第4章 カップルじゃないのに

第37話 涼ちゃんの木曜日(前編)

 梅雨が明け、各飲食店で冷やし中華が始まった。

「いただきまーす!」

 冷やし中華にマヨネーズをたっぷりかけ、その上から七味唐辛子を散らす。

 高崎市役所介護課のネームホルダーを首から下げた岸果歩は、胸の前で手を合わせた。

 何かが違う、と思いながらも、望月涼太は軽く頭を下げる。

「果歩ちゃん、ごめんね。仕事なのに、押しかけて」

「ううん、私こそ、来てもらって、ごめんね」

「いやいや、呼び出したのは俺だから」

 高崎市役所の地下食堂の一角。

 市役所職員の果歩と、訪問入浴スタッフのイエローグリーンのポロシャツを着た涼太の組み合わせは、嫌でも目立つ。

 それでも涼太が果歩を訪ねたのは、理由があった。

「して、相談とは?」

 時代劇のような口調で促され、涼太は口を開いた。

「紗衣のことなんだ」

 紗衣。

 鈴村紗衣。

 目に入れても痛くない、可愛い女性。

 いけないことだとわかっていながら、彼女をペットとして可愛いがっている。

 ごくわずかな、理解を示してくれる人にしか話していない、秘め事だ。もちろん、果歩は知らない。

「紗衣から何か聞いてる?」

 果歩は、マヨネーズたっぷりの冷やし中華を頬張り、首を傾げた。

「特には」

 ですよね。

 紗衣は、同じアパートの友人にも徳に話していないようだ。

「お紗衣ちゃんに、それとなく訊いてみようか?」

「お願いします」

 涼太は頭を下げた。

 相談終了。チャーハンの綺麗な丘をレンゲで崩す。

「涼ちゃんでも、悩むんだね」

 涼太は、話が終わったつもりでいた。しかし、果歩はそうでもなかったらしい。

「ふたりとも、相思相愛に見えたから、悩みなんてないと思っていた」

「そんな風に見える?」

「見えるよ」

 果歩は、冷やし中華に七味唐辛子を追加する。

「お紗衣ちゃんは涼ちゃんのことをお兄さんみたいに尊敬していて、でも上手く甘えられなくて我慢しがち。涼ちゃんは、そんなお紗衣ちゃんが可愛くて、そばにいてほしくて、愛情をかけたくて仕方ない……そんな風に見えるよ」

 当たっている。果歩は大人しそうな雰囲気に反して個性的だが、観察眼は鋭い。しっかり仕事をこなしているんだろうな、と涼太は思った。

「俺達みたいなのは、変かな?」

 果歩は冷やし中華をもぐもぐしながら、小首を傾げる。

「ふたりのことが相思相愛に見えたのは、“変”のうちに入るのかな」

「入りません。果歩ちゃんは普通です」

 果歩の観察眼は本物だ。

「お節介な人は、ふたりに『つき合っちゃいなよ』とか言いそうだよね」

「つき合った方が良いのかな」

「それは、ふたりの自由じゃない? でも、お紗衣ちゃんと涼ちゃん、素敵なカップルに見えるよ」

「そうか」

 涼太はチャーハンをかき込み、中華スープの器に口をつけて飲み干した。

 昼休みは1時間。そろそろ、訪問入浴の事務所に戻ろう。



 市役所の地下駐車場に行くと、猛烈な暑さと湿気が待ち構えていた。

 涼太は車に乗り込み、エンジンをかける。

 涼太は、人を飼いたいか飼いたくないかでしか判断できない。飼いたいと判断できたごくわずかな存在しか、愛することができない。

 地元、馬路にいた頃に言われ続けていた。まさにその通りだと思っていた。

 今年の春に入職した事務スタッフの女の子、鈴村紗衣を、飼いたいと思ってしまった。紗衣が可愛くて仕方がない。そばにいてほしい。紗衣のためなら、いくらでも時間もお金もかけられる。良い子だね、可愛いね、と褒めても褒めきれない。愛していると自信を持って伝えられる。

 いけないことだとわかっている。こんな涼太を異性として意識してくれる紗衣に、酷いことをしていると、とうに承知している。

 それに輪をかけるように、最近は例えようのない欲を感じるようになった。先日は、弱った彼女につけ込んで、唇を奪った。

 紗衣は、可愛いペットだ。一線を越えるなど、して良いはずがない。

 いっそのこと、自分の性癖に蓋をして紗衣と交際しようか、とも思い始めていた。

 しかし、それは必ず紗衣を傷つけてしまう。

 以前交際していた、元彼女モトカノのように。

 車内の冷房が効いても、じめっと暑い思考は冷静を戻せなかった。

 思い返したら、紗衣に会いたくなってしまった。

 事務所に戻り、わずかに残った休憩時間で、紗衣にメールを送った。

 夕飯食べに行こう、と。

 行き先は考えてある。先程行った高崎市役所の最上階21階にある、レストラン。

 夜景と料理に目を輝かせる紗衣を愛でたいと、男の心に邪心が芽生えた瞬間だった。

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