第34話 父と書類と雨粒

 琢磨は良い子だ。

 きちんと挨拶ができる。分別をわきまえている。紗衣が仕事の間、飽きずに相談室で自主学習をしていたらしい。

 それでも、心に何かを抱えている。その何かは、たまに垣間見え、ふとした瞬間にあふれてしまいそうな危うさをはらんでいた。

 琢磨のそういう習性サイクルは、きっと父に似ている。

 そんな父から、退勤時間を過ぎても連絡はなかった。

「琢磨、やめろ! それ、ある意味エロ本よりもヤバいやつ!」

「へえー。涼ちゃん、こんな趣味があるんだね」

 一冊の本をめぐり、涼太と琢磨が取り合いを始める。

 エロ本よりもヤバいとは、どんな本だろう。紗衣は気になったが、フライパンから目を離すこともできなかった。

 今日の夕飯は、冷たいうどんと鶏天。フライヤーの代わりに、底の深いフライパンで鶏天を揚げた。帰り道のスーパーで、鶏もも肉が安かった。

 鶏もも肉を、醤油、ごま油、にんにく、生姜で味をつけ、卵と薄力粉の衣で揚げる。にんにくと生姜は、チューブのもので充分だ。

 新玉ねぎとキャベツで簡単なサラダをこしらえて、夕飯は完成。

「ご飯、できたよ」

 紗衣はガスコンロの栓を閉め、ローテーブルに料理を運ぶ。

「まったく。琢磨は悪い子だな」

 涼太は“ある意味エロ本よりもヤバいやつ”を回収し、自室に持って行ってしまう。何の本だったのか、紗衣には知るよしもなかった。

 今日も紗衣と琢磨は、涼太のところに泊めてもらう。



「……よし」

 琢磨は自分に言い聞かせるように頷いた。

 ローテーブルには、紗衣のスマートフォン。

 琢磨がしっかり掴むのは、涼太のシャツの裾。

「いきます!」

 琢磨は、電話の発信マークをタップした。

 ワンコール、出ない。

 ツーコール、出ない。

 スピーカーモードになっていなかったことに気づいた紗衣は、スピーカーのマークをタップした。

『……もしもし』

 きた。父の声だった。

 琢磨が目を見開いていた。

『琢磨か?』

 声に覇気がない。

「琢磨だよ」

 琢磨は答える。

『紗衣と一緒にいるのか?』

 壁の時計の秒針が、こちこちと時を刻む。

「お姉ちゃんと一緒にいるよ」

『よかった』

 良かった、と、父は電話の向こうで呟いた。

「お父さん」

 琢磨はローテーブルに身を乗り出す。頭が影になり、スマートフォンの画面が見えなくなった。

「俺、もう黙っておかないよ。お姉ちゃんにも話すよ」

『待ってくれ』

「もう待たないよ」

 返事は、ない。代わりに聞こえるのは、うめき声。

 お父さん、紗衣と琢磨の声が重なった。

 電話の向こうで、言葉遣いが交わされる。内容までは聞き取れないが、男女の会話だということは察知できる。

『もしもし、紗衣? 琢磨?』

「お母さん!」

 琢磨の声が跳ねた。

 紗衣もわかった。鈴村の母の声だ。

『お父さんとお母さんね、高崎駅近くのビジネスホテルにいるの』

 やっぱり、と呟いたのは、涼太だった。

「昨日の夜、紗衣のアパートの近くに、車が停まっていたんだ。ナンバーまでは見えなかったけど」

『あれ……? もうひとりいるの?』

 母の声が、疑問符のように上がる。

「望月涼太と申します。と同じ職場で働いています」

 紗衣の彼氏だよ、と電話の向こうで間違った補足があった。

「お父さん!」

 紗衣は思わず声を荒げる。父は昨日、一瞬だけ彼と会っているのだ。

『まあ、いい。話を続ける』

 電話の相手が、父に代わった。

『琢磨、ピンク色の封筒は持っているんだよな』

「持っているよ。お父さんを白状させるための切り札だから」



 琢磨が話すことには。

 父の様子がおかしいことは、以前から気づいていた。病的に痩せた。顔色が悪い。

 何かあったのか、と訊ねても、父は答えない。

 あるとき、琢磨は父の持ち物からピンク色の封筒を見つけた。地元の大きな病院の封筒だ。その中身の書類は、衝撃的な内容だった。

 琢磨は封筒ごと書類を盗み、父との交渉を試みた。

 お父さんから話してくれないと、書類の内容を暴露する。

 交渉は決裂。

 翌日、琢磨は地元を発ち、紗衣を頼って群馬に向かった。



 琢磨に続き、父も話す。

『……その封筒を奪い返し、琢磨も無理にでも連れて帰るつもりだった。しかし、そんな体力はない』

 父は、細く長く溜息をつく。

『琢磨、書類を出してくれ』

 琢磨は父に言われるまま、リュックサックからピンク色の封筒を出し、書類を広げた。

 診断書。

 紗衣は目を疑った。無駄に大きな胸を鈍器で殴られたような、衝撃がはしる。

 電話の向こうの父には、書類が見えていない。しかし、見えているかのように口にする。

『大腸がん。ステージⅣ』

 嘘だ。

「お父さん、暴飲暴食しなかったじゃん!」

 紗衣、と涼太がたしなめる。

『確かに、健康的な食事は心がけた。それでも、なった。……お母さん、悪かった。何も言わずに連れ回してしまって』

 父の隣にいる母も、知らなかったらしい。それなのに、父に付き添い、車まで出して群馬に来た。

『誰にも迷惑をかけたくなかった。家族を不安にさせたくなく、教師の仕事に穴を開けたくなかった』

「お父さん、馬鹿じゃないの」

『お父さんは馬鹿だよ、紗衣』

 父は、父らしからぬ自虐をする。きっと、いつもみたいな澄ました表情で。でも、もしかしたら、起きていられずにベッドに横になっているのかもしれない。

『紗衣』

 父に名指しされ、紗衣は「はい」と返事をする。自分でも気づかないうちに鼻声になっていた。

『渡したいものがある。近いうちに会えないか?』

「明日が休みだけど」

『では、明日。また』

 通話は一方的に切れた。

 雨粒が窓ガラスをせわしなく叩く。

 ローテーブルに身を乗り出していた琢磨は、すとん、と腰を下ろす。

 紗衣は、俯いて鼻をすすった。目頭が熱を帯びる。ふらふらする肩を、力強く抱き寄せられた。見なくとも、わかった。彼だ。琢磨も彼に肩を支えられていた。

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