第38話 涼ちゃんの木曜日(後編)

 ――涼太、やっと出てきてくれた!



 今でも思い出す。太陽のように明るいを。

 夜勤明けの目には眩しすぎるほどうるさい。



 ――昨日の夜から、ずっとメールも電話もしてたんだよ! 涼太、全然出てくれないんだもん! だから、ここまで来ちゃった!



 は、涼太の腕を組み、上目遣いで視線を絡めようとする。



 ――映画館、行こう! 4DXで洋画見ようよ! 車で来たんでしょ? 乗せてよ!



 問答無用で助手席に乗り込む。カーナビを操作して映画館までのルートを検索、決定する。

 涼太は反対する活力もなく車を運転し、映画館で仮眠する暇もないほどに話しかけられ、映画の後の遅いランチは嘔気で食べられず、休む間もなく買い物の荷物持ち。をアパートに送ったのは、夜勤明けから約12時間後のことだった。



 ――ねえ、泊まっていってよ。



 の誘いを断り、気力を振り絞ってマンションに帰り、泥のように眠った。

 涼太が次に目を覚ましたのは、約20時間後。翌日の夜だった。

 夜勤前から電源を切ったままだったスマートフォンの電源を入れ直し、絶えず送られていたからのメールの数にうんざりした。

 メールを削除しようか目は通そうか考えているうちに、電話がかかってきた。



 ――あり得ない! ずっと連絡くれないなんて! 涼太はいつも、自分のことばっかり!



 あり得ない。そうだよな、俺はあり得ないよな。

 ペットしか愛せないなんて、おかしいよな。

 つき合っていたはずのはペットではないから、やはり愛せなかった。

 とは、やがて別れることになった。

 周りからは、あり得ない、と言われた。

 あんなに明るくて器量の良い女性と別れるなんて、あり得ない。今からでも遅くないから、よりを戻せ。

 それでも、よりを戻す気にはなれなかった。

 正式にと別れた後、あの事件は起きた。



     ◇   ◆   ◇



 赤信号でブレーキを踏み、左前腕をさする。傷はとっくに癒えたのに、痛みを錯覚することがあるのだ。

 現在、18時半。きっと彼女は待っているだろう。

 以前つき合っていたではなく、後ろめたさを感じたままペットにした、彼女が。

 暑いから部屋でエアコンをかけて休んでいて、と伝えたのに、アパートの前で待っていた。

 ファッションモデルのように背が高く、スタイルの良い彼女。本人は容貌を気にしているが、涼太は彼女を可愛いと思い、素敵な人だと一目置いている。

「紗衣」

 愛しい彼女。涼太の大切な“家族”。

 彼女の名を呼ぶと、彼女は恥ずかしそうに、でも嬉しそうに目を伏せた。

「あまり良い格好はできなかったけど」

 自信なさそうな彼女は、ネイビーとホワイトのストライプのワンピースに身を包んでいた。ウエストに切り返しがあり、とても似合っている。

「素敵だよ」

 涼太が正直に吐露すると、彼女は「でも」と口ごもる。

「ピンク色のラインが入っていたの、今日まで気づかなかった。2,980円で、お財布に優しいから買っちゃったの」

「ピンク色、嫌いなの? 綺麗だと思うけど」

「ピンクとか赤とか、私には似合わないよ」

 言われてみれば、彼女は赤やピンクといった、フェミニンな色を身につけていなかったかもしれない。

 しかし。

「似合うよ」

 涼太が言い切ると、彼女は口を閉ざしてしまった。

「行こうか」

 涼太が促すと、彼女は助手席に乗ってくれた。

 彼女はいつも、長い髪をアップにしている。今日はパールビーズをあしらったヘアコームをつけていた。

 ぐっと大人っぽくなった彼女に、涼太は心拍数の急増な上昇を感じずにはいられない。体内をめぐる血液はかなり熱いと聞くが、ますます熱くなったようだ。

 手をつなぎたい。指を絡めたい。抱きしめたい。

 赤信号で止まるたびに、そのような衝動に駆られてしまう。

 しかし、そんな変態行為をしたら、きっと嫌われてしまう。ただでさえ、自分はペットしか愛せない変態なのだから。



 高崎市役所の最上階、21階にあるレストランは、平日であるにも拘わらず混んでいた。

 白壁で仕切られた個室が特徴的な店内で、ふたりは窓際の個室に通された。

 対面のテーブルではなく、窓に面したテーブルにふたり並ぶかたちになる。

 眼下には、黒々悠々と流れる烏川からすがわ。河川敷で煌々とライトをつけてサッカーの練習が行われていた。

 川向こうのこんもりした山は、通称、観音山。巨大な白衣観音びゃくいかんのんが山裾を見下ろしている。

 料理を注文し、彼女が呟いた。

「あの観音様」

 視線は窓の外を向いたままだ。

「江戸川乱歩の少年探偵団に、ワンシーンだけ出てきたはず」

 ソフトドリンクが運ばれてきて、彼女は我に返ったようだ。

「ごめんね、オタクな話を」

「紗衣は文学が好きなんだね」

 彼女は大学の日本文学科が最終学歴。勉強と実習漬けだった涼太とは、身についた教養が違う。もっと彼女の話が聞きたい。彼女の声、喋り方、癖を感じたい。

 ソフトドリンクで乾杯すると、涼太は話の続きを促した。

「少年探偵団の話のどこに、観音様が出てくるの」

「2巻目か3巻目。怪人二十面相の気球が観音様に引っかかって、それを警察が回収するエピソードがあるの」

 彼女は気づいていない。瞳をきらきらさせて話していることに。彼女の魅力。涼太だけが知っている、宝物。

「ごめんね。つまらないよね、こんな話」

 彼女はすぐにうつむいてしまった。

 なぜだろう。逆流性食道炎の既往はないのに、胸部に痛みが生ずるのは。

「つまらなくないよ。紗衣はお利口さんだね」

 綺麗にまとめた髪を、少しだけ指で梳く。彼女はわずかに戸惑い、くすぐったそうに微笑んだ。

 可愛い。抱きしめたい。キスしたい。でも、そんなことをしたら、彼女は繊細な心を壊してしまうかもしれない。

「紗衣、お酒は飲まなくていいの?」

「今日は飲まないよ。お酒を飲むと、太るから」

 そう言う彼女は、モデルのようにスタイルが良い。意外にも、肉が好きだ。食事の順番は、野菜、肉、炭水化物。炭水化物はごくわずかしか摂取しない。

 群馬野菜のサラダとサーモンカルパッチョが運ばれてきた。

 彼女はやはり、野菜サラダから手をつける。

 メインディッシュの赤城鶏ソテーは、鼻歌が出そうなほど嬉しそうに、もぐもぐ。上州牛のサーロインのローストを分けてあげると、最初は断られたが、しばらくして大きな一口で、もぐもぐ。

 可愛い。なんだ、このあどけなさは。

「紗衣、ソースついてるよ」

 形の綺麗な唇に、ほんのわずかについていた脂を、指で拭う。拭わずともよいくらい、うっすら付着していた。

 ソースついてるよ、なんて、口実だ。彼女の柔らかい唇に触れたい。可愛い舌で不器用に舐めてほしい。

 さすがに舐めなかったが。

 デザートを注文しようか、と訊ねると、首を横に振って断られた。ふるふると動作が可愛らしい。

「涼ちゃんに、そんなに尽くしてもらったら、申し訳ない」

 視線を合わせても、すぐに俯いてしまう。そんな彼女の視界に、涼太は本日一番の“尽くし”を差し出した。

 アルバイトの後に急いで買った。デパートに行く余裕はなく、通りの途中にある雑貨屋で、店員に見繕ってもらい、ラッピングもお願いした。箱に入れてもらって、桜色の包装紙に包んでもらって。

「尽くしたいんだ、紗衣に」

 彼女が無言で息を呑んだのが、わかった。長いまつげに縁取られた目を見開き、魅惑的に大きな胸が、肺の動きに合わせて上下する。揉みたい。

 彼女は、ネイルをせずとも美しい指で包装紙を剥がし、箱の中身に、また無言で驚いた。

 彼女にプレゼントしたいんです、と店員に嘘をついて購入したのは、パールのネックレスだ。葬儀に使うようなものではなく、パールビーズを編み込んだデザイン。今日のワンピースにはが、ドレスアップした際には、きっと映えるはずだ。

 ありがとう、と彼女の口から言葉がこぼれた。

「今度、結婚式にお呼ばれしているの。使わせてもらうね」

 本日最高の笑顔は、観音山の夜景よりも美しかった。

 本当はコース料理を注文したかったけど前日予約が必要だったから断念した、とか。

 未だにナイフが怖くて、肉料理を彼女に切ってもらった、とか。

 反省ばかりなのに、彼女の笑顔で全部吹き飛んでしまった。



 夜なのに、外は蒸し暑い。今夜も熱帯夜だ。

 彼女をアパートの前で下ろし、よろけた隙に抱きしめた。

「涼ちゃん」

 彼女の可愛い声が、愛おしさを加速させる。

 帰したくない。一緒にいたい。明日職場で会うまで約10時間も離れてしまうなど、たえられない。

 彼女が、もぞもぞと身じろぐ。白魚のような手が、ざらりとした涼太の頬を包み込んだ。

 一瞬、ふたりの息が止まる。

 下唇に、柔らかいものがぶつかった。

 小さな風が生じ、彼女がよろよろと離れた。

「ペットがじゃれついただけだから、気にしないで」

 彼女は上品な身のこなしで背中を向け、アパートに入ってゆく。

 涼太は自分の唇をなぞり、噛んだ。

 半分ずれて重なったのは、彼女の潤った唇だった。

 ごめんなさい。

 涼太は、心の中で謝罪する。

 彼女は涼太に思いを寄せてくれて、勇気を出して告白までしてくれた。それなのに、涼太は彼女をペットとして見ることしかできない。涼太が精一杯彼女を愛しても、彼女の望む愛情ではないのだ。

 それでも彼女は、涼太のペットでいてくれている。先程のキスも、本心を隠して涼太のために嘘をついた。以前、涼太は彼女の過去を受け止めたいがために、唇を重ねた。それは彼女を傷つけてしまったのかもしれない。

 ごめんなさい。

 彼女は涼太にとって大切な存在だ。

 ずっと一瞬にいたい。しかし、それは適わないことでもある。

 きっと彼女は素敵な男性と結婚して、良き妻と母になるだろう。その未来に“飼い主”である涼太はいない。

 それなのに、涼太は“飼い主”を逸脱した邪心を抱いてしまう。

 彼女を抱きたい。彼女と悦びを感じたい。

 彼女が子どもを望むなら、喜んで子どもの父親になりたい。

 もしかして、自分の中に“普通の人”の感覚が残っているのだろうか。だとしたら、なぜ長い間「ペットしか愛せない」と決めつけられ非難されてきたのだろう。

 熱帯夜のようにだった思考回路では、結論は出なかった。

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