第30話 介抱

 便器の中をまじまじと見つめたのは、学生時代の清掃スタッフのアルバイト以来だ。

「お姉ちゃん」

 変声期特有のぼてっと低い声が、紗衣を心配する。背中をとんとん叩いてくれるのは、琢磨の手だ。

「琢磨、叩くんじゃなくて、優しくさすってあげて」

 大きくて温かい彼の手が、紗衣の背中を優しくさすってくれる。

 紗衣は大きく息を吐いた。胃がうようよ動く感じはするが、ようやく心は落ち着いた。

 背中をさする手が、彼から琢磨にバトンタッチされたのを、紗衣は感じた。

「……琢磨、ごめんね。こんなことをさせて」

「俺こそ、ごめんなさい。お姉ちゃんに、つらい思いをさせて」

「琢磨は悪いことなんか、していないよ」

 紗衣がアパートの前で誰かと向き合う様子は、車から見えていたらしい。

 彼が先に気づき、琢磨を起こして相手を確認してもらった。

 父だとわかった時点で、彼は車を降りてふたりの間に割って入ったが、紗衣が嘔気をもよおしていることに気づき、問答無用で紗衣を父から引き離した。

 紗衣は嘔吐しなかったものの、嘔気は治まらず、彼のマンションに駆け込み、トイレのお世話になっている。

「琢磨、ごめんね」

 紗衣は顔を上げた。まばたきした目が、熱を帯びる。

「琢磨のお父さんに、酷いことを言っちゃった」



 ――あんたがわたるを殺したの!



 まるで父が犯罪者であるかのように、取り乱した紗衣は、口走ってしまった。しかも、部外者である彼の目の前で。

「違うよ」

 琢磨は穏やかに否定する。

「お姉ちゃんと、俺と、航お兄ちゃんのお父さんだよ」

 航。

 琢磨は確かに言った。だが、琢磨は当時4歳。覚えているはずがない。

「琢磨、知っていたの?」

「全部聞いたよ。中学校に上がるときに、お父さんとお母さんから」

 そうか、知っていたのか。

 それでも琢磨は、紗衣を姉と認識し、紗衣を頼ってくれた。

 約7年前、お姉ちゃん行かないで、とジャンパーを引っ張る手を力尽くで離したのに。



 ――私は、琢磨の本当のお姉ちゃんじゃないんだよ。



 また口腔内に酸味が戻りそうだ。

「ごめんね。酷い姉で、本当にごめんね」

 ジャンパーを引っ張った小さかった手は、今、大きな手のひらで姉の背中をさすっている。

「琢磨、お風呂沸かしたよ。先に入って」

 彼に呼ばれ、琢磨は「でも、お姉ちゃんが」と背中をさする手は止めない。

「琢磨、お風呂に入っておいで。私はもう大丈夫」

 紗衣は振り返り、琢磨に笑ってみせた。

 琢磨は、心配そうに「うん」と頷き、渋々というようにトイレから離れる。

 紗衣も便座から離れ、近くの洗面台で手を洗った。

 顔を上げると、鏡に映った自分と目が合った。

 アイメイクをしても大きく見えない瞳。

 毛穴が目立つ小さい鼻。

 子どもみたいな顎の線。

 皮脂が染み出てきて剥がれかけているファンデーション。

 シニョンの髪からとび出した1本の白髪。

 きめが粗く血色の悪い肌。

 大嫌いな自分の顔。まるで、自分の心を映し出したかのような醜さだ。

 こんな自分ものは、愛される価値なんて、ない。

 手で水をすくって、うがいをして、紗衣は洗面台から離れた。

「お姉ちゃん、お風呂に入ってくるね」

 琢磨が軽やかに声をかけてくれたが、紗衣は重く頷くことで精一杯だった。



 荷物は彼がリビングに置いてくれた。

 紗衣はバッグから自分のスマートフォンを取り出し、着信の有無を確認する。

「紗衣、もう大丈夫なのか」

 急に話しかけられ、紗衣は顔を上げた。彼は、隣の部屋から布団を持ち出しているところだった。

「もう平気だよ。迷惑をかけて、ごめんなさい」

 紗衣はスマートフォンをしまって布団を受け取ろうとしたが、彼が許さない。ローテーブルをどかしたカーペットの上に、布団を置いた。

「少し横になったら?」

 彼は真表情で、布団を指差す。

 紗衣は首を横に振った。そのような、だらしないことは、できない。この間は、勧められるがままに彼の隣に横になってしまったが、あのときは彼に愛されていると思い込んでどうかしていたのだ。

 彼はソファーに腰を下ろし、おいで、と手を差し伸べる。

 まただ。紗衣は優しい微笑と声につれられ、彼の隣に腰を下ろした。こぶしひとつ分は開けたはずなのに、距離を詰められ、肩を抱かれる。何度かされているのに、紗衣は慣れない。無駄に大きな胸に陰が落ちる気がして、そこを見られる気もして、落ち着かない。背中は背もたれに預けているのに、リラックスしている心地がない。

「どうしたの? まさか、お父さんから連絡があったとか」

「ないよ!」

 紗衣は声を荒げてしまった。ごめんね、と小さく謝り、せめてもの誠意を見せようと頑張って彼にもたれかかった。

 彼が、肩を優しくさすってくれる。

 紗衣は深く息を吸った。

「あの父のことだから、今日みたいなことがあると、しつこくメ-ルや電話をかけてきそうなものなのに、1件もないの」

「琢磨のケータイには」

「琢磨は持っていないみたい。携帯電話」

 紗衣の憶測だが、琢磨は携帯電話ガラケーもスマートフォンも持っている様子がない。

 出している様子は見られず、気にするそぶりもないのだ。まるで、そういう習慣がないみたいに。

「きっと琢磨は、自宅のパソコンで群馬ここまでのルートを調べたんだと思う。それを、父がウェブサイトのアクセス履歴をチェックして、私のところだと目をつけられた。私の今の職場と住所は、母には知らせてあるから、父は母から聞き出したんじゃないかな」

「なんて執念深い父親なんだ。琢磨は家出して正解だ」

 彼は、あやすように紗衣の頭を撫でてくれる。

「俺が守るよ。紗衣も、琢磨も」

「ありがとう」

 紗衣は目を伏せた。

 いつの間にか、嘔気は治まった。彼に守られるようにもたれかかるのは、まだ恥ずかしいが、いくらか気が楽になった。

「でも父は、ただ執念深くて厳しいだけの人じゃないよ。私の進路のこと、真剣に考えて背中を押してくれたから」

 こちこち、と壁の時計が時を刻む。

「私は、高卒で地元就職で良い、と思っていたの。親にはこれ以上迷惑をかけたくなかったし、やりたくこともなかったから。でも、父からは大学進学をすすめられた。大学は就職予備校じゃない。4年使って好きなことを研究して、思う存分好きなことをしてきなさい。お前は読書が好きなんだから文学部なんてどうだ、と。当時はむかついたけど、今は感謝している。それなのに」

 紗衣は口を結んだ。目尻が熱を帯び、目を閉じる。

「父に酷いことを言っちゃった。航のこと、父に責任はないのに」

 わたる、と彼が呟いた。

「涼ちゃんには、航のことを話していなかったね。航は」

 お風呂空いたよー、と琢磨の声が割り込んだ。

「あ! 涼ちゃん、お姉ちゃんをはべらせてる!」

 恥ずかしいところを琢磨に見られ、紗衣は彼から離れようとしたが、彼は離してくれない。肩を抱いて顔を寄せる。

「今に必要なのは、リラックスすることなんだよ」

「変態看護師め!」

「それは、どうも」

 むきになる琢磨と、余裕を見せる涼太。

 ふたりのやりとりがおかしくて、紗衣は笑い声をこぼしてしまった。

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