第36話 夜のとばりが下りる

「かわいいおねえちゃん、ばいばい!」

 オレンジ色のスカートを履いた女の子が、受付の紗衣に向かって手を振る。風邪はすっかり治り、今日はお母さんのアレルギー検査の付き添い。泣かないで良い子にしていた。

 6月26日、水曜日。雨が上がったけれど、少々憂鬱な日。

 紗衣は、今日の夕飯はシチューに決めている。弟の航の、月命日だから。



 ――お父さんです。

 治療を受けることにしました。

 禿げたら笑い飛ばして下さい。そのときは、そうしてもらえるように写真を添付します。



 そんなことしなくていいから、しっかり休息して下さい。

 紗衣は心の中で一息つき、スマートフォンをバッグに入れた。退勤のタイミングで届いた父からのメールは、今まで父が見せようとしなかった一面が垣間見えた。

「おつかれさまでした」

 夏至を過ぎたばかりの19時はまだ明るい。

 紗衣は自動車退のスタッフを見送ってから、じょうろを探してプランターの花に水をやる。

 春先から花を咲かせていたパンジーは、くたびれた様子が見え始めたため、ミニひまわりに世代交代した。

「おつかれさまです」

 耳に心地良い声が、紗衣の耳に入った。

 傍らには、いつの間にか彼がいる。

「紗衣、見つけた」

 彼は、いかにも軽いように紗衣を抱き上げ、くるりと回った。

「可愛い紗衣。連れて帰ってもいい?」

 地面に足がついても、抱擁は解かず、彼は綻ぶような眼差しで紗衣を見つめる。

 紗衣は目を合わせられずに、わずかに逸らし、彼の形の良い唇を見てしまって、勝手に頬が熱を帯びた。

「照れる紗衣も、可愛い」

 くしゅくしゅと頬を撫でられ、紗衣は目をつむってしまった。

 彼は勝手に紗衣を連れ去ろうとしない。紗衣を構いながら、紗衣から話すのを待っている。

「あの、涼ちゃん。今日は」

 今日は航の月命日だから、あなたを巻き込みたくない。

 そのように言おうとしたのだけど。

「夕飯は、シチューがいい」

 紗衣を構って可愛がる手が、止まる。

「鶏肉も、人参も、玉ねぎも、昨日のうちに材料は買っておいたんだ。紗衣と一緒に料理したくて、勝手に楽しみにしていた。包丁を使う自信はないけど、頑張る」

 彼は物静かである分、突拍子もないことを言い出すことがある。しかしそれは、彼は頭の回転が早いから。至って平凡な脳味噌の紗衣は、いつも反応が遅れてしまう。

 今だって、そうだ。

 つい先日、彼には話したのだ。紗衣は鈴村の養子だということ。約10年前の9月26日に亡くなった年子の弟、航のこと。航はシチューが好きだったこと。

 そこから察して、紗衣は今日、シチューを夕飯にして、独りで寂しくつらい思い出に浸ってしまうのではないかということ。

 紗衣は、きつく閉じた目を開いた。

「一緒にいても、いいの?」

 目頭が熱い。それを好機と踏んで、顔を上げた。

 暮れなずむ空の下、涙腺が緩みにじむ視界で、彼の顔が薄ぼんやり確認できた。

 これがベストタイミングなのに。

「いいんだよ」

 目元の涙を、指先で拭われてしまう。

「もっともっと、甘えてほしいな。紗衣は俺の大切な」

 視界が明瞭になった。彼の甘いマスクが至近距離で確認できて、優しく細められた双眸で見つめられて、耳に心地良い声で、愛情を表現される。

「紗衣は俺の大切な、家族なんだから」

 紗衣は彼の大切な、ペットだ。

「愛しているよ、紗衣」

 日が傾いても、外気温は下がらない。

 熱がこもってしまうのも気にせず、彼は再び紗衣を抱きしめた。

 紗衣もまた、じょうろを地面に落とし、彼の大きな背中に腕をまわした。

 涼ちゃん、愛しています。

 こんなに可愛げのない女を愛してくれて、本当にありがとう。

 これからも、涼ちゃんの可愛いペットでいさせて下さい。

 ぎゅっと、ぎゅっと。できるだけ力強く。彼が痛みを訴えることを期待して、紗衣は彼に抱きつく。

 彼にとって紗衣はペットだ。どんなに愛されても、ペットでしかない。異性として見てもらうことはない。それが幸せなのだと、紗衣は自分自身に言い聞かせる。

 彼は怒らない。痛いとも言わない。

 嬉しそうな吐息が紗衣をくすぐる。

 いっそのこと、突き放してくれたら楽になれるかもしれないのに。

 自己中心的な気持ちを抑え、紗衣は彼の愛情にしがみついた。

 もうじき、梅雨が明ける。

 ままならないほど暑く、じめじめ湿る季節は、足音を忍ばせて近くまで来ている。

 ふたりの目を盗むように、夜のとばりが静かに下りた。



 【「第3章 家族なのに」終】

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