第39話 恋衣、はだけて

 群馬県の日照時間は全国6位、快晴日数は全国2位といわれているそうだ。

 梅雨が明けて間もない土曜日の朝。紗衣は防災用に購入したラジオでその話を聞きながら、眉をしかめて食前のアイスコーヒーを飲んだ。

 夏は嫌いだ。汗で不潔になるから。汗が臭うから。

 本日の朝食は、こんにゃく麺と生野菜サラダ。

 お弁当は、鶏ハムとトマトのマリネのこんにゃく麺サラダ。弁当箱でなく、スープジャ-に入れて。保冷バッグに入れて、保冷剤も詰める。

 紗衣は春期より15分早くアパートを出発した。

 職場に着くと、プランターのミニヒマワリにたっぷり水をあげる。

 一番乗りで職員玄関から建物に入ると、女子ロッカールームのエアコンをつけて冷房を稼働させる。

 冷風と汗拭きシートで発汗と汗臭を消し、メディカルウエアに着替える。

 身支度を万全に済ませると、男子ロッカールームとクリニック内もエアコンを稼働させた。

 この一連の流れの所要時間は、15分。もういつもの時間だ。

 他のスタッフも出勤してくる。眠そうな「おはようございます」が交わされる中、やたら眩しいスクラブがスタッフの視界に飛び込む。

「ちょっと“おっさん”、やめてよ。そのショッキングピンク」

 事務長の保坂育美が、朝からばっさりと院長の青木雅哉先生に

 青木先生は「なんだよ、“おばやん”」と眉をしかめる。

「新色のラズベリーピンクだよ」

「趣味悪っ! なにその“張り切りピンク”」

「新色のラズベリーピンクだって言ってんだろうが」

「若いこの前でよくそんな“おピンク”が着られるわね」

「新色のラズベリーピンクだからな」

 青木先生は欠伸あくびをかみ殺し、新色のラズベリーピンクのスクラブにボールペンを差した。

「じゃあ、朝のミーティングを始めるよ」

 新色のラズベリーピンクのインパクトが強すぎて、紗衣は気づかなかった。

 大きな肩が隣にあったことに。

「青木先生と私は、私用のために定時で帰らせてもらいます。皆さんも、今日は早く帰りましょう。では、本日もよろしくお願いします」

 保坂事務長がミーティングを閉め、スタッフは「よろしくお願いします」と軽く頭を下げた。

 紗衣も皆に倣い、頭を下げる。顔を上げたとき、自分で切り揃えたばかりの前髪を細い指に梳かれた。

 すだれを上げるように、前髪が一房持ち上げられる。

 甘いマスクの彼と目が合った。彼は、双眸をわずかに細め、口元を綻ばせる。

 紗衣は一瞬、無駄に大きな胸元に氷を落とした錯覚を起こした。

 不意打ち。ずるい。彼はミーティングの前から、こっそりと紗衣の隣にいたのだ。

 見つけた、と言わんばかりの笑みは、まるで家出をしたペットを探し出した飼い主のよう。

 始業前から心をかき乱さないでほしいと思いながらも、嬉しさが隠せない。

 でも、やっぱりやめてほしい。

 また幸せすぎて気持ちがあふれ出して、暴走してしまうかもしれないから。



 青木先生は今日も“巻き”で診察を回してゆく。

 昼休みはいつもの時間とほとんど変わらずに休憩することができた。

「鈴村さん、そんなじゃあ、倒れちゃうよ」

 紗衣のこんにゃく麺を気にしたスタッフが、お節介にもチョコチップクッキーをくれた。紗衣はありがたくクッキーを受け取るが、小袋を開けない。

「食べないの?」

 目敏めざといスタッフに指摘され、紗衣は素直に話すことにした。

「知り合いの結婚式に呼ばれているんです。服のサイズが合わないと困るので」

「わかるわ!」

 テンション高く同意したのは、保坂事務長だった。彼女も紗衣と似たり寄ったりの高身長。服選びの苦労も似ているのかもしれない。

「でも、まずは返信ハガキを書かなくてはならないのですが、書き方がよくわからなくて」

「今持ってる? 見てあげようか?」

「本当ですか? ありがとうございます。持ってきます」

 前職のクラ-クの先輩が、結婚式に紗衣を招待してくれた。紗衣は前の病院で指導係がおらず放置されていた中、先輩は担当フロアが違う紗衣の面倒を見てくれた。先輩は紗衣の入職から1年経たずにハラスメントの憂き目に遭って退職してしまったが、以前から交際していた年下の看護師と入籍するに至ったのだ。

 紗衣はロッカールームに走り、手帳に挟んでいた結婚式の招待状を持ち出した。

 廊下に出たところで、彼と鉢合わせた。

 息を止めた拍子に、紗衣の無駄に大きな胸がわずかに膨らむ。

 涼ちゃん。

 愛称が口からこぼれそうになる。そうならなかったのは、女子ロッカールームの隣の男子ロッカールームに連れ込まれたから。

 ただ抱きしめられ、紗衣は身をゆだねた。

 恥ずかしいけど、嬉しい。

 まるで恋人みたい。



 一昨日おとといの夜、突然外食することになり、夜景の綺麗なレストランにエスコートされた。プレゼントにパールビーズのネックレスまで頂いてしまって、恋衣こころはだけてしまった。

 嬉しさ感謝と、秘めていたはずの淡い気持ちは、暴走するには充分だった。紗衣は生まれて初めて、愛しい彼に口づけした。成功とは言えない、わずかしか重ならないキスを。

 ペットがいたずらしただけ、と心はごまかした。本心を吐露すれば、また彼を悩ませてしまうから。

 昨日は、何もなかった。紗衣が彼を避けていた。まともに顔を合わせたら、気まずくなると思っていたから。



 額に口づけされる。続いて、鼻先。軽くかすめるだけの、遠慮がちなキス。

 もどかしい。顔が近いのに、まともに触れてもらえない。

 背伸びする必要はない。紗衣は、あごの向きを少しだけ変え、そっと唇を重ねた。

 花びらが1枚落ちるような、ささやかな口づけで精一杯。それなのに、彼を愛する気持ちは膨れる一方だ。

 お願い。今だけは甘えさせて。



「暑っ! こんな熱い中にいたら、熱中症になっちゃうだろ!」

 新色のラズベリーピンクが、突如ロッカールームに現れた。

 電子タバコを手にした青木先生は、すっとふたりの脇をすり抜け、自分のロッカーに電子タバコをしまった。

「ふたりとも、今夜空いてる? この前の果歩ちゃんと薫ちゃんにも、ぜひとも声をかけてよ。紹介したい人がいるんだ」

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