第十六話【飛び越えのフィガロ】

 一夜が明けた。

 あれから僕らは見張りを立てて交代で、グランロウの躯から目を離さなかった。

 ネルガルから奴ら魔人タイプの魔種ヴォルフベットの恐るべき生態を聞いて、本当に死んだのか、それともまだ生きているのか、僕らには判断がつかなかったからだ。

 ただネルガルはあれは死体で、間違いなく死んでいると言っているが。


 ――僕はもう一度、思い出す。ネルガルが言っていたことを。


 奴らは最初、どこからか目に見えぬほど微少な幼生体として現れて、そこから手近な生物に寄生し、体内で爆発的に増殖して宿主を乗っ取るのだと。

 そして奴らの特徴で最も厄介なのが、決して死ぬことのない、その不死性。

 生命活動を停止に追い込まれると、その場の他生物の体を取り込んで再生を図ろうとする、そんな生態を持った常識外れの超生命体。


 ――それが魔人タイプの魔種ヴォルフベット、と言うことらしい。


 それを教えてくれたネルガルはと言うと、起床してからずっと彼が毎朝の日課としていると言う、牙を磨く訓練を行っている最中だった。

 彼は両手を拘束されたまま、腰を恐ろしく低くして決して姿勢を崩さず、その体勢で体内の溢れんばかりの気を全開に放ち、精神統一をしているのだ。

 その姿をただ見ているだけでも、気圧されしてしまう程の凄まじさだった。


「……とんでもない男だな。とても勝てる気がしないぞ。私はおろか、たとえガナンであったとしてもな……」


 ウルリナが神妙な面持ちで、彼の方を見て言った。だが、僕も同感だった。

 敵として相対したとして、あの男に確実に勝てるとは僕も言い切れない。

 辺境騎士達もあの威圧すら感じさせる姿を見て、委縮してしまっており、その誰もが距離を開けてあの男から視線を背けている。


「父上に報告してこよう。新たに知れた魔種ヴォルフベット達の生態についてな」


 そう言い残すとウルリナは、足早に辺境伯がいるテント内へと向かっていった。

 勿論、辺境伯は昏睡状態から目を覚ました訳ではなく、城からここまで騎士達に運ばれて連れてこられたはいいものの、今も意識が戻る気配はない。

 だが、ウルリナにとっては、その報告が心の支えになっているようだ。


「さて……それじゃ、僕は」


 そんなウルリナを尻目に、僕もまた歩き出す。

 向かったのは……今も精神統一の真っ最中のネルガルの眼前。

 すると、僕に気付いたネルガルもまたこちらへと視線を向けてニヤリと笑う。


「よお、タミヤお嬢ちゃん。俺に何か用かい?」


「ああ、あんたの目的が何なのかそろそろ話してもらおうと思ってね。中央の大将軍様が何の意味もなく、僕らにただ捕ってるだけなんて、ある訳がないだろ?」


 それを聞いたネルガルが、空を仰ぎ見て豪快に笑いだす。

 そして笑みを湛えたまま、白い歯を覗かせて口を開くと、全身から放たれていた気が一先ずは収まりを見せた。

 だが、僕にはそれが嵐の前の静けさのように感じられ、気を張り詰めさせる。


「ここは間もなく魔種ヴォルフベットとの大戦争の最前線になるんだぜ? 現場をこの目で確認しておくのも、上級指揮官たる者の務めとは思わねぇかい、お嬢ちゃん」


「このまま僕らが、お前を大人しく解放すると思ってるのか? 中央と敵対している数で劣る僕らにとって、お前の身柄を押さえているのは大きな切り札なんだぞ」


 ネルガルは拘束されてから、今まで少しも動揺した様子を見せたことはない。

 この状況などこの男にとっては、何ら脅威ではないと言うことだろうか。

 だが、僕はこの男が何を企んでいるのか分からなかったが、ふとこの男の表情が一変して真顔になったのを見た瞬間、全身に戦慄が走った。


「まあ、そうだな。面白いものも見せてもらったし、お遊びはここらが潮時か。おい、いるんだろ? そろそろ始めてもいいぜ、フィガロ!」


「……っ?」


 ネルガルがフィガロと言う名を、呼んだ途端のことだった。

 ぞくりと背筋が凍るような殺気を背後から感じ、振り向こうとした、その瞬間。

 後方から体を突き抜けるような、衝撃が僕を襲った。


「がぁっ……あっ! なん、だ……何をされ、た!?」


 地面に手をつきながら後ろを振り返ったものの、そこには何者の姿もない。

 攻撃された瞬間は、確かに誰かの気配は殺気と共に感じ取れていたのだが、今はそれらが掻き消えるように消失してしまっているのだ。

 僕は村正を抜き放って牙神の構えを取ると、前後左右いずれの方向からの攻撃にも対応出来るように備えた。


(どこにいる? やはり気配は感じない。つまり透明人間のように、消えている訳でもない。一体、どこにいる……? どこから……来る?)


 と、気配を感じた。それも真正面からっ……。

 拳の一突きが僕の腹部に叩き込まれ、衝撃波が体を突き抜ける。

 だが、一瞬だけこの敵の右拳らしきものが見え、そしてやはり今回もその攻撃の刹那の間だけ、気配と殺気を感じ取れていた。


「くっ……重い! けど、それよりも……やっぱり、存在が消えているっ! どこにも気配がないっ!」


 周囲を見回し、気配を探っても、この敵はどこにも姿がなかった。

 ネルガルはこの様子をさっきまでと同様に腰を恐ろしく低くして、精神統一をしたまま、不敵に笑みを浮かべて窺っている。


「さすがは『飛び越えのフィガロ』か。腕は落ちちゃいねぇようだな。だが、殺すなよ? その女は魔人タイプの魔種ヴォルフベットを殺害出来る何らかの力を持ってる。帝都のバージバルに身柄を渡して、その仕組みを解明させるんだからよ」


 ネルガルは姿が見えない何者かに向かって、そう言った。

 やはり誰かがここにいるのは間違いない。ならば……と、その位置を確かめるためにも、僕は村正の切っ先を向けた牙神の構えから、攻撃対象に向かって疾走した。

 だが、僕が狙ったのは見えないフィガロではなく、ネルガルの方だった。


「まずはお前だ! 受けてみろ、ネルガル! 僕の『牙神』をっ!」


「ほう、考えやがったな」


 しかしネルガルは自身に攻撃の矛先が向いたにも関わらず、微動だにすることなく、じっと見つめたまま……。だが、牙神が彼に激突するその刹那、何者かがその切っ先を掴んで止めていた。

 現れたのは最初こそ手甲を装着した右手だけだったが、そこから徐々にフィガロと呼ばれた男の全身が現れ始めた。


「……驚いた。俺に姿を現させる状況まで追い込んだ相手は久々だ」


 その現れた青年は紺色の頭巾のような物を被っており、服は同じく紺色で長めのコートを着込み、目が覚めるような青い髪を生やしている。

 そして一際際立っているのが、白目の部分が全て黒色になっていることだった。


「お前が、フィガロか?」


「……そうだ」


 僕は村正に力を入れて動かそうと試みたが、恐ろしいまでの力で握られており、月の光を浴びていない日中の僕では、ピクリとも動かせそうになかった。

 力負けしていることに分が悪いのを悟り、次第に僕の額から冷や汗が流れ出す。


「……将軍、少し手荒いやり方になるが?」


「構わねぇよ。殺しさえしなければ、許可する」


 フィガロは右手で村正の切っ先を掴んだまま僕を見据えると、左手を僕の方へと突き出した……と、思った時には左手首だけが消え、僕の鳩尾を打ち抜いていた。

 今回は一段と深く重く僕に食い込んでおり、僕は意識を手放しそうになる。

 だが、それを止めさせたのは、ウルリナの僕の名を呼ぶ叫び声だった。


「タミヤ、ネルガル! お前達、そこで何をやっている!?」


 あまりにも静かに行われていた攻防のため戦いが始まっていることさえ、今まで気付く者はいなかったが、最初に違和感を感じて駆けつけたのは彼女が最初だった。

 そしてそんな彼女に続いて、騒ぎを聞きつけてきた辺境騎士達も続々と僕らの周りに集まり出す。


「こいつはギャラリーが一気に増えちまったな。さて、どうするかよ」


 ネルガルが心底、愉快そうに集まった騎士達を見回してそう溢すが、一方のフィガロは気が乗らないと言った顔で、すでに背を見せてしまっている。

 そしてそのまま遠ざかりながら、振り向くことなくネルガルに対してぼやいた。


「……俺の技はあまり不特定多数に見せるものではない。仕事は終わりだ。将軍、あんたには悪いが、帰らせてもらう」


「ま、仕方ねぇか。秘伝の殺しの技だもんなぁ」


 そのままぶわっと一陣の風と共に姿を晦ますフィガロに対し、ネルガルは一喝して両手を拘束していた枷を破壊すると、不敵に笑いながら、僕らを見回した。

 恐らく最初から逃げようと思えば、いつでも逃げ出せたのだろう。

 今まで僕らは遊ばれていたのだと知り、この男の今までの余裕の態度の理由も、これが合点がいった。


「ま、一旦は仕切り直しといこうぜ、お嬢ちゃん達。幸い、俺の方もお嬢ちゃんの血液サンプルだけでも頂けたことだしよ?」


 ネルガルが右手を掲げると、いつの間にかその手は滴る血で濡れていた。

 突然、痛みと熱さを感じて手首を見ると、いつの間にか僕の右手首から血が噴き出していた。驚いて咄嗟に止血をしたものの、血の勢いは止まらない。

 慌てた顔でウルリナが救護兵達に指示を出し、すぐに手当てを始めてくれたが、僕はネルガルから視線を逸らすことなく、仇でも見るような目で睨みつけた。


「そう怖い顔すんなって、お嬢ちゃん。俺らだって魔種ヴォルフベットとの戦いに勝つために必死なんだぜ。俺はしばらく……いや、魔種ヴォルフベットとの戦いの最前線で現場を指揮するために、当分は南部領にいるつもりだ。だから、またすぐに会えるさ、必ずな」


 ネルガルは右手から滴る僕の血を懐から取り出した小瓶に入れると、踵を返す。

 そして全身がメラメラと燃え始めると、熱風の闘気が僕らの方まで吹き起った。


「じゃあな、タミヤお嬢ちゃん」


「ま、待て! ネルガル!」


 僕が制止しようとするが、ネルガルは右足を地面に勢いよく叩き付ける。

 すると、あの男はあっという間に全身を燃やしながら空高く舞い上がり、空の道を通って、南部領の方向へと消えていった。

 このまま追跡しても追いつけない。いや、追いつけたとしても止められない。

 それが分かっていたからこそ、僕とウルリナはその様子を、忌々し気にただ見上げているしかなかったのだ。

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