第31話 航

 紗衣は湯船に体を委ね、天井に上る湯気を目で追う。

 脳裏に蘇るのは、アパートで出待ちしていた父の姿だ。

 レーヨンみたいなつるつるした生地を嫌い、アイロンをかけてから着るようなシャツを好んでいた父。6年ぶりに再会した先程も、そのようなシャツを着ていた。しかし、明らかにシャツのサイズは大きく、肩が落ちていた。

 違う。シャツのサイズが合っていないのではない。父が痩せたのだ。

 頬はこけて、眼光は鋭くなり、ハンサムと形容された頃の面影はない。

 力は変わらずに強かった。隙を見せないどころか、隙をついてねじ伏せようとするところは、昔と変わらない。

 父を悪人だとは思えない。立派な教育者であると思っているし、尊敬している面もある。

 ただし、許せない。

 航に関しては。



 風呂から出てパジャマを着ると、アパートから持ってきたドライヤーで髪を乾かし、だて眼鏡とマスクを着用する。すっぴんなんか、見られたくない。

「涼ちゃん、お風呂ありがとう」

 リビングで風呂の順番を待つ彼に声をかけると、スマートフォンを操作していた彼は顔を上げた。

 まっすぐに紗衣に近寄り、大きな黒い瞳で、射抜くように紗衣を見つめる。看護業務中のような真剣な眼差しに、紗衣の胸は冷たくも熱い錯覚を起こす。

 彼は紗衣のマスクに触れ、あごの下に引っ張った。

 彼の綺麗な指が、紗衣の頬を撫でる。

 化粧水と乳液を染み込ませたばかりの肌を触られ、紗衣は思わず顔をそむけてしまった。

「恥ずかしくないよ」

 彼の声は耳に心地良いのに、悪魔の囁きのようだ。

「好きなことして、ゆっくり休んで」

 彼は何事もなかったかのように、リビングを出た。

 紗衣はマスクのゴムを耳から外し、周りを見回す。

 ローテーブルをどかして、布団が2枚敷かれている。片方の布団では、すでに琢磨が眠っている。

 紗衣はLED照明のリモコンを探し、リビングの照明を暗くした。その代わり、キッチンの照明を点ける。

 だて眼鏡も外した。マスクも眼鏡も、つける気が萎えてしまった。

 彼は、ずるい。いつも紗衣を翻弄して、紗衣のを徐々に埋めてゆく。

 彼は何も命令しない。強要しない。怒らない。手を差し伸べてくれる。助けてくれる。守ってくれる。優しくしてくれる。可愛がってくれる。愛してくれる。幸せな時間を紗衣にくれる。彼は紗衣の飼い主で、紗衣は彼のペットだから。

 頭では理解している。しかし、紗衣は何度も錯覚を起こし、そのたびに自分に言い聞かせる。

 紗衣は彼のペットであり、交際相手ではない。それでも一緒にいることを選んだのは、紗衣だ。

 せめてもの誠意を示さなくては。

 好きなことをして、ゆっくり休む姿を、見せなくては。

 紗衣は自分に言い聞かせる。彼に誠意を示すためであり、へそを曲げたとか小さな反撃ではない、と。



 冷蔵庫を開け、中身を確認する。

 冷蔵室には、卵、牛乳、ウィンナー、カット野菜、鶏そぼろごはんの素、焼き海苔、韓国海苔、調味料などがある。目玉焼きには何もかけない彼だから、調味料は持っていないのだとばかり思っていた。

 冷凍室には、小分けにされた豚こま肉、ぶなしめじ、ミックスベジタブル、冷凍食品。

 野菜室には、キャベツ、もやし、玉ねぎ、じゃがいも。玉ねぎとじゃがいもは常温保存が基本ではなかったか。

 彼は過去の出来事が原因で、ナイフを使うことができない。それを補うかのように、キッチンばさみや、スライサーなど便利グッズが充実していた。

 紗衣はシンクで手を洗い、カット野菜を袋から出してザルに開けた。それを水洗いし、手で水気を切ってボウルに移す。

 キャベツも数枚手でちぎり、水洗いしてから、千切り用のスライサーでカットした。

 ボウルも野菜に塩を軽く振り、スマートフォンで時刻を確認する。

 そろそろ23時になろうとしている。やることがなければ紗衣は就寝する時間だ。

 相変わらず、父や母からは連絡がない。薫と果歩から「おひらき~」と酔っぱらったようなメールが来ていた。

 野菜から水分が抜けるまで、約30分。紗衣はキッチンに立ったまま、スマートフォンでニュース記事を眺める。

 目に止まったのは、中学生の自殺に関する記事だった。

 ある女子中学生の自殺。それに関して、第三者委員会の調査の結果。

 女子中学生は、身近な人から同性愛者だと疑われ、それを苦に自殺した。遺書には「私はLGBTではありません。ノーマルです」と本人の字で書かれていた。

 しかし第三者委員会の聞き取り調査では、女子中学生は両親を含む多くの人から同性愛者だと思われていたことが判明。女子中学生は、女性同士の恋愛漫画や小説を愛読していたり、女子の格好良い先輩に憧れているという話を周囲にしていたり、同性愛者だと誤解を招くような要素が少なからずあった。本人は同性愛を否定したことがあったが、核心をつかれて慌てて否定したようにしか見えなかったという。結局、女子中学生が同性愛者か否かは判らずじまいだった。

 いじめの事実は確認できず、いじめ認定はされなかった。

 記事はそこで終わり、紗衣はスマートフォンを伏せた。

 あまりに、むごい。なぜ若い子が命を落とさなくてはならないのか。それも、外圧からねじ伏せられるような形で。

 紗衣は、鼻の奥に痛みを感じた。

 水分が抜けた野菜をキッチンペーパーで絞るうちに、目頭が熱くなり、視界がにじむ。

 泣いてはいけない。今、思い出してはいけない。

 自分に言い聞かせるように、紗衣は野菜に調味料を混ぜる。砂糖、マヨネーズ、酢、オリ-ブオイル、レモン汁。調味料が馴染めば、コ-ルスロ-サラダの完成だ。

 タッパーにサラダを入れ、紗衣は使用した道具を洗い、調味料を片づけた。

 好きなことをして、ゆっくり休んだつもりだ。それなのに、一向に気は晴れない。

 物音が聞こえ、紗衣は我に返った。キッチンに立ち尽くしたままだった。

「紗衣、まだ起きていたの」

 眼鏡をかけ、ラフなTシャツとズボン姿の彼は、髪をタオルドライしながら紗衣に歩み寄る。

「電気、キッチンの上だけにしてくれたんだね。ありがとう」

 紗衣は、いえいえ、と首を横に振った。

 琢磨が寝ているスペースの照明は、紗衣が消した。今、点いているのは、キッチンの上だけだ。

「本当に、ごめんね。厄介になって」

「厄介だなんて、思っていないよ。俺は、どんな形であっても紗衣と一緒にいられることが嬉しい」

 細く長い彼の指が、おろしたままの紗衣の頭を撫でる。

「紗衣の髪、綺麗だね。こんなに長いのか」

 髪がひと束、すくわれる。紗衣は、心臓がはねるのを感じた。

「たまには結ばないで、おろしていればいいのに」

 彼の指先は、髪の波間をくぐって遊ぶ。

「涼ちゃん、スタンダードプリコ-ションて知ってる?」

「ん、髪は関係ないよね」

 指先は、耳の辺りの髪から流れに沿って下り、名残惜しそうに毛先から離れた。

 紗衣の髪は、無駄に大きな胸の辺りまで長さがある。髪から指が離れたのに、紗衣は胸の先を触られたような錯覚を起こした。

 紗衣の動揺を、彼は意に介さない。彼は何事もなかったかのように、冷蔵庫から缶を2本出した。

「琢磨には内緒だよ」

 紗衣が冷蔵庫を物色したときには、気づかなかった。

 彼が取り出したのは、クラフトビール。

 グラスには空けず、立ったまま缶を掲げて乾杯して、缶に口をつける。

 苦い。癖が強い。

 口には出さないが、紗衣は眉間にしわを寄せてしまった。しかし、飲めないわけではない。勢いをつければ、飲めそうだ。

「紗衣、ペースが速いよ。大丈夫?」

 彼が心配してくれる。紗衣は返事を後回しにして、飲み干しに徹した。

「……大丈夫だったよ。ごちそうさま」

 紗衣は、空になった缶を洗う。

 流水の音で脳裏に蘇るのは、あの日のことだ。



 父の怒鳴り声。

 顔を真っ赤にして泣きじゃくる琢磨。

 琢磨をなだめる母。

 暴れる弟に抱きついて止めようとする自分。

 家から飛び出す弟。

 追いかける父。



「私ね、両親とも琢磨とも血がつながっていないんだ」

 こんな話をしたら、彼に嫌われるのはわかっているのに。

 冬季に凍結し破裂した水道管のように、自律が効かない。

「養子なの。私と、年子の弟。8歳くらいのときに、鈴村の家に引き取られた。鈴村の両親はお医者様から、子どもができないかもしれないと言われていて、だったら親のいない子を養子にしようと児童養護施設をまわっていて、私達に白羽の矢が立てられた。でも、数年後には琢磨が生まれたけどね」

 彼の顔を見ることができない。きっと、あきれている。

 紗衣は、シンクの縁をぎゅっと掴んだ。

「弟、わたるというの。シチューが好きで、夏でも母にねだってつくってもらおうとしていた。優しい子だったけど、突然暴れることがあった。今では、発達障害とかにあてはまるかもしれないけど、当時はそんな考え方はなかった」

 目尻が熱くなる。紗衣は、唾液を飲み込んだ。淡々と話すことなどできない。

 航が暴れるたびに、父は力づくで航を抑えつけ、縛りつけてしまえと怒鳴った。

「今でも覚えているの。9月26日。私が中学3年生で、航は2年生。静かな夜だったのに、航は急にパニックを起こしてしまった。父が取り押さえようとしたら、家を飛び出してしまって、父は航を追いかけて」

 泣いてはいけない。頭ではわかっているのに、目尻に涙が溜まってゆく。

「橋の上から川に跳び込もうとした航を、父が止めようとしたんだって。でも、ふたりとも川に落ちて、父は命に別状はなかったけど、航は」

 鼻の奥が、つんと痛む。



 父は利き腕を三角巾で吊り、航は変わり果てた姿で永い眠りについた。

 地元の新聞には、名を伏せて事故扱いで記事になった。

 騒ぎになったのは、学校だ。事故の説明を求める声が方々から上がり、全校集会を開いた。そこで父は「予測不可能な不運なアクシデントであり、学校側には一切責任はありません」と毅然として言い切った。

 「鈴村航と紗衣を責めることは、教員としても親としても一切許さない」と全校生徒に釘を刺し、尚も不満が噴出する体育館のフロアを見下ろして、堂々と壇上を後にする父の姿を、紗衣は覚えている。

 子を守った父親の姿であるはずなのに、紗衣は父に憤りを覚えた。父が普段から高圧的な態度を取らなければ、航は命を落とすことがなかったのに。

 あれから10年近く経った今では、父は悪くないと頭ではわかっているのに、航の死を父の所為にするような暴言を吐いてしまった。



 涙が頬を伝う。手で拭おうとしたら、その箇所にタオルを当てられた。

「紗衣は優しいね」

 タオルで紗衣の頬を包み、彼はまっすぐ紗衣を見つめる。

「弟の良いところも、お父さんの良いところも、ちゃんと見ていたから、苦しいのかな」

 紗衣は首を横に振る。

 優しくなんかない。本当に優しい人は、どす黒い感情を持たないはずだ、と紗衣は思う。

「紗衣は優しくて素敵な人だ。引け目を感じる必要はない」

 違う。

「たくさん泣いて、たくさん甘えてほしい。俺は、紗衣の全部を受け止めたい」

 違う。

 言い返そうとしても、しゃくり上げそうで怖くて自制してしまう。

 わななく唇を開いて、口腔内に侵入する涙を舐めて、飲み込んだ。

 その直後だった。やんわりと口腔の自由を奪われたのは。

 中途半端に開いた唇にぴったり重ねるように塞ぐのも、柔らかい唇だ。

 紗衣は彼のペットだから、彼は紗衣にこんなことができるのだろう。しかし今は、好都合だ。泣き声で琢磨を起こしてしまう恐れがなくなった。

 傷口はかさぶたで覆ってしまうより乾燥させずに湿潤を保つ方が治りが良い、というのが、最近の傷の処置の仕方だ。

 自分で剥がしてしまったかさぶたの代わりに傷口を、彼が優しく保湿してくれているようだ。

 紗衣のファーストキスは、ビールを飲んだ口なのに、甘さを錯覚する優しい口づけだった。

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