第32話 初めてのコンビニコーヒー

 グレースケールの雲が垂れ込めた、湿度の高い朝。

 せめて出勤までの間に、とベランダに洗濯物を干していると、ガラス戸が開いた。

「紗衣? 紗衣!?」

 2度名を呼ばれ、紗衣は、はい、と返事をした。

 すでに着替え済み。化粧もして、髪もアップにした。

「おはよう、涼ちゃん」

 涼太は「うん、おはよう。おはよう、なんだけど」と俯いて口ごもる。

「早くないか? 疲れが取れないんじゃ……」

「もう7時半だよ。朝ご飯、食べよう?」

 紗衣は、からになった洗濯かごを持って退散した。

 朝食は、スパニッシュオムレツ、コールスローサラダ、洋風ス-プ、トースターで軽く焼いた食パン。

「いただきます!」

 琢磨は手を合わせ、サラダに手を伸ばす。

「これ、紗衣がつくってくれたの?」

 涼太が訊ねると、紗衣は控えめに頷いた。

「ごめんね、冷蔵庫のものを勝手に使っちゃった」

「全然構わないよ。冷蔵庫にあるものでできるの?」

 それにも、紗衣は頷く。

 洋風スープはコンソメ味で、ぶなしめじと玉ねぎがくたくたに煮込まれている。塩こしょうとバジルの風味で味を締めた。

「お姉ちゃん、おいしいよ! 家にいるとお味噌汁しかないんだもん」

「お父さんがお味噌汁好きだからね」

 お父さん、と聞いた琢磨は、わずかに表情を曇らせる。しかし、すぐにトーストにスパニッシュオムレツをサンドして、かじりついた。トーストの端から、輪切りのウィンナーとポテトがこぼれ落ちた。

「琢磨、今日はどうする? 涼ちゃんにいる? 一緒に来る?」

 紗衣が訊ねると、琢磨は箸を置いた。

「お邪魔でなければ、病院の隅っこにいさせて下さい」

 琢磨は、中学生とは思えないほど深々と頭を下げた。

 全然邪魔じゃないよ。

 紗衣はそう思っても即答できず、涼太の顔をうかがった。それが、いけなかった。

 涼太と目が合うか合わないかの瞬間に、紗衣は顔面蒼白ならぬ顔面し、その熱は心臓から抹消まで駆け巡る。

「全然構わないよ。ねえ、紗衣」

 彼に話を振られ、紗衣は俯いてもなお深くあごを引いた。

 駄目だ。昨夜のことを思い出してしまう。



 自分は養子で、鈴村の家族とは血がつながっていないことを彼に話してしまった。

 昔命を落とした弟のことも、それとは因果関係のない鈴村の父を責めてしまったことも。

 心の内によどんだ感情を吐き出しても収まらない悲しみを、彼は受け止めてくれた。

 口づけ、という形で。

 紗衣にとっては、ファーストキスという形で。

 その後は、何もなかった。

 ベッドに連れ込まれることもなく、紗衣はリビングに敷いた布団で、琢磨の隣に横になった。彼が布団に入ってくることもなく、紗衣は5時半に起床した。洗顔して、着替えて、化粧をして、髪をおだんごにして。それから、料理と洗濯。動いている間は、昨夜のことを思い出さずに済みそうだった。

 今日も仕事だ。職場でも、彼と顔を合わせる。そのたびに赤面するなんて、御免だ。

「忘れそうだった! お昼ご飯に、おにぎりつくったから! 琢磨と、涼ちゃんの分!」

 わざと声を張り、紗衣はふたりに、ラップに包んだおにぎりを2個ずつ渡した。どちらも、握りこぶしくらいの大きさ。どちらも海苔を巻いたので、見ただけでは中身がわからない。

「丸っこいのは、鶏そぼろご飯に味つけ玉子。三角形なのは、白米とお肉を韓国海苔で握った、ビビンバ風」

「お洒落おにぎり! お姉ちゃん、料理上手なんだね」

 琢磨は嬉々として、おにぎりをリュックサックに入れる。未使用らしいハンカチに包むのを忘れない。

「まさか、これも冷蔵庫にあるもので?」

 彼の黒い瞳が、驚きを隠さずに紗衣をまっすぐ見つめる。紗衣はとっさに俯いた。

「ごめんなさい。卵、たくさん使ってしまって」

 彼と初めて会ったときも、紗衣は目を合わせることができず、会話も一苦労だった。心を寄せても、男性はそうじて怖い、という認識がそうさせていた。

 やっと普通に目を合わせて話すことができるようになったのに、またもとに戻ってしまった。

 口づけが怖かったとも怖くなかったとも思わない。ただ、驚いた。突然唇を重ねられたことも、飼い主紗衣ペットに対してそういうことができるということも。じわじわと恥ずかしさがこみ上げ、紗衣は唇を軽く噛んだ。

「で、紗衣の分は」

 至近距離でないのに、彼の声はいたずらに紗衣の耳をくすぐる。内耳までとろけそうだ。

「あるよ。平気だよ」

「紗衣が平気だと言うときは、平気ではない」

 途中のコンビニに寄ろうか、と彼の一存で決まり、3人はマンションを出た。

 ベランダの洗濯物を室内に移動することは忘れない。



 紗衣は滅多にコンビニを利用しない。通販の代金を振り込むときだけだ。それも、土日のみ。平日の振り込みは、金融機関を利用している。

 それなので、通勤通学途中の人でごった返すコンビニが物珍しかった。

「さて、琢磨。のお昼ご飯を選んであげなさい」

「ラジャー!」

 どう動いてよいのかわからず入口で立ち尽くす紗衣に代わり、涼太の指示を受けた琢磨が人ごみに突っ込んでゆく。

「涼ちゃん、本当に平気だから」

「紗衣は休んでて」

 紗衣はイートインコーナーに誘導され、琢磨を待つ間に、彼がアイスコーヒーを買ってくれた。

 紗衣を椅子に促し、彼も隣に座る。

「昨日ことだけど」

 膝がぶつかりそうな近さ。それだけで紗衣は動揺してしまいそうなのに、彼は昨日のことを切り出してきた。

「紗衣がお風呂に入っている間、琢磨が何か読んでいた。ピンク色の封筒に入った、書類みたいなものだった。俺が近くに寄ってみると、隠されてしまったけど」

 昨日のこと。キスのことではなく、紗衣は心の中で安堵した。しかし、琢磨の行動も気になる。

「学校からの通知を両親に見られたくなくて、逃げてきたとか」

 紗衣は自分で言ってから、あり得ないと思った。学校からの通知ごときでそこまでするだろうか。しかも、父がわざわざ足を運んで琢磨を探そうとするなど。

「それとも、父の弱みを握ったとか」

「じゃあ、あれか。あの書類と封筒は、親父さんが内緒にしておきたいものか」

「きっと父なら、ました顔をしながらも内心はあせって、取り返そうとするよ」

「そんな感じやな」

 探偵気取りで想像を膨らませるうちに、彼がいたずらっ子のような笑みを浮かべた。紗衣は、無駄に大きい胸に熱が点る錯覚を起こした。その熱は、心臓から抹消に行き渡る。全身が熱くなる。

 紗衣はまた昨日のことを思い出しそうになり、視線を自分の膝に移した。

「涼ちゃん」

 琢磨が涼太を呼ぶ。涼太は席を立ち、レジ待ちの列に琢磨と一緒に並び、スマートフォンで会計をした。

「お姉ちゃん、お昼ご飯」

 琢磨は、レジ袋の中を紗衣に見せた。琢磨が選び、涼太が支払ったのは、サンドイッチ、サラダ、フルーツゼリー。なるべくヘルシーなものを選んでくれたようだが、それでも紗衣には胃が重くなりそうだ。

 でも。

「琢磨、ありがとう」

 紗衣は、ありがたく受け取った。

 琢磨はまだ何も話してくれない。話す気がなければそれでも良い、と紗衣は思っていた。昨夜までは。

「あ! お姉ちゃんと涼ちゃん、コーヒー飲んでる!」

「琢磨にはまだ早い。のお弁当でも食べなさい」

「涼ちゃんは、お姉ちゃんばかり優遇する」

「琢磨も優遇してやろうか」

「そんな趣味はないから、嫌だ」

 ふたりのやりとりを見ながら、紗衣はアイスコーヒーに口をつけた。初めてのコンビニコーヒーは、心なしか苦みが強かった。

 無邪気で幼かった琢磨は、長じて、何かを隠すような素振りを覚えた。琢磨は父に似つつある。だからこそ、隠したりごまかすことを覚えてほしくない。

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