トイレは一階になる。このときにはさすがに意識がはっきりしていた。美波は廊下を出てしまうと、奇妙な確信に押されるようにして階段を下りつづけた。

 一階端の洗面所兼トイレにたどりつくと、明かりがついていることに不思議な安堵を覚えた。

(誰か、やっぱりトイレを使っているんだわ)

 それだけのことだと思いながらも、トイレに近づくと、洗面所でうずくまっていたのは雪葉だった。

「雪葉! どうしたの?」

 吐いていたのだろう、手が水と吐瀉物で濡れている。

「……美波……。気分悪くて……それで」 

「待っていて、杉さんを呼んでくるから」

 杉の部屋は一階で、廊下を行けばすぐだ。たどり着いた部屋の扉を美波は必死にたたく。返答がないので、ドアノブをまわすと、室内は静まりかえっている。

「すいません……、杉さん?」

 暗い部屋には誰もいない。

「な、なんで……?」

 一瞬うろたえた美波だが、そのときになって夕食後、杉が「今夜はシスターたちと会議があるので学院へ行ってます」と言っていたのを思い出した。部屋の時計を見ると十二時半を示している。こんな時間までまだ学院にいるのだろうか。

 美波は迷った。学院まで行くべきか。だが、苦しそうな雪葉のことも気になる。とにかくもう一度トイレへ戻った。

「ごめん、杉さん会議で学院へ行っているみたいなの。どうしょう……、とにかく、ここだと冷えるから部屋へ戻ろう」

「う、動けない……」

 雪葉の顔は真っ青で、苦しそうに喘いでいる。

「どうしょう……」

 美波は数秒考えて決心した。

「学院へ行って呼んでくる」

 叫ぶように言っていた。

「学院へ行けばシスター・グレイスもいるわ。シスター・グレイスは医者だっていうから、なんとかしてくれかも。待っていて」

 だが、このままの状態の雪葉を一人にしておくのも気がかりだ。そう思ったまさにそのそのとき、トイレに人が入ってきた。

「夕子ぉ……」 美波は自分の声が泣きそうな安堵をふくんでいることを自覚した。

「ベッドが空でなかなか帰ってこないんで、具合でも悪いのかと思って」

 ややうつろな目で夕子は洗面台にうずくまるようにしている雪葉を見下ろす。

 相変わらず冷ややかな雰囲気だが、それでも美波のことを案じてトイレへ来てくれたのだと思うと、美波は胸底にぬるい湯が沸いてくるような気がした。熱くも暖かくもないけれど、それでも冷たくはない湯がゆったりと湧いてくる心持ち。

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