第二十六話 子供と大人の間には、お赤飯なの。
秒針を刻む音が響く。針は正午を少し過ぎた。
鍵を開ける音が響く。……のドアが開かれた。
玄関のドアだ。
するとね、
「あっ、おばさん」
「妙ちゃん、いつもありがとね」
ママの声……それから間もなく、ママの姿が目の前にあった。
わたしのいるお部屋……そこは、わたしのお部屋。
玄関からはもう、目と鼻の先というくらい近い場所にあった。
「
……ママが驚くのも無理はない。
今日、わたしは保健室に運ばれて学校を早退することになって、
「瑞希、血が出っちゃったの。
う~んとね、そのことをね、智美先生がママに話しなさいって言ったの」
ママは……暫く考え込んだ。
妙ちゃんはその傍で、わたしも含めママも見守っていた。
これじゃ、わからないよね……。
そう胸中で呟いた時、ママは、クスッと笑った。そして、
「瑞希にも、とうとうきたのね」
「ママ?」
「お昼まだでしょ? お赤飯を買ってきたから、妙ちゃんも一緒に食べようね」
「うん!」
……って、どうしてお赤飯なのだろう? と、思考の渦中……ママと妙ちゃんは、ニッコリと笑いながら、わたしの顔を見る。火照る顔……きっと、真っ赤な顔。
やだ、あんまり見ないで。と、心の声は、その瞳の奥に。
恥ずかしいといえば、智美先生でも恥ずかしいことなのに、ママは喜んでいるように見える。これが大人なのかな? ママがすごい人に思えてならなかった。
台所に移動する。近所のスーパーの袋から、三人分のお赤飯がママの手によってテーブルの上に飾られる。お赤飯は温かく、レンジでチンいらず。そのまま椅子に座った。
それから、一緒にお赤飯を食した。
温かくて、本当にチンいらずの、楽しい時間を過ごした。
……そして、
「もう帰っちゃうの?」
「うん。瑞希ちゃん、あとはママと一緒にね」
そう言った時には、妙ちゃんはもう帰り支度を済ませていて、
「おばさん、ありがとう。お赤飯、とっても美味しかったよ」
と笑顔で、ママもまた笑顔で、
「妙ちゃん、瑞希のこと本当にありがとうね。またいつでも遊びに来てね」
「うん!」
……わたしは思った。
妙ちゃん、とっても明るくなった。
初めて会った頃と、変わっていた。
今は、わたしの方が、
妙ちゃんから元気をもらっているみたいだ。
そして、この日の夜、
わたしはママと一緒のお布団に入った。
ママは、わたしに……お話してくれた。優しく子守唄も歌ってくれたの。
とっても……
とても懐かしかった。ぐっすりと、眠ることもできた。
ママが言うには、
わたしに『初潮』というものがきたそうだ。それから時間の流れは速いもので、一学期が無事に終わって、もう夏休み。ここに越してきてから、初めての夏休み。
そして、小学五年生の夏休みなの。
今まで、お兄ちゃんが一緒だった。
もうお兄ちゃんが中学生になったから、でも、でもね、
……お家を出る時、ママが言うの。
「早く帰って来るのよ」と。
「うん!」
独りぼっちじゃないのよ。
今日はね、妙ちゃんと近所の図書館へ行く約束をしているの。
風、とても気持ちいいの。
足取りも軽くルンルン気分で、このまま妙ちゃんのお家に向かうの。
「瑞希、ちょっと待て!」
「お、お兄ちゃん?」
振り返ると、お兄ちゃんが追いかけてきているの。
わたしは足を止めた。スニーカーを履いた両足を。
「走っちゃ駄目って、ママに言われただろ」
「あっ、ごめん」
しゅん……としていると、
クスッ……と、お兄ちゃんは笑って、
「お兄ちゃんも一緒に行くよ」
「でも、お兄ちゃん、演劇教室は大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫。今日は休みだから」
お兄ちゃんは
クラブは何処にも入らずなの。塾に通いながら演劇教室一本で通している。夢は舞台の役者さん。そして将来の夢はね、自分の劇団を持つことなの。ねっ、すごいでしょ! 揺らぐことなくブレることもなく、まっしぐらに決めた道を進んでいる。
わたしは、そんなお兄ちゃんが大好きだ。
そしてわたしは、お兄ちゃんと一緒に、妙ちゃんのお家の前に来た。
玄関のドアの前。ここは六棟一〇二号室。わたしとお兄ちゃんと一緒の、同じ公営住宅だ。前にも何回か行ったことがある。チャイムを鳴らしたら、妙ちゃんがドアを開けて出て来た。妙ちゃんは、お兄ちゃんと顔を合わせることとなる。
……やっぱり、びっくりしていた。
「やあ、
「あの……満さん、お久しぶりです」
お辞儀から始まって、顔も赤くて、
わたしは、ぷっと笑って、
「あ~瑞希ちゃん。今笑ったでしょ」
「だって、妙ちゃんのリアクションが、あまりにも面白かったから」
すると、
妙ちゃんの表情……何だか悪戯っぽくなって、
「あ~ら、瑞希ちゃんだって、
「もう妙ちゃん、ヒロ君のこと内緒だって……」
昔の呼び名に戻ったの。宏史君がヒロ君に。この夏休みにまた、お泊りするの。ヒロ君のお家に。ヒロ君のお姉ちゃんたちは双子で、茜ちゃんと葵ちゃんとね、また遊ぶの。
茜ちゃんと葵ちゃんは、お兄ちゃんとは昔、同級生だったのだけれど、
今はね……
「はは~ん、瑞希も隅に置けないな」
って、追い打ちをかけるの。
それにもう、ヒロ君とは、お友達の関係以上なの。でも、わたしの中だけで……
「二人とも、そんなに見ないで。わたし恥ずかしいよ」
と、わたしが言った後、妙ちゃん、それにお兄ちゃんも、怪訝な顔をするの。
そして……
「おい瑞希、今何て言った?」
「えっ?」
「そうよ、瑞希ちゃん」
「ち、ちょっと、二人とも怖いよ……」
お兄ちゃんと妙ちゃんが迫って来る。わたしは、後退りする。
「あ、あの、わたし……」
「それだよ!」
と、お兄ちゃんは大声で言う。で、続けて、
「瑞希、今、自分のことを『瑞希』ではなくて『わたし』って言ってたぞ」
種明かしという訳ではないのだけれど、さらに妙ちゃんまで、
「そうよ、瑞希ちゃん。いつもは『瑞希』って言ってるのに、急にどうしたの?」
「……わからないの」
本当にそうなの。そう言うしかなくって、
この日を境にね、わたしは自分のことを名前で『瑞希』と言わなくなったの。
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