第42話 勝手に何度も惹かれている

 また夕方にお邪魔するね、と果歩に告げ、紗衣は自分の部屋に戻った。

 1時間ほどしかエアコンの電源を切っていなかったのに、すでに温室のように暑い。簡素な造りのアパートなのだから、仕方がない。

 紗衣はエアコンの電源を入れ、洗濯物と布団を取り込んだ。

 それから、フルーツ缶を使ったゼリーをつくる。明日、職場に差し入れしたいから。

 ゼリー液の熱を保冷剤で取る荒技で粗熱がなくなるのを待ちながら、自分が料理をするようになった経緯を思い返した。

 好きな人に手料理を食べてもらいたい、という純粋な動機ではなかった。そもそも、好きな人はいなかった。

 実家にいた頃、そこそこ料理はやっていた。両親が共働きだったから、ご飯を炊き、味噌汁をつくり、卵焼きはつくっていた。鈴村の祖父母から頂いた野菜でサラダをつくることもあった。

 本格的に料理をするようになったのは、大学を卒業して病院のクラークとして働くようになってからだ。

 クラークの先輩から教わったことは、「クラークと看護助手は手づくり弁当じゃないと、いじめを受ける」という暗黙の了解だった。

 封建的な人間関係の病院スタッフは、実質、看護師に仕切られていた。ベテラン看護師に一度目をつけられれば、見逃してもらうことはできない。

 若くして結婚した看護助手の女の子は「妊娠しているのならそう言ってくれないと、仕事をどこまで任せられるかわからないから困る」と言われ続けた。女の子は妊娠していなかったが、自律神経失調症になって退職した。女の子が妊娠していたか否かが大切なのではない。看護師はマウントを取りたかったのだ。

 そのような看護師のいる環境下では、買い弁当禁止、冷凍食品禁止、弁当箱推奨、が暗黙のルールだった。

 紗衣は必要に駆られて料理を覚えた。少ない給料を切り詰めて、調理器具や調味料を買い揃えた。スーパーマーケットの広告を見るようになり、マイバッグとポイントカードを使うようになった。

 料理の習慣は、転職した今も続いている。良いことなのだろうけど、きっかけがきっかけなので、前向きに考えるのは難しい。



 むき海老、玉ねぎ、生クリーム、牛乳、チューブの生にんにく、カレー粉、バター、底の深いフライパンを持ち、紗衣は17時に果歩の部屋にお邪魔した。

「海老のクリームカレーをつくります」

「よろしくお願いします」

 海老のクリームカレー。実は、紗衣も初めての試みだ。

 料理のアプリでレシピを知り、挑戦してみようと材料を買っていたのだ。

 むき海老をフライパンで加熱し、にんにくと薄切りの玉ねぎを加えて炒める。玉ねぎが透き通るようになったら、カレー粉をまぶす。

 生クリームと牛乳を混ぜ、吹きこぼれない程度の強火で5分ほど沸騰させる。最後に、バターを一切れ入れる。

 スマートフォンを見ながらでも、1時間かからずに完成した。

 計量は紗衣が行い、果歩は混ぜるだけ。

「フライパン、すごいね。カレーもできちゃうんだ」

 果歩は小さく拍手する。

「うん、底が深いから、便利だよ」

 底の深いフライパンを、紗衣は重宝している。煮物も炒め物もできるから。一度炒めてから煮る料理は、フライパンひとつでできる。

「ご飯、炊くね! お紗衣ちゃん、夕飯食べてくでしょ?」

 果歩は、米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れた。冷蔵庫から、めんつゆ、卵、ミックスベジタブルを出し、片手鍋でスープらしきものも、つくり始めた。

 紗衣は返事をしていないのに、一緒に夕飯を食べることになってしまった。申し訳ない、と心の中で果歩に謝った。



 海老のクリームカレー、鶏ハム、玉ねぎのだし漬け、スープ、紗衣が部屋に取りに帰って持ってきたピクルスで、夕飯にする。

「へー」

 果歩はカレーを一口舐め、確認するように頷く。

 紗衣はいつもの流れで野菜から食べ始め、途中からカレーに着手する。

「へー、こういう味なんだね」

 クリーミーでありながら、スパイシー。でも、甘さもある。

 形容しがたい味に、ふたりは「へー」しか言えなかった。押すと“へー”と音が出るボタンがあれば、連打したいくらいだ。

 ふたりで2合の米飯をぺろりと食べてしまい、デザートにフルーツゼリーも食べ、食後のコーヒーで一息ついた。

「おいしかった!」

 果歩はご満悦だが、紗衣は後悔しかない。炭水化物を摂り過ぎた。

 テレビをつけると、バラエティ番組が始まっていた。紗衣は滅多にテレビを見ないから、芸能人も番組の内容も知らない。

「涼ちゃんは幸せ者だよね。お紗衣ちゃんのお料理が食べられて」

 CMに入ると、果歩がテレビ画面を見つめたまま呟いた。

 紗衣はコーヒーのマグカップに視線を落とす。

「涼ちゃんは、幸せなのかな。私がいて、迷惑しているんじゃないかな」

「そんなことないよ! お紗衣ちゃんといるときの涼ちゃんは、幸せそうに見えるよ」

「そう、なんだ?」

 紗衣は、彼に愛されているという自覚がある。ただし、ペットとして。そんなこと、果歩に話せるわけがないが。

「涼ちゃんに言われたことがあるの。一緒にいたい、とか、世話を焼きたい、とか。でも、涼ちゃんはそういう自分が変だと思っているみたい」

 彼に言われたことを思い出す。



 ――逆流性食道炎になったのではないかと思うほど、胸が苦しくなって、熱くて焼けそうだった。それなのに、紗衣をもっと見ていたい。近くにいてほしい。一緒にいたい。心から褒めたい。大切にしたい。愛したい。世話を焼きたい。俺にだけは甘えてほしい。そう思えるのは、紗衣だけなんだ。



 ペットしか愛せないと思って苦しむ彼には言えなかった。こう思うのは全く変ではない、と。彼はもしかしたら、ペットしか愛せない人ではないのかもしれない、と。

 ペット云々は避けて果歩に話すと、果歩は「両想いじゃん! いいなー!」とうらやましそう。

「果歩ちゃんは? この前、薫ちゃんと仲良さそうだったよ」

「そう?」

 果歩は曖昧に微笑む。

「運命だと思い込んでいただけかもしれない、と最近は思うんだ」

 果歩は、アイスコーヒーのマグカップを、両手で包む。

「私ね、去年まで高崎市役所の本庁舎じゃなくて実家に近い群馬町の庁舎に勤めていたんだ。薫ちゃんはそこで見かけて、優しそうな雰囲気に惹かれたのが始まりだった。今年度から本庁舎の介護課にに異動になって、また薫ちゃんに会って、これは運命だと思い込みをしちゃった」

 汗をかいたアイスコーヒーにさざ波が立つ。果歩の手が震えていた。

「薫ちゃんにとっては、きっと全然そうじゃないんだよね。薫ちゃんにとって私は、“同性”の友だちでしかない。それなのに、私は勝手に薫ちゃんの男らしいところを見つけては、勝手に何度も惹かれている。薫ちゃんは薫ちゃんだから好きになったはずなのに」

 薫は、戸籍上は男性だが、心は女性だ。

 紗衣にとっての薫は、姉のような友人だが、果歩にとっては違う。もっと特別な存在なのだ。

 果歩は純粋な恋をしている。しかし、薫はどうなのだろうか。

 この前の、果歩を愛おしむように接する薫の様子に、無関心や嫌悪の色は見られなかった。

「お紗衣ちゃん、ごめんね。こんな話で。お料理、教えてくれてありがとう。また自分でも練習してみるよ」

 果歩は、頼りなく笑った。ポジティブに考えたいけど、悩みから抜け出せない。

 今にも雨が降り出しそうな、夕立の雲のように不安定だった。

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