新羅(韓国)は、倭国大乱に関わっていた

 倭国大乱は、魏志倭人伝にも出てくる話である。

 今回は、歴史の話をする。ウエツフミという大分県の地方史は、古事記や日本書紀とは、違う日本史をつづっている。それも、神話としてではなく、歴史書として書かれている。この本と竹内口伝が一致しているところは、豊国73代目天皇が倭国一代目神武天皇であることである。豊国は、74代目で終わっている。ウエツフミの記事は、3世紀の大和王権が誕生した後に途切れている。これじゃあ神武天皇が3世紀の人だったことになる。この天皇家は、全国を行幸して尊敬を集め、主食や新たな根菜の食べ方を伝授したりして日本全土、東北にまで名をはせていた。

豊国の豊国文字は、カタカナの原型。


 ウエツフミには、倭国大乱(2世紀から3世紀ごろ)のことが克明に描かれている。


 この倭国大乱の8年前に、新羅(今の韓国南東部の慶尚道(キョンサンド))から、新羅国の王主・ユグトブブルが、将のケシビビヤム、コウルトトウブらを伴って三重県に上陸。秋津根の国(奈良県)のタケル=豊国が置いた各地の領主の屋敷を密かに訪問し財宝を後から持ってくるから穀物を交換してくれと交渉する。タケルは、これを信用しなかった。そこで、宇陀の国岳(現在の奈良県宇陀市国見岳)のナガスネヒコに面談し、彼をそそのかす。ナガスネヒコは、勝手に天皇を名乗り悪行三昧。新羅、ナガスネヒコ連合軍になって、国盗りを始める。

 彼らは、最初、行幸していた72代目になるはずの皇太子を殺して調子に乗るが、その72代目の弟の狭野の命によって、この騒乱は平定された。実際に、この戦いを勝利に導いたのは、ウマシマテ。そのウマシマテが、ナガスネヒコを誅するときの一節を抜粋


新羅人の悪事にのって国の穢れをなし、

また、天孫たちを殺害し、

この日本国を奪おうとし、

新羅人を味方につけた。


 ナガスネヒコは、ここで自害。戦争は終結する。


 戦後、豊国の71代目天皇は、狭野の命に、「いくさの終わった国々を巡幸すべし」と、命令。国内は、平穏になった。


 新羅軍は、戦いで毒霧を使ったともある。日本人は、古代より穢れを極端に嫌う民族であった。ナガスネヒコの七男の髓田輪之男郎は、お祓いをして罪を許し、特別に逃がしたそうだ。(後の物部氏?)新羅に、国民が穢されたことに、とても憤っている事が分かる。


 この、倭国大乱に乗じて、豊国の仇敵、北九州のヤマトタケルと武内宿祢(卑弥呼系?)が、出雲を味方に付けて、豊国が遷都しようとしていた関西を奪って大和を建国した。この後、豊国(ウガヤフキアエズ王朝)は、滅亡している。(実際は、近年まで、その地、大分に封じ込められていた)。この滅亡国に、記紀の国譲りの話と冒頭に紹介した神武天皇の話が重なるのである。


 この、ウマシマテ(浦島太郎?)が、ナガスネヒコを誅するときの「新羅人の悪事にのって国の穢れをなし」を聞いた日本人で、耳が痛くなる人がいるのではないだろうか。国の穢れにならないでね。このとき新羅は、熊襲(鹿児島)と、交流があったともある。だから太平洋側に船で出れた。韓国は、こっちが良くしてあげても、古代から、そういうポジションにあったってこと。

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