第35話 雨空に吠える

 フロントガラスに降り注ぐ絹糸のような雨を受け、ワイパーが規則的に動く。



 ――敷島公園の萩原朔太郎記念館に行きます。そこで待ち合わせをしませう。



 昨日の電話の後、しばらくしてから父からメールが来た。

 敷島公園は、JR両毛線前橋駅からバスで10分ほど離れた場所にある。

 敷地は広く、野球場や競馬場、イベント会場に使えるようなホールもあり、6月の今は、庭園のバラが新聞やフリーペーパーで話題になっている。父が指定した萩原朔太郎記念館も、敷島公園の敷地内だ。

 一度行ってみたいと紗衣も思っていたが、自動車あしがない者はなかなか赴けない場所である。

 萩原朔太郎記念館の来館を父に先を越されたのは不本意だが、紗衣の興味は、他にもある。

 敷地内に近年オープンした、絵本専門の書店。併設されたレストランは、石窯ピザが話題だ。足を運ぶなら、ひとりではなく、誰かと行ってみたかった。そんな日は永遠に来ないと思っていたけれど。

「萩原朔太郎って、太陽に吠える人だっけ」

 涼太が運転をしながら、呟いた。

「月に吠える、だよ!」

 後部座席から、琢磨が身を乗り出す。

 すみません、と涼太は小声で謝った。琢磨が追い打ちをかける。

「涼ちゃん、このくらい知っていないと、うちの婿にはなれないよ」

「婿?」

 驚いたのは、助手席の紗衣だ。

「違うの? お姉ちゃんと涼ちゃん、そういうのだと思っていた」

 肯定はできない。ペットだと言うこともできない。紗衣は返事に困った。

「琢磨、静かにしてくれ。シートベルトも締めなさい。この先は俺も初めて行く道だから、ナビが頼りなんだ」

 はい、と琢磨は中学生らしく返事をして、シートベルトを締めた。

 静かになった途端、車内の空気が重くなったのを、紗衣は感じた。

 琢磨はまだ中学生だ。父の病気を突然知ってしまったことは、琢磨には衝撃が強すぎ、荷が重すぎた。紗衣でさえ、まだ頭が追いつかない。



 敷島公園の駐車場に着いても、雨はしとしとと降っていた。

「着きました、って、お父さんに連絡する?」

 琢磨に訊かれ、紗衣はすぐに父にメールを送った。文学館の中にいたら、電話はしづらいはずだ。

 返事はすぐに来た。「彼氏も連れてこい」と。

 メールを見た涼太は、甘いマスクを歪ませた。

 とりあえず、萩原朔太郎記念館を目指して敷地を進む。

「琢磨、傘をさすのが下手だな。傘の水が俺にとんでるぞ」

 琢磨の後ろを歩く涼太が、苦言を呈した。琢磨は、実家から持ってきた折り畳み傘を、涼太は車に入れたままの傘を紗衣と使っていた。

 琢磨は振り返り、目を細め、あごを上げる。

「水も滴る良い男になったんじゃない?」

「お前、たまに生意気だな」

 琢磨はそれに答えず、くるりと前方を向いた。琢磨の傘が涼太の目の前をかすめる。

 涼太と琢磨が本当の兄弟のようで、紗衣は思わず笑ってしまった。

 目的地の手前、バラ園のエリアに紗衣の見知った人がいた。

 お父さん、お母さん。

 声は、咽喉まで出かかった。それなのに、声帯はそれを許さない。

 ふたりは、こちらに気づき、近くに来る。

 お母さん。花巻を出て以来、一度も会わなかった。少しも変わらず、美人な母だ。

 お父さん。昨日も、痩せたと思ったが、病気の情報を知った今、さらに弱々しく見えた。

 父は片手で傘を持ち、もう片方の手で前橋文学館のパンフレットを紗衣に見せつける。目を細めてあごを上げるその表情は、いわゆる“どや顔”だ。

 紗衣は素直に悔しいと思った。前橋文学館もまだ行ったことがないのに。

 きっと父は、病人扱いしてほしくないのだろう。病人扱いさせないための気遣いかもしれない。

「琢磨」

 父は傘を閉じる。母が慌てて、自分の傘を父の方へ傾けた。

「よくお姉ちゃんのところまで来られた。偉いな」

 父はパンフレットをジーンズのポケットに突っ込み、琢磨の髪をぐしゃぐしゃに撫でる。

「黙っていて、悪かった。大腸がんのことは、話さない方が皆の幸せだとばかり思っていた」

 ハンサムと形容できる相貌が、わずかに歪む。痛みを感じているのかと、紗衣は思った。

「紗衣」

 父は、まっすぐ紗衣を見据える。

 紗衣は、一瞬息を止めてしまった。父のことは大変感謝している。しかし、矛盾した感情を抱えているのも事実。

 お父さん。電話口では一瞬呼べたのに、対面した途端に躊躇いが出てしまう。

 緊張で強張る肩に、そっと手を置かれた。父ではない。傘をさしてくれる、彼だ。隣にいたはずの彼は、後ろから傘をさしてくれる。まるで、紗衣を守り受け止めるかのように。

 お、と、無様に声が出た。

「お父さん」

 血のつながりは、ない。父と慕う資格もないかもしれない。それでも、紗衣にとってこの男は、父親だという認識だ。尊敬し、感謝し、影響し、憎たらしく、憎む一面があっても、理屈抜きにして父親なのだ。

「お父さん、体の調子は」

「それを言われたら、男がすたる」

 体の調子はどうなの、まで言わせてよ。

 むう、と頬を膨らませそうになった紗衣は、言わせないようにしてくれたのだと思い込むことにした。

「昨日は酷いことを言ってしまって」

「覚悟はしていた。俺も悪かった。紗衣に配慮できず、申し訳ない」

 やはり、最後まで言わせてくれない。

 父は、母に視線を投げる。

 母はバッグから白い封筒のようなものを出して父に渡した。

 封筒ではない。マチのない紙の袋だ。それも、寺社の売店で扱われているような。

 紙の袋には、山名八幡宮と書かれている。

「あの後、一晩悩んで、せめてこれだけでも紗衣に贈りたいと思って購入した」

 父は両手でうやうやしく、紙の袋を紗衣に差し出す。

「紗衣、幸せになってくれ」

 紗衣は雰囲気に押され、紙の袋を受け取った。

 袋の中は、お守りが1体。

 安産御守という文字と産着のようなデザインが刺繍されている。

 薔薇が咲き誇る庭園で、親子が和解し、親から子へ願いを込めたささやかな贈り物。美しいシチュエーションのはずなのだが、なぜ。

 なぜ、安産御守。

「何週目なんだ」

 父の声色が、わずかに明るくなる。

「男の子か? 女の子か?」

 紗衣は眉を寄せ、黙した。父の言わんとすることは理解した。

「妊娠しているんじゃないのか」

「していません」

 紗衣は否定した。勘違いもはなはだしい。

 父は表情を変えず、口をつぐんだ。

 雨粒が傘の上で遊び、軽やかな音色を奏でる。

 なぜ父はここまでの勘違いをしたのか。

 紗衣には思い当たる節がある。

「まさか、吐きそうになったときに、悪阻つわりだと思ったとか?」

 父の表情が、わずかに変わった。図星だ。

「ボディガードよろしく、彼氏が華麗に駆けつけたから」

「彼氏じゃないみたいだよ」

 琢磨が割って入る。

「『月に吠える』のことを『太陽に吠える』って言う人が、お姉ちゃんの彼氏なわけないじゃん」

 彼が小さく舌打ちした。紗衣にはしっかりと聞こえた。

 父は雨空を仰ぎ、なんじゃこりゃ、と言葉を吐いた。そして、自分で笑っていた。

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