよ」


「ほら、その陣はもう消える。こっちに来い」


 エンナは真横に新たに張った陣に移って、倒れたままのイーファに手を差し出した。


「ありがとうございます」


 その手を取ったイーファが立ち上がる。


「エンナ、強いんですね。ちょっと意外です」


「あんたは弱いと思ってるやつをアンガスと戦わせる気だったのかよ」


「まあその辺は努力次第でなんとかなるかなぁ、と」


「楽観しすぎだろう……」


「まあ、嬉しい誤算でしたね。まだまだアンガスには遠く及ばないですが、希望が見えてきました」


「そいつは良かったな」


 これでもまだまだアンガスに届かないと告げられ、少し憂鬱な気分になる。いったいアンガスはどれだけ化け物だというのか。


「でも……」


 イーファが物欲しそうにエンナの胸元に視線を向けた。


「エンナの呼応石、欲しかったなぁ」


「手は貸すって言ってるんだから、これは別に必要ないだろ?」


「それとこれとは話が別です」


 社交辞令でなく本心から呼応石を欲しがっている様子のイーファは、なおもエンナの胸元から目を離さない。


「どうしてもだめですか?」


 一転してしおらしい声音で小首を傾げながら言うイーファに、エンナは首を縦に振ってしまいたい衝動に駆られたがなんとかそれを押さえ込んだ。


「約束は約束だからな」


「……ですよね。うぅ、こんなことならもっと戦いの訓練しておくんでした」


 なにをそこまで拘るのかエンナには理解が及ばないが、約束という一言にイーファは悔しげながらも大人しく引き下がる。そのあたりは律儀な性分と言えた。


「約束と言えば、ひとつ言うことを聞くんでしたね。……なにをすればいいですか?」


「ああ、そういえばそうだっけな。何と言われてもなぁ」


 何か思惑があったわけでもないエンナはどうしたものかと考える。


「あの、エンナ?」


 自分への命令に悩むエンナの姿をどう捕らえたのかイーファは不安げな様子でいる。


「ん? なんだ?」


 見るとイーファは顔を伏せたまま、ぎゅっと拳を握っているではないか。その緊張した様子をエンナは不思議に思う。顔を伏せたままではその表情を窺うことも叶わない。


「あのですね……わたし、なんでも言うことを聞くとは言いましたけど、その、できれば、あまりやらしいお願いは……」

 

手をもてあそび、上目遣いにちらちらとこちらを窺いながら言う姿に、エンナは不意を突かれてしまった。思わず目を瞠って、それからイーファの言葉の意味するところを理解する。


「ふっ……はは」


 先程までの天真爛漫で勝ち気な少女はどこに行ってしまったのだろうか。その豹変ぶりに吹き出してしまう。


「笑うなんてひどいです! わたしは真剣に……!」


 暗がりの中でもわかるくらいにイーファの顔は赤い。その様子がまた可愛らしくて、いっそう可笑しかった。


「悪い悪い。でもそう来るか。そんな心配するくらいなら最初から言わなけりゃいいのに」


「まさか負けるとは思わなかったんですよ。でも約束は守ります。えぇ、守りますとも。エンナ、遠慮はいりません! なんでも言ってください!」


 半ば挑むように虚勢を張るイーファを前にエンナは途方に暮れた。


(そんな潤んだ目で凄まれてもなぁ)


 なんだか自分が悪いことをしているような心持ちになってしまうではないか。


「そう気張るなよ。賭けのことはもういいからさ」


 目線より少し低い位置にあるイーファの頭に手を置き、乱雑に撫でてやる。アイオンを宥めてやるときによくやる行動で、無意識にそうしていた。


「そういうわけにはいきません。約束は約束です。エンナだってそう言ったでしょう?」


 撫でられることからは逃れようとせず、それでも顔を上げてイーファはエンナを見る。引き下がる気はないようだった。


「ならとりあえず保留で。なにか考えとくよ」


「絶対ですよ。遠慮したらだめですからね」


「はいはい。そろそろ戻るぞ。流石に少し冷えてきた」


「はい。わたしもそろそろ眠くなってきました」


 二人して見張り塔の窓へと戻る途中、イーファが思い出したように振り返った。


「明日からアンガスに勝つための特訓に付き合ってくださいね。ふたりで頑張りましょう」


 そう言って無邪気に破顔するイーファにはどうやっても勝てる気がしないと思ったエンナだった。

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